2011年6月19日日曜日

亀迫城(岡山県井原市西江原町)

亀迫城(かめざこじょう)

●所在地 岡山県井原市西江原町
●築城期 鎌倉期か
●築城者 那須氏又は荘氏
●城主 宍戸安芸守など
●遺構 郭等
●比高 20m前後
●登城日 2011年6月15日

◆解説
 下段に示す現地の説明板では、築城期を戦国期としているが、別の史料によれば、今月取り上げた「小菅城」の支城といわれている山城で、鎌倉期とも考えられるが、確証はない。
 場所は、小菅城の位置から更に南に下った亀迫付近に築かれた山城である。
【写真左】登城口付近
 写真は、南麓部にある駐車場付近で、登城といっても丘城程度のもので、2,3分歩けば本丸にたどり着ける。

 現地の説明板より

“史蹟 亀迫城址

 室町時代の末期、天文2年(1533)から元亀元年(1570)まで、38年間備中松山城(高梁市)の城主・荘備中守為資と、長男・荘備中守高資の父子が、西江原を支配していた。

 元亀元年(1570)、川上郡成羽城主・三村備中守家親は、毛利氏の援軍を請うて松山城主・荘備中守高資を討った。
 このとき、毛利氏は備中の国一円を掌握しようと、毛利元清を大将として、本郡(後月郡)へ兵を進め、敵を防ぐ要路に位置するこの地に、亀迫城(砦のような小さい城)を築いた。
【写真左】公園入口
 公園として大幅に整備されたようで、現地には城砦を示す遺構名は全く設置されていない。

 元清は、宍戸安芸守を守衛に任命し、その家臣・木村平内と神田六郎兵衛の二人を郡代として常駐させ、要害山砦を修理し、逆茂木(敵の侵入を防ぐために、とげのある木の枝を外側に向けた垣)を、南は小田川を渡って木之子の祢屋ヶ端(ねやげばな)まで立て巡らし、軍備を構え、亀迫城を拠点として、小田郡の中山城、船ヶ迫城、奥ノ城を次々に攻略し、遂に猿掛山城主・穂井田実近を攻め滅ぼして、猿掛山城の城主となった。

 慶長5年(1600)、「天下分け目の戦い」といわれた「関ヶ原の合戦」で、石田三成、毛利輝元ら西軍は、徳川家康の東軍に惨敗したため、毛利氏は備中など中国地方8カ国の領地を没収、周防・長門の2国(現・山口県)に減封されて、当地方は徳川幕府が支配した。
 このころ、亀迫城は廃城されたと思われる。

平成10年8月吉日
  西町自治会
  西江原史蹟顕彰会”
【写真左】郭跡
 登城口から本丸までの郭段は、3,4程度構成されているが、あまりにも整備されすぎて、当時の遺構がどの程度残っているのかはっきりしない。
 この写真は本丸下の帯郭と思われる個所で、規模が最も大きい。

荘氏

 説明板にもあるように、当城を含めた荏原地域は、少なくとも鎌倉初期には荘氏が最初に備中国草壁郷の地頭として、関東から入部し、矢掛町横谷の「猿掛城」を本拠とし、当地を治めていたと思われる。

【写真左】本丸跡
 写真にみえる胸像は、地元井原市名誉市民の「大山文雄」氏のもので、平成2年5月吉日に建立されたとある。

 この個所の規模は20m四方あるが、おそらく当時もこの程度のものだったのだろう。

【写真左】帯郭か
 本丸下の東側から北に回りこんでいる個所で、長さは100m程度、幅は7,8m前後ある。
 写真右側が本丸部分。

 なお、当城の西側は道路や住宅が立ち並んでいるため、当時の状況は不明だが、東麓部は切崖状のものが確認できる。

【写真左】南方に甲山を見る
 写真にみえる山は、甲山(H121m)といわれる山で、この南麓には、甲山八幡神社が祀られている。

 「小菅城」(6月16日投稿)でも少し述べたが、この甲山の更に南麓には「中堀城」が築城されている。

 記録にはないが、この甲山も南北朝期当地を治めていた那須氏が、城砦として利用していたのではないかと考えられる。

2011年6月16日木曜日

那須与一の墓(岡山県井原市野上町)

那須与一の墓(なすのよいちのはか)

●所在地 岡山県井原市野上町
●探訪日 2009年6月2日

◆解説
 前稿「小菅城」で少し紹介したが、今稿は井原市野上町にある那須与一の墓を紹介したい。
前稿でも述べたように、与一自身の墓として一般的に知られるのは、京都府京都市東山区にある即成院(そくじょういん)のものである。
【写真左】那須与一の墓・その1
 「小菅城」の北東約900m地点にあって、雄神川の支流・細見川沿いに走る林道のような狭い道の奥に設置されている。

 車では途中まで行けるが、そのあとは徒歩で数百メートル歩くことになる。



 那須与一の出身地は、栃木県那須郡那珂川町とされている。与一の兄弟9人が平氏方につき、十一男であった与一と、十男の十郎為隆のみが源氏方についたといわれ、源平合戦が終わった後、平氏に与していた兄弟の赦免を願い出、恩賞として受け取った領地をその兄弟らに分け与えたという。

 与一が亡くなった場所は、山城国伏見とされ、墓地もそのため上記の通り、京都東山区にあるということだろう。
【写真左】その2
 左側は五輪塔、右に石碑のようなものが建っている。







