2012年3月21日水曜日

上月城(兵庫県佐用郡佐用町上月)・その2

上月城(こうづきじょう)・その2


●登城日 2006年11月29日、及び2011年12月13日


◆解説(参考文献『尼子物語』妹尾豊三郎編著など)
【写真左】上月城本丸跡
 本丸はきれいに整備されている。古くなっているがベンチも用意され、休息できる。








南北朝期

 上月城を築いたとされる上月氏は、赤松氏の一族とされ、始祖は山田次郎景盛(父・則景)とされている。
 上月城を築いたのはその景盛で、延元元年(1336)といわれる。延元元年、すなわち建武3年であり、南北朝騒乱の時代が始まる年である。
【写真左】上月氏の碑
 麓に「上月氏発祥之地」と刻銘された石碑が建立されている。








 播磨におけるこのころの支配者は、赤松円心(則村)である。元弘3年(1333)5月、後醍醐天皇の命によって六条忠顕・足利尊氏らと鎌倉幕府倒幕のため、六波羅を攻略してから3年後、建武の新政は論功ある武家方にとって思い描いた世界とならなかった。ために、尊氏を中心とした武家方と後醍醐天皇を中心とした宮方に分裂した。
【写真左】上月城略図
 本丸に設置されているもので、左側が北を示している。この日は東側(上部)の登山口から向かう。















 円心はのちに武家方として尊氏につくことになるが、その背景には朝廷内における権力闘争がある。

 特に円心は建武元年(1334)の護良親王失脚によってその権力は削ぎ落とされ、やむなく地元播磨佐用に戻った。

 上月城の築城期は建武3年(延元元年:1336年)といわれている。この前年宮方の新田義貞らは、西下した尊氏を追って西進するが、これを食い止めるため、円心は赤穂郡上郡に白旗城(兵庫県赤穂郡上郡町赤松)を築いたといわれる。おそらく、上月城も同じ目的で築城されたと考えられる。
【写真左】登山口
 北麓には上月郷土資料館や広い駐車場が確保されている。

 この位置から本丸までは380mと記されている。傾斜はあるものの、九十九折の道で要所には階段が設置され、歩きやすくなっている。



戦国期

 上月城の主だった動きは、前稿の説明板のように秀吉方(信長)と毛利方との争奪戦であった。上月城の位置は、西国の山陽側と山陰側のほぼ中間点に当たる。
 つまり、出雲・美作・備中方面に向かう際の要衝である。西播磨の上月城を抑えることは双方にとって雌雄を決する重要な位置であった。
【写真左】東側の最初の郭
 東側登城道で最初に見えてくる郭で、4,5m四方の規模のもの。この場所は戦略的にも東方を睨む重要な場所だったと思われる。



 秀吉は事前に上月城の城主・赤松蔵人大輔政範に対し、根気よく恭順を進めている。そして、この年(天正5年)の10月19日、城内では政範を中心に評定が開かれた。

 その結果、政範らは毛利氏との盟約を重んじ、秀吉の誘いを断ることになる。この知らせを知った秀吉は、翌月(11月)27日、総勢1万余騎を率いて姫路を経ち、上月城へ向かった。
【写真左】堀切
 上月城の主だった堀切は4か所認められている。このうち、東側については1か所のみで、残りの3か所は西側、すなわち三の丸側の防御に集中している。


 この写真は東側のもので、現在は大分埋まっているが、細い尾根なので当時は効果も大きかったものと思われる。


 秀吉が上月城に向かったという知らせを聞いた岡山城の宇喜多直家は、支援に向かったが、時すでに遅く、籠城40日後(実際の戦いは8日間)、政範は幼い姫二入を刺し、妻共々自らも自害した。その後の秀吉の処置は、説明板にもあるように、残った城中将士はおろか、女子子供200人も串刺し、磔にして毛利方に見せしめのため四方の隣国(備前・美作・播磨)国境付近にさらしたという。

 この後、同月6日、秀吉は姫路に一旦凱旋し、奪取した上月城の城番として山中鹿助が指名された。「備前軍記」によれば、12月3日に尼子勝久・山中鹿助が、それまで待機していた播磨・三木城より秀吉の命によって移ったとされている。
【写真左】本丸直下の腰郭
 堀切を越えると、しばらくして緩やかな道となり、本丸直下で、2段の腰郭が出てくる。
 この写真の郭は、本丸側直下の郭で、この郭はそのまま幅を狭めながら南側に回り込んでいるので、帯郭の形状になっている。


本丸はこの写真では右側になる。
 伐採した枝木がそのままになっているため、分かりにくいが、この郭段と本丸側の比高は約5m前後ある。


 ただ、別説では、当初上月城に入ったのは鹿助のみで、一旦入城したあと、部下を残し、京にあった尼子勝久らを迎えに行ったという。そして鹿助が不在であることを知った宇喜多直家は、部将真壁彦九郎治次に500余騎を与え、夜襲をかけ上月城を奪還したという。

 しかし、鹿助らが勝久を奉じ1000余騎で戻ってくると、真壁の面々は戦わずして岡山へ奔走したという説もある。
【写真左】本丸・その1
 腰郭から北側の道を進んで行くと、本丸につながる。丸みを帯びた三角形で、長径40m×短径30m前後か。


