2010年2月10日水曜日

安田要害山城(島根県安来市伯太町安田関要害山)

安田要害山城(やすだようがいさんじょう)

●所在地 島根県安来市伯太町安田関要害山
●登城日 2008年5月3日●築城期 不明(戦国期)
●築城主 安井光照
●城主 福山源五郎
●標高 281m
●備考 新山城・長台寺城
●遺構 郭、帯郭、土塁、堀切、陶磁器片出土

◆解説(参考文献「島根県遺跡データベース」等)
 前稿「手間要害山」でも少し触れたが、当城は出雲(雲州)国と伯耆国との境に立つ山城である。訪れた日は、5月であったこともあり、山城探訪としては時宜を逸し、現地では雑草丈が相当伸び、明瞭な遺構写真はあまりとれなかった。しかし、本丸跡からみる眺めは良好で、戦国期当城をめぐって両国からのせめぎあい、毛利・尼子の戦いが彷彿とする城跡である。

 主な登城ルートは、西麓側にある長台寺から登る道と、北側県道(101)から登るコース、それに南部町(鳥取県)側から登り、同じく南方の県境にそびえる母塚山(275m)からの縦走コースのルートなどがあるようだ。今回は島根県側の長台寺から登ることにした。
【写真左】長台寺入口付近

 当城の資料については手元にないため、現地の説明板より転載する。

“安田要害山(標高281.2m)
 この山は、出雲側では「安田要害」、伯耆側では「新山要害」と呼ばれている。
 古代は祭祀の場であり、城ができるはるか以前から重要な見張り場所で、のろし揚げ場でもあったといわれる。

 戦国期、尼子経久の家臣・安井光照が雲伯の国境警備のためにこの山頂に城砦を築いた。
 その後、福山源五郎が城主のとき、尾高城主杉原盛重が率いる毛利勢に攻められ、攻防争奪を繰り返したが、ついに永禄8年(1565)3月落城した。
 明治40年頃までには、ここに城主を祀る福山権現の祠があったが、現在は麓の長台寺境内に移されている。今なお焼米等が掘りだされることがあり、中国11州の太守・尼子氏滅亡の悲しい名残の地である。
平成元年3月  伯太町”
【写真左】長台寺にある「出雲札所案内図」
当寺は広瀬の19番札所観音寺の次に当たる第20番になっている。次番は名刹・清水寺である。

【写真左】長台寺境内
 この写真中央にみえる階段が安田要害山登城口になる。
なお、当寺の縁起と、当城の概要を示す説明板があるので、下段に転載しておく。
“長台寺と要害山の案内(由来)
 福寿山長台寺は、今から1300年前行基菩薩によって開創され、本尊は行基の一刀三札の作千手観音像をまつり、もとはここより500m奥の坊床に寺があったが、白鳳9年の大洪水により流失し、今のところに安置された。

 9世紀には、聖武天皇の勅願により寺院建立になり隆昌を極めて、その後度々興廃があった。
 徳川時代になって母里藩主松平直員により再現され(直員の額現存)鬼門除け・長寿祈願道場として寺領を付与された。現在は比叡山延暦寺末である(出雲札所20番)。
 本坊の庭には、1300年前の塔(高さ25米位)の心礎がある。
【写真左】最初の急坂を過ぎたころに見える平坦地
 おそらくこの地が、当寺が最初に建立されていた場所と思われる。

 要害城山(海抜281m)は、尼子時代に福山源五郎が拠った古城跡である。
 山頂からは、脚下に米子市街地、目前に出雲富士、遠くには中海と日本海、弓ヶ浜半島と島根半島を望み、眺望佳絶である。
 登山道の各所には、88個の地蔵があり、数えながら登るのも一興である。
安田公民館”

【写真左】登城途中の小郭
 登城途中には、こうした小規模な郭が点在しているが、ほとんど保全されていないため、分かりにくい。

【写真左】郭
 本丸まではこうした尾根伝いのアップダウンが数回ある。この郭は割と規模が大きいようだ。
【写真左】本丸下の削平地
 簡易便所が設置されている付近は、平坦な仕上がりになっているが、雰囲気からして近年重機のようなもので改変された可能性が高い。

【写真左】本丸に向かう坂道
 草丈が伸びていて判断はできないが、ワダチの痕跡がある。これは明らかに重機による仕上げだ。
 この段階で、だんだんと興ざめしてくる。
【写真左】本丸跡
 登山者の休憩場所を確保するためだろうが、ほとんど公園化をはかっているような施工跡である。
 この場所に立った段階で、遺構の探索は断念し、眺望を堪能することにした。

【写真左】本丸跡に立つトミー嬢
「草が伸びすぎて周りが見えない?」
【写真左】本丸跡から中海・弓ヶ浜半島・島根半島を見る
 この場所なら澄んだ日には隠岐島も見えるだろう。
【写真左】本丸跡から東方を見る。
 写真上部にはおそらく「大山」が見えるはずだが、この日は残念ながら雲にさえぎられていた。

2010年2月9日火曜日

手間要害山(鳥取県西伯郡南部町寺内)

手間要害山城(てまようがいさんじょう)