 今稿取り上げた「那須与一の墓」は、従って本人の遺骨が埋葬されたものでなく、後に地元民によって、那須氏を崇敬する意味からいわば「供養塔」の形として建立されたものだろう。

 もっとも、前稿「小菅城」のある西江原からこの野上町の「那須与一の墓」の位置までの距離は、直線距離で1キロもないので、小菅城主だった那須氏の誰かの墓とも考えられる。
【写真左】その3
【写真左】説明板と絵馬
 扇の的を射止めたことから、願い事がかなうとし、受験の合格祈願にもときどき訪れる人があるらしく、絵馬もかけられている。




◎関連投稿
屋嶋城(香川県高松市屋島東町)

小菅城(岡山県井原市西江原)

小菅城(こすがじょう)

●所在地 岡山県井原市西江原
●築城期 鎌倉初期(1192~1251)
●築城者 那須朝資(荏原三郎)
●形態 連郭式山城
●遺構 本丸・井戸
●高さ 標高230m
●登城日 2009年6月2日

◆解説(参考文献「日本城郭大系第13巻」等)
 源平合戦の屋島の戦いで、扇の的を射止めその名を知らしめた那須与一の一族が築城した山城である。

 所在地は、井原市の東方を流れる小田川支流の雄神川上流にあって、さほど険峻な山城ではなく、むしろ館跡といったような位置にある。
【写真左】進入口付近
 登城口は南西側から向かうコースに設定されている。
 






現地の説明板より

“小菅城址 案内

 小菅城は、今から約790年ほど前に築かれた城で、西江原町才児を北から南に流れる雄神川の西方にそびえる小菅山頂(海抜約140m)にあった。しかし、今は礎石などなく、東西約60m、南北約40mの城域に老松など生茂っている。

 那須与一宗隆は、源平屋島の合戦(今から約800年前)に、扇の的を射止め、空前の恩賞によって丹波国五賀庄(兵庫県)、信濃角豆庄(長野県)、若狭国東庄(福井県)、武蔵国太田庄(埼玉県)、備中国桧原・荏原庄(岡山県)の地頭職を拝命した。
【写真左】「小菅城址」と刻銘された石碑
 当城の規模は、東西に延びる尾根を利用した連郭式山城で、総延長190m、12の郭を持つ、とされているが、現地は城域全体の管理はされておらず、僅かに本丸側がある西方の区分が整備されている。



 この城を築いたのは、宗隆の弟・那須小太郎宗晴であるが、間もなく彼は下野国(栃木県)に帰り、代わってその三男朝資が城主になり、それ以後子孫代々城主になった。

 南北朝の末期嘉慶元年(1387)、那須頼資は、嗣子織部正弘と能登国(石川県)から、高僧実峰禅師を招請して、開山一世として才児に禅洞山永祥寺を建立した。

 弘高の長子資泰は、小菅城主となったが、次子光隆が中堀城(西江原町今市)を築いたので、ここに移り住み、那須氏の居城としたので、小菅城は廃城となった。

 時を経て永享12年(1441)に那須長隆は、新たに土蔵城(西江原戸倉)を築いて、ここに移り住んだ。長隆より5代の孫清資は、毛利氏に属し、天正12年(1584)備中高松に出陣し、羽柴秀吉の大軍を迎え撃ち、慶長5年(1600)には、関ヶ原合戦に徳川家康勢と戦ったが、どちらも敗れ関ヶ原合戦後、毛利氏が領地を削られ、那須氏は土蔵城を閉
城して野に下った。

平成14年8月  西江原史跡顕彰会”
【写真左】本丸側へ登る階段
 本丸及び二の丸直下の郭段のところのみが、幅が狭く5m程度だが、全体に約20~30m程度の幅をもち、東西に長い城域構成となっている。

 この写真も樹木を伐採すれば、切崖など山城の特徴が確認できるかもしれないが、全体にこうした個所が多い。

 那須氏

 那須氏については、これまで前稿「国吉城」、及び「名和長年(5)船上山周辺の動き」(2009年1月12日投稿)でも少し紹介しているが、南北朝期、後醍醐天皇が伯耆船上山に拠って近国の武士を集めた際、備中国から馳せ参じた一族の一人として同氏が記録されている。

 説明板にもあるように、那須与一はその恩賞にあずかり、全国に5カ所の所領を賜ったが、与一自身が当地(荏原庄)に補任・入部したわけではない(もっとも、近くに与一の墓が祀られてはいるが…)。
【写真左】二の丸跡
 20m×30m程度の規模で、西隣の本丸とは1~2m程度の段差しかない。







 事実上の築城者とされている朝資、すなわち与一の甥は、その後、姓を那須から、当地の名をとって、「荏原三郎」と改称し、土着していくことになる。

 朝資の後、頼隆・資道と続き、その子弘隆(当初資英)に至り、弘隆の長男は、肥前三郎資泰と名乗り、頂見山頂見寺を建長3年(1251)再建している。

中堀城

 二男・光隆は、小田川北岸に中堀城(八ツ面城)(西江原小学校近く)という平城を築いた。ちなみに中堀城は、『城格放浪記』さんが探訪紹介しているが、現在は田圃や住宅となっており、遺構はほとんど残っていないようだ。
【写真左】祠
 二の丸付近に建立されているもので、那須氏を祀ったものだろう。







 この中堀城の城主は、光隆から重隆・資明と続き、政隆(政高)となり、建武3年(1336)、足利尊氏が九州へ奔るさい、大雨のためこの中堀城で一週間も滞在したといわれている。

