2017年7月26日水曜日

丹波・金山城(兵庫県篠山市追入字大乗寺)

丹波・金山城(たんば・きんざんじょう)

●所在地 兵庫県篠山市追入字大乗寺
●高さ 540m(比高290m)
●指定 篠山市指定史跡
●築城期 天正6年(1578)
●築城者 明智光秀
●遺構 郭・石垣・土塁、馬場等
●登城日 2015年6月8日

◆解説
 金山城については、以前取り上げた黒井城(兵庫県丹波市春日井春日町黒井)の稿でも少し触れているが、黒井城の南方7キロ余りの、丹波市と篠山市の境に聳える標高500m余の金山に築かれている。
【写真左】鬼の架橋
 主郭から西に向かったところにある岩で、地震でもあったら落ちそうな不安定な感じだが、意外としっかりしている。




現地説明板・その1

“市指定文化財 史跡
 金山城址

 金山城は標高537mの頂上に築かれた山城で、本丸を中心に、二の丸、矢島丸、朽木丸、加々丸、コキリ丸などと伝えられる構えをもつ、本丸には一部石垣が遺存しており、町内でも有数の規模を持つ。
 織田信長の命を受け、丹波制圧にのりだした明智光秀が、現在の金山城を天正6年(1578)9月より7年10月にかけて築城した。
【写真左】金山城遠望
 東麓側追入付近から見たもので、麓には追入神社が建立され、国道176号線が南北に走る。なお、この写真の裏側は丹波市になる。




 この金山一帯には、数々の文化財が存在している。登山口には赤坂の観音堂があり、風呂の谷奥には「役の行者」が祭られ、その二枚石の間には文政の年号を刻んだ不動明王の石仏が安置されている。
 そのほか民話として有名な「鬼の架け橋」「天石」等の景勝地があり、ハイキングコースとして訪れる人も多い。

  指定年月日 昭和57年2月24日 篠山市教育委員会
                      平成2年3月31日建植  ”
【写真左】金山周辺マップ

 南麓側に設置されていたもので、色が大分薄くなっていたため、管理人によって少し加筆修正したもの。

 金山城は右上の黄色い線で囲んだ箇所に図示されている。

なお、登城道は追入神社から少し南に向かったところにあり(赤線)、駐車場は、追入神社側にスペースがあるので、そこに停める。


現地説明板・その2

“金山城物語

 天正6年(1578)2月、三木城主別所長治が織田信長に背きます。篠山盆地一帯を支配していた戦国大名波多野秀治は、この謀叛を支援して他の丹波国人衆とともに一斉蜂起します。信長は明智光秀に征討を命じ、同年3月にその軍勢が丹波へ侵攻することになります。

 秀治はその居城八上城にあって、氷上郡にある黒井城の赤井氏と連携しながら、光秀に対し徹底抗戦を続けます。光秀は、この両者の連携を最も恐れていました。光秀には、天正3年(1575)に黒井城を攻めた際、秀治に背後から襲撃され京へ命からがら逃げかえった苦い思い出があったからです。
【写真左】登城口
 両側に灯篭のようなものがあり、ここから向かう。なお、この写真の右に追入神社があり、左側の奥には当時金山城の近くにあった圓林寺が麓に移設されている。


 光秀は、秀治を赤井氏との連携を分断するために、その後、ここに金山城を築きます。すなわち、多紀郡(現篠山市)と氷上郡の郡境にあって、両郡を結ぶ交通上の要衝であったこの地は、両者の連携を遮断するに格好の地であったからです。これが功を奏したのか、八上城は天正7年(1579)6月、ついに落城し、戦国時代に勇名をはせた波多野氏は歴史の舞台から消え去ることになります。
   2000年11月吉日
      金山周辺開発推進会議
      篠山教育委員会”
【写真左】観音堂
 登城してから最初に見えてきたのが、観音堂の建物である。縁起等は分からないが、圓林寺や追入神社などと関わるものかもしれない。また、これとは別に稲荷神社の祠らしきものが見えた。


