三滝城(みたきじょう)
●所在地 愛媛県西予市城川町窪野
●別名 御岳城
●史跡 県指定史跡
●高さ 642m(比高258m)
●築城期 永享年間(1429~41)
●築城者 紀実次
●城主 紀氏
●遺構 郭・石垣・井戸等
●登城日 2014年1月28日
◆解説(参考文献『日本城郭体系第16巻』等)
前稿甲之森城(愛媛県西予市城川町土居)で少し紹介したように、紀氏後期の本拠城・三滝城を取り上げる。
【写真左】三滝城遠望
三滝城に向かう南側の道から見たもので、当城へは途中から左に分かれる枝線があり、三滝神社まで車で向かうことができる。
ちなみにこの道をさらに進み、大茅峠を越えると高知県高岡郡梼原町に至る。
三滝城へ向かう枝道は、本線に比べると林道のような状況で、枯れ枝や小さな落石が道に落ちており、注意が必要だ。
現地の説明板より
“県指定史跡・名勝
三滝城跡
三滝城は、標高642m、面積約100ヘクタール。紀親安、西園寺15将の中でも勇将といわれた北ノ川殿の居城で、要害堅固の場所にあって雄大である。
また麓には変わらぬ千古の流れ三滝川があって、溪谷には伝説を秘めた名瀑(滝)があり、幽谷としての景観は見事である。
【写真左】林道と三滝山(神社)方面との分岐点
右側の林道と分岐する地点で、この左隅に小さな「三滝城」の標識や、「三滝城址案内図」などが設置されている。
その辺りに立ちて、古城跡三滝山を遠望するとき、誰もが等しく400年の昔、城主親安公の善政や、公が天正11年、長宗我部の軍勢1万3千騎の攻撃による落城の悲運に遭い、万斛の涙のんで大銀杏の下で悲壮なる自決された事を偲ぶでしょう。
大銀杏と共に昭和28年3月、天然記念物に指定されたシルリア紀(ゴトランド石灰岩)、名瀑、古樹林、草苔、山と川とに誇りをもつ三滝城全域を県下初めての史跡名勝、二つ併せて天然記念物に指定された。毎年4月第3日曜日の三滝神社春季大祭城主護蔵王大権現)に八ツ鹿踊り(昭和49年国の無形文化財指定)が、公の遺徳を偲び奉納される。
世の栄枯盛衰も知らぬげに、世俗に超然たる自然の姿は幽遠そのものである。
西予市教育委員会”
【写真左】三滝城の大銀杏
急坂を道なりに進むと、最初に出迎えてくれるのが、この大銀杏である。
現地の説明板より
“県指定記念物(天然記念物)
三滝城の大いちょう
所在 西予市城川町窪野
指定 昭和26年11月27日
この樹は雌樹で、三滝城旧二の丸にあり、高さ40m、根まわり約8.6m、目通り約7.4m、枝張り半径約15m、地上8mにて、二大幹となっている。推定樹齢550年。
昔からこのいちょうの木を煎用すれば、母乳の少ない人に卓効があると伝え来られ、木を削りに取った跡が散見される。
天正の昔、三滝城主紀親安公が土佐長宗我部元親の軍勢に攻めたてられ、城中より討って出て、依岡左京、依岡三郎と戦って、武運拙く敗れ、この大いちょうの樹の下で自害し果てたと伝えられる。御年32歳、一朝の露と消えられたことにちなむ霊木として、今日まで里人の尊崇の篤い大樹である。
樹木の石碑いは
『蔭山の花は咲けとも 散りくちて 草の都の花さかり見む』
親安公の辞世の歌碑が建てられている。
親安の 最期を語る 大銀杏
(城川かるた)
西予市教育委員会”
西園寺15将
戦国期における当城主・紀親安は、黒瀬城(愛媛県西予市宇和町卯之町)で紹介したように、西園寺氏の連合組織武士団といわれた「西園寺15将」の1人とされている。この西園寺15将とは以下の面々である。
●所在地 愛媛県西予市城川町窪野
●別名 御岳城
●史跡 県指定史跡
●高さ 642m(比高258m)
●築城期 永享年間(1429~41)
●築城者 紀実次
●城主 紀氏
●遺構 郭・石垣・井戸等
●登城日 2014年1月28日
◆解説(参考文献『日本城郭体系第16巻』等)
前稿甲之森城(愛媛県西予市城川町土居)で少し紹介したように、紀氏後期の本拠城・三滝城を取り上げる。
【写真左】三滝城遠望
