出雲・熊野城(いずも・くまのじょう)・その1
●所在地 島根県松江市八雲町熊野
●高さ 280m(比高180m)
●築城期 不明(室町期か)
●築城者 不明(熊野氏か)
●城主 熊野入道西阿、熊野久忠、天野隆重
●遺構 郭・腰郭・井戸等
●備考 尼子十旗
●登城日 2015年2月6日
◆解説(参考文献「出雲の山城」高屋茂男編、「出雲尼子氏一族」米原正義著等)
地元出雲にありながら、なかなか登城できなかった山城である。というのも、これまで何度も麓まで来てはいたが、登城道は整備されておらず、しかもその先は年々増大する竹害のため、ほとんど登城は諦めていた。
【写真左】熊野城遠望
南側の大東町(雲南市)小河内に向かう峠付近から見たもの。
撮影日:2016年6月17日
しかし、地元山陰中央新報・2015年2月4日版に、「尼子氏の拠点「十旗」の一つ 熊野城跡PRへ決起」という見出しをみつけた。そこには、「地元(八雲町)住民による保存会が、毛利氏との激戦の舞台だった城の歴史を広めようと荒れた登山道の整備や、案内看板の設置に汗を流している」と書かれている。
この朗報に刺激され、その2日後の6日、はやる気持ちを押さえながら熊野城に向かった。
【写真左】熊野城の記事
山陰中央新報・2015年2月4日版
現地の説明板
“熊野城跡
◆所在地/松江市八雲町熊野 ◆標高/280m ◆比高/180m ◆主な遺構/曲輪、腰郭
熊野城は尼子十旗の一つとして富田城防衛の重要拠点であった。
城主熊野氏。永禄6年(1563)9月、白鹿城を包囲していた毛利元就は、後方から牽制する熊野久忠を討つため、熊野城を攻撃したが撃退された。元亀元年(1570)布部合戦の後、牛尾城の落城をみて開城した。
かわって富田城の城督だった天野隆重が入城。”
【写真左】熊野城の北方に鎮座する熊野神社に設置された案内板
次稿で紹介する予定だが、熊野城から意宇川沿いに北に約2キロほど下ると、熊野神社(大社)がある。その境内駐車場にこの案内板が設置されている。
また、熊野神社の近くには、以前紹介した尼子経久の長男・政久の墓が祀られている常栄寺がある。
【写真左】熊野城と麓にある看板
【写真左】熊野城の見取図
上記説明板に挿図されているもので、本丸をはじめ、八幡丸・馬場・井戸・立石などといった伝承の残る場所も図示されている。
尼子十旗と熊野氏
ところで、満願寺城(島根県松江市西浜佐田町)でも少し触れているが、尼子氏の居城月山富田城を守るべく、出雲国内に配置した主要な支城10か所を「尼子十旗」と呼んでいる。「雲陽軍実記」によれば、熊野城はその中で8番目の城として位置づけされ、城主は熊野氏といわれている。この順番の意味は重要度から決められたものだろうが、別説では各城の石高の多寡から決められたという説もある。
【写真左】登城口
上図の見取図にもあるように、登城口は西側の谷付近にあり、看板のあるところから少し奥に進むと、右側に「熊野城跡登山口」という標柱が立っているので、ここから登る。
当城の城主は熊野氏といわれている。築城期とも関連するが、この熊野氏の出自ついてははっきりせず、従って当城が築かれた時期についても不明な点が多い。ただ、熊野城東麓を流れる意宇川(いうがわ)を2キロほど下ったところには出雲国一宮の一つ熊野大社があり、当社神官を出自とする可能性もあるといわれている。
【写真左】石積跡
登城口から少し進んで行くと、やがて左手に石積跡が見えてくる。
この辺りには谷間を利用した段が残っているが、伝承によれば、熊野城が陥れられたあと、熊野久忠に代わって、毛利方の天野隆重が暫く当城に在城しており、隆重墓地跡とされる箇所でもある。次の写真でも紹介するが、さらに奥の谷に向かうと「寺床」という平坦地が残っているので、これら寺院関係の遺構かもしれない。
また、尼子分限帳には、尼子氏の主だった家臣団が載せられているが、どういうわけか熊野氏の名はこの中では見いだせない。他の資料で確認できる人物としては、後段で示すもの以外としては、尼子・毛利氏の戦いの中で、熊野入道西阿・熊野兵庫介久忠・熊野和泉守と、永禄12年頃美作・高田城(岡山県真庭市勝山)に山中鹿助の姉婿佐伯七郎次郎と一緒にいた熊野弥七郎などである。
【写真左】登城途中の竹林
冒頭でも述べたように、現状はご覧の様な竹林で覆われ、登城道付近のみが整備されている。
