2012年4月15日日曜日

霜降城(山口県宇部市厚東末信)・その1

霜降城(しもふりじょう)・その1

●所在地 山口県宇部市厚東末信
●築城期 鎌倉時代
●築城者 厚東武光
●形態 山城
●高さ 標高250m
●遺構 空堀・土塁等
●備考 前城・本城・後城
●指定 山口県指定史跡
●登城日 2012年1月16日

◆解説(参考文献『日本城郭体系第13巻』等)
 霜降城は山口県宇部市を流れる厚東川の東方に聳える霜降岳に築かれた厚東氏累代の居城である。

【写真左】霜降城遠望
 南方にある男山展望台から見たもので、中央に霜降城の本城が控え、その東方後背に後城(うしろじろ)が見える。

 なお、本城の手前には前城(まえじろ)があり、西方には中城(なかじろ)があるが、この写真では見えない。



現地の説明板より

“山口県指定史跡
 霜降城跡(前城)
    指定年月日 昭和43年7月4日


 霜降城は、厚東氏7代武光によって治承3年(1179)に築城されたと伝えられ、標高約250m、南北約700mにわたってそびえる霜降山の四連峰上に築かれた山城です。厚東川をへだてて厚東氏の居館旧跡と対しています。

 当時の山城は、近世のような天守閣を備えた城ではなく、防備のため山腹や山頂付近に土塁、空堀、柵などが設けられただけのものでした。
 前城の標高は247.7m、頂上部の面積は約870㎡です。遺構は南方向に長さ80m、深さ3m、上部幅6mの空堀があり、これは斜面が緩やかな南側からの侵攻を防ぐためであったと考えられます。頂上付近の巨石と、城の防備との関連については明らかになっていません。

 北には西側に防御遺構をもつ本城(250m)と、北・東側に防御遺構を持つ後城(南峰240m、北峰235m)、西には本城の前衛地であった中ノ城が有機的に構築され、その規模は山口県内では最大級です。

 17代義武のとき、周防山口の大内弘世の攻撃を受け、延文3年(1358)霜降城は落城しますが、それ以降使用された形跡はなく、南北朝時代の山城の景観をよく残す貴重な史跡です。
 なお、許可なく史跡指定区域での左記行為は禁じられていますので、ご協力をお願いいたします。
記
1、掘削、土砂等の採取、樹木の伐採をすること
2、その他史跡保存に著しく影響を及ぼす行為
平成17年3月
   山口県教育委員会
   宇部市教育委員会”

 この付近には、厚東川を挟んだ西方の棚井地区に厚東氏の平時の居住地があったとされ、浄名寺及び東隆禅寺に同氏関連の墓石が安置されている。また、霜降城の西方を扼する目的で築城されたという「引地城」もある。

 なお、現在厚東川河口は宇部市の工業地帯増設によって、南に延びているが、鎌倉期の当時はこの霜降城のある末信や、対岸の棚井辺りまで周防灘が食い込んでおり、厚東氏が水軍領主としての一面も併せ持っていたことを示す。
【写真左】霜降城配置図
 当城は、本城・前城・後城・中城と四つの峰をもつ山から成り立ち、いわゆる一城別郭の構成となった山城である。















厚東氏と高津長幸

  さて、厚東氏については、これまで
嘉年城(山口県山口市阿東町嘉年下)、銀山城(広島市安佐南区祇園町)、勝山城・勝山御殿(山口県下関市田倉)、及び大内義長墓地・功山寺(山口県下関市長府川端)で紹介しているが、同氏の祖は武忠といわれ、物部守屋の末裔武忠がこの棚井に住んだことが始まりといわれている。

 源平合戦の折、7代武光は寿永年間(1182~85)棚井にあって平家を支援、一の谷の戦いにも参戦したという。後には源氏方に与し、壇ノ浦の戦いで功があり、厚東郡の主となった。
【写真左】霜降山登山口
 当山(城)へ向かうにはおよそ6箇所からのコースがあるが、車で近くまで行くにはこの写真にある登山車道を使うことになる。


 写真右側が県道219号線で、左側が登山道。ただし、この先にゲートが設置してあるので、季節時間限定のようだ。



 そして、厚東氏の活躍がもっとも知られるのは南北朝期に入ってからである。

 元弘3年(正慶2年:1333)、隠岐の島配流にあった後醍醐天皇は行在所を脱出し、綸旨を諸国の豪族に発した。石見国では吉見頼行がこの聖旨の報に感涙し、高津長幸はいち早く吉見氏と長門探題攻略に向け、3月征途に上った。

 長門探題北条時直は、関東御教書を受け護良親王と楠正成討伐に向けて東上した。このときつき従ったのが長門の厚東武実と豊田胤藤らである。彼らは瀬戸内を船で向かうも、備後の海上で村上義弘に遮られ、止む無く四国へ兵を向けると、今度は土居・得能の諸氏にも敗戦の苦渋をなめ、本国に帰還せざるを得なくなった。
【写真左】駐車場
 霜降山周辺は「保健保安林」として、キャンプ場を始め、公園・ハイキングコースなどがあり、森林レクリエーションの場として活用されている。
 このため、駐車場も大変広く確保されている。
 車を降りて先ず西方の男山展望台へ向かう。