 本丸の南側には東側から回り込んだ帯郭とは別に、単独に2段の腰郭がつながり、最下部には空堀状の遺構も残る。


 どちらにしても、尼子再興を目指す主だった面々が、播磨上月城に久々に聚合再会したわけである。このときの主だった面々は以下の通り。
  • 尼子勝久・尼子氏久
  • 山中鹿助・立原源太兵衛・神西三郎左衛門元通
  • 日野五郎・福屋彦太郎・亀井新十郎(茲矩)
  • 神西三郎右衛門・吉田三郎左衛門・河副右馬丞・同三郎左衛門・米原助四郎・目黒助次郎・月坂助太郎・平野源介・屋葺右兵衛尉・津森宗兵衛・宇山弥太郎・三吉三郎左衛門・小林勘介・熊谷新右衛門・大塚弥三郎・日野又五郎・田原右衛門尉・大野平兵衛・福山弥次郎・同内蔵充・青砥助治郎・中井與次郎・片桐治部充・渡辺内蔵助・江見平内・加藤彦四郎・妹尾重兵衛・池田縫殿充・本田平次郎・野津次郎四郎・江見九郎太郎・同源内左衛門・加藤新右衛門・足立次兵衛・弟慶松・目加田采女正・同弾右衛門・寺本市之丞・法城寺理安・進藤勘助・秋里目・進左吉兵衛・馬田長左衛門・山佐民部少輔・古志九郎次郎・高橋佐渡守など
以上の者を併せ約2,500余騎といわれている。
【写真左】本丸・その2
 赤松政範の碑
 本丸北側には天正5年(1577)12月3日、秀吉に攻められ落城、自害した城主赤松政範の石碑が建立されている。
 左右の碑は殉死した家臣のものだろう。



 天正6年(1578)2月、織田信長に恭順を示していた三木城(兵庫県三木市上の丸)の別所長治が突然反旗を翻した。長治が毛利氏と盟約を結んだからである。これにより、秀吉側は挟み撃ちの形となった。このため、秀吉は後方から攻められる形を防ぐため、東播磨の三木城に向かうことになる。

 この別所長治の動きは、当然ながら毛利方にとって好機となり、4月になると、吉川元春・小早川隆景らは播磨へ出陣し、輝元は備中松山城(岡山県高梁市内山下)へ本陣を移した。そして、上月城に拠る尼子勝久・山中鹿助らを3万の兵で包囲することになる。
【写真左】大平山の上月城
 鎌倉後期(南北朝)時代、上月次郎景盛が最初に築いたといわれる大平山(樫山)の上月城。

 谷を隔てた北側にある山で、本丸から正対する位置にある。
 大平山の方が大分高いようだ。


 その後、三木城を攻めていた秀吉は、この動きに対し、主だった兵力を三木城に残し、一旦荒木村重とともに1万の兵で上月城へ救援に赴くが、毛利氏の3万(別説では5万ともいわれている)に対し、秀吉方はわずか1万の兵であった。

 秀吉方はなす術もなく、その上、三木城の動きが混沌としていた。結局、秀吉は上月城支援よりも、三木城攻略を優先せざるを得なかった。

 この間、秀吉側と上月城側の情報連絡をしていたのが、亀井茲矩(亀井茲矩の墓(鳥取県鳥取市鹿野町寺内)参照)といわれている。
 秀吉が上月城支援を諦め、高倉山から引くことを決定した際、茲矩は厳重な毛利方の包囲網をついて上月城の鹿助らに、速やかな退城を進めている。しかし、現実には籠城兵が無事退城できる保証もなかったうえ、兵糧も底をつき、心身の疲労は極地に達していた。
【写真左】本丸から二の丸へ向かう。
 本丸から西に向かって再び細い尾根が続くが、平坦な形状で、№4の郭とされている。
 なお、上月城は全体に北側(この写真では右側)が険峻な切崖となっている。



 孤立無援となった上月城内では、ついに降伏に向けて評定が開かれた。そして毛利方との交渉が使者を使って行われたが、上月城側の懇請した内容は毫も聞き入られず、最後通牒は次のようなものであった。
  1. 城主勝久は罪状重く自害のこと。
  2. 神西三郎右衛門・加藤彦四郎・池田甚四郎も自害のこと。
  3. 山中鹿助は赦すべくものなしなれど、降伏開城の処理を行ったのち、改めて処置を通知する。
  4. 立原源太兵衛は赦すべくものなしなれど、病中の身なれば快癒を待って処分のこと。
  5. その他、籠城の部将・兵卒は悉く助命を認め、開城とともに退散を許す。
  6. 女どもについては一切詮議及ばず。
  7. 開城に当たっては、すべて鹿助によって行うこと。


神西元通の自刃

 毛利氏側の最後通牒の前、上月城では神西三郎左衛門元通が、毛利氏方に厳しい降伏の条件を緩和するよう自害を以て示した。自害した場所は、「城の尾崎」という毛利方からもよく見える郭先端部といわれているので、写真で示した本丸の東方にある郭(現地№8または№7あたり)だろう。
【写真左】二の丸
 №4の郭を過ぎると、二の丸が控える。
 幅7,8m前後×長さ70m前後で、当城の中ではもっとも規模が大きい。





 神西元通については、神西城(島根県出雲市東神西)(その1)や、伯耆国の末吉城(鳥取県西伯郡大山町末吉)でも紹介しているが、月山富田城が落城した後、一時毛利氏に降っていた。そして鹿助が尼子再興を計った際、再び帰順しその後鹿助らと行動を共にしてきた老臣である。
【写真左】上月城麓にある神西三郎左衛門元通公追悼之碑
「出雲市神西城址縁の会」という団体が、平成9年(1997)7月2日、すなわち元通が自刃したとされる日に建立している。





 元通は文武両道に秀でた武将で、尼子譜代の家臣ではなかったが、その人望は厚く、文化人でもあった。

 元通の妻は、因幡私部城攻めにおいて毛利氏に降伏した森脇市正久仍の実姉である。妻も上月城に同行していて、夫と一緒に自害するといったが、元通がそれを許さず、上月城落城後、京都に上がり仏門に入ったが、大変な美貌であったため、織田信長の家臣・不破将監に度々再婚を迫られ、後に世をはかなみ桂川に身を投じたという。