三滝城に向かう南側の道から見たもので、当城へは途中から左に分かれる枝線があり、三滝神社まで車で向かうことができる。
ちなみにこの道をさらに進み、大茅峠を越えると高知県高岡郡梼原町に至る。
三滝城へ向かう枝道は、本線に比べると林道のような状況で、枯れ枝や小さな落石が道に落ちており、注意が必要だ。
現地の説明板より
“県指定史跡・名勝
三滝城跡
三滝城は、標高642m、面積約100ヘクタール。紀親安、西園寺15将の中でも勇将といわれた北ノ川殿の居城で、要害堅固の場所にあって雄大である。
また麓には変わらぬ千古の流れ三滝川があって、溪谷には伝説を秘めた名瀑(滝)があり、幽谷としての景観は見事である。
【写真左】林道と三滝山(神社)方面との分岐点
右側の林道と分岐する地点で、この左隅に小さな「三滝城」の標識や、「三滝城址案内図」などが設置されている。
その辺りに立ちて、古城跡三滝山を遠望するとき、誰もが等しく400年の昔、城主親安公の善政や、公が天正11年、長宗我部の軍勢1万3千騎の攻撃による落城の悲運に遭い、万斛の涙のんで大銀杏の下で悲壮なる自決された事を偲ぶでしょう。
大銀杏と共に昭和28年3月、天然記念物に指定されたシルリア紀(ゴトランド石灰岩)、名瀑、古樹林、草苔、山と川とに誇りをもつ三滝城全域を県下初めての史跡名勝、二つ併せて天然記念物に指定された。毎年4月第3日曜日の三滝神社春季大祭城主護蔵王大権現)に八ツ鹿踊り(昭和49年国の無形文化財指定)が、公の遺徳を偲び奉納される。
世の栄枯盛衰も知らぬげに、世俗に超然たる自然の姿は幽遠そのものである。
西予市教育委員会”
【写真左】三滝城の大銀杏
急坂を道なりに進むと、最初に出迎えてくれるのが、この大銀杏である。
現地の説明板より
“県指定記念物(天然記念物)
三滝城の大いちょう
所在 西予市城川町窪野
指定 昭和26年11月27日
この樹は雌樹で、三滝城旧二の丸にあり、高さ40m、根まわり約8.6m、目通り約7.4m、枝張り半径約15m、地上8mにて、二大幹となっている。推定樹齢550年。
昔からこのいちょうの木を煎用すれば、母乳の少ない人に卓効があると伝え来られ、木を削りに取った跡が散見される。
天正の昔、三滝城主紀親安公が土佐長宗我部元親の軍勢に攻めたてられ、城中より討って出て、依岡左京、依岡三郎と戦って、武運拙く敗れ、この大いちょうの樹の下で自害し果てたと伝えられる。御年32歳、一朝の露と消えられたことにちなむ霊木として、今日まで里人の尊崇の篤い大樹である。
樹木の石碑いは
『蔭山の花は咲けとも 散りくちて 草の都の花さかり見む』
親安公の辞世の歌碑が建てられている。
親安の 最期を語る 大銀杏
(城川かるた)
西予市教育委員会”
西園寺15将
戦国期における当城主・紀親安は、黒瀬城(愛媛県西予市宇和町卯之町)で紹介したように、西園寺氏の連合組織武士団といわれた「西園寺15将」の1人とされている。この西園寺15将とは以下の面々である。
- 御庄殿 勧修寺兵庫守基詮 城辺本城(城辺)
- 津島殿 津島越前守通孝 高田釈ヶ森城(津島)
- 板島殿 西園寺中将宣久 板島丸串城(宇和島城)
- 河原淵殿 渡辺式部少輔教忠 河後森城(愛媛県北宇和郡松野町松丸)
- 北之川殿 紀式部卿親安 窪野三滝城(城川)
- 魚成殿 魚成豊後守通親 魚成村龍ヶ森城(城川)
- 野村殿 宇都宮左近尉乗綱 野村白木城(野村)
- 東多田殿 宇都宮石見守宣綱 東多田下木城(宇和)
- 南方殿 摂津豊後守実親 五反田元城(宇和)
- 萩森殿 宇都宮彦右衛門尉房綱 八幡浜萩之森城(八幡浜)(※)
- 法華津殿 法華津播磨守法延 法華津本城(吉田)
- 有馬殿 今城肥前守能親 戸雁金山城(三間)
- 土居殿 土居式部太夫清良 宮下大森城(三間)
- 深田殿 竹林院右衛門佐公明 是延一の森城(三間)
- 中野殿 河野新蔵人通賢 沢松高森城(三間)
【写真左】林庭院
大銀杏のある個所は平坦地となっているが、この反対側の所に鳥居があり、三滝神社の参道となっている。