 その後、政隆自身も尊氏と同行して九州まで随行し、再び尊氏が数万の軍を率いて上洛した際、兄尊氏は海路を、弟直義は陸路を行軍したが、このとき直義は、中堀城に駐屯し、石見・出雲の諸将をここで待ったという。

 ところで、当城にて多数国の将兵を陣所として集め、陣幕を張ったことから、この地を「千幕」と命名した。

 同年(建武3年)5月5日すぎ、尊氏の率いる海軍は、児島の吹上に陣を張り、弟直義の陸軍は、中堀城から、東進し矢掛町横谷(猿掛城の西麓)に進んだ。
【写真左】二の丸から本丸へ向かう
 二の丸と本丸跡については除草がされていて、歩きやすい。






 そして、同日直義軍はさらに小田川を渡り、妹山(勢山:せやま)を越え、官軍の立てこもる福山城の山麓全周囲に数百の陣所を取り巻いた。そして、ここに備中国における最大の天下分け目の戦いが、同月16日から始まった。

 戦いは3日間に及び、尊氏・直義の圧倒的勝利に終わった。首実検は1,353を数えたというから、激しい合戦であった。

 いずれ、「備中・福山城」については、別稿で取り上げる予定だが、現在の井原市・矢掛町・総社市地域に残る中世山城は、南北朝期の重要なものとして多数点在している。
【写真左】本丸跡・その1
 規模は30m四方の大きさで、平坦な状態である。

 なお、二の丸・本丸の全周囲には険しい切崖は認められず、むしろ東方側にそれらが認められる。
【写真左】本丸跡・その2











◎関連投稿

2011年6月15日水曜日

笠岡山城(岡山県笠岡市笠岡西本町)

笠岡山城(かさおかやまじょう)

●所在地 岡山県笠岡市笠岡西本町)
●別名 笠岡古城・笠岡西浜の城
●築城期 元徳3年(元弘元年:1331)
●築城者 陶山藤三義高
●城主 陶山氏
●形態 連郭式山城・海城
●遺構 本丸
●規模 150m×100m
●高さ 標高68.8m(海抜)
●登城日 2010年10月11日

◆解説(参考文献『日本城郭大系第13巻』等)
 岡山県の南西端笠岡市の笠岡港に突き出した古城山に築かれた海城で、現在は市民の憩いの広場・公園として使われている。
【写真左】笠岡山城遠望・その1
 笠岡港を挟んだ対岸の埋立地であるカブト東町側から見たもの。
 中央が本丸で、手前の白いものは擁壁工事された崖。

撮影日:2018年4月5日
【写真左】笠岡山城遠望・その2
 左に行くと、笠岡港へ、右に行くと水島灘(瀬戸内)へ向かう。

撮影日:2018年4月5日
【写真左】笠岡山城の郭跡
 公園として改修されたため、遺構がはっきりしないが、写真は現地の最高所付近で、衣笠山山頂部の郭跡と思われる。


 現地の説明板より

“古城山公園
伝承
 標高約70m。古くから内海の景勝地として知られる。もとは、海中の一孤島とも、応神山と連続していたとも伝えられる。
 別名「海松(みる)が丘」、「吸江山」、「高松の城山」といわれた。

笠岡城
 弘治年間(1555~58)に能島村上水軍の一族・村上隆重が笠岡城を築城。その後、村上景広・毛利元康が在城。関ヶ原合戦後、徳川家康の所領となり、代官・小堀新助が入城。

 元和2年(1616)、池田備中守長幸の居城。
 元和5年(1619)、松山城(高梁市)に移り、笠岡城は廃城となった。

 明治40年(1908)、未新田埋め立てのため切り下げられ、城の遺構が消滅した。
 昭和31年、笠岡市の都市公園となる。

 笠岡市都市計画課”
【写真左】配置図
 この図には山城としての遺構名は明記されていないが、駐車場や広場になっているところは、当時数段の郭が構成されていたのだろう。





陶山藤三義高

 築城期は元徳3年(元弘元年:1331)のころといわれている。
 同年8月24日、後醍醐天皇は神器を持って笠置山城に入った。9月28日、幕府軍は後醍醐天皇の拠る笠置山城を攻め立て、翌日天皇は捕らえられる。

 後醍醐天皇が笠置山に入ったころ、播磨の赤松円心は京都へ攻め入っているが、その際、陶山義高は、小見山二郎と協力して撃ち破り、その軍功によって備中守となり、寮御馬となったといわれている。

 そして、備中国内を巡検したとき、当地を陸海の押さえに最適と判断し、築城したといわれている。
【写真左】 北の招魂社を見る
 北側には招魂社が祀られているが、その手前の広場は現在駐車場となっている。





 その後、六波羅探題の北条仲時軍が追われ、鎌倉に向かうも、近江の番場で432人が討死、若しくは自害した時、義高も随従していたため、当地で亡くなったという。

 なお、北条仲時の墓は、その近くにある蓮華寺(滋賀県米原市:名神高速道路米原JCT近く)にあるが、この近くには、以前取り上げた「太尾山城」(2011年2月12日投稿)や、鎌刃城などがある(近江・蓮華寺(滋賀県米原市番場511)参照)。

