助沢の五輪塔
●探訪日 2009年11月14日
●所在地 鳥取県日野郡江府町助沢
◆解説(参考:江府町史等)
現在の高速道・米子自動車道ができる前まで、伯耆や出雲のほうから岡山県方面に向かうには、四十曲峠や、犬挟峠などを越えていかなければならなかった。昭和40年代までは、よく大雪のため通行止めになることが多く、近代までこうした状況が続いていた。
中国地方を東西に走る山並みは、「中国山地」といわれ、日本アルプスのような、「山脈」ではない。当然標高が2,000mにも満たないことから、「中国山脈」ではなく、「中国山地」というようになったのだろう。しかし、実際に人が通行する道の状況といえば、山脈であろうが、山地であろうが、その厳しさには変わりがない。
さて、前記したように、伯耆国から作州方面へ向かう街道としては、3つのコースがあった。峠で示すと、①白髪越え②土用越え③延助越え、となる。ただ、江府の街付近を通る街道は、日野川のたび重なる洪水や、路の悪いところが多く、脇街道であった。従って、出雲街道はこの江府の街を通らないコースとなっている。
【写真左】助沢地区から北東方面を見る
写真の中央部横に走っている道は、R482号線(伯耆街道)。旧伯耆街道はおそらく手前の坂道だったと思われる。
この谷の奥(右)へ行くと、下蚊屋ダムがあり、大山横手道と合流し、北へは、御机方面(大山寺)へ、東へは蒜山(延助)へつながる。
今回取り上げる「助沢」という地区は、峠のコースでいえば、③の延助越えの街道から江府町にむかう枝筋になる。延助というのは、岡山県の蒜山にある地区で、江府町から向かうもう一つのコース(南側の谷)である「俣野」を始点とする①白髪越えの道と合流する位置になる。
③の延助越えの街道は別名「大山横手道」といわれ、延助から大山をぐるっと南から西に回り大山寺の方へ向かう道である。
【写真左】「助沢の五輪塔」付近
集落のほとんどは米子自動車道側(南)の斜面に階段状に家が並んでいる。
余分な説明が長くなったが、現在の地名・道路名で示すと、要するに「助沢」という場所は、国道482号線(伯耆街道)脇にあるところで、現在の米子道がほぼ平行して走っている場所にある。
伯耆街道は、米子高速道ができたため、山陽・近畿方面に行く際、ほとんど利用していなかったが、江府町史などを読むと、この街道周辺には古代・中世・近世にかけて、少なくない史跡や伝承地があることが分かってきた。
今回取り上げる「助沢の五輪塔」もその一つである。当ブログのタイトル「山城」関係も調べれば相当ありそうだが、機会があったら投稿したいと思う。
【写真左】「助沢の五輪塔」の説明板
道の南側に御覧のように傾いたまま設置されている。
以下、説明板を転載する。
“鳥取県指定保護文化財
助沢正平五輪塔
(昭和58年4月26日指定)
鳥取県下の在銘五輪塔の代表的優品である。塔の高さ2.2m、地輪の幅0.7m。塔の形も梵字の刻字も鎌倉時代の優美な姿を残している。
地輪の左側に正平15年(1360)庚子(かのえね)3月20日の記銘がある。南朝の正平年号は、近くの日南町印賀の宝篋印塔(県指定)や、岩美町網代(あじろ)の廃阿代寺正平在名鐘(あじろじしょうへいざいめいしょう)などにもある。
当時、伯耆・因幡などを支配した山名時氏・師義父子が、南朝に属した影響を示すものといわれる。この塔は、正平型五輪塔の標準となると共に、正面に修行門、側面に菩提門の種子(しゅうじ)が彫られ、塔建立趣旨がしのばれる。
この地、竜王は古道に沿う由緒のある土地で、中世仏教の聖地であることも示している。
昭和59年9月
鳥取県教育委員会”
【写真左】五輪塔?
上記の説明板付近に五輪塔がなかったため、さらに上の方に行くと、小さな古墓が3基並んでていた。
高さが2.2mと表記してあるので、これではないと思い、さらに上の杉林の方まで登って行ったが、結局見つからなかった。
普通は、説明板に案内図のようなものがあってしかるべきだが、何もないため、断念した。
【写真左】他の五輪塔
先ほどの場所からさらに上流部の集落が多い所へ行くと、道路脇に御覧のような五輪塔があった。
周辺にも五輪塔ではないが、古墓が数基まとまって安置されている。説明板らしきものがないため、何時の頃のものか不明。
【写真左】もうひとつの五輪塔群
上記の場所と道を挟んで反対側にあったものだが、手前の大きいものは半分は欠損している。
この五輪塔は、一般の墓地の隅に安置されている。
◆後日、この五輪塔の写真が掲載されている資料をもう一度みると、周辺には杉などが生えている場所らしく、このことから、安置されている場所は、やはり当日途中まで向かった位置よりさらに上部の方のようだ。
ところで、当五輪塔の記銘年号である正平15年(1360)は、南朝方の年号であるが、説明板にもあるように、当時当地を治めていた山名時氏が関係したものであることはまず間違いないと思われる。
翌正平16年(康安元年)7月12日、時氏は二人の息子師義・氏冬らと、伯耆・出雲・因幡の兵を率いて美作へ向かう。美作の倉掛城を包囲して、11月4日陥落させている。尊氏が没した正平13年後、一段と混乱を極め、中国地方でも北軍と南軍に分かれていたため、国境ではたびたびの合戦が繰り広げられていたようだ。
以前紹介した「印賀宝篋印塔」も、正平12年(1357)のものであるから、案外この助沢の五輪塔も、合戦前に武将自らが造ったものかもしれない。
●探訪日 2009年11月14日