波多野氏と赤井氏

 説明板にもある通り、金山城が築かれたのは、織田方に反旗を翻した黒井城の赤井氏と、多紀郡(篠山市)の八上城主波多野氏の連携を分断するため、明智光秀が築いたものである。因みに、金山城から八上山城までは南東へ直線距離で凡そ14キロ余りで、北方にある黒井城までは7キロほどなので、八上城までの約半分の距離となる。

 明智光秀が金山城を築く直前まで拠点としていたのが、丹波・亀山城(京都府亀岡市荒塚町)である。ただ、同稿でも記しているように、このころは拠点としていた亀山城もまだ完成しておらず、このことから、金山城とほぼ同時並行して普請作業が行われていたと考えられる。

 さて、波多野氏については、丹波・八上城(兵庫県篠山市八上内字高城山)でも述べたように、初代清秀(秀長とも)が応仁の乱の戦功によって、時の室町幕府管領細川政元から多紀郡を与えられ、のち八上に移ったことから始まる。清秀のあと、稙通・晴通・秀治と続いた。

 黒井城の赤井氏については、黒井城(兵庫県丹波市春日井春日町黒井)の稿で既に述べているので、そちらをご覧いただきたい。
【写真左】この柵を開けて向かう。
 観音堂から暫く登っていくと、ご覧の柵が設置してある。鳥獣被害の保護のためだろう、かなりしっかりしたもので、入った直後きちっと施錠して向かう。
 なお、ここから金山城までは凡そ1キロとなっている。
【写真左】登城道
 傾斜はあるものの踏み跡も多く、歩きやすい。
なお、途中で「圓林寺道」と刻銘された石碑が横たわっていたので、明智光秀が金山城を築く前まで同寺の参道として利用されていたものと思われる。
【写真左】分岐点
 上掲した金山周辺マップにも図示されているが、尾根ピークで分岐点が出てくる。
 左に行くと、大乗寺へ、右に行くと金山城に繋がる。
【写真左】八上城を遠望する。
 先ほどの分岐点を右に進むと、「鬼のかけ橋」などと書かれた矢印などがあり、その一角にはNHK共同受信組合のテレビ用の電波塔などが設置されている。
 そこからさらに進むと、展望が開けた箇所に出てくる。そこには「大山荘園を望む」という看板が設置され、南東方向の篠山市街地が見えてくる。
 少し靄がかかっていたが、ここから丹波・八上城が見える。

 なお、金山城の南麓部大山地区は、承和12年(845)9月、京都東寺の荘園「大山荘(おおやまのしょう)」となっていたことが知られ(「東寺百合文書」)、推測だが前述した圓林寺(跡)も、元はこの真言宗総本山・東寺の末寺(修験道場)ではなかったと考えられる。
【写真左】圓林寺跡・その1
 上記の箇所からさらに上を目指すと、圓林寺跡が出てくる。

 写真は境内跡と思われる平坦地で、左側に石垣があり、その上にも段が残る。

 明智光秀が築城した際、おそらく当院の境内は駐屯地としても利用されたのだろう。
【写真左】圓林寺跡・その2
 上の段に向かう階段付近で、南無妙法蓮華経と筆耕された石碑が残る。
 このことから東寺の荘園時代真言宗であったものが、鎌倉期に至って法華経(日蓮)に改宗された可能性もある。また、この近くには行者岩(役の行者)という場所があるが、荘園時代修験道場の場所としても栄えたものだろう。