 義高の死後、笠山城は実弟・高盛が後を継ぎ、足利氏に属し永正年間(1504~21)の陶山刑部まで代々同氏が居城としたとされる。

 その後の弘治年間からについては、説明板の通りであるが、この当時西国の大内氏が滅んだあと、陶氏と毛利氏の対決が厳島で行われた際、村上氏が毛利氏側に属したことが同氏の勝利に大きく影響している。
【写真左】笠岡山城から南麓を見る
 写真にみえる低地は干陸化された耕地で、当時は海だったため、おそらく城下に軍船が停泊していたものと思われる。
【写真左】笠岡山城から北東方面を見る
 写真中央やや右に見える山は、応神山と呼ばれ、当山も笠岡山城との関連も指摘されている。

 また、左側の山側には、竜王山という山があるが、これも前述した陶山藤三が拠った同名の「笠岡山城」がある。



◎関連投稿
匠ヶ城(岡山県井原市上稲木町)

2011年6月12日日曜日

備中・国吉城(岡山県高梁市川上町七地)

備中・国吉城(びっちゅう・くによしじょう)

●所在地 岡山県高梁市川上町七地
●別名 手の庄城
●築城期 元弘年間(1331~34)以前
●築城者 安藤太郎左衛門入道元理
●城主 三村政親等
●形式 連郭式山城
●遺構 本丸・土塁・脇郭
●規模 80m×210m
●高さ 標高420m
●指定 市指定史跡
●登城日 2009年6月2日

◆解説(参考文献「日本城郭大系第13巻」等)
 前稿まで美作国の山城が続いたが、今稿では備中国の山城「国吉城」を取り上げる。
 なお、参考までに記すと、今稿の「国吉城」は、備中国のものだが、同名の城としては、若狭・国吉城(福井県三方郡美浜町佐柿)もあり、こちらは若狭国守護大名武田氏の家臣粟屋越中守勝久が築いたものである。
【写真左】国吉城遠望
 南側から撮ったもので、特にこの位置で見た当城の険峻な山容に少なからず感動を覚えた。




 さて、備中・国吉城の所在地は、高梁川の支流成羽川にそそぐ領家川から、さらに支流となって流れる西谷川の北方に聳える標高400m余りの山に築かれている。

 当城から直線10キロ西方は備後国に繋がり、西谷川・領家川を下ると成羽川に流れ、さらに本流高梁川に合流すると、備中松山城(岡山県高梁市内山下)へとつながる位置である。

 現地の説明板より

 “町指定 国吉城址

 備中松山城(城主三村元親)の支城である国吉城(城主三村政親)は、毛利輝元の総大将小早川隆景の率いる2万の兵に、天正2年(1574)12月大晦日の夜、遂に攻略された備中兵乱の激戦を伝える中世の山城である。

 「備中府誌」によると、安藤太郎左衛門入道元理が、北条家からこの地を地頭職として宛がわれた。この城を創設した時期は、鎌倉期以前と思われる。

 兵乱後は、毛利から口羽中務大輔春吉が在城。また関ヶ原合戦後に毛利が萩に移封となってからは、糟谷内膳正武則、八兵衛安長など、慶長7年(1602)から同15年(1610)まで居城したが、翌16年(1611)に、徳川幕府直轄領となったのを機会に廃城となった。
【写真左】分岐点の看板
 左に向かうと「磐窟渓(いわやけい)」、右に行くと国吉城(城山公園)に向かう。

 なお、このあたりから先は道は狭く、切り立った断崖の上に道路が設置されているので、自動車の運転は気を使う。

 この城は、「く」の字状に屈曲した横矢斜の連郭式山城である。館跡と思われる地頭「堀ノ内」から北西約1.5キロ離れた標高419.6mで、谷田よりの比高約140m。付近の地名に陣山、逆茂木谷、札場、掛谷、水ヶ迫、的場ノ段、小城山、玄蕃ヶ鼻等がある。
 
 城の縄張は総延長180mの城郭で、南北に連なる8曲輪と、西側より南側へ回り込んでいる通称「馬場」と呼ばれている脇郭で構成されている。
 
 最北の郭を「一ノ壇」と仮称すると、この郭は長さ70m、幅15~18mで、その北端に長さ7mの小規模な土塁がある。
 「二ノ壇」は、「一ノ壇」より0.5m上にあり、郭面は東西15m、南北24mの規模で、ここが主郭である。その理由は、城郭全体のほぼ中央に位置すること、城内に入る道が「一ノ壇」の東辺に沿って「二ノ壇」に通じていることなどによる。

 脇郭の構造の特色は、郭面からかなり離れた低い位置にあり、また郭面からの距離は15~30m、比高は20m以上もあり、この施設が部分的、限定的なものでなく、峰続きの北側から連郭の西辺を直線的に走り、南西角に折れをもって、南辺まで伸びる大規模なものである。

 従って、城内の奥行を増し、攻勢、防御の両面の機能を一層高めている。

川上町”
【写真左】登城口付近
 車は城域の近くまで行くことができる。写真は駐車後歩いて向かう最初の地点で、両側に門柱のようなものがあり、しめ縄が飾ってあった。


安藤太郎左衛門入道元理

 築城者とされている安藤太郎左衛門入道元理(以下「安藤元理」とする)は、北条家からこの地を宛行われているので、その時期は、おそらく承久の乱(1221年)後と思われる。

 そして、弘安2年(1279)の頃まで、備中守護職が北条氏得宗の所管地であったことが知られており、この期間に安藤元理が当地に在住したと思われる。
【写真左】土塁跡
 国吉城は説明板にもあるように、シンプルな構成となっており、4郭と、西から南に回っている通称「馬場」と呼ばれた脇郭がおもなものである。