その脇には紀親安の廟といわれる堂が建っている。
現地の説明板より
“市指定 有形文化財(建造物)
林庭院
所在地 西予市城川町窪野
指定 平成元年2月21日
三滝城主紀親安の廟
碑石にのちの庄屋、矢野惣左衛門景遠・同惣之蒸景長父子が願主となり、宝暦13年(1763)親安の命日に当たる正月13日追塔焉とあるから、親安没後180年後の建立となる。
建物は平成2年原型のままに再建されたが、その原型は明治24年(1891)の改築であったから、それまでにも幾度か改築があったものと思われる。
碑文正面中央が親安公の林庭院日殿蹄正春大居士であるが、その左頓秀山花大姉は、奥方の菊の方、その右月峯正詠上座は、長男正親を合祀したものといわれている。
西予市教育委員会”
さて、この15将は確かに頭に「西園寺氏」を冠しているが、これらのほとんどは西園寺氏から恩賞・恩給として所領を得たものでなく、それぞれの小地域に昔から代々継承されてきた国人領主であって、西園寺氏と強い主従関係を持つものではなかった。
このため、時には西園寺氏と敵対する場合もあり、そうした絶対的な関係を持たなかったことが後々まで同氏が隆盛を誇ることができなかった原因でもある。なお、(※)印で示した萩森殿は、大洲城(愛媛県大洲市大洲)主宇都宮氏の一族であり、その中に加えるべきでないとする説が有力といわれる。
【写真左】三滝神社鳥居
下の鳥居から参道を登っていくとこの神社前の鳥居に至るが、この日は車でここまで来た。
奥深く急峻な三滝山であるが、この境内付近はなだらかな平坦地があり、境内も広い。
夕方近くでもあったので、神社はあとで参拝することにして、すぐに三滝城へ向かう。
三滝城歴代城主・紀氏
説明板にもあるように、当城最後の城主親安は、天正11年長宗我部元親の攻略によって討死したとされる。
ここで改めて当城歴代城主を整理しておきたい。
ご覧のように、6代道安すなわち、4代実道の実弟のとき、湯築城(愛媛県松山市道後湯之町)主河野氏の娘を室に迎え、河野氏との連携を強めている。西園寺15将とされた時期はおそらくそのあとのことと思われ、9代に至っては、その名が示す通り、長宗我部元親のおそらく偏諱を受けたと思われる「親安」が、西園寺15将のまま、長宗我部氏に与したと思われる。
【写真左】「法経一字一石」の石碑
記録によれば、長宗我部氏と最も激しい戦いが行われたのが、三滝城の西側直下にあるこの平坦地付近であったといわれている。
一字一石とは、供養を目的として経文を一個の小石に刻んで埋納する意味だが、この石碑でまとめて供養したものだろう。
ここを過ぎると、いよいよ三滝城の城域に入る。
上掲したように、親安は元親の妹婿であった土佐国の波川玄蕃城(高知県吾川郡いの町波川)の波川清宗(玄蕃)の息女を妾としていた。清宗はその後元親に対し、天正7年(1579)謀反を企て、露見後自害することになる。
親安は清宗の息女を妾としていたということから、元親は清宗とおなじく気脈を通じており、謀叛の疑いありとして、部下の久武内蔵助・桑名太郎左衛門に命じて、三滝城を攻撃させた。この時期については、現地の説明板では天正11年とされているが、史料によってはこの前後に数回行われたとされている。
【写真左】登城道
三滝神社から三滝城へ向かう道は、最初尾根伝いを進むが、途中から南側の斜面を使って伸びている。
登城道としては幅が広く、歩きやすいほうだ。
【写真左】三の丸から二の丸・本丸方面を見る。
登城道が取付いているのが、三の丸の南側になる。
三滝城の規模は、東西250m×南北60mの細長い形態を持つ。
この三の丸は二の丸と3mの比高差を持ち、東西35m×南北40mの半円形である。なお、この位置に井戸跡があるということだが、ほとんど埋まっていて確認できない。
【写真左】三滝城の石碑
昭和43年の建立らしい。
右隣りには、「金五百年」と刻銘された石碑がある。この石碑だけでも時代を感じる。
【写真左】二の丸・本丸を見る。