 ところが、その帰途中、長門へは件の石見の強豪が南下するという報が入った。特に高津長幸は当時「道性」と呼ばれ、四周にその武功の誉れ高く、恐れられていた。

 当時長門探題の本拠地は長府にあったが、「道性来る」の噂におびえた北条時直の妻・上州御台をはじめ、婦女子らは先に当地を去り、筑前筥崎(九州探題)へ奔走した。
【写真左】男山展望台
 男山そのものは、先ほどの駐車場の北にあるが、この場所はさらに西に300m程度むかった丘の頂部で、標高は228m。


 この位置から北方に上掲した本城などが俯瞰できる。
 なお、写真に見える石碑には霜降城の由来が刻文されている。

 男山及びこの展望台付近も霜降城の城域であったかどうか明確ではないが、南端部であったことから出城もしくは物見台としての役割は十分にあったものと思われる。
 このあと前城に向かうため、一旦谷に降りていく。
 

 後醍醐派すなわち宮方として長門の先陣を切った石見の吉見・高津の両軍は、同年(1333)3月29日、大嶺(現在の美祢市大嶺町)において、探題方厚東武実・豊田胤藤・同胤本・同胤長らと相対陣した。あくる30日戦端が開き、特に第一軍を務めた吉見頼繁の軍は、厚東武実・豊田胤藤の二将を敗走させ、凱歌を挙げた。

 一方、第二軍の高津長幸(道性)は、さらに南下し長門の他の諸侯に下賜の綸旨を示し宮方軍への恭順を勧めていった。
 敗走した厚東武実は、その後長幸の熱心な勧誘に意を感じ、直ちに恭順を示し宮方として与することを決心した。このとき、武実は長幸を領内「霜降山の新館」に招き入れ、手厚くもてなしたという。なお、霜降山の新館とは棚井側ではなく、霜降山の所在する末信にあった館と思われる。
【写真左】土橋と空堀
 男山城展望台から北に向かって一旦谷筋に降りると、管理者用の林道中山線と合流するが、そこに冒頭で添付した案内図(保健保安林の説明板)があり、ここから北の前城に向かって再び登り始める。
 しばらくすると、ご覧の空堀や土橋が現れてくる。



 武実は宮方に与したあと、近隣の大嶺の地頭・由利氏や、伊佐の佐々木氏らに武家方から宮方に恭順を勧め与同していった。

 こうしてしばらくは宮方優勢の機運は高まったが、4月に入ると探題北条時直は、九州筑紫探題北条英時の支援を受け、三河守を始めとし、日田肥前権守入道・宗像大宮司・豊前国宇佐・築城・上津妻毛・下津妻毛4郡の軍勢が長門に入った。7日、彼らは門司から長躯霜降山麓に入った。そして怒涛の進撃を加えたので、一旦当城を捨てて敗走した。

 以後、両者の戦は優劣つけがたく混沌とした戦いが続いたが、最終的には高津長幸らによる長門探題攻略が宮方の優位をもたらした。
【写真左】前城・その1
 中央部にある巨石
 前城の主郭部分に残るものだが、物見櫓的な用途があったものと思われる。
【写真左】前城・その2
 手前の方に小規模な郭段が残り、その周囲を先ほどの空堀が巻いている。






大内弘世

 その後、多少の変化はあったものの、霜降城は厚東氏の居城としてしばらく続いた。しかし、大内氏が弘世の代になると、長門国は大きく動き始めた。

 大内氏は当初北朝方(幕府方)についていたが、尊氏と直義との対立が生じると、直冬に属し、南朝の武将として満良親王を奉じて勢力を拡大、南朝から周防守護職に任じられた。
【写真左】前城から南方を見る。
 霜降城で眺望が利くのはこの前城ぐらいで、のちほど紹介する本城は残念ながらほとんど利かない。



 そして、当時長門守護職であった厚東義武を再三にわたって攻略、ついに延文3年(1358)正月、霜降城は落城、城主義武は長門を捨て豊前に奔った。この結果、弘世は長門守護職も獲得することになる。

 霜降城が落城したのは正月2日であるが、厚東川対岸にある厚東氏を祀る恒石八幡宮では、現在でもこの日、落城の日を悼むため太鼓を打つことは止めているという。

本城については、次稿で紹介することにしたい。

◎関連投稿
花尾城(福岡県北九州市八幡西区大字熊手字花の尾)
筑前・白山城(福岡県宗像市山田)
長門・由利城(山口県美祢市大嶺町東分字中村)
豊田氏館(山口県下関市豊田町大字殿敷)