●所在地 鳥取県日野郡江府町助沢
◆解説(参考:江府町史等)
現在の高速道・米子自動車道ができる前まで、伯耆や出雲のほうから岡山県方面に向かうには、四十曲峠や、犬挟峠などを越えていかなければならなかった。昭和40年代までは、よく大雪のため通行止めになることが多く、近代までこうした状況が続いていた。
中国地方を東西に走る山並みは、「中国山地」といわれ、日本アルプスのような、「山脈」ではない。当然標高が2,000mにも満たないことから、「中国山脈」ではなく、「中国山地」というようになったのだろう。しかし、実際に人が通行する道の状況といえば、山脈であろうが、山地であろうが、その厳しさには変わりがない。
さて、前記したように、伯耆国から作州方面へ向かう街道としては、3つのコースがあった。峠で示すと、①白髪越え②土用越え③延助越え、となる。ただ、江府の街付近を通る街道は、日野川のたび重なる洪水や、路の悪いところが多く、脇街道であった。従って、出雲街道はこの江府の街を通らないコースとなっている。
【写真左】助沢地区から北東方面を見る
写真の中央部横に走っている道は、R482号線(伯耆街道)。旧伯耆街道はおそらく手前の坂道だったと思われる。
この谷の奥(右)へ行くと、下蚊屋ダムがあり、大山横手道と合流し、北へは、御机方面(大山寺)へ、東へは蒜山(延助)へつながる。
今回取り上げる「助沢」という地区は、峠のコースでいえば、③の延助越えの街道から江府町にむかう枝筋になる。延助というのは、岡山県の蒜山にある地区で、江府町から向かうもう一つのコース(南側の谷)である「俣野」を始点とする①白髪越えの道と合流する位置になる。
③の延助越えの街道は別名「大山横手道」といわれ、延助から大山をぐるっと南から西に回り大山寺の方へ向かう道である。
【写真左】「助沢の五輪塔」付近
集落のほとんどは米子自動車道側(南)の斜面に階段状に家が並んでいる。
余分な説明が長くなったが、現在の地名・道路名で示すと、要するに「助沢」という場所は、国道482号線(伯耆街道)脇にあるところで、現在の米子道がほぼ平行して走っている場所にある。
伯耆街道は、米子高速道ができたため、山陽・近畿方面に行く際、ほとんど利用していなかったが、江府町史などを読むと、この街道周辺には古代・中世・近世にかけて、少なくない史跡や伝承地があることが分かってきた。
今回取り上げる「助沢の五輪塔」もその一つである。当ブログのタイトル「山城」関係も調べれば相当ありそうだが、機会があったら投稿したいと思う。
【写真左】「助沢の五輪塔」の説明板
道の南側に御覧のように傾いたまま設置されている。
以下、説明板を転載する。
“鳥取県指定保護文化財
助沢正平五輪塔
(昭和58年4月26日指定)
鳥取県下の在銘五輪塔の代表的優品である。塔の高さ2.2m、地輪の幅0.7m。塔の形も梵字の刻字も鎌倉時代の優美な姿を残している。
地輪の左側に正平15年(1360)庚子(かのえね)3月20日の記銘がある。南朝の正平年号は、近くの日南町印賀の宝篋印塔(県指定)や、岩美町網代(あじろ)の廃阿代寺正平在名鐘(あじろじしょうへいざいめいしょう)などにもある。
当時、伯耆・因幡などを支配した山名時氏・師義父子が、南朝に属した影響を示すものといわれる。この塔は、正平型五輪塔の標準となると共に、正面に修行門、側面に菩提門の種子(しゅうじ)が彫られ、塔建立趣旨がしのばれる。
この地、竜王は古道に沿う由緒のある土地で、中世仏教の聖地であることも示している。
昭和59年9月
鳥取県教育委員会”
【写真左】五輪塔?
上記の説明板付近に五輪塔がなかったため、さらに上の方に行くと、小さな古墓が3基並んでていた。
高さが2.2mと表記してあるので、これではないと思い、さらに上の杉林の方まで登って行ったが、結局見つからなかった。
普通は、説明板に案内図のようなものがあってしかるべきだが、何もないため、断念した。
【写真左】他の五輪塔
先ほどの場所からさらに上流部の集落が多い所へ行くと、道路脇に御覧のような五輪塔があった。
周辺にも五輪塔ではないが、古墓が数基まとまって安置されている。説明板らしきものがないため、何時の頃のものか不明。
【写真左】もうひとつの五輪塔群
上記の場所と道を挟んで反対側にあったものだが、手前の大きいものは半分は欠損している。
この五輪塔は、一般の墓地の隅に安置されている。
◆後日、この五輪塔の写真が掲載されている資料をもう一度みると、周辺には杉などが生えている場所らしく、このことから、安置されている場所は、やはり当日途中まで向かった位置よりさらに上部の方のようだ。
ところで、当五輪塔の記銘年号である正平15年(1360)は、南朝方の年号であるが、説明板にもあるように、当時当地を治めていた山名時氏が関係したものであることはまず間違いないと思われる。
翌正平16年(康安元年)7月12日、時氏は二人の息子師義・氏冬らと、伯耆・出雲・因幡の兵を率いて美作へ向かう。美作の倉掛城を包囲して、11月4日陥落させている。尊氏が没した正平13年後、一段と混乱を極め、中国地方でも北軍と南軍に分かれていたため、国境ではたびたびの合戦が繰り広げられていたようだ。
以前紹介した「印賀宝篋印塔」も、正平12年(1357)のものであるから、案外この助沢の五輪塔も、合戦前に武将自らが造ったものかもしれない。
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