男坂城(おさかじょう)
●所在地 兵庫県養父市大屋町宮垣天満山
●築城期 不明
●築城者 不明(八木氏か)
●城主 不明
●高さ 標高120m(比高30m)
●遺構 郭・堀切
●形態 丘城
●備考 武内男坂神社
●登城日 2012年10月13日
◆解説
今稿も前稿に引き続き養父市大屋町にある丘城・男坂城を取り上げる。
【写真左】男坂城本丸跡
本丸跡には現在男坂神社の本殿が祀られている。
所在地は、大屋・城山城(兵庫県養父市大屋町夏梅・加保)よりさらに大屋川を下った宮垣という地区にあり、北方の山陰道(R9)より琴引峠を越えて大屋川に至る宮垣八木線(272号線)が交わる個所にある。
現在、この宮垣八木線は、琴引トンネルが開通したことにより、数分で往来することができる。
ところで、この宮垣八木線が北方の山陰道(R9)と合流する剣大橋の真北に聳える山には、国指定の八木城(兵庫県養父市八鹿町下八木)及び八木・土城(兵庫県養父市八鹿町下八木)がある。
【写真左】当社の石碑
参道は西側にあり、「式内男坂神社」と刻銘されている。
なお、ここまで車で上ってきたが、とても狭い道と駐車スペースのため、Uターンが出来なくなり、地元の青年にお手伝いしていただいた。名前を聞くのを忘れたが、改めてお礼申し上げる。
駐車場は後でわかったが、南東の団地側からしっかりした道と場所が確保されていた。
さて、当城の男坂城についてだが、名前からしてなかなか勇壮なネーミングであるが、読みは「おとこさか」ではなく、「おさか」という。
現地の説明板より
“兵庫県指定文化財 男坂神社のシラカシ林
指定年月日 昭和61年3月25日
所在地 養父市大屋町宮垣天満山196番地
男坂神社は、宮垣の約80戸が守る大きな神社です。
平安時代には神社名が知られる式内社で、天満山と呼ばれる小高い丘陵の頂上に本殿があります。
神社の境内には、高木層ではシラカシ、カゴノキが優勢で、それにホウノキ、ムクノキ、エゾエノキ、エゴノキなどの落葉樹が混成しています。蛇紋岩地帯に多いヤマカシウも生育して植物相も豊富です。
境内には幹廻りが150cmをこえるシラカシ、カゴノキが約20本も生えています。本殿を含めた6625㎡の範囲が、県指定の天然記念物です。杉の植林などで失われた但馬の里山の原形が残る貴重な森です。
【写真左】一番下の郭跡
参道の右(南)側にあるもので、縦横20m前後と広い。
【写真左】次の郭に向かう。
先ほどの郭段から上に向かう階段は傾斜もあり、しかも高低差がかなりある。
丘城であるが、当時はこの箇所はかなりの切崖であったと思われる。
また、男坂城跡と呼ばれる山城もあります。本殿のある場所が本丸にあたる主郭です。そこから、下の広場まで続く2段の平坦地が城跡の曲輪です。そして城の西側は堀切で守られています。宮垣区には男坂城と三方城の2城があり、大屋の入口を防御しています。
県指定文化財のシラカシ林、天正5年の但馬攻めに備えた男坂城跡、菅原道真公もお祀りする男坂神社がある天満山の森は、様々な自然と歴史を伝えています。
平成17年3月15日
大屋町宮垣区・養父市教育委員会”
【写真左】帯郭
上記の階段途中から見たもので、改変されているため詳細は不明だが、主郭を中心にほぼ全周囲にわたって2,3段の細い郭が取り巻いていたと思われる。
【写真左】主郭(本丸)跡
現在祀られている本殿の位置が主郭跡で、20m四方規模のものとなっている。
八木城と三方城
ところで、この男坂城から大屋川を挟んで南岸に聳える山には三方城がある。この城と、上述した八木城について中世の悲話が残っている。
【写真左】三方城遠望
男坂城(神社)から見たもので、左下の橋は大屋川が流れる。
なお、三方城の麓にも神社があり、その後ろから直登で登城できる道があるということだが、当日は時間の関係で登城していない。
郭・竪堀など明瞭に残っているという。
宮垣の三方城の城主であった三方正秀の妻は、元々八木城(八木氏)から嫁いでいた。三方城が落城した後、八木の実家に帰った。そして三方城が見えるところで、家臣の冥福を祈って琴を弾いていた。在りし日が忍ばれ、この姫は悲観し池に身を投じたという。そして、この池から着物の袖が見つかったので、袖ヶ池と呼ぶようになったという。
この池は、上述したトンネルができる前の街道である琴引峠のある個所にあり、琴引の名も、この姫が琴を弾いていたことからの由来であるという。
【写真左】男坂城西麓付近
中段に見える場所が郭で、その下は畑地となっている。
説明板にもあるように、男坂城は上記した三方城の南麓を流れる大屋川の対岸にあり、配置から考えて、三方城の支城的役割を担っていたと考えられる。そして、大屋の入口を防御していたと記されている。
現在は神社が祀られて、周辺の遺構についてはかなり改変された跡が多いが、主郭(本殿)付近の規模などは当時のままと思われる。
●所在地 兵庫県養父市大屋町宮垣天満山