2012年4月12日木曜日

長門・亀山城(山口県長門市東深川)

長門・亀山城(ながと・かめやまじょう)

●所在地 山口県長門市東深川・正明市
●築城期 室町期
●築城者 鷲頭弘忠
●形態 丘城
●高さ 標高(比高)24m
●遺構 古井戸・堀切・砦跡
●登城日 2012年1月15日

◆解説(参考文献『日本城郭体系第14巻』等)
今稿は久しぶりに長門国の山城を取り上げる。
【写真左】長門・亀山城遠望
 南麓から見たもので、ご覧の通り小丘といった規模である。
 左手前の建物は長門市役所。





長門・亀山城は、現在の長門市市街地のほぼ中央部にある丘城で、麓には長門市役所がある。
ところで、中世の長門や周防といえば必ず大内氏が登場するが、本稿の長門・亀山城の築城者は鷲頭弘忠(わしず又は、わしのうず ひろただ)弘忠といわれている。

【写真左】市役所周辺マップ
 左が北を示す。
 亀山城から北へ約1キロほど向かうと、深川湾(日本海)に至る。
 当時は孤島であったことが分かる。



鷲頭氏

  大内氏の出自については諸説あり、断定できるものはないが、平安時代末期に至って、当地の在庁官人であった多々良盛房が周防の最高実力者となり、周防権介から大内介となってから大内氏を名乗ったといわれている。

鷲頭氏は、大内氏第16代・盛房の三男・三郎盛保が周防国鷲頭荘(現在の下松市付近)に入部し、鷲頭氏の始祖となった。なお、第16代盛房のとき、弟・盛長は、右田氏の始祖となっている。
【写真左】登城口付近
 当城には城砦をしめす表示物などは全くない。また、小丘の割に全周囲が切り立った切崖状の傾斜地が多く、唯一踏み込める場所は、東端部の墓地側にある。


 もちろん道らしきものはないため、勾配の緩やかな箇所を探しながら登っていくことになる。


さて、亀山城の築城者とされる鷲頭弘忠は、室町時代後期の武将で、永享4年(1432)、第27代持世のとき長門の守護代に補任され、亀山城よりさらに深く入った長門市殿台に本拠城である「深川城」を築いた。

しかし、但馬「鶴城」(2012年3月5日投稿)でも触れたように、嘉吉元年(1441)4月、赤松満祐が室町幕府将軍・足利義教を謀殺(嘉吉の変)した際、同席していた大内持世も深手を負い、これがもとで3か月後の7月28日に無念の死を遂げることになる。
【写真左】堀切・その1
 小規模な城砦のため、すぐに城域にたどり着くが、当城でもっとも明確に残る堀切の遺構である。

大内一族の継承についても、このころ有力な守護大名と同じく順風満帆ではなかった。一族の繁栄と拡大は、皮肉にも惣領家と庶家との確執を生んだ。

特に同氏第25代義弘に至って、一旦義弘の弟、すなわち叔父の盛見が26代として引き継ぎ、改めて嫡男持世が継承している。

その持世が亡くなり、28代は盛見の二男・教弘が継ぐことになった。以後、大内氏は第31代義隆に至るまで、この盛見の直系として相続が続くことになる。

さて、鷲頭弘忠は、当然ながら跡を継いだ教弘を主君としなければならないが、教弘とは相当前から不仲であったといわれている。果たせるかな、文安3年(1446)4月15日、教弘は鷲頭弘忠の守護代解任を命じた。
【写真左】堀切・その2
 小規模な城砦の割にこの堀切は大規模といえる。
 東方に設置されたもので、南北を縦断している。この写真では左側が本丸側で、右が墓地側となる。



鷲頭氏一族の討死

弘忠はこの後、教弘が攻撃をしてくることを察知し、本拠城・深川城(下の写真参照)の前進基地としてこの亀山城を築いたとされる。

2年後の文安5年(1448)2月、教弘は弘忠罷免後、新しく補任させた守護代・内藤有貞に命じ、串崎水軍を動かし、亀山城近辺から弘忠が逐電するのを阻止させた。

亀山城は東西250m、南北150mという極めて小さな小山(孤島)である。おそらく串崎水軍による占拠は短期のうちに遂行されたのだろう。ただ、鷲頭弘忠はこの亀山城で誅殺されたかどうかははっきりしない。
【写真左】郭段
 堀切を抜け西に登っていくと最高所である主郭がみえ、さらに進むと1m程度下がった郭段が控える。


 なお、この郭の南側には50センチ高の土塁状の延長部が残り、北に向かってはさらに深い郭が残る。


おそらく、大半は本拠城である「深川城」に陣を布いていたものと思われ、伝承によれば、鷲尾弘忠一族郎党は悉く深川城で討死したといわれている。
【写真左】切崖と最下段の郭
 ご覧の通り、孟宗竹の繁茂のため、写真では遺構の確認ができない状態である。
【写真左】深川城遠望
 鷲頭氏の居城とされる深川城は、亀山城の南方3キロ余りの深川川の支流・大内川沿いに聳える山に築かれている。
【写真左】鷲頭弘忠の墓
 以前紹介した「大寧寺」(2010年3月22日投稿)に、大内義隆の墓と共にひっそりと安置されている。