この付近はまだ傾斜がきつくなる前の場所で、写真では分かりづらいが、谷の中央部から湧水が道と暫く並行して流れている。
本丸頂部付近に「馬場跡」が残されていることを考えると、数壇の平坦地を構成するこの場所が、馬の調練場としていた可能性もある。
同氏の記録が初見されるのは、文明4年(1472)3月に書かれた「室町幕府奉行人連署奉書」(『日御碕神社文書』)の中で、日御碕社と杵築大社の領地境界争いに関わり、幕府から守護代尼子氏をはじめ、牛尾・佐世・湯・馬来・塩冶・村井氏らと並んで熊野氏の名前も記され、その措置に協力するように命じられている。
熊野城の最後の城主と言われているのが、前述した兵庫介久忠である。毛利氏が尼子氏を滅ぼす過程で、尼子氏の支城を次々と陥れていくが、中でも白鹿城(島根県松江市法吉町)での戦いがもっともその節目となった。
【写真左】途中から東の斜面に向かう。
西側の谷を進んで行くと、途中から熊野城の中心から北側に伸びる尾根筋に取り付いた道が見えてくる。
なお、この写真では分かりずらいが、要所には竹に赤いテープが巻きつけてあり、これを目印にして向かう。
【写真左】本丸までおよそ150mの地点
このあたりから、尾根に沿って登るには傾斜がきついため、九十九折れになっていく。
また最近設置されたのだろうプラスティック製の階段が所々つけてある。
【写真左】大岩
この辺りから中小の郭段が確認できるが、残念ながらその場所も竹に覆われていて、踏込む事が出来ない。
写真は次第に傾斜が付き始めた辺りに見えた大岩で、おそらくこの付近が「立石」と呼ばれた郭の箇所だろう。
【写真左】中規模の郭
左側斜面は岩塊となっており、その右側には奥行5m前後の郭が構成されている。
【写真左】「八幡成」か
今回登城したルートは本丸から北西に伸びる尾根筋を辿るもので、この尾根には郭の数は多くない。
写真はそのうち本丸直近に構築されている郭で、おそらくこれが「八幡成」という郭だろう。奥行20m前後、最大幅15m前後の規模を持つ。
なお、白いものは麓では全く見られなかった残雪である。
このあと、いよいよ本丸を目指す。
【写真左】「八幡成」から本丸へ向かう道
八幡成と本丸の比高差は7,8m前後だが急勾配のためここにも仮設階段が設置されている。
【写真左】本丸・その1
少し息を切らせて登りきると、途端に視界が開けた。本丸である。
本丸は、一辺がおよそ30m前後の三角形の形をなし、登ってきた尾根とは別に、東に伸びる尾根にも10か所前後の郭段が続き、また南に伸びる尾根には南北20m×東西10m程度の郭が3段程連続している。
城の構造
ところで、麓の案内板にも熊野城の構造については、次のように記されている。
“【城の構造】
当城の置かれた要害山は円錐形の山容をなしている。その頂部を削平して主郭とし、その北側と、南西と北西の稜線に曲輪を配置している。主郭は不定形ながらていねいに削平され、東西2か所に虎口を設けている。いずれも坂虎口で特別の技巧はないが、北東側の腰郭をへて東南下方の郭群へと続いている。”
【写真左】本丸・その2
東側の箇所で、この下に繋がる尾根にも郭段があるが、現状の整備はここまでのため向かっていない。
この箇所は坂虎口となる入口だろう。
【写真左】本丸から北方の中海方面を俯瞰する。
東麓を流れる意宇川は北に向かって中海に注ぐが、その西方には松江・茶臼山城が位置している。
また、さらにその先には大橋川・中海を挟んで、和久羅山城跡(島根県松江市朝酌町)及び、忠山城(島根県松江市美保関町森山)がかすかに見える。
【写真左】長い石
本丸跡には整然と並んだような礎石は見えないが、写真のような割と大きな石が数点散在している。
毛利氏とかなり激しい戦いを繰り広げているので、こうした石も戰の際何かの用途につかわれたのかもしれない。
【写真左】本丸から八雲山を見る。
熊野城の北西には『出雲風土記』に記された別名「須賀山(須我山)」が見える。
標高426mのこの山はその西麓に鎮座する須賀神社の奥宮でもあるが、戦国期(永禄6年頃)毛利軍が熊野城を攻める際、陣所として使った山でもある。
次稿では、月山富田城落城後尼子再興軍として当城に関わった長澤氏、並びに周辺の史跡などを取り上げたいと思う。
◎関連投稿
八雲山(島根県松江市八雲町~雲南市大東町須賀)