 山中鹿助及び勝久などのその後については、次稿で紹介したいと思う。
【写真左】二の丸付近から北方に利神城を見る。
 現地に「利神城(りかんじょう)」の位置を示したものが設置されている。
 天正5年の秀吉攻めの際、上月城と同じく敵対した。
 この写真では中央やや左側となるようだが、はっきりとは見えない。
【写真左】三の丸
 №3の郭とされているもので、二の丸からさらに西に向かって1mほどの段差を持たせたのち、約20m程度の長さの規模で繋がれている。
【写真左】堀切
 三の丸を過ぎると一気に降るが、その途中には当城で最大の堀切と竪堀が見えていくる。
 この堀切はそのまま尾根両面に竪堀となって下っている。
 ここでも北側に6,7か所の竪堀が設置されているようだ。



◎関連投稿
長生寺城(山口県下関市豊田町大字殿敷長正司公園)

2012年3月13日火曜日

上月城(兵庫県佐用郡佐用町上月)・その1

上月城(こうづきじょう)・その1

●所在地 兵庫県佐用郡佐用町上月
●築城期 建武3年・延元元年(1336)
●築城者 上月景盛
●高さ 140m
●城主 上月氏、赤松氏、尼子勝久等
●遺構 土塁・石垣・空堀・郭等
●登城日 2006年11月29日、及び2011年12月13日

◆解説(参考文献『山中鹿助幸盛」妹尾豊三郎編著等)
 出雲街道(国道179号線)と赤穂市から鳥取市まで北進する国道373号線の合流点で、旧上月町(現佐用町)に築かれた山城である。上月城の東麓を流れる佐用川は、そこから大きな蛇行を繰り返し、千種川と合流し赤穂の港から播磨灘へと注ぎ込む。
上月城は出雲尼子氏の再興を計った山中鹿助らの最期の戦いとなった場所である。
【写真左】上月城遠望
 北側から見たもの。
上月城の標高は140m前後であるから、山城としては低い方の部類に入る。
 しかし、山そのものは両側が険峻な構成をなしている。



現地の説明板より

“上月城の沿革と攻防
  上月城は、鎌倉時代末期(1300年代)に上月次郎景盛(宇野播磨守入道山田則景の息)が、大平山(樫山)に初めて築いたと伝えられている。
 上月氏は景盛、盛忠、義景、景満と続くが、そのいずれかの時、本城を谷を隔てた南の荒神山に移したと思われる。これが現在の上月城跡で、中世山城の様態をよく残している。

 赤松氏は、播磨・備前・美作三か国の守護など大きな勢力を持っていたが、嘉吉の乱(1441)で、惣領家が没落することになり、播磨も山名氏の支配するところとなる。その後、赤松政則が赤松氏を再興し、播磨を回復するが、山名、赤松、尼子等が攻防を繰り返すこととなる。

 天正5年(1577)織田信長は毛利氏攻めのため、羽柴秀吉を総大将として播磨に入り、毛利に与した佐用の福原城を攻略し、高倉山に本陣を置き、1万5千の軍勢で上月城を包囲し、救援に駆けつけた宇喜多直家の軍を退け、12月3日遂に上月城は落城、政範は自刃して果てた。秀吉は、城中将士の首を悉くはねた上、見せしめのため、城中の女子子供200人を串刺しと、磔にして備前美作播磨の国境付近にさらした。

 秀吉はこの後、上月城を尼子勝久、山中鹿助に守らしめた。上月城に入った尼子氏は、一時宇喜多勢に攻められ撤退し、宇喜多はこれを上月十郎景貞に守らしたが、再び秀吉軍により落城したとされる。景貞は、敗退中櫛田の山中で自刃したと伝えられる。

 再び尼子勝久、山中鹿助は上月城に入ったが、毛利軍は山陰、山陽の両道より3万の軍勢を以て、天正6年(1578)4月18日、上月城を包囲した。秀吉は急ぎ救援のため、高倉山に陣を進めたが、三木城攻略のため、6月26日、高倉山より兵を引いた。このため、上月城は孤立し遂に7月5日、勝久は毛利氏に降伏し、開城自刃した。山中鹿助は備中の毛利輝元の陣へ護送の途中、高梁川の合の渡しで斬殺され、その果敢な生涯を終えた。

 この天正年間の攻防が上月合戦と呼ばれるもので、上月城はその後、廃城となり今日に至っている。文政8年(1825)赤松氏落城の時の守将の末裔大谷義章が、250回忌を営み慰霊碑を建立したものが山上に残されている。
    佐用町観光協会
    上月歴史研究会”


「アマコさん」と鹿助の話

手元に次のような古い小冊子がある。
  • 「山陰の麒麟児 山中鹿介幸盛公小傳」 出雲・廣瀬・三日月少年団編輯 東京・島根タイムス社発行
【写真左】「山中鹿介幸盛公小傳」
 幸盛叢書第二輯のもので、第一輯は「尼子氏と富田城」(並河栄四郎著)であるが、これについては手にしていない。











 この冊子は、昭和15年9月1日発行で、発売所は、島根県能義郡廣瀬町小学校内 廣瀬町教育会、と記されている。
本著には、前大蔵大臣 桜内幸雄氏が次のような「序」を寄せている(前段省略)。