2012年4月11日水曜日

美和山城(岡山県津山市二宮)

美和山城(みわやまじょう)

●所在地 岡山県津山市二宮
●築城期 不明
●築城者 立石中務丞漆高国、または立石中務丞高志
●形態 丘城
●高さ 標高154m(比高30m)
●遺構 郭・土塁・井戸
●備考 古墳跡
●指定 国指定 美和山古墳群
●登城日 2011年6月20日

◆解説(参考文献『日本城郭体系第13巻』等)
 今稿の美和山城は、古墳跡を利用して築城されたという特異なケースの丘城である。
所在地は、津山市にあって、中国自動車道と国道179号線(出雲街道)に挟まれた二宮の丘にある。
 この場所から西に約2キロほど向かうと、以前取り上げた院庄館(岡山県津山市院庄)がある。
【写真左】美和山城(美和山古墳)
 前方後円墳の1号古墳といわれるもので、前方部突端から後方部まで細長く土塁跡が残る。



現地の説明板より

 “国指定史跡 美和山古墳群
     指定年月日 昭和52年3月8日
     指定面積  32,025㎡


 美作地方最大の前方後円墳を含む古墳群です。北から1号墳(前方後円墳・全長83m)・2号墳(円墳・直径40m)・3号墳(円墳・直径約40m)の3古墳で構成され、地元では、伝説に基づきそれぞれ胴塚・蛇塚・耳塚と呼びならわしています。
 いずれの古墳も、盛土の表面を人頭大の河原石でおおい、2号墳・3号墳からは、円筒形の埴輪破片が発見されています。
 その埴輪破片や、1号墳の墳形などからみて、これらは古墳時代前半期(4~5世紀)にこの地域一帯で勢力を伸ばした豪族の墓と考えられます。
【写真左】配置図
 この図でいえば、左側の前方後円墳(1号古墳)に、土塁の位置が表示されている。




 また、この地には、戦国時代(15~16世紀)に、美和山城が築かれていました。
 1号墳の前方部前面から後円部後方まで、東西に土塁状の遺構が残されており、1号墳北側のくびれ部に井戸跡もあります。これらはその美和山城に関連する遺構でしょう。


  昭和60年3月31日 
   津山市教育委員会”
【写真左】土塁跡・その1
 北側に川が流れており、それに沿うように土塁が配されているので、北~東面の防御が目的だったことが分かる。



美作・立石氏


 美和山城の築城者といわれている立石中務丞漆高国・高志の出自は、美作から遠く離れた九州豊前国宇佐郡立石村とされている。
この地区は現在の大分県宇佐市立石地区で、宇佐神宮から東方5キロほどの位置にある。
【写真左】宇佐神宮
 所在地 大分県宇佐市









 美作立石氏の本姓は漆島氏で、後に漆間と改称し、美和山城の南方500mにある高野神社(龍神社)の神社職を得て勢力を伸ばしたといわれる。
【写真左】土塁跡・その2
 初夏に訪れたため草丈が伸び、遺構の確認としては今一つだが、およその形状は分かる。







 立石氏が豊前国から美作国へ移住してきた経緯は不明だが、神社職を得たという点から考えると、八幡宮の総本宮である宇佐神宮が関わっていた可能性は高い。

 なお、漆間姓を名乗ったころ、庶流は久米郡稲岡荘に移り、そこから後に浄土宗を興した法然が出ている(下の写真参照)。
【写真左】法然上人誕生の聖地とされる美作・誕生寺
 所在地 岡山県久米郡久米南町誕生寺里方
 建久4年(1193)、熊谷直実が師とした法然上人の命を奉じ、旧邸だったところを寺院に改めた。




当城の記録が見えるのは、室町期である。『日本城郭体系第13巻』によれば、

“明応7年(1498)城主・立石景泰のとき、三星城の後藤勝国が手兵120騎を美和山城を攻撃、景泰は城の東の笠松山に兵80人を従えてこれに反撃した。


また、その4年後(文亀2年:1502)景泰の子久朝のとき、勝政の子後藤勝基が金室山城(勝北町)の城主浦上行重と共に兵300を以て「三和山」に迫り、小田中に布陣。久朝は一族郎党200騎で城の東の亀ヶ淵で防戦したが、後藤は背後から城に入って火を放った。このため、立石方は敗走し、久朝以下17人は薬師堂に入って自刃した。しかし、久朝の子弥次郎は死を免れた。”

と記されている。
【写真左】北麓の歩道を歩く。
 上述したように1号古墳の上部北面は、土塁の一部としても活用されているため、改変の跡が残る。
 なお、この下の歩道から古墳頂部までの高さはおよそ7,8m程度ある。