●築城期 不明
●築城者 不明(八木氏か)
●城主 不明
●高さ 標高120m(比高30m)
●遺構 郭・堀切
●形態 丘城
●備考 武内男坂神社
●登城日 2012年10月13日
◆解説
今稿も前稿に引き続き養父市大屋町にある丘城・男坂城を取り上げる。
【写真左】男坂城本丸跡
本丸跡には現在男坂神社の本殿が祀られている。
所在地は、大屋・城山城(兵庫県養父市大屋町夏梅・加保)よりさらに大屋川を下った宮垣という地区にあり、北方の山陰道(R9)より琴引峠を越えて大屋川に至る宮垣八木線(272号線)が交わる個所にある。
現在、この宮垣八木線は、琴引トンネルが開通したことにより、数分で往来することができる。
ところで、この宮垣八木線が北方の山陰道(R9)と合流する剣大橋の真北に聳える山には、国指定の八木城(兵庫県養父市八鹿町下八木)及び八木・土城(兵庫県養父市八鹿町下八木)がある。
【写真左】当社の石碑
参道は西側にあり、「式内男坂神社」と刻銘されている。
なお、ここまで車で上ってきたが、とても狭い道と駐車スペースのため、Uターンが出来なくなり、地元の青年にお手伝いしていただいた。名前を聞くのを忘れたが、改めてお礼申し上げる。
駐車場は後でわかったが、南東の団地側からしっかりした道と場所が確保されていた。
さて、当城の男坂城についてだが、名前からしてなかなか勇壮なネーミングであるが、読みは「おとこさか」ではなく、「おさか」という。
現地の説明板より
“兵庫県指定文化財 男坂神社のシラカシ林
指定年月日 昭和61年3月25日
所在地 養父市大屋町宮垣天満山196番地
男坂神社は、宮垣の約80戸が守る大きな神社です。
平安時代には神社名が知られる式内社で、天満山と呼ばれる小高い丘陵の頂上に本殿があります。
神社の境内には、高木層ではシラカシ、カゴノキが優勢で、それにホウノキ、ムクノキ、エゾエノキ、エゴノキなどの落葉樹が混成しています。蛇紋岩地帯に多いヤマカシウも生育して植物相も豊富です。
境内には幹廻りが150cmをこえるシラカシ、カゴノキが約20本も生えています。本殿を含めた6625㎡の範囲が、県指定の天然記念物です。杉の植林などで失われた但馬の里山の原形が残る貴重な森です。
【写真左】一番下の郭跡
参道の右(南)側にあるもので、縦横20m前後と広い。
【写真左】次の郭に向かう。
先ほどの郭段から上に向かう階段は傾斜もあり、しかも高低差がかなりある。
丘城であるが、当時はこの箇所はかなりの切崖であったと思われる。
また、男坂城跡と呼ばれる山城もあります。本殿のある場所が本丸にあたる主郭です。そこから、下の広場まで続く2段の平坦地が城跡の曲輪です。そして城の西側は堀切で守られています。宮垣区には男坂城と三方城の2城があり、大屋の入口を防御しています。
県指定文化財のシラカシ林、天正5年の但馬攻めに備えた男坂城跡、菅原道真公もお祀りする男坂神社がある天満山の森は、様々な自然と歴史を伝えています。
平成17年3月15日
大屋町宮垣区・養父市教育委員会”
【写真左】帯郭
上記の階段途中から見たもので、改変されているため詳細は不明だが、主郭を中心にほぼ全周囲にわたって2,3段の細い郭が取り巻いていたと思われる。
【写真左】主郭(本丸)跡
現在祀られている本殿の位置が主郭跡で、20m四方規模のものとなっている。
八木城と三方城
ところで、この男坂城から大屋川を挟んで南岸に聳える山には三方城がある。この城と、上述した八木城について中世の悲話が残っている。
【写真左】三方城遠望
男坂城(神社)から見たもので、左下の橋は大屋川が流れる。
なお、三方城の麓にも神社があり、その後ろから直登で登城できる道があるということだが、当日は時間の関係で登城していない。
郭・竪堀など明瞭に残っているという。
宮垣の三方城の城主であった三方正秀の妻は、元々八木城(八木氏)から嫁いでいた。三方城が落城した後、八木の実家に帰った。そして三方城が見えるところで、家臣の冥福を祈って琴を弾いていた。在りし日が忍ばれ、この姫は悲観し池に身を投じたという。そして、この池から着物の袖が見つかったので、袖ヶ池と呼ぶようになったという。
この池は、上述したトンネルができる前の街道である琴引峠のある個所にあり、琴引の名も、この姫が琴を弾いていたことからの由来であるという。
【写真左】男坂城西麓付近
中段に見える場所が郭で、その下は畑地となっている。
説明板にもあるように、男坂城は上記した三方城の南麓を流れる大屋川の対岸にあり、配置から考えて、三方城の支城的役割を担っていたと考えられる。そして、大屋の入口を防御していたと記されている。
現在は神社が祀られて、周辺の遺構についてはかなり改変された跡が多いが、主郭(本殿)付近の規模などは当時のままと思われる。
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