●所在地 鳥取県西伯郡南部町寺内
●登城日 2009年12月1日
●築城期 不明
●築城主 日野氏
●城主 日野孫左衛門、杉原盛重等
●標高 334m
●別名 天満城、天万要害
●遺構 郭、土塁、虎口、井戸等多数
【写真左】手間要害山城遠望・その1
 南方の母塚山展望台から見たもの。
撮影日:2019年12月3日






【写真左】手間要害山遠望・その2
 北側の道路(溝口伯太線:1号線)からみたもので、登り口は写真左側から向かう。下段説明にあるように、左側の山付近から見ごたえのある郭群が構築されている。



◆解説(参考文献「サイト:山陰の城館跡」等)

 所在地は鳥取県の西端にある南部町というところにある。旧名会見町といっていたところで、西隣は島根県の旧名伯太町(現安来市)が接している。

 手間要害山を起点にすると、真北5キロに以前取り上げた「宝石城」があり、東南東3キロには「小松城」、西北4キロには、未だ取り上げていないが雲伯国境に「安田要害山城」がある。

 標高が300m余りとさほど高くないものの、登城してみると俯瞰できる範囲は非常に広いことがわかる。
【写真左】登山口付近の駐車場
 1号線の途中に南に向かう細い道があり、そのまま登っていくと、麓に駐車場が設置されている。なお、途中までの案内看板はあるが、目立たない看板なので、この付近に来たらゆっくりと走った方がいい。
 駐車台数は、7,8台は留められるだろう。


 当城の概略については、現地登城口の案内板より転載する。

“要害山(手間山) 標高334mで、古くから美穂湾を行き交う舟や山陰道をはじめとする往来の目印として親しまれてきたという。
 「伯耆誌」から手間山を抄録すると、〝この地方の高山なり。故に数里の外一望にして指点す。往古城ありし故土人常に要害と呼び、郡中広くは手間山と呼ぶ″とある。

「手間山」に関する最古の記録は、「古事記」であり、そこには出雲の大穴牟遅神(おおなむちのかみ)(大国主命)と八十神との赤猪神話の舞台として登場している。
【写真左】登城口付近
 駐車場から歩いて100m程度行くと、この場所に突き当たる。なお、登城口までは駐車場から少し戻り小川に橋がかかっていて、この橋を渡って行く(西方へ向かう)。

 この写真の右手前に、説明板が設置されている。左側にも道があるが、この道は行きどまりなので注意が必要。

 意外だったのは、この位置からいきなり急斜面の登りこう配である。しかもほとんど直線コースなので、ゆっくりと行かないと、すぐに息が切れる。


 中世にはここに城郭があったことは確認されている。しかも手間要害山最高所に位置する郭群でも11郭からなり、その他小屋ヶ平地区等数多くの郭群で構成され、山陰最大級の山城である。

 伯耆を舞台にした尼子・毛利の戦において、毛利氏は杉原盛重に直接城を管轄させ、この城を守ったといわれ、手間要害は常に戦略的な拠点として重視されていたことを窺うことができる。

 天正12年(1584)落城したが、この後、天正19年(1591)の段階には、毛利氏が西伯耆において維持していた5つの城郭の中に、手間を見ることができる。
平成5年4月”
【写真左】最初のころに出てきた郭
 この位置に来るまでに、堀切、土塁等もあったが、雑木が多いため、良好な写真が撮れていなかった。この郭は施工も良く、特に平坦面の精度がいい。



 当城の城主も他と同じく、城主が度々代わっているようで、特に永禄年間から天正年間にかけては、尼子・毛利合戦史の縮図を見ているように思える。永禄年間までのところでは、日野孫左衛門が当城に拠ったとなっているが、おそらくこのころは尼子氏の麾下に入っていたものと思われる。

 その後永禄3年になると、杉原盛重が毛利方部将として入ってきたとあるが、日野孫左衛門もおそらくこの時、尼子から毛利へ鞍替えしていたと思われる。しかし同5年(1562)、日野孫左衛門は再び尼子に復帰している。このきっかけは、いわゆる元就による本城常光誅伐事件が引き金になっていると思われる。というのも、元尼子方だった武将が、この事件をきっかけに大挙して尼子方に復帰しているからである。

 これに対する毛利氏の対応は素早かった。永禄7年(1564)4月5日、片山平左衛門尉が、当城・手間要害山を焼き討ちし、同月17日には元就は月山富田城に軍をすすめた。
 この間、元就は西方石見の国を着々と手中に収め、東西から尼子の本拠・月山を挟みうちにしていった。
【写真左】中腹の郭群にみえた帯郭
 当城の特徴の一つである数段の郭段をつなぐ帯郭は、ほとんど西側に構築されている。場合によっては武者走りとも言えるかもしれないが、幅がゆったりととってあり、帯郭とみた方がいいと思われる。


 このころの記録として興味深いのは、出雲伯耆に長期にわたって転戦することから、大量の兵糧が必要になる。

 一つの例として、永禄7年(1564)7月24日、兵糧が無くなり、「急遽杵築(大社)より伯耆国淀江(米子市)に、米300俵を送る、もし遅れた場合には銀10枚を送って対処せよ」、との通達文書が残っている(「萩閥31」)。おそらくこの間、宍道湖・中海はもちろん、山陰海岸の海辺には多くの兵糧運搬の船が忙しく往来していたことだろう。  
【写真左】郭
 郭の数が多いため、どのあたりのものか写真が多すぎて断定できないが、中腹のものと思われる。この郭も非常に広大なものである。