ここに記されている「三星城」というのは、現在の美作市明見にある城砦で、三星城(岡山県美作市明見)のことだが、別名「妙見城」ともいわれ、戦国期に至ると、勝基の時代を迎える。ただ、上掲の下線した勝基の時代が、文亀2年(1502)となっており、これに対し、勝基の活躍した時代は、「三星城」の稿では永禄3年(1561)ごろとされている。
【写真左】三星城
所在地 岡山県美作市明見
築城期 応保年間(1161~63)








 約60年もの開きがあり、錯誤とも思われるが、永禄年間の勝基は先祖の武功を崇敬し、同じ名を名乗った可能性もあるかもしれない。

 美和山城主立石久朝の遺児・弥次郎はその後、久勝と名乗り、その子・久胤、久泰らによって家名再興が図られ、毛利輝元に仕えたという。
【写真左】1号古墳の頂部
 上にあがった位置から見たもので、手前が後円部だが、写真でも少しわかるように、南側が少し高くなっている。


この箇所も土塁的な加工が加えられているようだ。
【写真左】井戸跡
 案内図では井戸跡が後円部と前方部の接点部にあるとされているが、草の繁茂で確認できなかった。

2012年4月10日火曜日

有漢常山城(岡山県高梁市有漢町有漢土居)

有漢常山城(うかんつねやまじょう)

●所在地 岡山県高梁市有漢町有漢土居
●築城期 鎌倉期
●築城者 秋庭三郎重信
●形態 山城
●高さ 標高265m
●遺構 土塁・空堀・竪堀・郭
●登城日 2012年4月9日、その他

◆解説(参考文献『日本城郭体系第13巻』等)
 投稿の順番が前後してしまったが、今稿では再び秋庭氏関係の山城である「有漢常山城」及び居館跡といわれる「正尺屋敷」を取り上げる。

 現在当城の周囲は「うかん常山公園」という施設に改修され、「石の風ぐるま」や「風と化石の館」といった模擬天守風の展望台が設置されている。おそらく岡山自動車道開通に合わせて設置されたものだろう。
【写真左】有漢常山城のある「うかん公園」
 写真中央に見えるのが模擬天守風の展望台で、この展望台の奥に向かったところから常山城の遺構が残っている。




 山城として遺構が残る常山城は、この施設の北端部にあり、公園内の展望台を過ぎ北側に延びる散歩道を進むと、下記の説明板のある辺りから階段を上っていくとたどり着ける。

なお、常山城へは公園内とは別に、北麓を走る県道49号線から直接登る道も設置されているが、駐車スペースはないので、公園内に入ってから向かうのがいいだろう。
【写真左】公園内案内図
 常山城はこの図の右側に記されている。
 展望台から一旦降り、吾妻屋を過ぎてから再び登っていく。





現地の説明板より

“有漢常山城址
 ○位置 上房郡有漢町大字有漢土居


 有漢常山城は、秋庭居館の南、有漢川を隔てた山頂(標高265m)にあった山城である。
 周囲の比高からすれば小山と表現した方が適切な山塊頂部には、二段の帯郭を付設した単郭の構えが見られる。主郭は長方形で、南辺には幅狭く一直線に走る一文字土居を残している。西辺にも微高の土塁基部があるが、郭の四周を土塁が取り囲んでいたかどうか、現状からでは明らかでない。当城の北面と西面は険峻な地形で、南の後背部も急傾斜で下降し、狭い鞍部へとつながっている。
【写真左】常山城要図
 登り口付近に設置されているもので、主郭は西端部に置き、周囲を二ノ壇・三ノ壇が取り巻くように記されているが、主郭の西側の切崖を降りた空堀や竪堀などの図示がされていないのが残念だ。



 鞍部の西側には深い谷が入り込み、鞍部は幅約5mの二重掘で切断され、後背部もなかなか堅固な構えをとっている。


この城には天正年間(1573~92)に、新山玄藩允家住が在城していたと松山城の『籠城記』に記されている。



 有漢常山城は説明板にもあるように、山城としての規模はさほど大きなものではない。しかし、後段に示すように、北麓を流れる有漢川対岸には秋庭氏館跡とされる場所や、弓馬場など当時の面影を残す地名が少なくないので、常山城を取り巻く付帯施設はかなりの広さを誇っていたものと思われる。
【写真左】北側から振り返る。
三の段あたりまで階段が設置され、右側に主郭が配置されている。
中央奥に模擬天守の展望台が見える。
【写真左】常山城と書かれた標柱
二の段と主郭の境に設置されている。二の段まではきれいに伐採・清掃されているが、どういうわけか、この上の段となる主郭から西側は、まったく手付かず状態になっている。


直接この場所から踏み込んでもよかったが、ご覧の藪コギなので、南側の土塁始点から入っていく。
【写真左】土塁
西側は南北にわたって土塁状の高まりが残る。ただ、経年劣化しているせいか、高さはさほどなく50cm前後か。


