黒坂城(くろさかじょう)跡
●探訪日 2009年11月8日
●所在地 鳥取県日野郡日野町黒坂
●遺構 石垣、土塁、郭、堀、井戸等
●形態・高さ 平山城 380/50m
●築城者 関一政
●別名 鏡山城
◆解説(参考文献:「広報ひの」、「城格放浪記」等)
●日野町は、最近よく取り上げる鳥取県の伯耆地方の一つで、米子から山陽方面に向かう際、R181号線が岡山県新庄村に向かう地点と、そこから広島県庄原に向かう180号線とが枝分かれする地点で、昔風に言えば、出雲街道(津山街道)と日野街道が交差するところでもある。
この付近も西隣・日南町や奥出雲(島根)と同じく、昔から「たたら」など鉄の産地として繁栄してきた。
●今回取り上げる黒坂城は、別名鏡山城ともいわれ、築城期は戦国期ではなく、江戸期に入った近世城郭の跡だが、最近になって地元の有志によって、それまで荒れ放題になっていたのを少しずつ整備してきたという情報を得たので、当地に向かった。
簡単に当城の経緯を記しておきたい。
慶長15年(1610)、伊勢(三重県)亀山の領主・関一政が、この黒坂の地に石高5万石で黒坂藩主として転封される。2年後の慶長17年から城の工事が始まり、完成はさらに2年後の慶長19年(1614)だった。
しかし、4年後の元和4年7月、詳細は不明だが藩内での内紛がおこり、これが幕府に知れ渡り、所領没収、改易される。黒坂藩の所領は、そのまま鳥取藩主・池田氏の属領となった。一政はその後、寛永2年(1625)10月20日に死去する。
【写真左】日野町公民館前にある「城下町黒坂の歴史と自然を訪ねて」という看板案内図
写真をクリックすると拡大されある程度読めると思われるが、この図では中央やや左に鏡山城(黒坂城)が描かれている。
その左には、後段の聖神社などがある。
【写真左】黒坂城遠望
伯備線の黒坂駅の反対側の山の斜面にあるが、写真に見えるネットは日野高校黒坂舎のグランドと接している。
直接城下付近まで行く道もあるが、この時はJR黒坂駅構内駐車場に止め、そこから徒歩で鉄道をまたぎ、向かった。この方法が一番時間的にも短く、簡単に向かうことができる。
【写真左】城下左(南側)から向かう道
写真に見える道は土橋のような形状で、左右にため池、もしくは堀のような跡を残している。
【写真左】井戸跡
グランドの南端部にかなり大きな井戸跡が残っており、中までは見ていないが、となりのため池から考えて現在でも水がたまっているものとおもわれる。
【写真左】南側からみたもの
左の斜面が当城の壇
【写真左】今度は北側見たもの
左の平坦地は黒坂校舎のグランド 。登り口は、このグランド中央部あたりから坂道がついており、そこから登っていく。
【写真左】下のグランド側からみたもの
石垣がよく見える。
【写真左】坂道を上がりきった地点
おそらくこれが大手門の入口と思われるが、かなり形が不鮮明になっている。当時は、もう少し壇ごとに石垣を積み、階段状になっていたものと思われる。
【写真左】上記位置から平坦地を見る
広さはほぼ50m四方以上あるとおもわれる。この場所の遺構名がはっきりしないものの、これだけ大きい面積を考えると、かなり大きな櫓を構えていたものと思われる。
冒頭の案内図には、改易後陣屋絵図としてこの場所に建物が描かれているが、関一政が築城したころに、この場所を本丸としたかどうかはわからない。
地形的にみると、この平坦地のさらに上に山があり、この山そのものが後背の他の山並みと独立した位置にあることから、築城時はおそらくその頂部に天守を持っていたのではないだろうか。ただ近世城郭の地どりは、戦国期とはだいぶ変わってきているので、なんとも判断できないが。
★追補
後日他の資料を見たところ、やはりこの上の山頂には、中世の頃と思われる山城主郭群があるとのこと。ただ、この場所に向かう道がどこにあるのか分からない。
地形的に見れば、北側の緩斜面がなんとなく登れそうな形状を持っているようなので、案外そのあたりに旧道があるかもしれない。なお、山頂部には東西に土塁を設けた細長い郭があるとのこと。次回機会があったら再度登城してみたいものだ。
【写真左】平坦地北側奥の隅に見えた窪み
一見すると井戸跡にも見えるが、排水溝にも見える。
この場所からさらに上に向かう道跡があり、少し上まで行ってみる。(次の写真参照)
【写真左】前記の位置から一段上に上がったところの石垣跡
平坦地の北側斜面にあるもので、右側にも崩れているものの、若干の平坦地をもって、さらに下に壇を構成している。その下はグランドの敷地につながる。
【写真左】平坦地の北側奥の斜面
現状は竹林状態で、枯れ竹が行く手を阻むため、これ以上進めなかった。ただ、なんとなく奥を見た感じでは、この上にも遺構らしきものが残っているようにみえた。
案外、七曲のような道があって、最終的には頂部に本丸をもっていたのではないだろうか。
【写真左】平坦地から北東方面を見る
冒頭の案内図には、この写真の左側にあたるが、「黒坂要害山」という山城もあったらしい。
写真のグランド下は、JR伯備線が走っている。
【写真左】黒崎城の南にある聖神社鳥居
【写真左】聖神社本殿の北の壇にある稲荷神社
先ごろの鳥取地震で本殿が傾いたままになっている。この社殿の黒崎城側崖が崩れ、現在でも改修工事が行われている。
【写真左】稲荷神社側から、黒坂城方面を見る
この位置からは竹林などで全く見えないが、左側の高くなったところが、当城背後の山の最高所になる。
●探訪日 2009年11月8日