 この写真は、登城後最初に見えた土塁跡で、竹が生えているためはっきりしないが、最北端の郭(一の壇:下参照)に設置されている小規模なもの。

南北朝期

 元弘3年(1333)、船上山に拠った後醍醐天皇の下に馳せ参じた備中国の一族としては、新見・成合・那須・三村・小坂・河村・庄(荘)・真壁の諸氏が記録されている。
 このうち、国吉城の所在する川上町に最も近いところにいた一族は、上記の中では成合(成羽)氏、庄(荘)氏、及び三村氏である。
 
 『太平記』に上述した安藤(元理)氏の末裔の名が見えていないところを見ると、すでにこのころ、安藤氏は上記三氏のいずれかに属していたと思われる。
【写真左】北側の「一ノ壇」
 写真左側は一段低くなって南に繋がり、右側が「一ノ壇(仮称)」と呼ばれる郭。長さ75m×幅12~20m。
 なお、写真にみえる構造物は簡易水道のタンクのようなもの。

室町・戦国期

 室町期における備中国は、守護細川氏の領国となっていた。しかし、応仁の乱を終えたころから、いわゆる下剋上の機運が当地でもおこり、延徳3年(1491)には、守護代であった荘元資が反乱を起こし、守護細川勝久と対決、翌明応元年(1492)2月から3月にかけて、守護細川勝久は荘元資の蜂起を一応鎮圧した。

 しかし、すでに細川氏には当国を治める力はなくなり、備中守護としてその後受け継いだ細川之持・同政春らは名目的なもので、守護代の荘・石川両氏をはじめ、成羽の土豪三村氏、備北の新見・多治部氏らの急激な台頭が目立ってくる。
【写真左】「一ノ壇」から主郭へ
 「一ノ壇」から次第に登りこう配となって、主郭へ向かう。
 現在、主郭跡には小社が祀られている。


 特に、荘氏は元資の子為資の代になって、天文2年(1533)、それまで備中松山城の城主であった上野伊豆守を攻め落とし、元の本拠地であった南方の小田郡草壁荘の備中・猿掛城から、この松山城へ入り、備中における最大の土着国人勢力として覇を唱えた。

 しかし、以前にも述べたように天文年間(1530年代)より、山陰からは尼子氏、安芸・備後の西方からは毛利氏などの進出が始まり、備中国内は再び不安定な様相を呈してくる。
【写真左】主郭跡付近に建つ小祠
 主郭跡とされている郭は、東西14m×南北25mの規模を持ち、「二ノ壇」と仮称している。


 
 永禄2年(1559)5月、毛利元就の嫡子・隆元は、朝廷に対して「備中国平定」について奏上を行った。

 その3年後の8月、将軍義輝は隆元に対し、備中・備後両国の守護職を与えた。備作へ先んじて進攻してきた尼子氏は、永禄3年(1560)12月、晴久の急逝によって、嫡男義久が跡を受け継ぐも、最盛期の勢いは一挙に衰退し、代わって毛利氏の進出が顕著になっていた。
【写真左】主郭付近に立つ社
 現在写真にみえる建物が設置され、しめ縄が飾ってあることから、三村氏を祀ったものだろう。



三村家親・元親

 これによって備中国で最も早く毛利氏側に属したのは、成羽城主三村家親・元親父子である。

 三村氏は毛利方備中国の先鋒として、美作進出を担い、当時西美作の最強の豪族であった美作・高田城主・三浦貞盛を落とし、更に東進し、東美作の浦上氏と対峙するにいたった。

 このような状況下、その浦上氏の中にあって、家臣であった宇喜多直家の台頭が著しく、ついには浦上氏に代わって、備前・美作は宇喜多氏の扶植が進んでいった。
 
 永禄9年(1566)2月、宇喜多直家は、美作に陣していた三村家親を、興禅寺(上ノ殿城(岡山県久米郡久米南町中籾)参照)に暗殺せしめた。このため、元親は、父家親の仇を討たんとして、翌永禄10年春、石川・荘・植木ら備中の諸勢を率いて、備前に入り明禅寺城(岡山県岡山市中区沢田)付近において宇喜多直家と激戦に及んだ。戦いは三村氏の敗北となり、備中へ退いた。
【写真左】三村家親の墓
 三村家親及び元親の墓は、高梁市成羽町の源樹寺及び、頼久寺にも建立されているが、この墓は興善寺があった久米南町下籾に所在するもので、「建造物 興善寺宝篋印塔 昭和32年2月26日町指定」と書かれた標柱が建っている。

探訪日 
2018年10月12日


 この戦いは後に「明禅寺崩れ」と呼ばれ、この勝利によって、周辺の国人領主(岡山の金光宗高・御野郡船山の須々木豊前・上道郡中島の中島大炊助ら)は、宇喜多氏の麾下として服属していった。
【写真左】「三ノ壇」から「二ノ壇」を見る
 「二ノ壇(主郭)」から約3,4m程度下がった位置に「三ノ壇」が連続している。
 幅は上段の「二ノ壇」と同じく14,5mだが、長さは約60mもある。


