美女石城(びじょいしじょう)跡及び
●探訪日 2009年11月14日
●所在地 鳥取県日野郡江府町佐川付近
●築城期 不明
●城主 天竺三郎四郎元氏(天正年間)
●比高 20~30m
◆解説(参考:『江府町史:昭和50年発行』等)
江府町にある主な山城としては、前稿で取り上げた「江尾城」と、旧伯耆街道沿いにあるといわれている「宮市の要害城」、佐川の亀山城(小丸山城)、そして今回取り上げる同じく佐川付近にある「美女石城」がある。
このほかには、『日野郡史』によれば、「宮市の学塔城」「御机の城山」「下蚊屋の砦」「助沢の竜王陣」「俣野の城山」「武庫の城の段」「下安井の大城」などが挙げられているが、残念ながら、いずれも所在地を比定するほどの詳細な資料がない。
今回取り上げる「美女石城」についても、確定した場所までは示していない(『江府町史』)。しかし、同史に書かれている内容を見る限り、かなり城跡の位置を絞り込むことができそうである。
さて、築城期は不明ながら、天正年間に在城したとわれている天竺三郎四郎元氏については、『伯耆誌』によると次のように記されている。
“天竺は伊予(愛媛県)の地名にて(中略)、天竺氏旧備中国下道郡西油野、軽尾の城主なり。何れの頃伊予より移りしや(中略)。天正元年(1573)当郡美女石城に転移す(中略)。この後、何の頃か、元氏又備中軽尾城に帰る。(天正10年と伝えり)”
しかし、『鳥取県神社誌』によると、備中に帰った3年後当たる天正13年(1585)に、佐川神社に美女石城主天竺氏が、社殿を造営し、社領75石を寄進しているという。従って、「江府町史」では、在城最終年については、はっきりしていないとしている。
ちなみに、前稿「江尾城」の蜂塚氏が没落してから、8年後に天竺氏が来ている。常識的に考えれば、同氏は毛利氏の支配下にあったものと思われる。
なお、『伯耆誌』にある「備中・軽尾城」は、現在の岡山県高梁市備中町西油野にある山城で、標高580mの位置にある。いずれ当城も機会があったら探訪してみたい。
◎関連投稿
軽尾城(岡山県高梁市備中町西油野)
【写真左】佐川神社正面
日野川東岸の位置にあり、境内の広さは30m四方程度か。祭神は誉田別尊、足中彦命、昭和50年当時の氏子は70。もとは八幡宮と称していたらしい。
【写真左】正門脇の灯篭の標柱 「江府町指定有形文化財 佐川神社泉州石工の灯篭」とある。 泉州、つまり大阪南部の方の石工を連れてきて造らせたということだろう。
同社境内には数基の灯篭があるが、おそらく下の写真のものだろう。
【写真左】灯篭と狛犬
灯篭には、「寛政10年(1798)」の文字が見え、狛犬には、「天保3年(1832)」の文字が見える。
【写真左】佐川神社から美女石城方面を見る。 写真下段の川は、日野川でこのあたりの流れはかなり早いようだ。
江府町史によれば、
「…城跡といわれる付近を訪ねてみれば、数段の石垣で囲まれた棚田がある。これら石垣の列の中央には石段が掘りこまれている。伝承では、そこが門跡とされ、石組がわずかに大きく打込みはぎになっている。しかし、そのほかには城跡を推定させる遺構は残っておらず、天竺屋敷跡と伝えられる一郭が見られるのみである」
とある。
【写真左】美女石といわれている大岩
写真に見える集落は、佐川神社の前を流れる日野川の対岸にある。当日、向こうに渡れそうな橋を探したが、どこからいけるものか分からず、遠望のみとした。
結論からいって、城跡は、この大岩を含む高台全体がその範囲ではなかっただろうか。地形から考えて、目前の日野川そのものが、堀の役目を十分果たしただろうし、天竺氏が毛利氏の与力として、天正年間(毛利氏がほぼこの地域を治めた頃)に、この城にやってきたということなら、あまり高所に本丸を置く必要もなかったと考えられる。
むしろ機敏に対応するためには、できるだけ日野川の河岸に近いほうがよかったのではないだろうか。
佐川神社(さがわじんじゃ)
●探訪日 2009年11月14日
