軽尾城(かるおじょう)
●所在地 岡山県高梁市備中町西油野
●探訪日 2009年11月16日
●高さ 580/比高300m前後
●築城期 不明
●城主 天竺三郎四郎元氏
●遺構 郭その他
◆解説(参考:『江府町史』、『城格放浪記』など)
今月15日の投稿・鳥取県日野郡江府町の「美女石城」を取り上げた際、この城について言及している。
城主である天竺氏については、当地備中地方の史料には出ているかもしれないが、手元にはそうしたものがないため、詳細は分からない。
しかし、『江府町史』によると、「美女石城」の城主であったということや、同氏が天正10年(1582)ごろに、元々の居城であった備中・軽尾城に戻っているという記録と、その3年後(天正13年付)、美女石城下の佐川神社に寄進をしているという記録が残っている。
常識的に考えると、天正10年に備中油野を地元としていた者が、3年後に再び伯耆国へ戻って、社殿の造営や、社領の寄進をすることは現実的には考えられない。従って、天竺氏が備中・軽尾城に完全に帰ったのは、寄進した年、すなわち天正13年と思える。
というのも、この年(天正13年)は、6月に織田信長が本能寺の変で亡くなり、秀吉は急いで毛利方と和議を結んでいる。その後毛利一族は9月になると、伯耆大山寺を大改修している。このことから、天竺氏も毛利氏と同一の行動(戦後処理)をとっていたのではないだろうか。
【写真左】軽尾城位置図
写真の案内図は、「ふるさと農道」という道の展望台にあるもので、写真中央の黒い点(:管理人作成)がある付近が、軽尾城の位置。 戸構城から「農道高岩線」「県道西山布寄線」という道を通って行くと、西油野にたどり着ける(在来道か)がある。しかし、車道としては狭く、現在はその外側を迂回する「ふるさと農道」という二車線の新しい道ができており、時間的にはこの道の方が明らかに楽である。
【写真左】ふるさと農道の途中にある展望駐車場
この位置からは西油野、平川方面の山並みが見える(下の写真参照)。
【写真左】上記展望台から南西方向の山並みを見る。
余談ながら、この付近を含めた吉備高原の山並みを見ると、中規模な独立峰を持つ山は、ほとんどが山城ではないかと思うことがある。実際、山城でなくても、砦や物見台として多くの山が一時的にせよ、使用されたのではないだろうか。
おそらく、この景色の中に軽尾城が入っていると思われるが、どの山系なのかはわからない。
【写真左】軽尾城遠望その1
規模としては中規模な方だが、南北に細長い構えをしている。
写真は南東部からみたもの。
【写真左】その2
東麓の道を登って行ったところ、一軒の家で行き止まりになった。この場所(民有地か)は、車をUターンする広さがせまい。一つ間違うと、谷に真っ逆さまに落ちる状況だった。何とかやりくりしながら戻ることができた。
この写真はその場所(南麓)から北方の本丸方向をみたもの。このあと、確実な登城路は、北麓から西麓に回ったほうがいいと思い、いったん戻る。
【写真左】西側の麓の道
再度北側から西麓を通る道を進み、鞍部となったところ。この先に、以前登城路だったというところがある(後段参照)。
ただ、このあたりはほとんど狭い道なので、対向車が来たら、反対側が険峻な谷なので、かなり焦るだろう。
【写真左】登城路といわれているところから本丸方向を見る。
上記の位置から登城路があるというのだが、完全なブッシュ状態で、どこが入口なのか分からず、断念する。
【写真左】北側の宮に向かう参道
上記の場所でいったんあきらめ、元の北端部まで戻り、近くにあった民家のおばさんに道を確認したところ、やはり前記した鞍部の位置からだという。
先ほどの現地の状況のことを話したら、「私が嫁に来たころは、よく上がっていたが…」とのコメント。ウン十年前の登城路の情報、これはこれでありがたいが…。
で、他に道はないかと尋ねたところ、北側から宮に向かう道があるが、その道はそこまでで、無理すれば本丸の下あたりまで行けるのでは、とのこと。
これを頼りに向かった。
●所在地 岡山県高梁市備中町西油野
●探訪日 2009年11月16日
●高さ 580/比高300m前後
●築城期 不明
●城主 天竺三郎四郎元氏
●遺構 郭その他
◆解説(参考:『江府町史』、『城格放浪記』など)
今月15日の投稿・鳥取県日野郡江府町の「美女石城」を取り上げた際、この城について言及している。
城主である天竺氏については、当地備中地方の史料には出ているかもしれないが、手元にはそうしたものがないため、詳細は分からない。
しかし、『江府町史』によると、「美女石城」の城主であったということや、同氏が天正10年(1582)ごろに、元々の居城であった備中・軽尾城に戻っているという記録と、その3年後(天正13年付)、美女石城下の佐川神社に寄進をしているという記録が残っている。
常識的に考えると、天正10年に備中油野を地元としていた者が、3年後に再び伯耆国へ戻って、社殿の造営や、社領の寄進をすることは現実的には考えられない。従って、天竺氏が備中・軽尾城に完全に帰ったのは、寄進した年、すなわち天正13年と思える。
というのも、この年(天正13年)は、6月に織田信長が本能寺の変で亡くなり、秀吉は急いで毛利方と和議を結んでいる。その後毛利一族は9月になると、伯耆大山寺を大改修している。このことから、天竺氏も毛利氏と同一の行動(戦後処理)をとっていたのではないだろうか。