 その後、しばらくは「毛利・三村」対「宇喜多」の構図が続くが、天正2年(1574)、状況が一変する。毛利に敵対していた宇喜多直家が、毛利氏と手を結んだのである。

 ここにおいて、三村氏は敵であった宇喜多氏が毛利に与したことにより、毛利氏と離反し、織田信長と手を組むこととなった。


毛利軍の国吉城攻め

 天正2年(1574)12月23日、毛利の大軍が国吉城下に陣を構えた。毛利軍の行軍案内役を務めたのは、三村家親の弟・親成(ちかしげ)であった。

 これは、上述したように宇喜多氏が毛利氏と和議した際、三村氏一族で意見が分かれ、家親の嫡男元親は織田方と手を結び、親成は「織田信長を信用できぬ」として、毛利方に残ったためである。
【写真左】「三ノ壇」
 現地には写真に見える建物(物見台か)が建つ。
 おそらくこの建物を竣工した時は、周囲の雑木は伐採され、眺望も効いたと思われるが、現在(2009年6月)はこのような状態なので、一部を除いて、眺望はほとんど期待できない。


 元親の決断は、三村氏の名誉と信義に基づくものであろうし、叔父・親成の判断は、現実を直視した結果であり、それぞれに理のあるものだろうが、結果として三村氏一族の分裂を惹起せしめることとなった。

 国吉城の守将は、元親の一族・三村政親が中心となり、舎弟三村大蔵・同七郎左衛門・宮ノ内蔵助大輔・丹下与兵衛ら名だたる部将が後陣を配した。
【写真左】「四ノ壇」
 最南端に設けられた郭で、「三ノ壇」から8m下がった低位に構築されている。幅は次第にこの辺りで絞られ、長さは20m余り。

 なお、この壇から更に20m程度降りた位置に、「脇郭(馬場)」があるが、現状は管理されておらず、踏査できない。
 

 このため、合戦は決着が容易としてつかず、毛利方の小早川隆景は、国吉城の四周の山々に大鉄砲を設置、旗指物がなびき、太鼓が打ち鳴らされ、鬨の声が上がった。
 激戦は連日続いたが、ついに大晦日の夜半、国吉城は毛利方の手により落城した。
【写真左】国吉城から北西方向の山並みを見る。
 国吉城周辺の山は、周囲の谷を隔てた位置に林立し、一部には写真に見えるように、こうした高所にも集落が残る。

 この写真の山も、天正年間、毛利方が攻囲し陣所としたものだったのだろう。

2011年6月11日土曜日

川島城(徳島県吉野川市川島町川島)

川島城(かわしまじょう)

●所在地 徳島県吉野川市川島町川島
●築城期 元亀3年(1572)
●築城者 川島兵衛之進
●城主 川島惟忠、林能勝
●廃城年 寛永15年(1638)
●遺構 郭
●指定 吉野川市指定史跡
●登城日 2011年6月25日

◆解説(参考文献「現地の史料等」)
 前稿の美作上ノ殿城(岡山県久米郡久米南町中籾)で紹介したように、川島氏が阿波国に築いた「川島城」を取り上げる。

 なお、投稿日を6月11日としているのは、先に紹介した「上ノ殿城」の投稿日に続けたほうがよいと判断したためで、実際に登城したのは、冒頭に示したように6月25日である。
【写真左】川島城の模擬天守・その1
 昭和56年に竣工した模擬天守。

 戦国期にあった本丸跡の場所は、この位置から西に向かった「岩の鼻」という吉野川岸付近で、残念ながら当日その場所を踏査していないが、これも「城格放浪記」さんが紹介しているのでご覧いただきたい。


現地に置かれた史料①より

“川島城の概説

 元亀3年(1572)の川島合戦後、細川家家臣川島兵衛之進は、天正7年(1579)12月岩倉合戦において、阿波の諸将、一族とともに戦死した。
 その後、天正13年(1585)、入国した蜂須賀家政は、阿波国内の要地9カ所に城塁構築を命じ、手勢300人を置いて守らせた、いわゆる阿波九城の一つの川島城址は、この地である。

 この川島城の城番には、家老職林図書亮能勝(後、道感(閑)と号し禄高5,500石)を用いた。
 しかし、元和元年(1615)幕府の出した一国一城令により、寛永15年(1638)、他の八城とともに廃城となった。”
【写真左】模擬天守から西方に本丸跡方面を見る。
 写真に見える川は吉野川で、この辺りで少し北に蛇行している。
 写真の右の林の中に「川島神社」本殿の屋根が見えるが、本丸跡はさらにその先にある。

 また、もうひとつの史料②も紹介しておくが、これは1992年10月30日付、徳島読売新聞に掲載されたものである。


“川島城の歴史

 姿を現したのは元亀3年(1572)のことで、織田信長が足利義昭を追放し、15代続いた室町幕府が崩壊した前年、大きな変革期に差し掛かろうとしていた時代である。

 それは、細川和氏が阿波国(徳島)を支配下に治めた建武元年(1334)にさかのぼる。南北朝から室町時代を経て、世は群雄割拠の戦国時代へと移り、細川氏は天文22年(1553)家臣三好長慶に滅ぼされる。9年後の3月、長慶と弟の義賢は泉州・久保田(大阪府岸和田市)に兵をすすめたが、討死した。

 そして、元亀3年(1572)の川島合戦。上桜城の城主で三好氏の重臣・篠原長房と義賢の長子・長治が争い、篠原氏が敗れ去った。その年三好氏の家臣・川島兵衛之進が、上桜城の北に位置する標高50m余の丘陵に川島城を造った。本丸に二の丸、三の丸を擁した要塞だったとされる。
【写真左】川島神社
 模擬天守の西側に建立されている。
 祭神は誉田別天皇、天日鷲命、菅原道真。
 現地にある縁起を一部抜粋しておく。