“今や世界動乱の裡に東亜の大共栄圏確立を目指して聖戦を続けつつある際、大切な一事はお互い国民が〝幸盛精神″に透徹することであると思う。
 自分は富田城下に生を享け夙に幸盛公を偲び修養に努め来ったのであるが、此度廣瀬校の三日月少年團が紀元二千六百年記念事業の一として「山中鹿介小傳」頒布を企画し、専ら山野邊良一君編輯に當られたりと聞く、洵に時宜に適した計畫であると思う。
 時局下青少年訓育の上に裨益する處蓋し大なるべきを信じ、敢て序を寄せて江湖に推薦する次第である。
 昭和15年8月
    櫻内 幸雄”
【写真左】末尾にある「山中鹿介の歌」
1番から6番まで歌詞が作られているが、どうしたわけか譜面が添付されていないので、メロディーは分からない。



 大正生まれで10数年前に亡くなった父親が、若いころ酒のほろ酔い気分で出雲の戦国時代を断片的に話してくれたことがある。

 地元出雲ではよく昔の話を引き合いに出すとき、「そんな、アマコさんのころは分からんわー…」と、記憶がないことをこのセリフでごまかすことがある。

 子供の頃、この「アマコさん」なる人物が誰なのか、しばらくは知ることがなかった。「アマコ」という響きから、「アマ子」という名前の女性がいたのだろう、と勝手に想像していた。

 その後、「アマコさん」が「尼子(さん)」であることが分かりかけた頃だろう、父に「尼子」のことを聞くようになった。しかし、父から「尼子」そのものの話はあまり聞いた覚えがない。ただ、決まって最後は、「山中鹿助」の話になっていたことは覚えている。
【写真左】山中鹿助の石碑
 上月城の北麓には当城にかかわった武将の慰霊碑など、かなりの数が建立されている。






 「七難八苦を我に授けたまえ」と三日月に向かって崇拝した、というくだりになると、本人も興に乗って、さしずめ浪曲師か講談師調の口調となった。テレビも未だ定着していない時代である。鹿助の史実に基づく戦歴など父は知る由もない。

 こうして父の「鹿助物語」は、「七難八苦」以外その都度脚色され、大言壮語な改訂版を息子は拝聴することになる。ほとんど「創作童話」の世界であるが、おもしろかった。今思えば、物心ついたころから祖母に「昔話」をせがんでいた癖は、しばらく父の「鹿助物語」まで続いていたようだ。

 大正から昭和初期ごろに生まれた男性は、大なり小なりいわゆる戦前教育としてのステータスである忠君愛国的精神を受けている。父もその例外ではない。上掲した昭和15年発行の「山陰の麒麟児 山中鹿介幸盛公小傳」などは、その典型的なテキストとして活用され、出雲では「鹿助」がもっとも少年たちのシンボルとなっていった。

「上月城」の稿でありながら、大分脱線してしまった。次稿で改めて紹介したい。

2012年3月11日日曜日

津居山城(兵庫県豊岡市津居山)

津居山城(ついやまじょう)

●所在地 兵庫県豊岡市津居山●築城期 室町時代
●築城者 奈佐氏、または垣屋氏
●城主 奈佐日本助等
●高さ 113m(比高113m)
●遺構 郭、堀切、土塁
●備考 石造九重塔
●登城日 2012年3月7日

◆解説(参考文献「1990年度、兵庫県指定文化財 石造九重塔解体修理工事概要報告書」等)

 前々稿「鶴城」の麓を流れる円山川は、長さにおいては当県(兵庫)では68キロで5番目ながら、流域面積では2番目を誇る。
【写真左】津居山城遠望
 南東麓の瀬戸付近から見たもので、ほぼ中央部が主郭の位置になる。







 現地に足を踏み入れて驚くのが、円山川の水面と、西岸堤防を走る道路(豊岡瀬戸線:県道3号線)面との比高差がほとんどないことである。

 その上、河口から16キロも入った内陸の出石川まで、塩分が入ってくるというから、いかに勾配のない川であるかわかる。このため、下流の各河川には要所に水門が設置され、塩害対策を含めた治水管理をしているという。

 さて、その主流円山川が日本海に注ぐ西岸突端には、津居山という標高100m余りの独立峰が屹立している。
 この津居山は元々本土側と分離した島だったようで、現在でも北から南にかけて幅30m程度の水道(海峡)が残っていることから、「瀬戸」と呼ばれる地区がある。
【写真左】照満寺本堂
 津居山城のある尾根の北側の谷に建立されている浄土真宗本願寺派寺院。
 創建期や津居山城との関係は不明だが、何らかの関わりがあったかもしれない。




 津居山城は、室町期にこの津居山に水軍城として築かれたといわれている。
当城については、詳細な記録は残っていないが、山名氏が但馬国守護となったころと推測できる。

そして、戦国期に至ると、津居山城には奈佐日本助が在城したといわれる。
【写真左】登城口
 港町特有の狭い通りのため、駐車場は皆無である。このため、照満寺の墓地専用駐車場を借りた。


 たまたま、近くに当院檀家総代の御年輩の方お二人がおられ、許可を頂き、さらに当城についての情報を訪ねたが、八幡神社は知っているが、この山が城であることは全く知らない、という。


 むしろ、こちらの質問よりも、我々が出雲から来たことに驚いておられたようで、とりあえず登城道のみの情報を頂いた。
津居山城の尾根筋の東端部に八幡神社が祀られているが、登城口はこの参道を使う。なお、このコースとは別に反対側の瀬戸からもあるようだが、駐車の関係でこちらから向かう。
【写真左】八幡神社
 館城跡ともいわれている場所で、幅約20m×長さ100m弱の規模を持つ。


 先ほどの御年輩の方によると、近年地元の人は参拝していないとのこと。したがって祭礼行事なども行われていないのだろう。
【写真左】亀塚
 本殿の北側に建立されているもので、説明板によると、津居山沖で捕獲された縁起物の亀の供養と、村の繁栄発展、大漁を祈願して建立されたという。