【写真左】軽尾城位置図
写真の案内図は、「ふるさと農道」という道の展望台にあるもので、写真中央の黒い点(:管理人作成)がある付近が、軽尾城の位置。 戸構城から「農道高岩線」「県道西山布寄線」という道を通って行くと、西油野にたどり着ける(在来道か)がある。しかし、車道としては狭く、現在はその外側を迂回する「ふるさと農道」という二車線の新しい道ができており、時間的にはこの道の方が明らかに楽である。
【写真左】ふるさと農道の途中にある展望駐車場
この位置からは西油野、平川方面の山並みが見える(下の写真参照)。
【写真左】上記展望台から南西方向の山並みを見る。
余談ながら、この付近を含めた吉備高原の山並みを見ると、中規模な独立峰を持つ山は、ほとんどが山城ではないかと思うことがある。実際、山城でなくても、砦や物見台として多くの山が一時的にせよ、使用されたのではないだろうか。
おそらく、この景色の中に軽尾城が入っていると思われるが、どの山系なのかはわからない。
【写真左】軽尾城遠望その1
規模としては中規模な方だが、南北に細長い構えをしている。
写真は南東部からみたもの。
【写真左】その2
東麓の道を登って行ったところ、一軒の家で行き止まりになった。この場所(民有地か)は、車をUターンする広さがせまい。一つ間違うと、谷に真っ逆さまに落ちる状況だった。何とかやりくりしながら戻ることができた。
この写真はその場所(南麓)から北方の本丸方向をみたもの。このあと、確実な登城路は、北麓から西麓に回ったほうがいいと思い、いったん戻る。
【写真左】西側の麓の道
再度北側から西麓を通る道を進み、鞍部となったところ。この先に、以前登城路だったというところがある(後段参照)。
ただ、このあたりはほとんど狭い道なので、対向車が来たら、反対側が険峻な谷なので、かなり焦るだろう。
【写真左】登城路といわれているところから本丸方向を見る。
上記の位置から登城路があるというのだが、完全なブッシュ状態で、どこが入口なのか分からず、断念する。
【写真左】北側の宮に向かう参道
上記の場所でいったんあきらめ、元の北端部まで戻り、近くにあった民家のおばさんに道を確認したところ、やはり前記した鞍部の位置からだという。
先ほどの現地の状況のことを話したら、「私が嫁に来たころは、よく上がっていたが…」とのコメント。ウン十年前の登城路の情報、これはこれでありがたいが…。
で、他に道はないかと尋ねたところ、北側から宮に向かう道があるが、その道はそこまでで、無理すれば本丸の下あたりまで行けるのでは、とのこと。
これを頼りに向かった。
幸い、近年植林された杉の間伐があったため、途中までは視界がきき、方向は迷うことはなかった。
【写真左】その3
同郭から本丸方向を見たもの。
当然道らしきものはないため、この斜面を無理やり登れば、本丸にたどり着くはずだ。
ただ、ここに来るまでで、相当体力を消耗したことや、下で待っている相棒の気弱なトミー嬢が 「帰りたい?コール」を連呼したため、断念した。
◆感想
件の地元のご婦人に、城主についてたずねたところ 、どういう城主だったかは知らない、とのこと。「天竺某」という武将の名前も、初めて聞いたとのこと。
地元の一人から聞いただけで判断するのは早計だが、おそらく、天竺氏も当城に戻った天正13年以後、毛利氏の家臣として、九州島津氏討伐や、小田原城攻めなどに派遣され、戦地で亡くなったのかもしれない。
◎関連投稿
大津・天竺城(高知県高知市大津)
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始めまして
返信削除大量の山城情報感激しました。
ありがとうございます。
天笠氏の事ですが備中守護細川氏の庶流に軽尾城に天竺氏ありと言う記述がありました。
同一の一族かどうかはわかりませんが参考に成ればと思い書き込みをさせていただきました。
これからも頑張ってください。
これほどの情報と画像の山城サイトは、他に見たことが無いです。
私的研究すごく進みます。
ありがたいです。
草刈様へ
返信削除返事が遅くなりました。ありがとうございます。
備中守護細川氏とは、応仁の乱のころ(1467~77)の勝元時代(東軍)でしょうね。大変参考になります。
独断と思いこみで、山城探訪記録を不規則に綴っています。専門家のような考察は、とても無理ですが、在野の山城愛好家の一人として、埋もれた山城を少しでも紹介できたらと思っています。
kogumakoguma様へ
返信削除コメントありがとうございます。
山座固定興味深く拝見させていただきました。ブログにも書いているように、地図で把握している山などの距離感と、実際に現地に行って見ると、それの違いを往々にして感じることがあります。
このことから、中世・戦国時代おそらくそうした戦う前の準備として、測量班のような役目を持った兵士などもいたのでしょう。
私事ですが、私の父も先の大戦中、中国揚子江付近でこうした任務をしていました。戦国時代、戦の前段でこうした情報を記録として残したものは今のところ見受けられませんが、鉄砲を使用しだしたころから、そうした技術が案外あったのかもしれません。
今後ともご笑覧のほどよろしくお願いします。
トミー拝