 さて、手間要害の規模を見ると、説明板にもあるように「山陰最大級の山城」とまではいかないまでも、遺構の多さ、城域の広さなどは近在の山城より明らかに大きい。

 特に標高200mを越えたあたりの最初の丘陵面から、多くの郭段が構成され、南北中間点の尾根に来ると、郭の幅も広く、段の高さも効果十分なもので、施工も精度が良好である。
【写真左】本丸直下の郭
 左側の藪状態になっているところは、平坦地となっており、整備すると非常に見ごたえのある郭だと思われる。ただ、規模が大きいため、地元の人もなかなか容易ではなかったかと思われる。

 位置的に考えると、このあたりに井戸らしきものがあるかもしれない。また、この位置から登る道は現在東側に設置されているが、西側にも十分向かう道が確保されている(倒木などはあるが)。
 この郭段から本丸に向かって、南へ規模の大きい腰郭(4段くらいか)が繋がる。
【写真左】本丸上り口付近から、東方に名峰・大山(だいせん)を見る
 本丸の入口から少し入ったところまでは、下草が刈られてあり、特に大山を見る位置は視界が良好になっている。

 写真の左側麓には、今月取り上げた「岸本要害」が位置する。この写真のほとんどは隣町・伯耆町の町並みである。


 特に目を引いたのは、本丸直下の標高250mを越えたところにある郭群は規模も大きく、南北250mの長さの中に、8~9カ所の郭を設け、西側には長大な帯郭が付設されている。

 本丸側については、主郭部分のみ下草が枯れて、他の遺構部分は管理が行き届いていないものの、主郭南端部の数段の腰郭および帯郭には見ごたえがある。

【写真左】本丸跡に建つ壊れた鳥居
 現地には近世にいろいろ祀ったものがあるようだが、ほとんど朽ち果てている。

 この場所も広い郭段だが、写真右側に1~2m程度高くなった廓がある。そこに祠のようなものがあったので、おそらくその位置が主郭と思われる。ただ、草丈が伸び放題の場所になっている。

【写真左】本丸跡に落ちていた手作りの説明資料
 当城周辺の他の山城を説明したものだが、ビニール製の入れ物に入っているものの、保管場所が悪く、ボロボロ状態になっている。

 内容はかなり詳しく書かれているようだ。「朝鍋城」「宮谷城」などと書かれ、しかも詳細な縄張り図なども添付されている。おそらく地元の城郭研究家が作成したものだろう。

【写真左】本丸南直下に取り巻く帯郭
 本丸そのものも良好だが、南側に下がると写真にみえる帯郭が、南から西に向かってぐるりと配置されている。

 雑木がだいぶ生えているが、十分に郭の様式を留め、しかも周囲には土塁をめぐらしている。このあたりは、個人的に非常に気に入った個所である。


【写真左】本丸から北方に日野川・日本海を見る
 写真中央に見える煙を吐く煙突は、王子製紙の工場のもの。この日はだいぶ視界が良好だった。





【写真左】本丸から登城口・駐車場方面を見る。
 写真にみえるため池の右下が駐車場になる。なお、この写真には見えないが、写真の上(北)に大安寺という寺があり、杉原氏の供養塔があるという。
【写真左】手間要害山北麓にある赤猪岩(あかいいわ)神社

現地の説明板より

“赤猪岩神社
 大国主命を主神とし、その御親素盞鳴尊、稲田姫を合祀する。古事記によれば、大穴牟遅神(大国主命)には、八十神といわれる多くの庶兄弟がおり、かねてからその才能をねたまれていた。因幡の旅の途次、気多の前(現在の白兎海岸か)で、白兎を救い、八上比売に求婚してこれを得たことなどから八十神たちの恨みを買った。

 出雲への帰路「伯伎(耆)の国の手間の山本」で八十神は、「赤き猪この山に在り、われ共に追い下しなば汝待ち取れ、若し待ち取らずば必ず汝を殺さむ」といい、猪に似た石を焼いて転がし落とし、大穴牟遅神はその石を抱いて落命した。

 その母刺国若比売は泣き泣き天に上って神産巣日之命に訴え、キサガイ比売(赤貝)とウムギ比売(蛤)を遣わされた。その貝殻を削った粉を清水で母乳のように練って塗ったところ蘇生して「麗しき壮夫(をとこ)になりて出で遊行きき。」とある。
「伯伎国の手間の山本」を、現在地(寺内字久清)として、赤猪岩神社は祀られている。平成5年4月”

2010年2月8日月曜日

国信八幡神社と五輪塔(鳥取県西伯郡大山町國信)

国信八幡神社(くにのぶはちまんじんじゃ)と

五輪塔

●所在地 鳥取県西伯郡大山町國信
●探訪日 2009年3月8日

【写真左】國信神社鳥居











◆解説(参考文献「鳥取県立博物館データベース」等)

 前稿「末吉城」の場所から、国道9号線を800m前後鳥取方面に向かうと、国道の南にこんもりとした森が見える。この中に國信八幡神社がまつられている。
 探訪したこの日(2009年3月8日)、たまたま末吉城を見た後、車を走らせていたら、同社の西側畑地に五輪塔の影が見え、急遽車を南の脇道に入れた。