 石碑の横には次のような碑文が詠まれている。


“つきせしな いくよろず代も やすらかに 
 まほもつ舟の 湊をおもへは


 文化9年(1812)壬申2月有3日
  郡宰 藤原 正義
  里正 太良 右衛門
  次長 平蔵
 治郎左衛門 者得え   與三右衛門”

奈佐日本助(なさやまとのすけ)

 奈佐日本助については、前稿但馬・朝倉城(兵庫県養父市八鹿町朝倉字向山)や、出雲の満願寺城(島根県松江市西浜佐田町)・その2でも少し紹介しているが、最期は天正9年(1581)、同じ山陰海岸の西方美方郡浜坂のの城主塩冶周防守と、秀吉の鳥取城攻めの際、毛利方として戦い、丸山城で自決した。

 奈佐氏は、但馬日下部氏の庶流といわれ、室町期の守護であった山名氏の四天王の一人・八木氏の新大夫安高の二男・五郎高重が、城崎郡奈佐谷(現豊岡市奈佐谷)を安堵され、高重嫡男左衛門尉高盛が、初めて当地名から奈佐氏を名乗ったといわれている。
【写真左】南側の帯郭
 大分崩れているが、2,3m程度の幅で東西に延びている。








 奈佐氏が当初安堵された奈佐谷は、八木氏の本貫地から北東へ30キロ近くも離れた円山川支流の奈佐川が開いた谷間である。

 そして、その区域は八木氏よりもむしろ垣屋氏が支配していた竹野や、円山川東岸の田結庄氏領に近接している場所である。戦国期に至って、奈佐氏が本拠としていた内陸の奈佐谷から、日本海に突き出た津居山、すなわち日本海岸側に移った経緯ははっきりしないが、円山川という但馬最大の河川が大きく影響していたのではないかと考えられる。
【写真左】堀切
 館城(八幡神社)の後ろに構築されているもので、堀切独特のV字溝の形状ではなく、ほとんど凹字状のものとなっている。幅・長さとも5m前後の規模。


 この写真では右側が八幡神社で、堀切左を超えて本丸へ向かう。



 というのも、冒頭でも紹介したよう、円山川水系の特徴、すなわち中流域まで海水が入り込む特性を生かして、奈佐谷という内陸にあっても、船で奈佐川から主流円山川向かい、さらには日本海へ容易に移動できるという地の利を生かした水運を活動の足掛かりとしていたのではないかと考えられるからである。

 日本海を使った水運の歴史が産業史として出てくるのは、およそ鎌倉期に至ってからである。もちろんそれまでの平安期から航路の長短はあるものの、本格的な交易としての体系が確立したのは中世とされている。
【写真左】本丸へ向かう途中の道
 津居山城の本丸跡には通信無線基地があるため、道の脇に電柱が並行して走る。
 訪れたこの日は、雪解け跡だったこともあり、伸びきった草や、萱などは押し倒され、歩けたが、夏場などは難渋するだろう。


 ただ、無線基地の管理が定期的に行われているせいか、踏み跡はしっかりと残っている。
 この写真は郭段にも見えるが、電柱を設置するために盛土したようにも見える。


 石見・出雲・伯耆・因幡・但馬辺りに荘園を持つ京都の領主は、運送手段を日本海水運に求め、おおむね若狭小浜まで運び、陸揚げした後は九里半街道-琵琶湖経由で京都に持ち込んだ。

 これにより、山陰沿岸部には多くの湊や津ができ、さらには要所ごとに「海関」が設定されていく。
河川港といわれる津居山港は、そうした意味からも西隣の北前船寄港地とされた竹野港と併せ、但馬海岸の主要な海運基地としての役割を担っていくことになる。
【写真左】本丸跡
 丸みを帯びたなだらかな削平地で、30m四方程度の規模。
 現地にはNHKやaUなどの無線中継基地が設置されている。


 周囲の切崖状況はブッシュ状態のため詳細に確認はできなかったが、南側は天険の要害で、北側は谷筋となっているため、ほとんど城砦遺構はないだろう。


 奈佐氏は海賊衆ともいわれている。俗にいう「海賊」とは少し意味合いが違うが、これは南北朝期に伯耆で活躍した名和長年らと同じく、廻船業を生業としながら、交易上船舶輸送の安全・警固を自警しなければならなかった結果であって、水運上の武装は必然的なものであったと思われる。さらには、但馬守護山名氏配下として、山陰海岸の権益を確実なものとするため、水軍領主として軍船団の組織化が図られていった。
【写真左】本丸跡から西方を見る。
 眺望はあまりよくないが、西方の海岸部が枯れ枝のおかげで見える。






 さて、奈佐日本助の活躍については、前段でも紹介したように戦国に至ると、尼子氏や毛利氏の進出によって、主に西方の因幡・伯耆・出雲方面での戦歴が増えてくる。

「満願寺城」の稿でも紹介したように、山中鹿助が尼子再興軍を従えて出雲国に入ったとき、日本助も彼らに従い、水軍を以て毛利方の拠る満願寺城を攻めている。
【写真左】円山川
 下山途中から見たもので、右岸を登っていくと城崎温泉へ向かい、さらに川を上ると、豊岡市街地へつながる。






 尼子再興が潰えた後、日本助は塩冶高清と同じく、今度は毛利方として織田方羽柴秀吉の鳥取城攻めの際、北方の丸山城に拠って活躍するが、鳥取城主吉川経家の降伏によって敗れ、経家の切腹と併せ、日本助及び、塩冶高清も陣所において自刃を遂げた。
【写真左】鳥取城の支城・丸山城麓にある「奈佐日本助由縁の地」とされた慰霊碑
 鳥取市にある丸山城については、いずれ取り上げたいと思う。






