乙子城(おとごじょう)
●所在地 岡山県岡山市乙子●築城期 天文13年(1544)
●築城者 宇喜多直家
●城主 宇喜多直家・忠家
●形態 平城(海城か)
●高さ 標高・比高47.8m
●遺構 郭・土塁等
●登城日 2011年10月9日及び、2013年2月23日
◆解説(参考文献『日本城郭体系第13巻』等)
乙子城は、岡山市の東部を流れる吉井川河口に突出した丘陵地に築かれた小規模な平城で、天文13年当時若干16歳だった宇喜多直家が築いたものである。
【写真左】乙子城遠望・その1
児島湾航行の岡山~土庄(小豆島)フェリー船上から遠望する。
【写真左】乙子城周辺図
現地の説明板にあるもので、乙子城は中央部に図示されている。
当時は現在の児島湾の南北幅が約3倍の距離を持ち、沖新田や幸島新田なども広大な児島の海となっていた。
現地の説明板より
“乙子城
宇喜多直家が乙子山に構えた連郭式の小型山城。後に備前・美作一帯を統一した直家の最初の居城で、「国とり」はじまりの地といえる。
乙子城は、当時の吉井川河口付近に位置し、邑久郡の穀倉地帯である千町平野の南側を画する山々の西端にある乙子山山頂にあった。北には西大寺の門前町など上道郡南東部を望み、また、南から西に拡がる児島湾を隔てて、児島郡の山々を遠望できた。かつての児島湾は広大で、後の新田開発によりその大半が干拓され、幸島新田、沖新田などの美田にかえられた。
【写真左】乙子城・その2
東方から見たもので、手前の川は千町川の支流。
乙子城の後に見えるのは吉井川
戦国時代後期に天神山城(佐伯町田土)を根拠地に備前国東半を支配した浦上宗景は、上道郡を領する松田氏、児島郡を領する細川氏、さらには、瀬戸内海の海賊からの攻撃を防ぐため、天文13年(1544)、領地南西端に乙子城を築き、知行三百貫、足軽30人をつけて直家に守らせた。
邑久郡乙子城古図によると、城は本丸(頂上)と二の丸(乙子大明神境内)を構え、腰曲輪、出曲輪が配されている。
曲輪は、ともに土段築成で、高石垣は認められない。本丸には当時の土塁の痕跡が見られる。”
【写真左】登城口
登城口は、西側と東側の2か所が設けられている。
この日は吉井川と千町川の合流部である西側から向かった。写真にある鳥居は中腹に祀られている大国主神神社のもの。
阿部善定
宇喜多八郎すなわち後の直家が父興家とともに、砥石城(岡山県瀬戸内市邑久町豊原)を追われたのち、二人を匿っていたのが備前福岡の市の豪商阿部善定である。砥石城で自刃した祖父能家とは旧知の間柄で、生前能家から宇喜多家に変事が起きたら、合力せよとの命を受けていた。
【写真左】大国主神神社
途中に当該神社が祀られている。
前々稿でも述べたように、最初に逃げ込んだ場所が鞆の浦であるが、この地は善定が廻船業を営んでいた本拠地でもあり、宇喜多父子は彼の庇護の下でしばらく暮すことになる。
鞆の浦において八郎(直家)が目にしたものは、逞しい海の男たちの生き様であり、時には海賊衆とも渡り合うという荒々しい世界でもあった。こうした経験は後に戦国武将の中でも特筆された梟雄の一人としてなる基礎ともなった。
【写真左】本丸付近
比高50m弱であるため、すぐに本丸頂部にたどり着く。15m~20m四方の本丸周辺部には、東に向かって3,4段の腰郭があり、東に向かって尾根筋と思われる箇所に連郭が伸びている。
善定は単に宇喜多父子の庇護だけではなく、同家の再興を支援したのち、さらなる商いの拡大をももくろんでいた。
当時備前国は浦上氏が勢威をもっていたため、戦となればすぐさま軍資金を調達し、武器・具足なども廻船業の強みで瀬戸内を使って東西を往来し、さらには金貸しも行うといった今でいえば総合商社のような商いをしていた。