 この地区は國信という地区だが、西隣の末吉とは隣り合わせで、地図を見ると、末吉地区と國信地区は、東西に伸びているものの、一つのかたまりのような住居地区となっている。
 特に国道9号線に沿って、南北に段差を構成しており、國信神社がまつられている丘陵北端部は、国道9号線が造られた際に削られ、北と分断されているが、昔は一つの丘陵上にまとまった集落を構成していたものと思われる。
 先ず、國信神社については、当地にあった縁起より転載する。
【写真左】國信神社北端部と国道9号線
 国道9号線の北向かいも一部丘陵を残しており、当時はその先端まで舌状丘陵の形をなし、その先は日本海の波がすぐに打ち寄せていたものと思われる。




“國信神社
 当社の御祭神は、誉田別尊(ほんだわけのみこと)他十一神です。
 社名は、古くは国山八幡、江戸時代に正八幡宮、明治4年から國信神社と命名されました。
 寛永年間(1630年ごろ)池田藩主より社領の寄進があり、汗入郡総大社としてますます重んぜられました。
 例祭日には、米子城主の大勢の家臣による競馬(くらべうま)や、流鏑馬の行事が盛大に催され、往時をしのばせる馬場小路の地名が残り、毎年10月15日には、これにちなんだ神事が行われています。
昭和61年10月  大山町教育委員会”
【写真左】境内脇に無造作に置いてあった神社名称の札
 これには「汗入郡大社八幡宮」とある。現在の名称となったのが、明治に入ってからなので、説明板にもあるように、江戸時代ごろの正八幡宮の時と思われる。
 



 また、鳥取県立博物館の資料データベースによると、
①延久3年(1070)8月15日、宇佐八幡宮「放を生会」の式を修行し、持ち帰って伝えられている。
②建久2年(1191)、源頼朝の命により佐々木四郎高綱が源氏の武運長久の祈願所として当社を再来し、御供料を寄付したとある。

 さらに戦国期、山中鹿助が末吉城にあって、毛利との交戦の際、当社は大半が焼失したとある。
【写真左】境内内の石など
 当社の遷宮は最近行われたようで、以前祀られていた石祠などが境内の脇に置いてあった。

【写真左】当社西側の風景
 本殿はこの写真の右奥にあるが、次の写真に示す「空堀」のような遺構がこの写真の左側に見えた
【写真左】西側にみえた空堀状の遺構
 南北に伸びたもので、深さは約3m近い。長さはおそらく100m以上はあったものと思われる。
 後段で述べる山中鹿助らの末吉城の支城の一つとして、この神社にもこうした要塞施設が造られたのではないだろうか。

【写真左】同上空堀から西の畑地に鎮座した五輪塔
 神社を包む森を西に抜けると、築山状の高まり部に写真にある五輪塔が祀られている。
 なお、このとき付近におられた地元の老夫婦に少しお話をきいたところ、この付近を土地改良した時、こうした五輪塔が大量に出てきたという。工事施工をした者(業者か)も、あまり大量に出てきたので、面倒だからといって、大半この田圃の下に埋めたという。
 ここにあるのは、従ってその一部を残している、とのこと。

この話を聞いた時、当方は大げさにいえば、「絶句」してしまった。
 土地改良工事を行った時期がいつなのか、分からないが、おそらく昭和40年代であろう。当時の中世遺跡に対する関心がさほどなかったとはいえ、余りにも悲しい処置である。

 末吉城に拠った鹿助らの兵は、おそらく負けいくさとなって、東方に敗走し、この地で武運つたなく討死したと思われる。
(合掌)

末吉城(鳥取県西伯郡大山町末吉)

末吉城(すえよしじょう)

●所在地 鳥取県西伯郡 大山町末吉
●城主 神西三郎左衛門元通(中原善左衛門、小寺佐渡守)
     山中鹿助
●探訪日 2009年3月8日

◆解説(参考文献「尼子物語」妹尾豊三郎著など)
 史料に紹介はされているものの、当城の場所については、残念ながら明確に比定されていない。というのも、山城遺構らしきものがその周辺に見当たらないからである。
【写真左】末吉城付近その1
 写真に見える道路は国道9号線
 所在地と思われる場所は、鳥取県の大山町末吉というところで、国号9号線の「大山入口」という交差点付近に関係する石碑が建っている。
 現地に設置された説明板より当城の概要を転載しておく。

“山中鹿助供養塔
 元亀2年(1571)尼子勝久をかついで再挙の旗を押し立てた山中鹿助は、末吉城に入り、大山経悟院・新山と連携して守りを固めていた。
 一方、6月に毛利元就が75歳で死去し、父の遺志を受け継いだ元春は、大山経悟院を攻略するため、兵6,000を率いて吉田城を出発した。
 この行動を知った鹿助は、主将勝久を新山城に残し、大山経悟院を唯一の頼みとして、末吉城に入城していた。
【写真左】中央の小屋は駐輪場
 この入口の壁に「末吉城跡」と記入されているが、余りにも周辺が平坦部なのでピンとこない。
 数日間の猛攻により、ついに末吉城は陥落し、鹿助は捕らわれの身となる。孤立無援の中、27歳の尼子の勇将・山中鹿助を不屈の勇武として相手方の毛利勢も称えたと伝えられており、後日、供養のため建立したと伝えられている。