この写真では右側が主郭となり、左側は7,8m前後の高さをもった切崖が南北面に続く。
【写真左】主郭西面の切崖
 主郭の北端部から下に降りる犬走り跡らしき狭い道が残っていたので、これを頼りに降りていく。


 写真右下は南北に空堀が残っているが、その延長線上の南側には二重堀切が残る。
【写真左】空堀
 ほぼ囲繞するような配置で空堀が残る。また要所には直角に竪堀らしき遺構も見える(下段参照)。
【写真左】竪堀
 公園化されたため、こうした遺構は西側にしか残っていないが、当時は東西の谷筋にあったものと思われる。


 なお、北端部には現在県道が走っているが、当時は有漢川が城下麓まで流れていたものと思われ、事実上の水濠の役目をしていたものと思われる。
【写真左】下から主郭側を見上げる。
 降りたときは感じなかったが、改めて上を見上げると比高がある。
【写真左】祠
 二の段の北端部に見えたもので、手前の主郭側はほとんど藪コギ状態のため、中には入っていない。








正尺屋敷跡(秋庭氏居館跡)

常山城の北麓を東西に流れる有漢川を越え、少し北に向かった棚田の場所にある史跡で、秋庭氏の館跡とされている。
【写真左】正尺屋敷跡・その1
 写真右が南側で、この道は当時屋敷に向かう道として使われ、奥に向かうと東端部に門があり、その下には馬場があったという。


 当時、屋敷はこの石垣の上に建っていた。


現在は民有地として畑地となっている。
規模は幅10m前後だが、長さは80m近くあるかもしれない。
探訪を終えた後で知ったのだが、この屋敷跡の東側には南北に堀切があったという。

当地は律令制時代の有漢郷とされ、鎌倉初期に秋庭三郎重信が入部したとされている。当時の領地がどの程度あったものかわからないが、耕地面積は現在669haもあることから、地頭として入部した際もかなりの所領をもっていたと思われる。
【写真左】正尺屋敷・その2
 石垣の上になる屋敷跡だが、現在ご覧のように畑地となっている。なお、この写真左側に秋庭氏の井戸が残っているが、管理人は見過ごしてしまった。


なお、この屋敷の正尺というのは「正作」の当て字で、正作屋敷とも言われてきている。また、周辺部には、この他、「正尺ため池」「馬場」「正尺田」「正尺畑」「惣人田」などという地名も残る。

【写真左】正尺屋敷から南方に有漢常山城を遠望する。
 この位置からほぼ正対する位置にあり、その手前を有漢川が流れている。







秋庭氏供養碑

上記屋敷跡の西側の道を下り、有漢川に突き当たった三叉路の一角に祀られているもので、江戸時代に建立されている。
【写真左】秋庭氏供養碑
 この右隣りには遣迎二尊板碑が祀られている。










現地の説明板より


“高梁市指定史跡 秋庭氏供養碑


 遣迎二尊板碑の左隣にあります。秋庭重種、重政親子が先祖の供養と、子孫繁栄のために建てた供養碑です。高さ148cm、幅は上部50cm、下部56cmの板碑型で台の上に建っています。刻文から元禄16年(1703)2月に製作されたことが分かります。
 昭和50年5月1日指定 岡山県教育委員会・高梁市教育委員会”

関連投稿
 秋庭氏累代の墓(岡山県高梁市有漢町有漢茶堂)
 阿瀬尾城(岡山県新見市哲多町田渕)

2012年4月7日土曜日

笹向城(岡山県真庭市三崎)

篠向城(ささぶきじょう)

●所在地 岡山県真庭市三崎
●別名 篠葺城・篠吹城
●築城年 14世紀中頃以前
●築城者 飯田氏
●城主 飯田氏、赤松氏、山名氏、毛利氏、江原氏など
●形態 山城
●遺構 郭・石垣・竪堀・根小屋跡・井戸
●高さ 401m(比高250m)
●登城日 2011年8月5日

◆解説(参考文献『日本城郭体系第13巻』『新訂「倭文往来」(現代語訳版)』等)
 以前紹介した美作の岩屋城(岡山県津山市中北上)と同じく、管理人がよく利用する米子自動車道が落合JCTに合流する手前で毎回目にしてきている山城である。
【写真左】篠向城遠望
 北麓側からみたもので、雨上がりのため蒸発した雲がかかっている。









 そういう訳で、篠向城の位置はずいぶん前から分かっていたのだが、登城口がどのあたりなのかわからず、いずれ分かった段階で登城しようと考えていた。昨年の8月になって、やっと登城口の位置が分かったのだが、山城探訪としてはもっとも条件の悪い夏であった。

現地の説明板より

“篠向城跡(ささぶきじょうせき)
 中世の山城、篠向城は西に旭川と目木川の合流地点を、また眼下には出雲往来と備前往来を望む標高419mの篠向山頂に所在し、古くからこの大庭の地は水陸の交通の要衝であった。