“…寛永6年(1629)再興の棟札には、河島保内八幡宮とあり、中古より河島保の領主や地頭、河島城主の崇敬が厚かった社である。

 文禄3年(1594)河島城主林帯刀入道道閑が朝鮮征伐凱旋の折に刀剣・馬具等を奉納した記録があり、…”


 当社はもと宮島字宮の本に鎮座していた浮島八幡宮を中心に、旧川島町内の神社を合併して、大正5年10月に現在地に建立したという。


 だが、川島氏はわずか7年後、土佐の長宗我部元親に追われることになる。江戸時代になって初代阿波藩主・蜂須賀家政が修復したが、幕府の「一国一城令」で寛永15年(1638)、廃城においこまれてしまう。

 四層の天守閣が同じ地に蘇るのは、それから340年余たった昭和56年4月のことである。
 
 往時の川島城を伝える史料はなく、現在の城は、全くの架空の形で、戦乱の世に武を誇ったイメージはみじんもない。しかし、眼下に望見できる四国三郎の流れは、波乱に満ちたこの城の歴史を静かに語りかけているようで、「兵(つわもの)どもが夢のあと」をしのばせる雄大な風景である。
 1992年10月30日 徳島読売新聞 記事引用”
【写真左】神社付近の段差
 模擬天守や神社が建てられるころ、相当改変されたかもしれないが、写真のような高低差のあるところは、当時の郭・切崖の跡かもしれない。




阿波九城

 史料①にある「阿波九城」とは、天正15年(1585)、蜂須賀家政が入国した際、下記の城を要塞とし阿波九城とした。
  1. 一宮城跡(徳島県徳島市一宮町)
  2. 撫養城(徳島県鳴門市撫養町林崎)
  3. 西条城       阿波市吉野町西条
  4. 川島城       吉野川市川島町川島
  5. 池田・大西城(徳島県三好市池田町上野)
  6. 海部城       海部郡海陽町
  7. 牛岐(うしき)城  阿南市富岡町殿町
  8. 脇城        美馬市脇町大字脇町
  9. 仁宇城(徳島県那賀郡那賀町仁宇)
さて、現地の川島城を探訪した折り、美作の上ノ殿城(岡山県久米郡久米南町中籾)についての史料などがあるかと期待したが、そうしたものはなく、上掲した史料①②のみであった。

 川島氏の在城期間が7年ということならば、記録関係文書などはやはり残っている可能性は少ないだろう。

 なお、「天正7年(1579)12月の岩倉合戦」に関係する「岩倉城」については、いずれ日を改めて投稿したい。(下段関連投稿参照)
【写真左】表示板
 「いこいの広場川島城」とあり、その下に標高37.42mとある。

 本丸跡が河岸にあったとされるが、おそらく現在の模擬天守・川島神社も含めた区域も、当時の城域だったものと思われる。

【写真左】模擬天守・その2
 受付には人がいないが、時間内なら自由に入場できる。
 各階は研修室などがあり、最上階に若干の展示物があるが、ほとんど戦国期のものはないようだ。


◎関連投稿

2011年6月10日金曜日

上ノ殿城(岡山県久米郡久米南町中籾)

上ノ殿城(うえんとじょう)

●所在地 岡山県久米郡久米南町中籾
●指定 久米南町指定史跡
●築城期 永禄年間(1558~70)か
●築城者 不明
●城主 河島惟家
●高さ 不明
●落城期 永禄10年
●登城日 2009年4月15日、及び2015日4月30日

◆解説(参考文献「日本城郭大系第13巻」等)
 所在地である久米南町は、岡山県のほぼ中央部にあたり、今稿の「上ノ殿城」は、当町の西端部である中籾(なかもみ)という地区に所在する。
【写真左】上ノ殿城入口
 現在当城に向かう道は整備され、比高はほとんどないが、当時はおそらく谷間となっている下の方から上る道があったものと思われる。



 上ノ殿城は、久米南町内だが、数百メートル西に行くと、合併で現在岡山市となった旧建部町に入る場所にある。

 この日現地に向かう道を使ったのは、「中国自然歩道」(久米南美しい森を訪ねるみち)というコースで、南側のR53から入った。途中、別所という付近でため池があり、その場所に中籾も含めた「籾村(もむら)」地区についての説明板があったので記しておく。
【写真左】上ノ殿城位置図
 左図は下記「籾村について」の説明板に記されたもので、当城は中央上段の赤字で示した位置となる(クリックするとさらに拡大する)。





“籾村(もむら)について

 平安時代の末ごろ、下級武士が土着民の協力を得て新田を開拓した名田(みょうでん)によって開けた場所で、鎌倉時代には奉書紙の一種の檀紙が生産されました。

 この地には、竜王山城址、興善寺跡、上ノ殿(うえんと)城址があり、戦国悲話も多く、また、山岳修験者による熊野信仰が盛んなところで、古刹清水寺、瑞泉院、赤木忠春の社があります。

 籾村は、明治22年6月に別所村と合併して竜山村となり、昭和29年4月に竜山村他3町村が合併し久米南町となりました。
 環境省・岡山県”
【写真左】本丸跡
 現在現地には「川島神社」という社が建つ。
 規模はさほど大きなものでなく、また郭段も数カ所見られるが、いずれも小規模である。