●所在地 鳥取県日野郡日野町黒坂
●遺構 石垣、土塁、郭、堀、井戸等
●形態・高さ 平山城 380/50m
●築城者 関一政
●別名 鏡山城
◆解説(参考文献:「広報ひの」、「城格放浪記」等)
●日野町は、最近よく取り上げる鳥取県の伯耆地方の一つで、米子から山陽方面に向かう際、R181号線が岡山県新庄村に向かう地点と、そこから広島県庄原に向かう180号線とが枝分かれする地点で、昔風に言えば、出雲街道(津山街道)と日野街道が交差するところでもある。
この付近も西隣・日南町や奥出雲(島根)と同じく、昔から「たたら」など鉄の産地として繁栄してきた。
●今回取り上げる黒坂城は、別名鏡山城ともいわれ、築城期は戦国期ではなく、江戸期に入った近世城郭の跡だが、最近になって地元の有志によって、それまで荒れ放題になっていたのを少しずつ整備してきたという情報を得たので、当地に向かった。
簡単に当城の経緯を記しておきたい。
慶長15年(1610)、伊勢(三重県)亀山の領主・関一政が、この黒坂の地に石高5万石で黒坂藩主として転封される。2年後の慶長17年から城の工事が始まり、完成はさらに2年後の慶長19年(1614)だった。
しかし、4年後の元和4年7月、詳細は不明だが藩内での内紛がおこり、これが幕府に知れ渡り、所領没収、改易される。黒坂藩の所領は、そのまま鳥取藩主・池田氏の属領となった。一政はその後、寛永2年(1625)10月20日に死去する。
【写真左】日野町公民館前にある「城下町黒坂の歴史と自然を訪ねて」という看板案内図
写真をクリックすると拡大されある程度読めると思われるが、この図では中央やや左に鏡山城(黒坂城)が描かれている。
その左には、後段の聖神社などがある。
【写真左】黒坂城遠望
伯備線の黒坂駅の反対側の山の斜面にあるが、写真に見えるネットは日野高校黒坂舎のグランドと接している。
直接城下付近まで行く道もあるが、この時はJR黒坂駅構内駐車場に止め、そこから徒歩で鉄道をまたぎ、向かった。この方法が一番時間的にも短く、簡単に向かうことができる。
【写真左】城下左(南側)から向かう道
写真に見える道は土橋のような形状で、左右にため池、もしくは堀のような跡を残している。
【写真左】井戸跡
グランドの南端部にかなり大きな井戸跡が残っており、中までは見ていないが、となりのため池から考えて現在でも水がたまっているものとおもわれる。
【写真左】南側からみたもの
左の斜面が当城の壇
【写真左】今度は北側見たもの
左の平坦地は黒坂校舎のグランド 。登り口は、このグランド中央部あたりから坂道がついており、そこから登っていく。
【写真左】下のグランド側からみたもの
石垣がよく見える。
【写真左】坂道を上がりきった地点
おそらくこれが大手門の入口と思われるが、かなり形が不鮮明になっている。当時は、もう少し壇ごとに石垣を積み、階段状になっていたものと思われる。
【写真左】上記位置から平坦地を見る
広さはほぼ50m四方以上あるとおもわれる。この場所の遺構名がはっきりしないものの、これだけ大きい面積を考えると、かなり大きな櫓を構えていたものと思われる。
冒頭の案内図には、改易後陣屋絵図としてこの場所に建物が描かれているが、関一政が築城したころに、この場所を本丸としたかどうかはわからない。
地形的にみると、この平坦地のさらに上に山があり、この山そのものが後背の他の山並みと独立した位置にあることから、築城時はおそらくその頂部に天守を持っていたのではないだろうか。ただ近世城郭の地どりは、戦国期とはだいぶ変わってきているので、なんとも判断できないが。
★追補
後日他の資料を見たところ、やはりこの上の山頂には、中世の頃と思われる山城主郭群があるとのこと。ただ、この場所に向かう道がどこにあるのか分からない。
地形的に見れば、北側の緩斜面がなんとなく登れそうな形状を持っているようなので、案外そのあたりに旧道があるかもしれない。なお、山頂部には東西に土塁を設けた細長い郭があるとのこと。次回機会があったら再度登城してみたいものだ。
【写真左】平坦地北側奥の隅に見えた窪み
一見すると井戸跡にも見えるが、排水溝にも見える。
この場所からさらに上に向かう道跡があり、少し上まで行ってみる。(次の写真参照)
【写真左】前記の位置から一段上に上がったところの石垣跡
平坦地の北側斜面にあるもので、右側にも崩れているものの、若干の平坦地をもって、さらに下に壇を構成している。その下はグランドの敷地につながる。
【写真左】平坦地の北側奥の斜面
現状は竹林状態で、枯れ竹が行く手を阻むため、これ以上進めなかった。ただ、なんとなく奥を見た感じでは、この上にも遺構らしきものが残っているようにみえた。
案外、七曲のような道があって、最終的には頂部に本丸をもっていたのではないだろうか。
【写真左】平坦地から北東方面を見る
冒頭の案内図には、この写真の左側にあたるが、「黒坂要害山」という山城もあったらしい。
写真のグランド下は、JR伯備線が走っている。
【写真左】黒崎城の南にある聖神社鳥居
【写真左】聖神社本殿の北の壇にある稲荷神社
先ごろの鳥取地震で本殿が傾いたままになっている。この社殿の黒崎城側崖が崩れ、現在でも改修工事が行われている。
【写真左】稲荷神社側から、黒坂城方面を見る
この位置からは竹林などで全く見えないが、左側の高くなったところが、当城背後の山の最高所になる。
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