●所在地 島根県松江市八雲町熊野
●高さ 280m(比高180m)
●築城期 不明(室町期か)
●築城者 不明(熊野氏か)
●城主 熊野入道西阿、熊野久忠、天野隆重
●遺構 郭・腰郭・井戸等
●備考 尼子十旗
●登城日 2015年2月6日
◆解説(参考文献「出雲の山城」高屋茂男編、「出雲尼子氏一族」米原正義著等)
地元出雲にありながら、なかなか登城できなかった山城である。というのも、これまで何度も麓まで来てはいたが、登城道は整備されておらず、しかもその先は年々増大する竹害のため、ほとんど登城は諦めていた。
【写真左】熊野城遠望
南側の大東町(雲南市)小河内に向かう峠付近から見たもの。
撮影日:2016年6月17日
しかし、地元山陰中央新報・2015年2月4日版に、「尼子氏の拠点「十旗」の一つ 熊野城跡PRへ決起」という見出しをみつけた。そこには、「地元(八雲町)住民による保存会が、毛利氏との激戦の舞台だった城の歴史を広めようと荒れた登山道の整備や、案内看板の設置に汗を流している」と書かれている。
この朗報に刺激され、その2日後の6日、はやる気持ちを押さえながら熊野城に向かった。
【写真左】熊野城の記事
山陰中央新報・2015年2月4日版
現地の説明板
“熊野城跡
◆所在地/松江市八雲町熊野 ◆標高/280m ◆比高/180m ◆主な遺構/曲輪、腰郭
熊野城は尼子十旗の一つとして富田城防衛の重要拠点であった。
城主熊野氏。永禄6年(1563)9月、白鹿城を包囲していた毛利元就は、後方から牽制する熊野久忠を討つため、熊野城を攻撃したが撃退された。元亀元年(1570)布部合戦の後、牛尾城の落城をみて開城した。
かわって富田城の城督だった天野隆重が入城。”
【写真左】熊野城の北方に鎮座する熊野神社に設置された案内板
次稿で紹介する予定だが、熊野城から意宇川沿いに北に約2キロほど下ると、熊野神社(大社)がある。その境内駐車場にこの案内板が設置されている。
また、熊野神社の近くには、以前紹介した尼子経久の長男・政久の墓が祀られている常栄寺がある。
【写真左】熊野城と麓にある看板
【写真左】熊野城の見取図
上記説明板に挿図されているもので、本丸をはじめ、八幡丸・馬場・井戸・立石などといった伝承の残る場所も図示されている。
尼子十旗と熊野氏
ところで、満願寺城(島根県松江市西浜佐田町)でも少し触れているが、尼子氏の居城月山富田城を守るべく、出雲国内に配置した主要な支城10か所を「尼子十旗」と呼んでいる。「雲陽軍実記」によれば、熊野城はその中で8番目の城として位置づけされ、城主は熊野氏といわれている。この順番の意味は重要度から決められたものだろうが、別説では各城の石高の多寡から決められたという説もある。
【写真左】登城口
上図の見取図にもあるように、登城口は西側の谷付近にあり、看板のあるところから少し奥に進むと、右側に「熊野城跡登山口」という標柱が立っているので、ここから登る。
当城の城主は熊野氏といわれている。築城期とも関連するが、この熊野氏の出自ついてははっきりせず、従って当城が築かれた時期についても不明な点が多い。ただ、熊野城東麓を流れる意宇川(いうがわ)を2キロほど下ったところには出雲国一宮の一つ熊野大社があり、当社神官を出自とする可能性もあるといわれている。
【写真左】石積跡
登城口から少し進んで行くと、やがて左手に石積跡が見えてくる。
この辺りには谷間を利用した段が残っているが、伝承によれば、熊野城が陥れられたあと、熊野久忠に代わって、毛利方の天野隆重が暫く当城に在城しており、隆重墓地跡とされる箇所でもある。次の写真でも紹介するが、さらに奥の谷に向かうと「寺床」という平坦地が残っているので、これら寺院関係の遺構かもしれない。
また、尼子分限帳には、尼子氏の主だった家臣団が載せられているが、どういうわけか熊野氏の名はこの中では見いだせない。他の資料で確認できる人物としては、後段で示すもの以外としては、尼子・毛利氏の戦いの中で、熊野入道西阿・熊野兵庫介久忠・熊野和泉守と、永禄12年頃美作・高田城(岡山県真庭市勝山)に山中鹿助の姉婿佐伯七郎次郎と一緒にいた熊野弥七郎などである。
【写真左】登城途中の竹林
冒頭でも述べたように、現状はご覧の様な竹林で覆われ、登城道付近のみが整備されている。