 なお、上の段にはかなり多くの瓦片が散在している。
【写真左】馬場跡・その1
 圓林寺跡を過ぎて尾根筋を直登すると、馬場跡が出てくる。
 幅は5~10m前後で、長さは200m近くもある。
【写真左】馬場跡・その2 石碑か
 丁寧に仕上げられた馬場を進んで行くと、途中でご覧の様な倒木の下敷きになった石積がある。石碑跡にも見える。
【写真左】分岐点
 馬場跡を過ぎると再び分岐点に差し掛かる。
右に行くと、瓶割峠、真っ直ぐ行くと金山城へ、また左に行くと、直接「鬼の架橋」へ繋がる。
 先ずは金山城をめざし直登する。
 なお、この位置から金山城までは150mとなっている。
【写真左】視界が広がってきた。
 少し傾斜のある道を登っていくと、前方が開けていた。金山城の尾根ピークが見える。
【写真左】主郭
 尾根状に不定型な郭群をなした中心部に「金山城本丸」の標柱が立っている。
【写真左】主郭から西に伸びる郭
 主郭側から西にむかって郭が伸びている。少し高くなった郭である。
 なお、この主郭群とは別に、東側にも鞍部をかいして郭群があり、石積などが残っているようだったが、この日は向かっていない。
【写真左】東側から主郭方面を見る
 この位置に来ると、奥行がかなりあることが分かる。
【写真左】黒井城を遠望する。
 北方を望むと黒井城がかすかに見える。周辺部が高い山に囲まれているため、分かりずらい。
【写真左】石垣
 周囲の側面にはこうした石垣が残る。
 このあと、「鬼の架橋」に向かう。
【写真左】鬼の架橋・その1
【写真左】鬼の架橋・その2
  岩の間から見えるのは、丹波市側の国道176号線で、篠山市側から新鐘ヶ坂トンネルを越えて出てきた柏原町上小倉にある「鬼の架橋展望所」が見える(下段参照)。
【写真左】鬼の架橋展望所から遠望する。
 下山した後丹波市側に入り、柏原町上小倉からみたもの。
【写真左】大乗寺の山門
 冒頭の金山マップにも描かれているが、金山城の登城コースの一つで、西側から向かうとこの寺院を経由している。当日は手前の山門しか訪れていないが、中世大山荘の熊野信仰の中心になったという。寺伝によれば、白鳳時代に法道仙人によって開基されたといわれるので、大山荘が東寺の荘園になる前となる。

 戦国時代、地元国人領主中沢氏が庇護し、天正年間の明智光秀による丹波攻めの際、僧兵と共に中沢氏も応戦したという。従って、彼らもまた波多野氏や赤井氏らと連合していたことになる。なお、地元の古文書『荒田文書』にはこの時の様子が詳しく書かれているという。

2017年6月29日木曜日

美作・医王山城(岡山県津山市吉見)

美作・医王山城(みまさか・いおうやまじょう)

●所在地 岡山県津山市吉見
●別名 祝山城、岩尾山城
●高さ 343m(比高190m)
●指定 津山市指定史跡
●築城期 南北朝期以前
●築城者 上道是次
●城主 上道氏、山名氏、尼子氏(三好氏)、浦上氏、毛利氏、宇喜多氏
●遺構 郭、堀切、土塁等
●登城日 2011年11月23日、2017年4月1日

◆解説(参考資料 『出雲尼子一族』米原正義著、『日本城郭体系』第13巻、HP『城郭放浪記』等)
 フーテンの寅さんこと、渥美清主演の映画「男はつらいよ」の最終作品は、1995年12月23日公開された第48作「寅次郎紅の花」である。遺作となったこの映画の冒頭シーンで、中国山地の山深い谷間にある小さな駅が登場する。JR因美線の美作滝尾駅である。
 前稿美作・矢筈城(岡山県津山市加茂町山下下矢筈山)の麓もこの因美線が走っているが、今稿で紹介する医王山城は、その滝尾駅から北西方向に凡そ1キロほど向かった医王山に築かれている。
【写真左】医王山城遠望
 東側の吉見地区から見たもので、医王山は北西にある標高701mの烏山から南東方向に伸びる細い尾根の先端部にあたり、医王山城の西側は深い谷を形成している。


 管理人が初めて医王山城に登城したのは2011年だった。しかし、その時撮影した写真データをHDに入れたつもりだったのだが、どういうわけか全く入っておらず、少しショックを受けたことを覚えている。それから6年後の今年(2017年)、新しく買い換えて間もないデジカメを首にぶら下げ再度登城した。
【写真左】美作滝尾駅
 文化庁の登録有形文化財で、木造の建物で歴史を感じさせる駅舎である。
 写真の右側には「男はつらいよ ロケ記念碑」の石碑が建立されている。
なお、駅付近の建物の間からも医王山城の姿が確認できる。