このうち、地元で有名な備前刀である長船刀剣は、鎌倉期から既に製造され、戦国期には「束刀」として大量生産体制が敷かれていたので、善定はこれらを大量に扱っていたものと思われる。
【写真左】南端部の郭から吉井川河口を見る。
小規模ながら南側は天険の切崖となっているが、その先端部からは千町川支流と吉井川の合流部が見え、さらにその先には児島湾が望める。
さて、善定に匿われていた宇喜多父子のうち、父興家はその後天文9年(1540)に病没している。その間、正妻とは別に興家は善定の娘との間に二人の男子をもうけていた。
興家の法名は露月光珍居士とされ、亡骸は吉井川を少しさかのぼった教意山妙興寺(長船町)に葬られた。そのあと、興家の正妻は一人離れて、天神山城の奥向き、すなわち宇喜多氏の主君である浦上氏に仕えることになる。これは母として宇喜多家再興を果たすため、浦上氏に懇請するためでもあった。
【写真左】宇喜多興家の墓
興家の墓がある妙興寺は、乙子城から吉井川を少しさかのぼった長船町にある。なお、興家の死亡時期については、天文9年の他に、天文5年(1536)の二説がある。
一方当時12歳だった八郎は、現在の邑久町下笠加の大楽院という尼寺に預けられた。この大楽院の庵主は八郎の伯母であった。
直家乙子城に入る
それから3年の歳月が流れ、母の努力が報われ、晴れて和気の天神山城に赴くことになった。主君浦上宗景に対面した八郎は、その後小姓として仕え、宗景に気に入られるようになった。天文12年(1543)8月のことである。
【写真左】天神山城遠望
天神山城(岡山県和気郡和気町田土)その1参照。
そして早くもその年の暮れ、播磨・置塩城の備前守護職であった赤松晴政が東備前に進攻すると、初陣の八郎は宗景に従い、敵方の冑首を討ち取った。
翌天文13年、八郎は元服し宇喜多三郎左衛門直家と名を改め、小規模ながら乙子の城を預けられた。石高300貫であった。
【写真左】本丸から東方に二の丸跡を見る。
本丸から東に向かうと次第に下っていき、二の丸方面に繋がる。ただ、現在はこの箇所は大きく改変され、墓地が建っている。
墓地の先には二の丸跡といわれている乙子大明神境内がある。
【写真左】謎の石碑
本丸から東に延びる数段の郭跡には現在墓地が建ち、その一角には「岡崎家奥津城之跡」と刻銘された石碑がある。
寡聞にしてついこの間まで、この語句の意味を知らなかったが、奥津城とは、山城の意味でなく、別名「奥都城(おくつき)」といい、神道系の墓とのこと。地図を見ていると、全国に「奥津城」という文字が点在している。
尼子氏美作へ進攻
天文13年(1544)12月8日、出雲の尼子晴久は田口志右衛門に対し美作国北高田荘を安堵した(『美作古簡集』)。出雲尼子氏が美作へ進攻したのは、永正17年(1520)頃が初期とされ、これと競合するするように、播磨の赤松氏及び、備前の浦上氏(村宗)が美作国へ動きを見せている。最終的にはこれら三氏のうち、尼子氏が美作西部を中心に支配をおさめ、天文17年(1548)の尼子氏重鎮宇山氏による岩屋城攻めが最も大きな戦果となった。
当然この間、備前国でもこの動きはすぐさま知らされることになる。この年(天文13年)11月、当時浦上宗景の属将であった美作国英田郡妙見村の三星城主・後藤勝基からの急報が天神山城へもたらされた。
【写真左】三星城
「尼子国久が出雲より兵を出し、作州へ近日発向の由とのこと。なにとぞ急ぎ御加勢を願い賜りたく存じます」
尼子国久、すなわち尼子氏の中でも最強の軍団であった新宮党(新宮党館(島根県安来市広瀬町広瀬新宮)参照)の頭領である。
【写真左】乙子大明神・その1
乙子城の東端部にあたり、現在ご覧の社が建つ。