●所在地 鳥取県日野郡江府町佐川付近
●築城期 不明
●城主 天竺三郎四郎元氏(天正年間)
●比高 20~30m
◆解説(参考:『江府町史:昭和50年発行』等)
江府町にある主な山城としては、前稿で取り上げた「江尾城」と、旧伯耆街道沿いにあるといわれている「宮市の要害城」、佐川の亀山城(小丸山城)、そして今回取り上げる同じく佐川付近にある「美女石城」がある。
このほかには、『日野郡史』によれば、「宮市の学塔城」「御机の城山」「下蚊屋の砦」「助沢の竜王陣」「俣野の城山」「武庫の城の段」「下安井の大城」などが挙げられているが、残念ながら、いずれも所在地を比定するほどの詳細な資料がない。
今回取り上げる「美女石城」についても、確定した場所までは示していない(『江府町史』)。しかし、同史に書かれている内容を見る限り、かなり城跡の位置を絞り込むことができそうである。
さて、築城期は不明ながら、天正年間に在城したとわれている天竺三郎四郎元氏については、『伯耆誌』によると次のように記されている。
“天竺は伊予(愛媛県)の地名にて(中略)、天竺氏旧備中国下道郡西油野、軽尾の城主なり。何れの頃伊予より移りしや(中略)。天正元年(1573)当郡美女石城に転移す(中略)。この後、何の頃か、元氏又備中軽尾城に帰る。(天正10年と伝えり)”
しかし、『鳥取県神社誌』によると、備中に帰った3年後当たる天正13年(1585)に、佐川神社に美女石城主天竺氏が、社殿を造営し、社領75石を寄進しているという。従って、「江府町史」では、在城最終年については、はっきりしていないとしている。
ちなみに、前稿「江尾城」の蜂塚氏が没落してから、8年後に天竺氏が来ている。常識的に考えれば、同氏は毛利氏の支配下にあったものと思われる。
なお、『伯耆誌』にある「備中・軽尾城」は、現在の岡山県高梁市備中町西油野にある山城で、標高580mの位置にある。いずれ当城も機会があったら探訪してみたい。
◎関連投稿
軽尾城(岡山県高梁市備中町西油野)
【写真左】佐川神社正面
日野川東岸の位置にあり、境内の広さは30m四方程度か。祭神は誉田別尊、足中彦命、昭和50年当時の氏子は70。もとは八幡宮と称していたらしい。
【写真左】正門脇の灯篭の標柱 「江府町指定有形文化財 佐川神社泉州石工の灯篭」とある。 泉州、つまり大阪南部の方の石工を連れてきて造らせたということだろう。
同社境内には数基の灯篭があるが、おそらく下の写真のものだろう。
【写真左】灯篭と狛犬
灯篭には、「寛政10年(1798)」の文字が見え、狛犬には、「天保3年(1832)」の文字が見える。
【写真左】佐川神社から美女石城方面を見る。 写真下段の川は、日野川でこのあたりの流れはかなり早いようだ。
江府町史によれば、
「…城跡といわれる付近を訪ねてみれば、数段の石垣で囲まれた棚田がある。これら石垣の列の中央には石段が掘りこまれている。伝承では、そこが門跡とされ、石組がわずかに大きく打込みはぎになっている。しかし、そのほかには城跡を推定させる遺構は残っておらず、天竺屋敷跡と伝えられる一郭が見られるのみである」
とある。
【写真左】美女石といわれている大岩
写真に見える集落は、佐川神社の前を流れる日野川の対岸にある。当日、向こうに渡れそうな橋を探したが、どこからいけるものか分からず、遠望のみとした。
結論からいって、城跡は、この大岩を含む高台全体がその範囲ではなかっただろうか。地形から考えて、目前の日野川そのものが、堀の役目を十分果たしただろうし、天竺氏が毛利氏の与力として、天正年間(毛利氏がほぼこの地域を治めた頃)に、この城にやってきたということなら、あまり高所に本丸を置く必要もなかったと考えられる。
むしろ機敏に対応するためには、できるだけ日野川の河岸に近いほうがよかったのではないだろうか。
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