現地の説明板より

“中世山城 医王山城跡

 医王山城は、祝山城あるいは岩尾山城とも呼ばれ、標高343mの医王山に築かれた中世の山城です。往古、上道是次が築城したともいわれ、美作から因幡に抜ける街道の要衝の地にあります。南北朝から戦国時代にかけては、山名・赤松・尼子・浦上・毛利等の諸勢力が相次いで美作地方に侵攻して医王山城を支配し、戦乱のさなかにありました。
【写真左】医王山城縄張図
 作図:山形省吾氏。当城の縄張図は登城口付近及び、主郭付近の2か所に設置されている。

 左図は右方向が北を示し、登城口は北東麓にある(赤字の「現在地」)。

 南北に伸びる尾根筋上に凡そ400mにわたって築かれ、北から南にかけて、主郭、二の郭、三の郭が配され、主郭の北側には堀切や畝状竪堀群があり、南端部にも巨大な堀切をはじめ、周辺部に畝状竪堀群が配置されている。


 なかでも、天正8年(1580)には、毛利輝元の命により医王山城に在番していた湯原春綱・小川元政・塩屋元真等の地元国人勢力と、宇喜多・秀吉勢との間で激戦が繰り広げられました。毛利勢は約2年にわたって医王山城を死守し、落城しませんでした。そして、宇喜多勢は撤退しました。
 やがて、備中高松城合戦での毛利・秀吉の和睦により、医王山城は宇喜多領となりましたが、しばらくは毛利勢が籠城していました。

 主郭の石塁や散乱する瓦は、和睦後にも修復がなされたためと考えられ、山城としての重要性を物語っています。
 約400年後、1995年地元の青壮年が中心となって整備を始め、保存会の結成、登山道の整備・遺構の調査等を行い、1997年津山市指定文化財となり現在に至っています。

    医王山城跡保存会
      2009年4月之建”
                 (※下線・管理人による)
【写真左】登城口付近
 登城口付近はご覧の様に、「医王山城跡保存会」という団体によって、説明板や登城用の杖などが設置され、定期的に整備されている。有り難いことだ。
 なお、ここから主郭まではおよそ600m(25分)と表示されている。


上道是次

 医王山城は、往古上道是次が築城したとされている。建武以降の南北朝期には山名氏といわれているので、上道是次はこれ以前に築城したことになる。
 同氏の出自については史料がないため分からないが、姓名から推測するに、現在の岡山市東区のJR山陽本線上道(じょうとう)駅付近、すなわち備前国の出身かもしれない。因みに、この付近は以前紹介した新庄山城(岡山県岡山市竹原)の近くで、さらに東方の赤磐には熊山城(岡山県赤磐市奥吉原(熊山神社)などがある。南北朝動乱期に至ると山名氏や赤松氏などが美作を巡って争っている。上道氏がそれ以前の領主となれば、承久の乱後新補地頭として下向したとも考えられる。
【写真左】登城途中に設置された橋
 登城道は急峻な東斜面に設置されているため、途中にはこのようなパイプを使った橋が設置されている。





尼子氏の美作侵攻

 前稿で紹介した美作・矢筈城でものべたように、出雲・尼子氏が美作国へ侵攻したのは天文年間だが、この当時尼子氏が支配を強めたのは、美作国をはじめ、伯耆・因幡両国もそのとき治めている。

 天文元年(1532)における尼子氏の侵攻ルートは、その両国(伯耆・因幡)側、すなわち北から南下していったものとされている。このとき尼子氏の先陣を務めたのが三好安芸守といわれている。『出雲尼子一族』(米原正義著)に同氏「分限帳」の明細が記載されているが、この中で美作国における知行高は、18万8311石とされている。ただ同書ではこの三好某の名前がないところを見ると、同国の国人衆であった可能性が高い。