 上記のうち、竜王山城(町指定史跡)、瑞泉院は下籾地区に、上ノ城は中籾地区、忠春神社、清水寺(下段写真参照)は上籾地区にある。

 さて、上ノ殿城については、詳細な史料を持ち合わせていないが、現地に設置された顕彰碑に概要が記されているので記す。

“顕彰碑
 上殿城主 河島左近将監惟重顕彰之碑

 上殿城主河島左近将監惟重は、清和源氏小笠原氏の裔なり。阿州上郡を領し河島城を築く。
 永禄年間、惟重の子左近将監惟家は、毛利援軍の将として作州弓削庄中籾に上殿城を築き、尼子氏と戦う。

 惟重の孫阿州河島城主監物惟常(兵衛之進)は、阿州岩倉合戦にて戦死し、ついで河島城も陥る。惟常の子惟忠らは上殿城に赴き後、帰農す。

 平成8年9月15日、後裔相謀り初代城主の顕彰碑を建てるに際し、その概略を記して後世に伝う。

【写真左】顕彰碑
 現地に設置されている。











源氏河島家系
 初代 清和天皇、2代 貞純親皇、3代 経基親王、4代 満仲、5代 頼信、6代 頼義、7代 義家、8代 義光、9代 義清、
 10代 清光、11代 長清、12代 長経、13代 惟政、14代 惟廣、15代 惟宗、16代 惟頼、17代 頼勝、18代 惟光、19代 惟信、20代 惟清、21代 惟忠、

22代 左近将監惟重

  平成8年10月吉日(1996年)
    河島(川島)同族会  建立”
【写真左】社内にある宝篋印塔
 この建物の中には、祠と写真に見える宝篋印塔が2基程度建立されている。おそらく、川島氏のものだろう。
 また、平成20年付で「絵馬」が奉納されている。




 この説明板では、当地(美作)の「上ノ殿城」と、阿州(阿波・徳島県)の「川島城」が混在した内容で、しかも当城(上ノ殿城)の城主が父・惟重としながら、築城したのは子の惟家としているため、かなり混乱する(下段の※マーク参照)。

 管理人なりに解釈すれば、元々上ノ殿城には、何時のころか不明だが、河島氏が在住し、惟重の代になって、阿州(徳島県)吉野川市川島町に移り、「川島城(河島城)」を築いたということだろう。
【写真左】郭跡か
 険峻な切崖といったものは本丸付近では確認できなかったが、開けた付近では写真にみえる郭跡のようなものを確認できた。





川島氏の出自

 ところで、結論からいえば、川島氏が清和源氏小笠原氏の末裔としている点から考えて、同氏は阿波小笠原氏の系譜と推察される。

 以前阿波の一宮城跡(徳島県徳島市一宮町)でも述べたように、阿波を本拠としたのは延元3年(1338)に築城した小笠原長宗である(文永4年:1267年、阿波守護として入部した小笠原長房がその基礎を築いている)。

 小笠原氏の始祖は甲斐から信州に移ったころといわれ、その後、地元と京都に分かれ、庶流もそのころから、阿波・備前・備中・石見・三河・遠江・陸奥などに散ったといわれている。

 今稿の小笠原氏を祖としている川島氏が、上記の分散した地区のうち、上ノ城のある美作の東隣りの備中から移った小笠原氏という可能性もあるが、前述したように阿波小笠原氏と考えた方が妥当と思われる。
【写真左】川島神社側から下の方を見る。
 神社に向かう参道脇には、川島氏の子孫と思われる川島氏の墓が並んでいる。
 下に道路があり、道路との比高差は10m程度か。
 2015年4月撮影
【写真左】郭段か
 神社周辺部には遺構らしき明確な箇所は見受けられない。このため、当地はおそらく平城のような形態で城館があったものと推測される。
2015年4月撮影
【写真左】裏側
 左側が上ノ殿城にあたるが、その隣には緩やかな傾斜となった畑地が広がる。
2015年4月撮影
【写真左】上籾の『日本の棚田百選』・その1
 番外編となるが、上ノ殿城からさらに北に向かった上籾地区にあるもので、久米南町では当地と、北庄の2カ所が『日本の棚田百選』に認定されている。
 田の枚数1,000枚、農家戸数42戸、平均勾配1/7

 この写真でいえば、写真中央部の奥に中籾の「上ノ殿城」が控えている。

【写真左】その2
 下から見たもの。
 この日訪れた時は、一部代搔きが終わっていたが、大半はこれからという状態だった。




 顕彰碑に記された内容から、戦国期の川島氏の系図については、下記のような流れと考えられる。
  • 22代・左近将監惟重  川島城(阿波国)築城(※) (上ノ殿城主?)
  • 23代・左近将監惟家  上ノ殿城(美作国)築城
  • 24代・監物(川島)惟常(兵衛之進)  川島城主(※)、岩倉合戦(阿波吉野川付近)で戦死。川島城落城(天正7年:1579)
  • 25代・惟忠  川島城落城後、上ノ殿城(美作国)へ赴き、帰農
どちらにしても、上ノ殿城の築城期は、戦国期と思われるが、城主であった川島氏の動きを見てみると、美作国と阿波国のつながりが極めて強く、おそらく同氏一族が度々両国間を往来していたと考えられる。

 そして、最後の25代・惟忠に至って、祖父惟家や曾祖父惟重がいた美作国(一説には備中国とも)へ帰還したことになる。 

 参考までに、阿波国の川島城については、次稿川島城(徳島県吉野川市川島町川島)と、サイト『城格放浪記』さんが登城し紹介しているので、御覧頂きたい。
【写真左】清水寺
 上掲した古刹清水寺で、美作88カ所、第23番札所の古刹である。

 境内には立派な宝篋印塔や、五輪塔が建立されている。