 平成14年3月  大山町教育委員会”

 また、この付近には「美甘塚」という石碑がある。内容は上記と同じ時期のことが描かれているが、毛利方部将の美甘与一右衛門が和議の使者として向かったものの、悲運の生涯を終えたことが描かれている。
【写真左】駐輪場の脇に建つ山中鹿助の供養塔  五輪塔形式のもので、名和長年の五輪塔のような大型のものである。
 鹿助自身はこの地で亡くなったわけでないので、これほど大きなものが必要なのか、という感がしないでもない。

“美甘塚の由来
 元亀2年(1571)戦国大名毛利元就の死去により、伯耆の形勢は毛利軍総大将吉川元春が弔い合戦と称し、1万余騎の大軍が山陰目指して進軍を始めた。対抗する尼子軍は勢力回復の好機として、拠点の一つである大山経悟院の支援と称し、山中鹿助を末吉城に送り込んだ。
【写真左】美甘塚の石碑
 鹿助の供養塔のそばに建っている。
 毛利軍は大山経悟院を討つと、軍を進めていたのに、意外にも反転して急遽末吉城を包囲したのである。時に元亀2年6月の出来事である。

 毛利軍は兵6,000余を総動員して、尼子軍の土塁の外に三重の櫓を造り、鉄砲、矢、石礫を打ち込んだ。守る方の尼子軍は城兵わずか4、5百名、土塁を高くして空堀を設け、必死の戦いが3日間続いた。

 このような戦況の中で、毛利軍は所子在住の美甘与一右衛門という血気盛んな勇者が居ると聞き、和議の死者として城内に送り込むこととなった。

 美甘家の言い伝えによると、毛利氏の依頼を受けた与一右衛門は、戦いによる混乱を避けるための死者として、目付役中原善左衛門と共に、末吉城に出向いた。

 入城の際、和議には、刀は不要といわれ、取り上げられた。交渉は順調に進み、和議成立として歓待を受けたのであるが、退出の際、不意に斬りつけられたのである。刀はまだ返されていなかったので、その場にあった石などで必死に防戦したが、目付役中原善左衛門と共にあえなく果てたと伝えられている。

 戦後、吉川元春は、美甘与一右衛門の義とその非業の死を悼み、跡地に碑を建立、手厚く葬ったということである。
 美甘家では、抵抗したとされる石などを、力石として、碑の周囲に保存供養を続けられ、与一右衛門の無念さが今も偲ばれるのである。”
【写真左】現地にある「浄満原合戦」の図
 これを見ると、元亀2年(1571)2月7日、尼子勝久軍が新山城から船で鹿助のいる末吉城へ移動していることになっている。

 冒頭に城主として、神西三郎左衛門元通を載せているが、昨年「神西城」で紹介したとおり、同氏は元々出雲国湖陵の神西城主であり、尼子方の武将だった。
 永禄9年(1566)富田城籠城も長期にわたってしまい、6月末、主だった尼子方部将が毛利氏に投降した。この中に神西元通もいた。その後彼は毛利元就に忠節を励み、信頼されていたことから、元就から末吉城を与えられ、腹臣の中原善左衛門と小寺佐渡守をつけられていた。

 永禄12年(1569)6月23日、山中鹿助が尼子勝久を擁して隠岐から出雲に入った。おそらくその1年後だろうと思われるが、鹿助は神西元通の能力を高くみており、ぜひとも味方に引き戻そうと策を練った。鹿助は気のきいたある僧を使って、元通の本心を探らせるべく、末吉城に入れた。

 元通の本意を知るたために、その僧は扇を差し出し、一筆書いてほしいと頼んだ。元通はその扇に「古柄(ふるから)小野の本柏(かしわ)」と墨痕鮮やかに筆を走らせた。この意味は「石の上ふるから小野の本柏、もとの心は忘られなくに」という古歌からきたもので、尼子の恩顧は決して忘れない、すなわち、時来たらば、再び鹿助に与するという意味である。
 元通は、しかし毛利方腹臣の中原、小寺両氏に、このことを悟られてはならない。小寺氏は足の病で途中で当城を出ていき、残った中原氏は次第に元通の様子に異変を感じたものの、あるとき囲碁の対局の最中に元通の謀略で殺害されてしまった。こうして元通は鹿助の傘下に入って行った。

 おそらくこの時をもって、末吉城が鹿助らの支配下(拠城)となったのではないだろうか。
 なお、末吉の戦いで鹿助が捕らえられたのは、同年(元亀2年:1571)8月18日となっている(陰徳記)。もっとも、鹿助はその後「尾高城」でも述べたとおり、厠から抜け出し、京都へ逃走することになる。
 末吉城を落とした毛利方(元春)は、その後寺内城を攻略したとある。この寺内城の場所については、現在の米子市淀江町付近と思われるが、詳細は分からない。
 ところで、「美甘塚」の説明文中、中原善左衛門が美甘与一と共に、和議の使者として向かったものの、あえなく果てたとあり、「神西元通」のところでは、神西元通に討ち果たされたとある。同一人物が2回も殺されていることになるが、これはこれでまた謎が深まり、想像力が増す事例かもしれない。
【写真左】上段の写真に示した末吉城跡から少し北に向かった小丘付近
 末吉城の位置が現在の場所(国道9号線)付近としてあるが、基本的にこの城の使われ方を考えた場合、いつでも移動可能な場所、すなわち海城形式のものではなかったかと思われる。従って高度のある山城ではなく、そのために鹿助らは防御設備としては、土塁や、空堀を執拗に造っていたのではないだろうか。
 現在付近にそうした跡がほとんど見られないのは、この付近の土質が砂状土であることから、短期に埋まり、痕跡が消えたのではないだろうかと思われる。 写真のものは手前の田圃と多少の高低差を持っているところで、こうしたあたりに築城されていたと考えられる。