この付近はまだ傾斜がきつくなる前の場所で、写真では分かりづらいが、谷の中央部から湧水が道と暫く並行して流れている。
本丸頂部付近に「馬場跡」が残されていることを考えると、数壇の平坦地を構成するこの場所が、馬の調練場としていた可能性もある。
同氏の記録が初見されるのは、文明4年(1472)3月に書かれた「室町幕府奉行人連署奉書」(『日御碕神社文書』)の中で、日御碕社と杵築大社の領地境界争いに関わり、幕府から守護代尼子氏をはじめ、牛尾・佐世・湯・馬来・塩冶・村井氏らと並んで熊野氏の名前も記され、その措置に協力するように命じられている。
熊野城の最後の城主と言われているのが、前述した兵庫介久忠である。毛利氏が尼子氏を滅ぼす過程で、尼子氏の支城を次々と陥れていくが、中でも白鹿城(島根県松江市法吉町)での戦いがもっともその節目となった。
【写真左】途中から東の斜面に向かう。
西側の谷を進んで行くと、途中から熊野城の中心から北側に伸びる尾根筋に取り付いた道が見えてくる。
なお、この写真では分かりずらいが、要所には竹に赤いテープが巻きつけてあり、これを目印にして向かう。
【写真左】本丸までおよそ150mの地点
このあたりから、尾根に沿って登るには傾斜がきついため、九十九折れになっていく。
また最近設置されたのだろうプラスティック製の階段が所々つけてある。
【写真左】大岩
この辺りから中小の郭段が確認できるが、残念ながらその場所も竹に覆われていて、踏込む事が出来ない。
写真は次第に傾斜が付き始めた辺りに見えた大岩で、おそらくこの付近が「立石」と呼ばれた郭の箇所だろう。
【写真左】中規模の郭
左側斜面は岩塊となっており、その右側には奥行5m前後の郭が構成されている。
【写真左】「八幡成」か
今回登城したルートは本丸から北西に伸びる尾根筋を辿るもので、この尾根には郭の数は多くない。
写真はそのうち本丸直近に構築されている郭で、おそらくこれが「八幡成」という郭だろう。奥行20m前後、最大幅15m前後の規模を持つ。
なお、白いものは麓では全く見られなかった残雪である。
このあと、いよいよ本丸を目指す。
【写真左】「八幡成」から本丸へ向かう道
八幡成と本丸の比高差は7,8m前後だが急勾配のためここにも仮設階段が設置されている。
【写真左】本丸・その1
少し息を切らせて登りきると、途端に視界が開けた。本丸である。
本丸は、一辺がおよそ30m前後の三角形の形をなし、登ってきた尾根とは別に、東に伸びる尾根にも10か所前後の郭段が続き、また南に伸びる尾根には南北20m×東西10m程度の郭が3段程連続している。
城の構造
ところで、麓の案内板にも熊野城の構造については、次のように記されている。
“【城の構造】
当城の置かれた要害山は円錐形の山容をなしている。その頂部を削平して主郭とし、その北側と、南西と北西の稜線に曲輪を配置している。主郭は不定形ながらていねいに削平され、東西2か所に虎口を設けている。いずれも坂虎口で特別の技巧はないが、北東側の腰郭をへて東南下方の郭群へと続いている。”
【写真左】本丸・その2
東側の箇所で、この下に繋がる尾根にも郭段があるが、現状の整備はここまでのため向かっていない。
この箇所は坂虎口となる入口だろう。
【写真左】本丸から北方の中海方面を俯瞰する。
東麓を流れる意宇川は北に向かって中海に注ぐが、その西方には松江・茶臼山城が位置している。
また、さらにその先には大橋川・中海を挟んで、和久羅山城跡(島根県松江市朝酌町)及び、忠山城(島根県松江市美保関町森山)がかすかに見える。
【写真左】長い石
本丸跡には整然と並んだような礎石は見えないが、写真のような割と大きな石が数点散在している。
毛利氏とかなり激しい戦いを繰り広げているので、こうした石も戰の際何かの用途につかわれたのかもしれない。
【写真左】本丸から八雲山を見る。
熊野城の北西には『出雲風土記』に記された別名「須賀山(須我山)」が見える。
標高426mのこの山はその西麓に鎮座する須賀神社の奥宮でもあるが、戦国期(永禄6年頃)毛利軍が熊野城を攻める際、陣所として使った山でもある。
次稿では、月山富田城落城後尼子再興軍として当城に関わった長澤氏、並びに周辺の史跡などを取り上げたいと思う。
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