手前が二の丸で、その奥に少し段を設けて本丸が控える。
【写真左】二の丸から本丸を見る。
二の丸と本丸には比高1m程度の段がある。
二の丸と本丸の規模はほぼ同じ大きさで、東西50m前後×南北20mぐらいか。
【写真左】本丸北側斜面
本丸が三滝山頂部に当たり、北・東・南の三面とも切崖状となっている。
【写真左】本丸東端部から二の丸方面を振り返る。
長径100m以上であるが、現地に立つとその長さはさらに奥深く感じる。
【写真左】腰郭
三の丸の下(比高10m前後)にあるもので、「く」の字状に三の丸を囲む形で構成されている。
なお、さらにこの下に3段の腰郭が連続し、西麓の古戦場跡とされる「法経一字一石」の石碑
に繋がる。
また、写真にはないが、三の丸の南側には東西20m×5m前後の帯郭が付随している。
【写真左】三滝神社・その1
【写真左】三滝神社・その2
本殿はご覧のようにさらに屋根を設けて保護している。
おそらくこのあたりは四国といえども積雪が多いのだろう。
【写真左】三滝溪谷自然公園の案内板
三滝城の麓には溪谷の自然を楽しむための施設が点在している。
この図には、右側に「窪野八つ鹿踊り」(国選択無形民俗文化財)の絵が描かれている。
この踊りは、冒頭でも紹介した最後の城主紀親安公の遺徳を偲び行われてきたもので、毎年4月奉納される。
参考までに、YouTubeでも紹介されているのでご覧いただきたい。
【写真左】三滝溪谷自然公園の駐車場から三滝城を遠望する。
ちなみに、この場所から登山コースとして三滝城までの歩道が整備されている。
大銀杏のある個所は平坦地となっているが、この反対側の所に鳥居があり、三滝神社の参道となっている。
その脇には紀親安の廟といわれる堂が建っている。
現地の説明板より
“市指定 有形文化財(建造物)
林庭院
所在地 西予市城川町窪野
指定 平成元年2月21日
三滝城主紀親安の廟
碑石にのちの庄屋、矢野惣左衛門景遠・同惣之蒸景長父子が願主となり、宝暦13年(1763)親安の命日に当たる正月13日追塔焉とあるから、親安没後180年後の建立となる。
建物は平成2年原型のままに再建されたが、その原型は明治24年(1891)の改築であったから、それまでにも幾度か改築があったものと思われる。
碑文正面中央が親安公の林庭院日殿蹄正春大居士であるが、その左頓秀山花大姉は、奥方の菊の方、その右月峯正詠上座は、長男正親を合祀したものといわれている。
西予市教育委員会”
さて、この15将は確かに頭に「西園寺氏」を冠しているが、これらのほとんどは西園寺氏から恩賞・恩給として所領を得たものでなく、それぞれの小地域に昔から代々継承されてきた国人領主であって、西園寺氏と強い主従関係を持つものではなかった。
このため、時には西園寺氏と敵対する場合もあり、そうした絶対的な関係を持たなかったことが後々まで同氏が隆盛を誇ることができなかった原因でもある。なお、(※)印で示した萩森殿は、大洲城(愛媛県大洲市大洲)主宇都宮氏の一族であり、その中に加えるべきでないとする説が有力といわれる。
【写真左】三滝神社鳥居
下の鳥居から参道を登っていくとこの神社前の鳥居に至るが、この日は車でここまで来た。
奥深く急峻な三滝山であるが、この境内付近はなだらかな平坦地があり、境内も広い。
夕方近くでもあったので、神社はあとで参拝することにして、すぐに三滝城へ向かう。
三滝城歴代城主・紀氏
説明板にもあるように、当城最後の城主親安は、天正11年長宗我部元親の攻略によって討死したとされる。
ここで改めて当城歴代城主を整理しておきたい。
- 初代 実定(甲之森城主)
1. 実平 甲之森城在城中に三滝城へ移城する計画を立てる(縄張り開始)。
2.
実次 実平の跡を継ぎ築城施工(永享年間 1429~41年)
3.
実正
4.
実道
5.
実勝 ⇒ 早逝
6.
道安(実道弟) 室 湯築城主河野氏女
7.
通安
8.
経安 大永年間(1521~28)に北ノ川庄を土居村と窪野村の二つに改める。
9.
