2009年11月22日日曜日

千守城跡(広島県尾道市因島三庄町千守)

千守 城跡(ちもりじょうあと)

●所在地 広島県尾道市因島三庄町千守
●探訪日 2009年11月21日
●築城期 鎌倉初期
●城主  竹原小早川氏(南北朝期)、篠塚伊賀守十郎衛門貞忠
●遺構 郭4段、石垣、井戸など
●高さ 79/79m(比高)

◆解説(参考文献:サイト「尾道市・城跡マップ」等)

【写真左】因島案内図
 同島東岸を走る因島水軍スカイライン(366号線)の展望台付近にあった地図で、千守城は、この写真の中央右の位置に示されている。







●瀬戸内海の「しまなみ海道」をつなぐ島の一つ「因島」周辺には、村上水軍に関係する海城・平山城や砦形式のものを合わせると、その数は30余りになるという。一番有名なのは、観光地の一つである村上水軍城だが、これは歴史資料館として昭和58年に建てられたもので、山城ではない。

●今回訪れたのは、因島の東部備後灘を望む三庄町(みつのしょうちょう)の千守という海岸部にある城で、形態からいえば海城となるが、小規模ながら山城形式の特徴も持っている。

 本丸の高さは海抜79mとほぼ同じで、大手口は東の備後灘方面に面し、本丸を中心にして同心円状の郭4段の構成となっている。他の遺構としては井戸、石垣があるが、変わったところでは、石積みによる水槽のようなものが残っている。

 築城期は、鎌倉初期の公文所跡ともいわれ、南北朝期には竹原小早川氏が治めていたという。その後、村上水軍の大目付篠塚伊賀守十郎衛門貞忠の居城となった。
【写真左】同スカイライン側から南に千守城を見る。
 夕方の逆光で撮ったため、霞んでいるが、写真手前、町並みの後ろに立つ山である。
 なお、中央奥にかすんで見える三角形の山は、「因島公園」の天狗山(207m)である。 左の海は備後灘。




【写真左】浜の方からみた千守城遠景
 登城口は写真右の方にあるが、民家の路地のようなところを歩いていく。









【写真左】千守地区の海岸部から北方にある「一ノ城」方面を見る。
 「一ノ城」は、蒲刈小早川氏の居城で、源平合戦の時、平家方がこの城に籠城したという。
 写真の尾根中央部付近になる。






【写真左】千守城麓の駐車した付近
 この場所は左にある道(366号線)の脇に神社と境内を兼ねた駐車場があり、そこに留めた。

 なお、この位置から奥の方へまっすぐ向かうと、因島遍路札所である観音寺にたどり着く。従ってどちらかといえば、この駐車場は遍路用としての利用が多いようだ。





【写真左】千守城北側麓より本丸方向を見る
 中央部に見える建物は、因島四国第30番「安楽寺」の建物
 登城路はこの寺へ行く道と共通で、寺を過ぎると千守城のみの登城路となる。






【写真左】途中の登城道
 多少は階段部が修理してあるが、全体にあまり人も登っていないせいか、階段部の破損がある。
 小さな山城であるため、傾斜はきついものの、時間的には10分以内でたどり着く。





【写真左】本丸下の郭
 桜の木だろうか、だいぶ大きくなったものが生えている。この付近の下草は刈られている。








【写真左】本丸下の郭階段部にあった井戸跡
 中をのぞいてみたら、内側の石垣はほとんど破損はなく、今でも水がたまっているかもしれない。
 直径は1.5m程度。







【写真左】冒頭で記した「水槽」のようなもの
 上記の井戸跡付近にあったもので、側溝にしては幅、深さが大きく、しかも長さが10m程度で区切られている。そうなると側溝ではなく、何か水をためる施設だろうと思われるが、何に使ったのか分からない。馬場跡で、馬の水飲み場とも考えられる。




【写真左】本丸跡
 本丸の広さは10m四方程度で大きくはない。奥中央部に祠が祭ってあり、その左には小屋が建っている。
 この写真の右側の一部が少し盛り上がったところがあり、土塁のようにも見えるが、その奥はすぐに切崖になっていないので、何の用途か不明。
 なお、この写真の奥下段には郭段が非常にきれいに残っている。

【写真左】本丸より大手口方面見る
 上記の位置と反対側(海側)になるが、雑草が多く遺構を確認することが困難。

 ただ、同心円状に郭が巻きついた形状(帯曲輪形式)だろうという雰囲気は感じられる。
 この面を整備すると、下からの眺めが一段と良くなるような気がする。



【写真左】北西面の郭段
 郭の幅はせいぜい2,3mだが、丁寧な石積みで、保存状態が良い。










【写真左】北西山麓の家並み
 郭段最下部から下は、ミカン畑がそのままの傾斜面で繋がっており、収穫用の運搬車レールも城域直近まで伸びている。

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