本丸はこの写真では左側になる。
宗景は尼子が美作の三星城を落とせば、次には南下し備前に入ってくることを予知した。直ちに麾下諸将に陣触れを発し、作州へ発向する段取りを整えた。ところが、この頃播磨に忍び込ませていた宗景の冠者から、
「浦上氏が美作へ向かえば、播磨から赤松晴政がその隙に、天神山城を奪取する動きがあります」
という報がもたらされた。
このため、宗景は一旦自らの作州支援を取りやめ、三石城(岡山県備前市三石)には百々田(どどた)豊前に守備させた。
【写真左】乙子大明神・その2
おそらく、直家を祀るためや、船の航海安全を祈願したものだろう。
浦上氏の支援がないことを知った尼子国久は、大軍を率いて作州へ入った。勝山の美作・高田城(岡山県真庭市勝山)、久世の笹向城(岡山県真庭市三崎)、鏡野の小田草城(岡山県苫田郡鏡野町馬場)、滝尾の美作・医王山城(岡山県津山市吉見) など主だった諸城は次々と落ち、浦上氏の属将であった小瀬・今村・竹内・江原・大河原・草刈・市・玉串・芦田・牧・三浦・福田などといった小国人領主は尼子の軍門に降った。
しかし、備前国の北の入口にあたる三星城の後藤勝基は、孤軍奮闘し尼子の侵攻をここで食い止めた。一方、東方から攻め入った播磨の赤松勢は、三石城の百々田豊前の前に撃退され、事なきを得た。
直家の砥石城攻め
だが、出雲の尼子による美作攻めや、東方播磨からの赤松氏による侵略、さらには虎視眈々と備前攻めを目論む毛利氏の支援を受けた備中の三村氏など、浦上氏を中心とした直家の足場は不安を一層増幅させた。
【写真左】東方に砥石城方面を見る。
乙子城の東にある神崎緑地公園の高台から見たもので、中央の千町川を登っていくと、高取山城や、砥石城に繋がる。
おそらく戦国期には千町川はもう少し川幅の広い状態であったと思われ、陸上戦と、船戦が混在したものだったのだろう。
こうした中、天神山城の宗景から直家に急報が告げられた。それは、砥石城主・浮田大和守国定が、備中の三村家親と内通し、宗景に謀叛を企てるというものだった。
砥石城の浮田大和守は、直家の祖父能家の異母弟である。大和守も能家と同じく武勇に優れており、彼が謀反を起こせば、浮足立っていた備前の主だった地侍が動揺し、備前国内での版図が大きく変わる可能性が出てくる。
直家の居城である乙子城と、大和守の砥石城とは千町川を介して僅か5キロの距離である。砥石城攻めを始めた直家ではあったが、この戦いは以後3年間にもわたった。この間、大和守も乙子城を再々攻めたが、直家の方も宗景から送られた援軍を得ていたため、落ちることはなかった。
しかし、天文18年(1549)正月、直家の計画的な拙攻に油断した大和守は、砥石城での祝賀の宴を設けていた。家臣も含め酒に酔っていた砥石城の面々は、突如として直家及び援軍の天神山城の軍の乱入に慌てふためいた。大和守は薙刀を振りかざし、奮闘したがあえなく打ち果てた。
【写真左】再び登城口付近に戻る。
写真の最高所が本丸跡になる。
こうして、直家は祖父の居城であった砥石城を陥落させた。当然ながら、宗景は恩賞として当城を直家に与えようとした。しかし、直家はこの賞賜(しょうし)を辞退した。
なぜなら、砥石城の西方には、祖父能家を謀殺した宿敵島村観阿弥の居城高取山城があったからである。砥石城に入れば、指呼の間にある高取山城の観阿弥の存在は直家にとっては最も警戒すべき相手となる。
【写真左】新庄山城から乙子城を遠望する。
新庄山城の出丸と思われる現在の高尾山から見たもので、視界のいい時ならさらに鮮明に見えると思われる。
このため、直家は吉井川を挟んだ北西の奈良部にある新庄山城(岡山県岡山市竹原)に入り、乙子城は異母弟忠家に譲った。