石造九重塔と城砦遺構

 津居山城の東方には現在八幡社が祀られているが、この場所に兵庫県指定文化財とされている「石造九重塔」が建立されている。

 建立時期は、鎌倉中期をあまりくだらない時期と推定されているが、設置個所である八幡神社の境内は、北西に延びる山頂側(詰城)に対する館城跡と推定されている。
【写真左】石造九重塔
 高さはおそらく3m以上はあるだろう。
 若干の破損個所はあるものの、修理保全をされていることもあり、良好な状態で保たれている。








 参考までに、境内付近の遺構としては、社後方に幅10m前後の堀切を置き、北側には土塁、南側と西側には帯郭など小規模ながら密度の高い城砦遺構が残る。

昭和60年代になってこの九重塔が傾き始め、破損する恐れが出たため、復旧修理を行うことになった。そして、この事業に伴い調査も併せて行われたが、基壇石組内、及び下部から九重塔の建立時期や意図、背景などをうかがわせる遺物などは残念ながら出土しなかったという。

2012年3月6日火曜日

但馬・朝倉城(兵庫県養父市八鹿町朝倉字向山)

但馬・朝倉城(たじま・あさくらじょう)

●所在地 兵庫県養父市八鹿町朝倉字向山
●築城期 鎌倉時代か
●築城者 朝倉氏か
●高さ 150m(比高100m)
●遺構 郭・土塁・堀切など
●指定 養父市指定史跡
●登城日 2011年8月7日

◆解説
 前稿「鶴城」の麓を流れる円山川をさかのぼり、西方から流れてくる支流・八木川の南岸朝倉の地区に所在した山城である。
【写真左】但馬・朝倉城遠望
 北側から見たもので、写真中央の高い位置が本丸になる。


 登城したのが夏だったこともあり、周辺の樹木が生い茂り、探訪するにはいい時期ではなかった。


 当地は、以前紹介した越前の一乗谷朝倉氏遺跡・庭園(福井県福井市城戸ノ内町)の領主・朝倉氏の発祥の地といわれている。

現地の説明板より

“越前の大名朝倉氏発祥の地
町指定文化財 朝倉城跡 昭和43年7月31日指定
町指定文化財 宝篋印塔 昭和43年7月31日指定


 八鹿町朝倉は福井市の一乗谷で栄えた大名、朝倉氏の発祥の地である。朝倉氏は孝徳天皇の皇子、表米(ひょうまい)親王を始まりとする。平安時代末期に地名を苗字として朝倉氏が興り、朝倉高清を初代とした。その中から八木氏、宿南氏、奈佐氏などの多くの武将を輩出した。
【写真左】登城口付近
 北麓付近に集落があり、道は大変に狭い。正式な駐車場らしきものはなかったので、この写真左にあった社の境内に停めた。





 朝倉城は、集落の南西の丘陵にあり、東西130m、南北110mの規模を持つ。室町期に作られた城郭を堀切や竪堀で戦国期に改修して守りを固めている。
 
 宝篋印塔はお経をおさめた供養塔である。高さは230cmあり、塔身の月輪内には金剛界四仏の梵字を刻む。室町期の15世紀ごろの造立と推定されている。
【写真左】宝篋印塔
 指定文化財となっている宝篋印塔で、登城口の脇に建立されている。
 劣化は少なく保存状態はいいようだ。




 トゲがなく味香りが優れている朝倉山椒の原産地である。出石藩から将軍徳川秀忠公に献上されたほか、朝倉義景公にも献上された。朝倉という集落名が、様々な由緒を育みながら歴史と伝統の重みを現代に伝えている。


 平成13年5月
 朝倉城跡保存会・八鹿町教育委員会”
【写真左】登城道
 東側から南側へ回り込むコースとなっており、管理もされ踏み跡もあることから、結構登っているようだ。






但馬・朝倉氏

 但馬・朝倉氏の出自については、説明板にもあるように、「朝倉氏は孝徳天皇の皇子、表米(ひょうまい)親王を始まり」、としているが、別説では開化天皇(紀元前208~98)の孫・狭穂彦王に始まる但馬国造の日下部君の後裔ともいわれている。もっとも、あまりにも古い伝承なので真偽のほどは分からない。

ただ、この日下部氏は、その後下って庶流に前稿でも紹介した「太田垣氏」「八木氏」そして、本稿の「朝倉氏」を輩出したことは確かである。
【写真左】本丸直下
 当城の規模はさほど大きなものでなく、また縄張りも単純な構成となっている。


 中央部に本丸を置き、周囲に帯郭が取り巻くという構図だが、西側にかけては3,4段の腰郭が残る。


 一乗谷朝倉氏遺跡・庭園(福井県福井市城戸ノ内町)の稿でも記したように、南北朝時代養父郡で勢威を張っていた豪族朝倉氏は、主家であった斯波高経に従って越前に入国したのが移住のきっかけと思われる。

 その際、朝倉家一族挙げて越前に入ったわけではなく、地元但馬に一部は残ったと考えられる。
【写真左】本丸
 若干の段差はあるものの、ほとんど平坦な仕上げで、東西2,30m、南北10m前後か。
【写真左】土塁跡
 草が繁茂しているため、分かりづらいが東方の帯郭の一角に残る。
 全体に当城は東方の防御に意を用いているようだ。


【写真左】北西側の帯郭から東方を見る。
 本丸下の帯郭は西側の奥行が長く、北に向かって次第に細くなり、最少3m前後となるが、そのまま東側に向かうと再び奥行が伸びる。