2010年2月6日土曜日

岸本要害(鳥取県西伯郡伯耆町岸本)

岸本要害(きしもとようがい)

●所在地 鳥取県西伯郡伯耆町岸本字尻谷の西
●登城日 2009年12月1日
●標高 73m 比高 20~25m
●現状 林、畑地
●築城期 詳細不明、一説には鎌倉・南北朝期、または大永6年(1526)、もしくは天正8年(1580)
●築城者 巨勢(こせ)氏、または別所氏
●城主 別所与三左衛門尉など
【写真左】JR岸本駅から岸本要害を見る
 位置的には、写真中央の坂道の後山で、同道は坂のピークで左にカーブし、同要害を取り囲むルートになっている。写真左後方の山は、大山。




◆解説(参考文献「岸本町誌」「サイト山陰の城館跡」等)

 岸本要害は、鳥取県の伯耆地方を流れる日野川の東方に位置し、JR伯備線岸本駅と米子自動車道大山PAの間にある丘陵地にあったとされている山城である。

 鳥取県文化財課によるサイト「山陰の城館跡」で、当城の縄張り平面図が紹介されている。これによると、平面方形の館跡を基本として、東西に各1カ所づつ配置し、西側には土塁、東側虎口前面に土橋があるという。当該図からみると、大きさは東西約150m、南北70~90mほどの規模になる。

 また別の史料として、岸本町誌には、「鳥取藩文政11年古城址地図『別所長治調書』による」として、要害略図が示されている。
 これによると、郭は南北70間、東西50間のものが単一とされ、郭の南北両端部に大きな堀切を西側に覗かせ、それらの堀切は郭を取り囲む空堀と繋がり、東端部にはさらに、二重の空堀を構築している。
【写真左】岸本要害の東側入口付近
 現在同地の北側には団地が造成され、南側には畑地や造林が構成されている。

 岸本要害を示す石碑は、上段写真にみえた坂道の脇にあるが、ここからは直接向かうことはできない。この写真は、東側の造林部分に見えた農道(ほとんど最近つかわれていない)から入ったところで、標識などはまったくない。


 以上のように多少その概要に誤差があるものの、形状は類似した説明となっている。


三木城主・別所長治の遺児

 ところで、先月の投稿で三木城(兵庫県三木市上の丸)を取り上げた際、天正8年秀吉に攻められ自刃した城主別所長治の遺児・竹松丸(後の別所長兵衛)が、この岸本の地で住んでいたことを紹介した。

 晩年は尾高城の客分扱いとなるが、その前にはこの岸本要害に居た可能性が高い。かれを三木城から極秘に抱えて脱出したのが、もともと岸本町出身の野脇新三郎だったことがそれを裏付ける。
【写真左】南端部の切崖付近
 この写真の奥が切崖となっているので、冒頭示した堀切・空堀の遺構と思われる。






岸本城主・別所氏

 ただ、ここで別所長治の遺児・竹松丸とは別の別所一族の者が、当地に来ている史料もあるので、併せて紹介しておきたい。

 その史料とは、野口徳正著『尾高の里三』というもので、これによると、

「別所与三左衛門尉、村上源氏、播州赤松則村後胤で、三木城落城後落ち延び、伯耆に来たり尾高城杉原盛重に属し、戦功あり岸本城主となる。

 杉原氏滅亡後、吉川広家に仕え朝鮮の役に出陣して戦功あり、岩国では御手廻役30石、その子孫明治3年別所小三郎、9石7斗7升軍医となる。米子市中島に一族残る。…」


 とある。この資料もなかな詳細なものだが、こうなると、どれが確かなものか分からなくなる。さらに、岸本要害のある同町には、清原の高平城という山城もあったらしく、この城主は別所小三郎という武将がいたという。

 こうしてみると、三木城から落ち延びてきたのは、長治の遺児らだけでなく、別所氏一族がある程度集団で当地に来たのではないかとも思えてくる。
【写真左】西側郭跡
 現況は、果樹園もしくは畑地のようになっている。 鳥取県文化財課のサイトに載っている縄張り平面図でいえば、西側の郭跡と思われる。

 写真では分かりにくいが、西端部は南北にわたって50cm程度の高さの土塁跡が確認された。
 なお、西郭と東郭の間にあったとされる溝(空堀か)は畑地として改修されたためか、段差の個所を確認することはできなかった。


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瑞応寺と瑞仙寺(鳥取県西伯郡伯耆町・米子市日下)

2010年2月5日金曜日

宝石城(鳥取県米子市橋本)

宝石城跡(ほうせきじょうあと)