 因みに、三好氏以外の地元国人衆で、尼子方についたのは、弓削・原田・植月氏らとなっている。これに対し菅家一族といわれている広戸・皆木らは、細尾城(勝田郡奈義町宮内)に立て籠もり、尼子氏に抗戦した。しかし、この細尾城ものちに尼子氏によって落城させられた。
【写真左】堀切
 下段の写真にもあるように、登城コースは主郭付近から東に伸びる尾根にそって設置されているが、途中で最初の堀切が現われてくる。
【写真左】堀切の位置を示した図
 現地に設置されているもので、左側に「堀切跡」と表記された文字がある。







 その後医王山城は浦上氏が在城したと記録にあるが、置塩城(兵庫県姫路市夢前町宮置・糸田)・その2でも述べたように、このころ尼子氏と浦上氏は同盟を結んでいたので、おそらく医王山城を攻略した後は、浦上氏に暫定的に城番を任せていたのだろう。

 しかし、それからおよそ10年後の天文13年(1544)11月、尼子晴久は同氏最強軍団新宮党(新宮党館(島根県安来市広瀬町広瀬新宮)参照)の党首・尼子国久及び、宇山飛騨守久信に命じ、兵5千を率いて再び美作に侵攻した。おそらくこれは天文元年の同国侵攻後、地元国人領主(菅家一族ら)によって、再び奪還される状況があったためと思われる。宇山久信は美作・高田城(岡山県真庭市勝山)を攻め、新宮党は岩屋城(岡山県津山市中北上)や、小田草城(岡山県苫田郡鏡野町馬場)を攻め、さらに医王山城を攻めた。

 なお、伝承では、当時(天文13年)医王山城にあった浦上氏の兵を尼子氏(新宮党)が誅滅し、中腹にある観音堂も焼失したとあり、尼子氏と浦上氏の同盟は一時的なものだったのかもしれない。
【写真左】郭
 この郭も主郭直下にある東尾根上に構築されたもので、この位置から東方が俯瞰できる。
【写真左】郭の位置
 上記郭の位置で、朱色で塗られた箇所。










天正8年前後

 説明板にもあるように、天正8年(1580)における医王山城は、毛利氏(輝元)の支配にあった。そして城番としては、下線でも引いたように湯原春綱・小川元政・塩屋元真などがまかされていたとされる。

 ただ、この中で、湯原春綱は、地元(美作)国人領主ではなく、満願寺城(島根県松江市西浜佐陀町)等でも紹介したように、元は尼子氏に属し、後に毛利氏に帰順した人物である。また、小川元政は幸山城・その2(岡山県総社市清音三因)でも紹介したように、元亀2年(1571)出雲国における尼子再興軍の戦いにおいて、毛利元就から高瀬城開城(落城)の報告を受けており、彼もまた地元美作の国人領主ではない。おそらく地元国人領主は、後段でも紹介している塩屋元真のみと思われる。

 この時期、宇喜多直家が中心となって医王山城を攻めているが、もともと直家は毛利方についていた。しかし、天正7年(1579)10月30日、直家は織田信長に降服し、秀吉の命によって備前・美作方面の攻略を目指した。
【写真左】主郭・その1
 先ほどの郭を越えてさらに上に登るとすぐにこの主郭にたどり着く。標高343mの頂部に当たる。長径30m×短径20m前後で楕円状の形となっている。

 主だった遺構部はご覧のように綺麗に整備され、気持ちがいい。


 備中高松城攻めのあと、和睦が図られたのは、天正10年(1582)の6月4日であるから、宇喜多勢が医王山城攻めを行った期間は、従って説明板にある2年ではなく、断続的に続けられ3年に及んだと思われる。また、この前年(天正9年)には秀吉が因幡鳥取城を囲み、吉川経家を自刃に追い込んでいる(鳥取城・その2 吉川経家の墓(鳥取県鳥取市円護寺)参照)ので、毛利勢も因幡・美作両国に分散して対応していたことが分かる。
【写真左】主郭・その2
主郭から東方を俯瞰する。
【写真左】主郭・その3:版築土塁
 西側から奥の虎口を挟んで東側に石積による版築土塁が残る。
【写真左】枡形虎口
 主郭の北側に位置しているもので、枡形の跡を残す部分は少ないが、ここから北の尾根に向かう位置には「塩屋城」という別の山城もあり、当時はしっかりとした枡形形状の虎口があったものと思われる。
 なお、二の郭・三の郭に向かうには、この写真でいえば、右側方向になる。
【写真左】「塩屋城跡へ」と書かれた案内板
 主郭の北側に伸びる尾根は一旦下がり、縄張図にもあるように鞍部となった位置に畝状連続竪堀が作られ、北からの連絡を絶つようになっている。