●築城者 宇喜多直家
●城主 宇喜多直家・忠家
●形態 平城(海城か)
●高さ 標高・比高47.8m
●遺構 郭・土塁等
●登城日 2011年10月9日及び、2013年2月23日
◆解説(参考文献『日本城郭体系第13巻』等)
乙子城は、岡山市の東部を流れる吉井川河口に突出した丘陵地に築かれた小規模な平城で、天文13年当時若干16歳だった宇喜多直家が築いたものである。
【写真左】乙子城遠望・その1
児島湾航行の岡山~土庄(小豆島)フェリー船上から遠望する。
【写真左】乙子城周辺図
現地の説明板にあるもので、乙子城は中央部に図示されている。
当時は現在の児島湾の南北幅が約3倍の距離を持ち、沖新田や幸島新田なども広大な児島の海となっていた。
現地の説明板より
“乙子城
宇喜多直家が乙子山に構えた連郭式の小型山城。後に備前・美作一帯を統一した直家の最初の居城で、「国とり」はじまりの地といえる。
乙子城は、当時の吉井川河口付近に位置し、邑久郡の穀倉地帯である千町平野の南側を画する山々の西端にある乙子山山頂にあった。北には西大寺の門前町など上道郡南東部を望み、また、南から西に拡がる児島湾を隔てて、児島郡の山々を遠望できた。かつての児島湾は広大で、後の新田開発によりその大半が干拓され、幸島新田、沖新田などの美田にかえられた。
【写真左】乙子城・その2
東方から見たもので、手前の川は千町川の支流。
乙子城の後に見えるのは吉井川
戦国時代後期に天神山城(佐伯町田土)を根拠地に備前国東半を支配した浦上宗景は、上道郡を領する松田氏、児島郡を領する細川氏、さらには、瀬戸内海の海賊からの攻撃を防ぐため、天文13年(1544)、領地南西端に乙子城を築き、知行三百貫、足軽30人をつけて直家に守らせた。
邑久郡乙子城古図によると、城は本丸(頂上)と二の丸(乙子大明神境内)を構え、腰曲輪、出曲輪が配されている。
曲輪は、ともに土段築成で、高石垣は認められない。本丸には当時の土塁の痕跡が見られる。”
【写真左】登城口
登城口は、西側と東側の2か所が設けられている。
この日は吉井川と千町川の合流部である西側から向かった。写真にある鳥居は中腹に祀られている大国主神神社のもの。
阿部善定
宇喜多八郎すなわち後の直家が父興家とともに、砥石城(岡山県瀬戸内市邑久町豊原)を追われたのち、二人を匿っていたのが備前福岡の市の豪商阿部善定である。砥石城で自刃した祖父能家とは旧知の間柄で、生前能家から宇喜多家に変事が起きたら、合力せよとの命を受けていた。
【写真左】大国主神神社
途中に当該神社が祀られている。
前々稿でも述べたように、最初に逃げ込んだ場所が鞆の浦であるが、この地は善定が廻船業を営んでいた本拠地でもあり、宇喜多父子は彼の庇護の下でしばらく暮すことになる。
鞆の浦において八郎(直家)が目にしたものは、逞しい海の男たちの生き様であり、時には海賊衆とも渡り合うという荒々しい世界でもあった。こうした経験は後に戦国武将の中でも特筆された梟雄の一人としてなる基礎ともなった。
【写真左】本丸付近
比高50m弱であるため、すぐに本丸頂部にたどり着く。15m~20m四方の本丸周辺部には、東に向かって3,4段の腰郭があり、東に向かって尾根筋と思われる箇所に連郭が伸びている。
善定は単に宇喜多父子の庇護だけではなく、同家の再興を支援したのち、さらなる商いの拡大をももくろんでいた。
当時備前国は浦上氏が勢威をもっていたため、戦となればすぐさま軍資金を調達し、武器・具足なども廻船業の強みで瀬戸内を使って東西を往来し、さらには金貸しも行うといった今でいえば総合商社のような商いをしていた。