 築城者、築城年は明らかでないが『太平記』によると、康安元年(1361)篠向城に籠っていた飯田一族は、山名氏の美作侵攻に降参し、その後、赤松氏の手に移ったが、嘉吉の乱(1441)にあたり、赤松性貞(しょうてい)の兵が立て籠もるも、山名教之の兵により落城した。
【写真左】篠向城縄張図
 昭和55年に発行された『日本城郭体系第13巻』の付図では本丸と二の丸しか表示されていないが、現地に設置されたこの図では主だった遺構はすべて配置表記されている。


 この図では、左(西側)から、三の丸・二の丸・一の丸(本丸)とあり、その南方に「普門寺跡」も明記されている。


 さらに文亀年中(1501~04)には、高田城主・三浦貞連が城に拠っていた山名右近亮を討ち取り、家臣の福島・金田氏に城を守らせた。


 天正7年(1579)宇喜多氏と、毛利氏の対立の際、江原兵庫助親次は、寺畑城(現真庭市久世)に籠城したが、翌8年(1580)毛利勢の攻勢に城を明け渡し篠向城に落ち延びた。
 さらに、親次は翌年には毛利氏に降参、篠向城から退いた。


 その後、天正12年(1584)美作の国は、宇喜多氏の領国となり、篠向城は再び江原氏の居城として、江原兵庫助親次が城主となった。
 しかし、慶長3年(1598)朝鮮の役に参戦した親次は、釜山で病死、その後に廃城となり篠向城は約240年にわたる山城としての役目を終えた。
【写真左】二の丸へ向かう。
 登城道は整備されているとはいえ、幅員は大分狭く、軽自動車の四駆ならいいが、普通車では結構注意を要する。


 終点が駐車場となっていて、本丸と二の丸の間の鞍部(帯郭か)を活用している。
 手前が駐車場側で、二の丸へは徒歩で向かう。
 
 この城の最大の特徴は竪堀の多さであり、約50本の竪堀を有し、長いものは70mを超えるものもある。
 近辺に存在する中世の城跡でこれほど規模の大きいものは珍しく、重要な城であったことがうかがえる貴重な城跡である。
 平成23年3月
   大庭地域自主組織”
【写真左】二の丸跡
 久世テレビ放送所とあり、NHKを始め地元テレビ局が共用している施設のようだ。


 二の丸跡をほとんどこの施設が占用していることや、周囲の伐採もしていないため、遺構の確認はしていない。




 篠向城は説明板にもあるように、出雲往来と備前往来が行き交う場所である。麓を流れる旭川を挟んで、出雲街道を西進すると、勝山の美作・高田城(岡山県真庭市勝山)が控え、逆に進めば先ほどの岩屋城が北方に聳える。
【写真左】普門寺跡方面
 本丸から南に下がると「普門寺跡」が記されているが、この写真は二の丸から本丸に向かう途中に見たもので、普門寺跡は左の方へ降っていくと繋がる。




尼子氏の美作侵攻

 説明板にもあるように、文亀年中(1501~04)には、高田城主・三浦貞連が城に拠っていた山名右近亮を討ち取り、家臣に城を守らせたとある。この後、貞連の子貞国に至ると、真庭郡のほぼ全域を支配することになる。

しかし、永正17年(1520)ごろになると、美作・高田城(岡山県真庭市勝山)その1でも触れたように、尼子経久は西方から、赤松・浦上村宗らが東方から美作へ侵攻してくるようになる。
【写真左】本丸(一の丸)へ向かう
 二の丸を見た後、再び駐車場側に戻り、本丸に向かう。南側に登城道が設置されているが、これとは別に北にも直接登る道が確認できた。


 この写真は南側に設置されているもので、この先に行くと鋭角に曲がって本丸西側の道を進む。


 享禄5年・天文元年(1532)、尼子晴久は三浦氏の居城・高田城を落とし、貞国は討死、貞久が高田城の10代城主となったが、天文9年(1540)には尼子氏の新宮党頭領・尼子国久(新宮党館(島根県安来市広瀬町広瀬新宮)参照)が5千余騎で攻め、高田城とこの篠向城も落城した。

【写真左】本丸北側の下段にある腰郭
 上記の道を進むと、途中でまた別の中継所の施設が出てくる。


この写真の右上に本丸が控えているので、本丸に付随する郭跡と思われる。



江原親次

天正4年(1576)に三浦氏が毛利輝元によって完全に滅ぼされたあと、篠向城を始め大寺畑城・小寺畑城は宇喜多直家の支配下となった。しかし、3年後の天正7年、以前にも述べたように直家は突然毛利氏に背き、織田信長についた。