親安 長宗我部元親の妹婿波川玄蕃の息女を妾
ご覧のように、6代道安すなわち、4代実道の実弟のとき、湯築城(愛媛県松山市道後湯之町)主河野氏の娘を室に迎え、河野氏との連携を強めている。西園寺15将とされた時期はおそらくそのあとのことと思われ、9代に至っては、その名が示す通り、長宗我部元親のおそらく偏諱を受けたと思われる「親安」が、西園寺15将のまま、長宗我部氏に与したと思われる。
【写真左】「法経一字一石」の石碑
記録によれば、長宗我部氏と最も激しい戦いが行われたのが、三滝城の西側直下にあるこの平坦地付近であったといわれている。
一字一石とは、供養を目的として経文を一個の小石に刻んで埋納する意味だが、この石碑でまとめて供養したものだろう。
ここを過ぎると、いよいよ三滝城の城域に入る。
上掲したように、親安は元親の妹婿であった土佐国の波川玄蕃城(高知県吾川郡いの町波川)の波川清宗(玄蕃)の息女を妾としていた。清宗はその後元親に対し、天正7年(1579)謀反を企て、露見後自害することになる。
親安は清宗の息女を妾としていたということから、元親は清宗とおなじく気脈を通じており、謀叛の疑いありとして、部下の久武内蔵助・桑名太郎左衛門に命じて、三滝城を攻撃させた。この時期については、現地の説明板では天正11年とされているが、史料によってはこの前後に数回行われたとされている。
【写真左】登城道
三滝神社から三滝城へ向かう道は、最初尾根伝いを進むが、途中から南側の斜面を使って伸びている。
登城道としては幅が広く、歩きやすいほうだ。
【写真左】三の丸から二の丸・本丸方面を見る。
登城道が取付いているのが、三の丸の南側になる。
三滝城の規模は、東西250m×南北60mの細長い形態を持つ。
この三の丸は二の丸と3mの比高差を持ち、東西35m×南北40mの半円形である。なお、この位置に井戸跡があるということだが、ほとんど埋まっていて確認できない。
【写真左】三滝城の石碑
昭和43年の建立らしい。
右隣りには、「金五百年」と刻銘された石碑がある。この石碑だけでも時代を感じる。
【写真左】二の丸・本丸を見る。
手前が二の丸で、その奥に少し段を設けて本丸が控える。
【写真左】二の丸から本丸を見る。
二の丸と本丸には比高1m程度の段がある。
二の丸と本丸の規模はほぼ同じ大きさで、東西50m前後×南北20mぐらいか。
【写真左】本丸北側斜面
本丸が三滝山頂部に当たり、北・東・南の三面とも切崖状となっている。
【写真左】本丸東端部から二の丸方面を振り返る。
長径100m以上であるが、現地に立つとその長さはさらに奥深く感じる。
【写真左】腰郭
三の丸の下(比高10m前後)にあるもので、「く」の字状に三の丸を囲む形で構成されている。
なお、さらにこの下に3段の腰郭が連続し、西麓の古戦場跡とされる「法経一字一石」の石碑
に繋がる。
また、写真にはないが、三の丸の南側には東西20m×5m前後の帯郭が付随している。
【写真左】三滝神社・その1
【写真左】三滝神社・その2
本殿はご覧のようにさらに屋根を設けて保護している。
おそらくこのあたりは四国といえども積雪が多いのだろう。
【写真左】三滝溪谷自然公園の案内板
三滝城の麓には溪谷の自然を楽しむための施設が点在している。
この図には、右側に「窪野八つ鹿踊り」(国選択無形民俗文化財)の絵が描かれている。
この踊りは、冒頭でも紹介した最後の城主紀親安公の遺徳を偲び行われてきたもので、毎年4月奉納される。
参考までに、YouTubeでも紹介されているのでご覧いただきたい。
【写真左】三滝溪谷自然公園の駐車場から三滝城を遠望する。
ちなみに、この場所から登山コースとして三滝城までの歩道が整備されている。
故郷の砦跡楽しく拝見、ただ故郷の蜂が森城跡の位置が違うように思われます。
返信削除蜂が城跡は、私が教わったのは、成穂地区と男河内地区、関が平の境界線の上にあり、下を見下ろすと国道197号三浦工機がすべてが見渡せる位置に存在していたと聞いております。
また、長宗我部氏が攻めてきたとき、長宗我部氏が砦に潜伏させた腰元が、向かいの(通称トウミが岩)より長宗我部の指示により狼煙を上げると腰元が一斉に火を放ち周りの三滝城を含む八か所の城が焼け落ちたと聞いております。