このうち、地元で有名な備前刀である長船刀剣は、鎌倉期から既に製造され、戦国期には「束刀」として大量生産体制が敷かれていたので、善定はこれらを大量に扱っていたものと思われる。
【写真左】南端部の郭から吉井川河口を見る。
小規模ながら南側は天険の切崖となっているが、その先端部からは千町川支流と吉井川の合流部が見え、さらにその先には児島湾が望める。
さて、善定に匿われていた宇喜多父子のうち、父興家はその後天文9年(1540)に病没している。その間、正妻とは別に興家は善定の娘との間に二人の男子をもうけていた。
興家の法名は露月光珍居士とされ、亡骸は吉井川を少しさかのぼった教意山妙興寺(長船町)に葬られた。そのあと、興家の正妻は一人離れて、天神山城の奥向き、すなわち宇喜多氏の主君である浦上氏に仕えることになる。これは母として宇喜多家再興を果たすため、浦上氏に懇請するためでもあった。
【写真左】宇喜多興家の墓
興家の墓がある妙興寺は、乙子城から吉井川を少しさかのぼった長船町にある。なお、興家の死亡時期については、天文9年の他に、天文5年(1536)の二説がある。
一方当時12歳だった八郎は、現在の邑久町下笠加の大楽院という尼寺に預けられた。この大楽院の庵主は八郎の伯母であった。
直家乙子城に入る
それから3年の歳月が流れ、母の努力が報われ、晴れて和気の天神山城に赴くことになった。主君浦上宗景に対面した八郎は、その後小姓として仕え、宗景に気に入られるようになった。天文12年(1543)8月のことである。
【写真左】天神山城遠望
天神山城(岡山県和気郡和気町田土)その1参照。
そして早くもその年の暮れ、播磨・置塩城の備前守護職であった赤松晴政が東備前に進攻すると、初陣の八郎は宗景に従い、敵方の冑首を討ち取った。
翌天文13年、八郎は元服し宇喜多三郎左衛門直家と名を改め、小規模ながら乙子の城を預けられた。石高300貫であった。
【写真左】本丸から東方に二の丸跡を見る。
本丸から東に向かうと次第に下っていき、二の丸方面に繋がる。ただ、現在はこの箇所は大きく改変され、墓地が建っている。
墓地の先には二の丸跡といわれている乙子大明神境内がある。
【写真左】謎の石碑
本丸から東に延びる数段の郭跡には現在墓地が建ち、その一角には「岡崎家奥津城之跡」と刻銘された石碑がある。
寡聞にしてついこの間まで、この語句の意味を知らなかったが、奥津城とは、山城の意味でなく、別名「奥都城(おくつき)」といい、神道系の墓とのこと。地図を見ていると、全国に「奥津城」という文字が点在している。
尼子氏美作へ進攻
天文13年(1544)12月8日、出雲の尼子晴久は田口志右衛門に対し美作国北高田荘を安堵した(『美作古簡集』)。出雲尼子氏が美作へ進攻したのは、永正17年(1520)頃が初期とされ、これと競合するするように、播磨の赤松氏及び、備前の浦上氏(村宗)が美作国へ動きを見せている。最終的にはこれら三氏のうち、尼子氏が美作西部を中心に支配をおさめ、天文17年(1548)の尼子氏重鎮宇山氏による岩屋城攻めが最も大きな戦果となった。
当然この間、備前国でもこの動きはすぐさま知らされることになる。この年(天文13年)11月、当時浦上宗景の属将であった美作国英田郡妙見村の三星城主・後藤勝基からの急報が天神山城へもたらされた。
【写真左】三星城
「尼子国久が出雲より兵を出し、作州へ近日発向の由とのこと。なにとぞ急ぎ御加勢を願い賜りたく存じます」
尼子国久、すなわち尼子氏の中でも最強の軍団であった新宮党(新宮党館(島根県安来市広瀬町広瀬新宮)参照)の頭領である。
【写真左】乙子大明神・その1
乙子城の東端部にあたり、現在ご覧の社が建つ。
本丸はこの写真では左側になる。