 このため、毛利方の吉川元春らは、篠向城及び上記二つの支城も攻め落としている。
 しかし、再び宇喜多氏は毛利氏と和議を結び、高梁川以東は宇喜多氏の支配下となっている。この処置の結果、篠向城は江原親次が当城の城主となった。
【写真左】本丸・その1
 先ほどの道を九十九折し、南進していくと、本丸の西側の中間点にある入口に到達する。


 この写真はそこから南側を見たもので、長さはかなりありそうだ。



 「日本城郭体系第13巻」によれば、親次は宇喜多直家の女婿とある。元々久米郡倭文郷の豪族として、中山手村常山城主で、油木村高山城主も兼ねていたとしている。また「倭文往来」という史料によると、親次は、江原兵庫助景親とある。

 篠向城主となった親次であるが、実際の管理体制は、親次は常山城を居城として、父の和泉守と弟又四郎が篠向城と高山城を交代で守備していたとされる。
【写真左】本丸・その2
 本丸の規模はおよそ長径50m×短径30m余ほどで、北西側半分のところがご覧の通り約1mほど高くなっている。


 史料によれば、北端部に井戸跡があるとされているが、現地を見た限りそれらしき遺構は確認できなかった。



 参考までに油木(北)村の高山城は、永正年間(1500~20)土居兵庫頭が築き、700貫の領地を有し、倭文庄史(管理役人)となった。その後、赤松飛騨守範景が入部し、その子高山権之介は浦上宗景によって滅亡し、宇喜多直家の支配下(江原氏)となった。
 また、中山手村常山城については、おそらく高山城と同じく国道429号線沿いの北方に聳える江原城のことと思われるが、断定はできない。
【写真左】本丸から北方を見る。
 篠向城からの眺望はあまりよくない。


この写真は本丸北端部からかすかに見えた景色で、山陰から伸びる米子自動車道が少し見える。
【写真左】一の丸(本丸)南の郭
 一の丸の南から東にかけて帯郭が取り巻く。この写真では、左側の斜面が本丸側となる。


奥に向かうと、ぐるっと東側に回り込んで東に延びる郭に繋がる。
【写真左】南の郭から本丸を見上げる。
 この位置からは高さ5m程度だが、北に向かっていくとさらに高低差が出てくる。
【写真左】竪堀群
 当城の特徴の一つとされる竪堀群がある個所だが、現地は杉の植林と、伐採の残物や雑草であまりよく見えない。
【写真左】本丸東下付近
 先ほどの箇所から東側の細い帯郭(犬走りか)を北に進むと、この位置から南東方向に向かって細長い郭段が続くが、この写真はその始点箇所。


 なお、史料によればこの写真の右側に本丸に向かって登り口のような痕跡があると記されているが、現地は整備されていないため判然としない。
 ここにも小型のアンテナ設備が設置されている。
【写真左】南東方向に延びる郭群・その1
 次第に下っていく感じとなっており、北側(左側)が険峻な切崖で、右側には部分的に段差を設けた小郭が混在している。
【写真左】南東方向に延びる郭群・その2
 幅は5~10m程度と細いが、この郭群の総延長は250~300mと長大なもので、踏査するとその規模に驚く。


 この写真は前半部分のものだが、左側はかなり規模の大きい土塁が50m程度連続し、右側には細長い郭が並行して続く。
【写真左】【写真左】南東方向に延びる郭群・その3
 物見の岩塊
 150m程度下ったところにあるもので、土塁の延長上に極端に突起した高まりが設けられている。おそらく物見としての役目をもったものだろう。
【写真左】【写真左】南東方向に延びる郭群・その4 
 土塁と郭
 篠向城の特徴は竪堀とされているが、管理人からすれば、この南東方向に延びる郭群のほうがより特徴的と思える。


 この箇所も左側から手前にかけてL字状の土塁を設け、その下の平坦地中央部を少し高くした遺構が残っている。
【写真左】【写真左】南東方向に延びる郭群・その5
 土塁と郭(続き)
 用途がはっきりしないが、中央部の高くなった場所には建物があったのではないかと想像さえできる。


 というのも、下の写真でも示すように、この付近には礎石らしきものがかなり点在してるからである。
 この写真は土塁側から見下ろしたもの。
【写真左】礎石か
 建物もしくは、なんらかの構造物があった可能性が高い。
【写真左】五輪塔
 篠向城の西麓にある集落の一角に祀られているもので、となりには下記のような説明板が掲げられている。





“仏道と歴史の里山を巡る

 鎌倉・室町そして安土・桃山時代と、長く続く戦乱を経て江戸の足音が聞こえるまでの、ながれゆく年月の間に亡くなった人たちの供養として、中世の山城「篠向」の麓・大庭の里には、五輪の塔が百数十基、また、大日如来の石仏が四十数体点在しています。
 お釈迦様が大日如来として教えを説かれている石仏群にお参りしながら、大師と共に里山の歴史の古道を風に吹かれて巡ってみませんか。
    合掌
 平成21年2月吉日
 篠向山 普門寺 住職
    神谷 慈晃”