 写真右の奥に向かうと、日下部氏庶流・山名四天王の一人といわれた八木氏の八木城(兵庫県養父市八鹿町下八木)につながる。

 中央を流れる川は八木川で、国道9号線が並行して走る。
【写真左】本丸から西方を見る。
 手前の山と向の山の間を過ぎると、八木川は主流円山川と合流していく。


 なお、この付近には朝倉城の出城といわれる「朝倉比丘尼城」や「朝倉向山城」などがある。これにらについては、『城郭放浪記』氏がすでに登城して紹介しているのでご覧いただきたい。
【写真左】奥の院観音堂
 朝倉城の脇を通って南に向かうと、十二所という地区に出るが、その途中の山中に忽然とこの堂が建っている。

 ここから約700mほど九十九折を下ったところにある新宮山本浄院満福寺の奥の院で、観音堂の脇には熊野権現が祀られている。

 中世の八木氏、太田垣氏の一族が熊野信仰の信仰者であったという。


 また、戦国末期までは14もの坊があったというから、相当な規模の修験道場だったと思われる。


本院の境内も大変に見事な造りで、秋になると見事な紅葉となるだろう。

2012年3月5日月曜日

鶴城(兵庫県豊岡市山本字鶴ヶ城)

鶴城(つるじょう)

●所在地 兵庫県豊岡市山本字鶴ヶ城
●別名 田結庄城
●築城期 室町時代(永享年間1429~41)
●築城者 山名氏
●城主 田結庄(たいのしょう)氏、垣屋氏など
●形態 山城
●高さ 112m(比高110m)
●遺構 郭・堀切・土塁等
●指定 豊岡市指定文化財
●登城日 2011年5月28日

◆解説
 鶴城は兵庫県豊岡市を流れる円山川の東岸愛宕山にあって、城域の真下を北近畿タンゴ鉄道宮津線が走る。
【写真左】鶴城遠望・その1
 北西麓の豊岡大橋東の交差点付近から見たもの。


 登城日は雨天のため、写真の出来が今一つとなった。
【写真左】鶴城遠望・その2
 赤穂浪士で有名な大石内蔵助良雄(よしたか)の妻・理玖(りく)の墓がある正福寺から見たもの。
 撮影日 2015年3月28日



現地の説明板より

“豊岡市指定文化財
 史跡 鶴城跡
〈城史〉
 鶴城は南北朝期から戦国期にかけて円山川下流域に勢力を振るい、「山名四天王」の一人に数えられた国人・田結庄氏の居城である。


 伝承では、永享年間(1429~41)の但馬守護山名宗全による築城であるという。天正3年(1575)10月に起こった野田合戦で垣屋豊継らに攻められ城主・田結庄是義は、菩提寺の(旧)正福寺で自害した。その後、天正8年(1580)まで豊継の支配するところとなった。
【写真左】案内図
 登山口に設置されているもので、これを見ると登城口は5か所あるようだ。この日は左下の現在地という船町天満宮近くの箇所から向かった。








〈縄張り〉
 鶴の後尾部にあたる主郭Ⅰの背後を2段の堀切で切断して城域を確保し、北西方向には土塁を多用した曲輪を配置し、南方向には大きい曲輪(Ⅱ・Ⅲ・Ⅳ)を配している。


 愛宕神社南側の尾根には小曲輪を多用し、曲輪Ⅵのあたりは土塁と竪堀で防御している。特徴的なのは、主郭Ⅰの北側と東側斜面には戦国期特有の畝状竪堀を設けて防御を堅固なものにしていることである。
 城域は、南北660m、東西460mを図る大規模なもので、国人・田結庄氏にふさわしい規模と縄張りを有し、但馬でも有数の城郭である。
【写真上】縄張図
 説明板にもあるように、鶴城の特徴は東側に夥しい数の畝状竪堀群が配置されていることである。


〈愛宕神社・宝城寺跡〉
 元和5年(1619)、城跡に愛宕大権現を勧請、別当寺として宝城寺が置かれ、豊岡城下の辰巳にあって歴代領主家の祈願所となった。明治以降、宝城寺は廃され、代わって愛宕神社が置かれた。
    平成7年3月 豊岡市教育委員会”


室町幕府の衰退

 室町幕府の安定期は3代・義満の時代である。しかし、4代目の義持は父とは違う執政を布いた。 三管領(斯波・細川・畠山)と、四職(山名・赤松・京極・一色)という有力守護の合議制による幕政は、当初から各々の主導権争いの種をまき、さらには義持自身が後継者を決めぬまま亡くなると、6代将軍は石清水八幡宮の「くじ」によって義教が選ばれた。

【写真左】足利義教の墓(首塚)がある安国寺
 所在地 兵庫県加東市新定851








 その義教は、父義満にならって幕府・将軍権力の再強化をすべく、独裁専制政治を強行した。

 このために嘉吉元年(1441)6月24日、四職の一人・赤松満祐は京都の私邸において、義教を謀殺(嘉吉の変)、これをきっかけに、以後、次期将軍争い、幕府内の権力闘争、畠山氏の後継者争い、斯波氏の後継者争いなどが重層的連鎖となって続き、ついに応仁の乱という未曽有の大乱へと向かうことになる。
【写真左】足利義教の墓
 加東市指定文化財の宝篋印塔。


 謀殺した赤松満祐は、義教の首級を奉じて播磨の堀殿城に帰参した。
 そして、そこから大行列を伴って当院まで運び、播磨の禅僧を多数集め、盛大な法要を営んで葬ったという。
 堀殿城は別名河合城とも呼ばれ、小野市新部町字構にあったとされるが、現地はすでに田圃となっている。『城郭放浪記』氏が紹介しているので、ご覧いただきたい。

山名氏の但馬支配

 これまで度々紹介してきたように、山名氏は南北朝期の貞治3年(正平19:1364)、時氏(山名寺・山名時氏墓(鳥取県倉吉市巌城)参照)の代に丹波・但馬・美作・因幡・伯耆の各国を領有し、第一期の隆盛を迎える。その後、明徳2年(1391)に起こった明徳の乱において、一敗地にまみれ、但馬・因幡・伯耆の三国に縮小された。