 そこから再び尾根伝いに烏山方面に向かうと、途中でピーク590mの頂部があるが、その位置に塩屋城が築かれている。医王山城の主郭からおよそ900mの位置にあるため、この日は向かっていない。長径100m×短径40m前後の規模を持つ。
 因みに、冒頭で紹介した当城在番者に、「塩屋元真」の名が記載されているので、元真の居城であったかもしれない。
【写真左】二の郭
 主郭の虎口から左に回り込み、南に進むと二の郭がある。
 写真は二の郭から振り返って主郭を見たもの。
【写真左】医王山城から堀坂の砦を俯瞰する。
 二の郭から東を俯瞰すると、加茂川が南に流れているが、その蛇行する位置で向いの山系から伸びる舌陵丘陵が見える。この丘陵に築かれていたのが、「堀坂砦」である。

 冒頭で紹介した医王山城の縄張図を作図した山形省吾氏が平成16年に確認したとされる。

 天正8年湯原春綱が在番していたとき、宇喜多直家らが攻めた際の陣城であったか、又は天正12年(1584)、黒岩吉弘(毛利方で美作・矢筈城の草刈氏重臣)が在番し、宇喜多秀家(美作・日上山城参照)が攻めたときの陣城のいずれかと推測される。
【写真左】二の郭から三の郭へ向かう。
 二の郭には標柱が無くなっていたが、そこから南に向かうと三の郭に繋がる。
 その間は細い郭が続く。特に表示するものはなかったが、おそらく馬場跡であったかもしれない。
【写真左】三の郭・その1
 先ほどの尾根を進んで行くと、開けた場所に出る。三の郭である。
【写真左】三の郭・その2 土塁
 二の郭にも土塁が残るが、三の郭は特に明瞭に残っている。西側に設置されているので、医王山城の南西部からの攻撃を意識したものだろう。
【写真左】石列
 三の郭には東西方向に一列に伸びる石列が残っている。郭の中で区画されもので、段差もほとんどないため、何の目的で設置されたのか分からない。あるいは礎石かもしれない。
 このあと、さらに尾根伝いに南に下がっていく。
【写真左】石垣
 三の丸から南に向かうには、東側斜面に設置された犬走りのような道を通るが、その途中で右側斜面に明瞭な石垣が残る。
【写真左】最南端の郭
 かなりまとまった規模の郭で、標識らしきものがあったが、文字が薄れて読めなかった。奥に見える樹木の先は切崖となって、その下には下段で紹介する大堀切をはじめ、畝状竪堀群が控える。
【写真左】大堀切・その1
 主郭の北側にある堀切がどの程度のものか分からないが、南側では最大の規模のもの。
 この位置から堀切底部まで10m近くあるかもしれない。急峻である。
【写真左】大堀切・その2
 堀切底部に倒木などがあり、そのスケール感は写真ではいま一つ感じられないが、見ごたえがある。

 写真右側が主郭から伸びてきた尾根の先端部で、その上に先ほどの郭が控える。
 堀切の先はそれぞれ竪堀となって下に伸びている。
【写真左】「畝状連続竪堀群」の看板
 堀切を超えると、ご覧の看板が設置してある。
上掲した大堀切の延長(竪堀)で囲まれた南側斜面には竪堀が6本あり、その他、大堀切の西側竪堀の北側にも6本構築されている。
【写真左】畝状竪堀の一つ
 この斜面自体で十分傾斜がついているが、それでも密度の濃い竪堀が配置されている。

 印象としては、毛利氏が在城したころのものと想像される。