宗景は尼子が美作の三星城を落とせば、次には南下し備前に入ってくることを予知した。直ちに麾下諸将に陣触れを発し、作州へ発向する段取りを整えた。ところが、この頃播磨に忍び込ませていた宗景の冠者から、
「浦上氏が美作へ向かえば、播磨から赤松晴政がその隙に、天神山城を奪取する動きがあります」
という報がもたらされた。
このため、宗景は一旦自らの作州支援を取りやめ、三石城(岡山県備前市三石)には百々田(どどた)豊前に守備させた。
【写真左】乙子大明神・その2
おそらく、直家を祀るためや、船の航海安全を祈願したものだろう。
浦上氏の支援がないことを知った尼子国久は、大軍を率いて作州へ入った。勝山の美作・高田城(岡山県真庭市勝山)、久世の笹向城(岡山県真庭市三崎)、鏡野の小田草城(岡山県苫田郡鏡野町馬場)、滝尾の美作・医王山城(岡山県津山市吉見) など主だった諸城は次々と落ち、浦上氏の属将であった小瀬・今村・竹内・江原・大河原・草刈・市・玉串・芦田・牧・三浦・福田などといった小国人領主は尼子の軍門に降った。
しかし、備前国の北の入口にあたる三星城の後藤勝基は、孤軍奮闘し尼子の侵攻をここで食い止めた。一方、東方から攻め入った播磨の赤松勢は、三石城の百々田豊前の前に撃退され、事なきを得た。
直家の砥石城攻め
だが、出雲の尼子による美作攻めや、東方播磨からの赤松氏による侵略、さらには虎視眈々と備前攻めを目論む毛利氏の支援を受けた備中の三村氏など、浦上氏を中心とした直家の足場は不安を一層増幅させた。
【写真左】東方に砥石城方面を見る。
乙子城の東にある神崎緑地公園の高台から見たもので、中央の千町川を登っていくと、高取山城や、砥石城に繋がる。
おそらく戦国期には千町川はもう少し川幅の広い状態であったと思われ、陸上戦と、船戦が混在したものだったのだろう。
こうした中、天神山城の宗景から直家に急報が告げられた。それは、砥石城主・浮田大和守国定が、備中の三村家親と内通し、宗景に謀叛を企てるというものだった。
砥石城の浮田大和守は、直家の祖父能家の異母弟である。大和守も能家と同じく武勇に優れており、彼が謀反を起こせば、浮足立っていた備前の主だった地侍が動揺し、備前国内での版図が大きく変わる可能性が出てくる。
直家の居城である乙子城と、大和守の砥石城とは千町川を介して僅か5キロの距離である。砥石城攻めを始めた直家ではあったが、この戦いは以後3年間にもわたった。この間、大和守も乙子城を再々攻めたが、直家の方も宗景から送られた援軍を得ていたため、落ちることはなかった。
しかし、天文18年(1549)正月、直家の計画的な拙攻に油断した大和守は、砥石城での祝賀の宴を設けていた。家臣も含め酒に酔っていた砥石城の面々は、突如として直家及び援軍の天神山城の軍の乱入に慌てふためいた。大和守は薙刀を振りかざし、奮闘したがあえなく打ち果てた。
【写真左】再び登城口付近に戻る。
写真の最高所が本丸跡になる。
こうして、直家は祖父の居城であった砥石城を陥落させた。当然ながら、宗景は恩賞として当城を直家に与えようとした。しかし、直家はこの賞賜(しょうし)を辞退した。
なぜなら、砥石城の西方には、祖父能家を謀殺した宿敵島村観阿弥の居城高取山城があったからである。砥石城に入れば、指呼の間にある高取山城の観阿弥の存在は直家にとっては最も警戒すべき相手となる。
【写真左】新庄山城から乙子城を遠望する。
新庄山城の出丸と思われる現在の高尾山から見たもので、視界のいい時ならさらに鮮明に見えると思われる。
このため、直家は吉井川を挟んだ北西の奈良部にある新庄山城(岡山県岡山市竹原)に入り、乙子城は異母弟忠家に譲った。
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