●所在地 鳥取県米子市橋本
●登城日 2009年12月1日
●築城者 行松氏
●別名 七尾城
●標高 70~100m前後か
●備考 阿陀萱(あびだ、又は、あだかや)神社鎮座

◆解説
 前稿「尾高城」の中で触れた行松(ゆきまつ)氏の支城といわれているが、詳細は不明である。


【写真左】宝石城遠望
 南西方向からみたもの










 最初に、当城の麓に祀られている阿陀萱神社の縁起を参考までに示す。

“阿陀萱神社

 古事記(712年)によれば、大国主命は大勢の兄神様と一緒に八上姫へ求婚のため、因幡国への途次、因幡の白兎を助けた縁で結ばれ、出雲の直会(なおえ)で多岐喜姫(当社祭神)が生まれ給う、因幡国へ里帰りの途中、多岐喜姫は榎原郷橋本邑(むら)の榎の俣に指を挟まれ、此処にとどまり鎮守神として祭祀された歴史ある古社です。

 また、阿陀萱神社由緒書には、合祀の宗像神社祭神を天平6年(735)9月15日、安芸国厳島神社より勧請の記述あり。


【写真左】宝石城と大山
 手前左に見える山が、宝石城。中央奥に見える山が大山(だいせん)である。







 戦国時代は七尾城(当、宝石山山頂)の守護神として篤く崇敬され、大永年間(1521)行松源太兵衛城主、出雲富田城主尼子経久侯(1523)、米子城主吉川広家侯(1601)より寄付あり、依って神領地も多く、瑞光山清水寺地蔵院(安来市)が当社の別当を勤め、長らく祭祀厳重なり。

 神社創建の年代不詳なれど、古くより阿陀萱大明神と称し、榎原郷八ヶ邑(はっけむら)の鎮守神であったが、現在は榎原、吉谷、古市、橋本の氏神様として祭祀継承されております。

主祭神 阿陀加夜奴志多岐喜比売命(父神大国主命、母神八上姫命)

祭神  宗像大社祭神(市杵島姫命、田心姫命湍津姫命)
     大山祗命(山を司る神、八重垣姫の祖父神)
     素戔鳴命(熊野大社祭神)
     誉田別命(八幡宮祭神)
     武内宿禰命(因幡国一宮、宇倍神社祭神)
     八ツ耳命(神武天皇の皇子)
     宇迦之御魂命(稲荷大社祭神)”
【写真左】阿陀萱神社
 宝石城の西麓にある神社で、縁起にもあるように非常に歴史を感じさせる雰囲気を持っている。
 
 余談ながら、当社本殿前の灯篭は、非常に珍しいデザインで、龍が巻きつき、刀などが彫刻されている。八岐大蛇伝説にちなんだものかもしれない。




 さて、行松氏の本城は、前稿で取り上げた尾高城(鳥取県米子市尾高)である。この尾高城から西南に向い、日野川を渡り、支流法勝寺川を2キロほどさかのぼると、西1キロに小高い宝石山がみえる。山城としては支城であることから、小規模な方だが、出雲国との境界でもあったことから、位置的には重要な城だったと思われる。

 この山に城を築いたのは、おそらく行松氏が下向した鎌倉期までさかのぼるかも知ない。
 同氏が初期に治めていた地域は、伯耆国の西部が中心で、東部は度々紹介した南条氏(羽衣石城(鳥取県東伯郡湯梨浜町羽衣石)参照)が扶植していた。もっとも両氏とも、その武威を誇れたのは、守護として君臨した山名氏の存在があったからである。

【写真左】鳥居前に鎮座している大岩
 伝承では、空から降ってきた岩といわれており、「いん石」とのこと。これが本当なら、日本で最大級のものとなるのだが…

 「宝石」という珍しい名称を冠した山城であるが、おそらくその語源は、この大岩から名づけられたものと思われる。 ちなみに、近隣では松江市美保関町に10数年前、本物のいん石が落ち、現在同町で保管されている。



 永正年間になると、尼子氏が次第に伯耆国へ侵攻し始め、行松氏は本城尾高城を追われる。このとき宝石城も同時に手放したと思われる。

 その後毛利氏の台頭が山陰に起きると、永禄年間に再び尾高城を手に入れる。しかし、このころから杉原氏(神辺城(広島県福山市神辺町大字川北)参照)が行松氏の所領を取りはじめ、同氏は次第に弱体化していく。そして、毛利氏配下であったため、関ヶ原の戦で没落していく。

【写真左】宝石城登城口と思われる道
 この日、忠犬?トミー嬢が珍しく同伴登城を拒み、かなり粘ったが、どうしても厭だというので、登城は断念した。おそらくイノシシやタヌキの匂いが相当漂っていたのだろう。

 遠望から判断しても、頂上付近は相当ブッシュ状態かもしれない。
 なお、当城の標高はさほど高くないようで、おそらく70~100m前後だろう。

2010年2月4日木曜日

尾高城(鳥取県米子市尾高)

尾高城(おだかじょう)

●所在地 鳥取県米子市尾高
●登城日 2007年9月3日、2017年11月2日
●形式 平山城
●築城年 鎌倉時代
●築城者 行松氏
●城主 行松正盛、吉田光倫、杉原盛重、吉田元重
●別名 泉山城
●標高 40m