 時氏が没したのは応安4年(1371)だが、彼には多くの嫡男がいた。このうち、5男・時義の孫(時煕(ときひろ)の子)・持豊(宗全)(船岡山城(京都府京都市北区紫野北舟岡町)参照)の代になると、嘉吉の乱が勃発し、宗全はこの功により備後・安芸・石見・備前・美作・但馬・播磨等を領有、再び山名氏の第二期黄金時代を迎える。
【写真左】愛宕神社の鳥居
 妙見堂を抜けてしばらく行くと、この鳥居が見える。江戸期に入った元和5年に建立されたという。
 戦国期まではこの削平地は郭としての機能を持っていたものと思われる。


応仁の乱

 そして前述したように、応仁の乱(1467~77)が起こると、宗全は西軍の総大将となり、出石の此隅山城(兵庫県豊岡市出石町宮内)に各国の諸将を集結させ、京都に向かった。
【写真左】此隅山城遠望
 所在地 豊岡市出石町 H:140m
 応安5年(1372)山名時義築城。応仁元年(1467)山名氏の軍勢26,000余騎が当城に馳せ参じ、京に向かった。





 結局この応仁の乱は約10年にも及び、宗全は東軍方の細川勝元と同じく、乱が収束する前の文明5年(1473)に亡くなる。

 鶴城は説明板にもあるように、築城者はこの山名宗全とされている。応仁の乱は後に室町幕府瓦解のきっかけとなる乱だが、幕府内における権力闘争において、事実上三管領家の細川勝元と、四職家の山名宗全の主導権争いが対立軸となっていった。
【写真左】宝城寺跡
 Ⅳの郭跡で、宝城寺という寺院跡でもある。当城の郭群の中では幅がもっとも大きい。






山名四天王

 山名宗全は幕府の四職、すなわち侍所所司という京都の警護・争い調停(裁判)を務めていたため、ほとんど在京を余儀なくされていた。このため、多くの領国を所有していた山名氏は、それぞれの国に守護代をおきその権限を委任していた。

 山名四天王については、桐山城(鳥取県岩美郡岩美町浦富)でも少し紹介しているが、室町後期における山名氏の領有する国のうち、但馬国では垣屋氏がもっとも有名である。これら垣屋氏と並んで、山名氏を支えたのは、田結庄氏、八木氏、そして太田垣の四氏である。四氏は戦国期に至ると「山名四天王」と呼ばれた。
【写真左】南西方向に豊岡城を見る。
 豊岡市街地の独立丘陵・神武山(H50m)の丘城で、築城者は山名宗全といわれているが、別説では、戦国期に宮部継潤が築城したともいわれている。


 手前に見える川は、円山川で左側が上流部。上から見ると、現在の豊岡市街地のGLは円山川の川底とあまり変わらないように見える。

 丁度この辺りは、主流の円山川と、支流の六万川が合流する地点で、中世には度々洪水を起こしていたと思われる。


 当初各氏が治めていた地域は次の通りである。
  • 垣屋氏    初期は豊岡市西気谷という現在の神鍋高原付近で、その後東方の竹野谷という現豊岡市竹野町周辺まで拡大。東の境は円山川まで。
  • 田結庄氏   出自はおそらく円山川の河口東岸にある田結(たい)という丹後と接する地区の出と思われるが、支配地は垣屋氏との境となる円山川を挟んだ東方の地区で出石辺りまで。
  • 太田垣氏    朝来郡竹田(居城・但馬竹田城)
  • 八木氏     養父郡八木(居城・八木城(兵庫県養父市八鹿町下八木))
戦国期但馬国の守護は、山名祐豊で前任者誠豊の死去によって大永8年(1528)に家督を継いだ。この祐豊のとき、家臣であった田結庄是義は愛宕山に鶴城を築いた(改築とも)ともいわれ、当城を居城とした。
【写真左】Ⅲ郭
 宝城寺跡(愛宕神社)の郭から先に進むと、一旦2m程度下がってⅢの郭が控える。
 写真にもあるように、Ⅲ郭の東側には小規模な腰郭が付随され、さらにその先の斜面から当城の特徴である畝状竪堀群が見えてくる。


 説明板にもあるように、山名氏を主君として仕えた四天王とはいうものの、世は下剋上の時代である。

 筆頭家老であった垣屋氏と、田結庄氏は領有地が円山川を挟んで接することから、度々軋轢を生じ、さらには垣屋氏は主君であった山名氏をも追いやるなど、但馬国における山名氏の統制は衰退していった。

 尼子氏が滅び、西国の雄となった毛利氏と、畿内を制圧してきた織田氏が台頭すると、これら四天王といわれた四氏は、それぞれ独自の道を選び、関ヶ原の戦い後、筆頭格であった垣屋氏は西軍であったため没落した。
【写真左】土塁跡
 Ⅰ郭付近のものだが、全体に鶴城は東側の防御に重点が置かれ、畝状竪堀群と併せ土塁もすべてこの方向に配置されている。
【写真左】主郭付近
 この日は次第に雨脚が強くなり、主郭手前で戻らざるを得なかった。
【写真左】井戸跡か
 復路は東側の帯郭側を通ったが、その途中にみえた窪地。
 おそらく井戸跡だったと思われる。


なお、主郭から先は西方向に曲がって、4段の郭群がつながり、さらにその先に尾根を分断する堀切・竪堀があるようだ。
 また、これとは別に西方の貴布祢神社後背に独立した出城のような城砦もあるようだが、天候があまりにも悪くなったため、踏査していない。