◆解説(参考文献「続・因伯大名の戦国時代」中村忠文著等)
 
 鳥取県米子市の米子自動車道米子ICを降り、大山に向かう米子大山線(24号線)と、淀江岸本線(53号線)が交差する南東部に突き出た丘陵地に尾高城跡がある。
【写真左】石碑
前回の登城から10年経った2017年再訪した。
撮影日 2017年11月2日

 尾高城の別名「小鷹泉山城」と筆耕され、下には「杉原盛重居城址 鳥取県知事平井伸治書」と刻まれた石碑が建つ。
 平井知事名なので、最近建立されたようだ。



 現在この周囲は大幅に改変され、現地に明瞭に残っているのは、下段に示す「南大首郭」といわれるところである。

 概要については、現地に点在する遺構の説明板から転載しておく。

“米子市指定史跡
尾高城跡

 ここは、中世の東西交通路をおさえる西伯耆の軍事上の中心地であった。城郭は、鎌倉時代から築かれたようであり、室町時代山名氏支配下では、城主は行松氏が、尼子氏が進出すると城主は、吉田氏が、16世紀後半になって毛利氏支配下時代には、杉原盛重が城主であった。

 江戸時代初期、米子城築城によってこの城は廃城となった。城跡は、北から二の丸・本丸・中の丸・天神丸・後方の館跡など8つの郭があって、堀や土塁で守られ、平常の生活を営む館と城とが繋がっている中世の城郭遺跡である。

 尼子回復戦のおり、尼子の勇将山中鹿助が囚われ、この城にいたとき、腹痛といつわって汲み取り口から脱出したという物語は有名である。
米子市”

【写真左】南大首郭跡












 説明板から転載する

“尾高城跡 南大首郭

 天神丸郭と方形館跡の間に位置する西側には中の丸郭がある。四方を空堀により区切り、60×40mの規模で、四つの平坦面を持つ。

 発掘調査により、南、東側には土塁があったことが確認されている。東側堀には橋脚柱穴が発見され、木橋が架けられていたと思われる。

 郭の北西の角には掘立柱建物跡が見つかり、隅櫓的な建物が建っていたことが判明している。
米子市教育委員会”



 さらに、これとは別に、「米子市勤労総合福祉センター案内図」という看板があり、現在と当時の遺構名を併記してあるが、この看板は相当古く、文字もかすれ判読に難渋するものの、右欄には当城の略歴も追記してあるので、上段の説明板と重複する内容もあるが、転載しておく。

“米子勤労総合福祉センター(愛称米子ハイツ)は、尾高城跡を中心とした約8万平方メートルの敷地内に建設されています。

 この尾高城は室町、戦国時代には行松氏累代の居城でしたが、1524年(大永4年)尼子方部将吉田光倫が変わって城主となり、その後伯耆因幡制覇をめざす毛利方の勇将杉原播磨守盛重が備後から転城し、伯耆守護の要害とされました。

 尼子方の部将で「我に七難八苦を与えたまえ」と三日月に祈った山中鹿助幸盛は、幾度の戦後、この城の虜因となり、数拾度の厠(かわや)通いで城兵の油断を誘い、汲取り口から脱出したとの史実があります。
【写真左】米子勤労総合福祉センター案内図











 関ヶ原の戦ののち、伯耆18万石の領主となって入府した中村一忠は、現米子市城山の久米城が完成するまで尾高に在城しました。また、土塁と堀に囲まれ、方形館跡と、北から二の丸、本丸、中の丸、天神丸と続くこの城跡は、中世の城の偉容が偲ばれます。

 現在、城跡は米子市の文化財に指定されています。米子ハイツは、背後に大山を控え、前面には日本海が迫った風光明媚な尾高の地に、城跡の地形を十分に生かして梅園、桜の園、あじさい園、武家屋敷跡基礎復元、日本庭園、自由広場等を整備し、四季とりどりの草花木を植え、自然に親しむ憩いの場として、また体育館、テニスコート、ゲートボール場などの体育施設も設け、勤労者の総合的な福祉の向上に寄与することを目的として、昭和51年6月に建設開業されたものです。”


 現地を訪れた時、周辺の建物や公園などが目立ち、山城遺構としては、上段に示した「南大首郭」と「中の丸」だけが管理保存されていたように見えた。

 当該センターの説明板にある「城跡の地形を十分に生かして…」というコンセプトも理解できるが、城跡全体の遺構保存からいえば、もう少し工夫の余地がなかったのか、と思える。

 昭和51年に当センターが開設され、各施設の老朽化が目立ってきている。予算的な余裕がなくなってきた今日であるから、このままいくと、城跡もセンター施設も共に朽ち果てていくような感じである。ちょうどこの日訪れていた時、南側の旧天神丸周辺は福祉施設のような建物が建ち、天神丸の遺構もほとんど消滅しそうな状況に見えた。

 せめて残っている「南大首郭」「中の丸」そして、森と化している「本丸」「二の丸」だけは手をくわえないでほしいものだ。
【写真左】五輪塔群
 前回訪れたとき気づかなかったが、尾高城跡には「大高小学校」という学校があったらしく、その奥に「学校跡」の碑も建っている。
【写真左】南大首郭付近
 堀跡にかかる橋が少し見えるが、その下に橋脚柱穴があったという。








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