金持景藤(かもちかげふじ)の墓
●探訪日 2009年11月14日
●所在地 鳥取県日野郡日野町金持
◆解説(参考文献:「鳥取県史」、その他)
鳥取県日野町から岡山県新庄村に向かう国道181号線沿いに金持神社がある。
最近ではその名称から、金運祈願による参詣者が増えているが、読みは「かねもち」ではなく、「かもち」である。この金持神社から181号線をさらに岡山県側に登っていくと、県境の峠である四十曲峠(しじゅうまがりとうげ)にたどり着く。この峠を越えると、新庄村に入る。今回取り上げる場所は、その手前の沿道で、金持神社からは約2キロほど登ったところにある。
【写真左】金持景藤の墓遠望
写真の右側に国道181号線が走っている。
この地域は、もともとこの地を治めていた金持氏の領域だが、今年(2009年)7月に「金持景藤生誕700年」を記念して墓地を整備したという。現地の墓碑説明板から下段に転載する。
“金持大和守景藤公の墓
景藤公は元弘元年(1332)、足利幕府の倒幕に失敗し隠岐島へ流刑となった後醍醐天皇を、護送途中の四十曲峠まで密かにお迎えし、御心を案じ奉った。翌2年天皇隠岐島を脱出、船上山に身を寄せられるや、金持妙見社の戸張を旗印とし、金持党300余騎を引き連れ馳せ参じ、苦戦中の名和長年公を助け、朝山六郎とともに幕府方佐々木清亨の大軍を殲滅した。
天皇京都へ遷幸の折には天皇の左に錦の御旗を掲げ従った。天皇の親任厚く大和守に任ぜられ、名を俊宇と改め軍政にあたり、延元元年足利尊氏天皇に叛くや、金持党を率いて新田義貞、恒良・尊良両親王とともに各地に転戦奮闘し、北陸金ヶ﨑では天皇を守り籠城するなど、終始天皇に誠を盡(つく)した。
この塔は、公の家臣が鎧を持ち帰り、当地堂ヶ平ルの丘に埋葬し供養した宝篋印塔である。その後片目の白蛇が公を守るかのようにたむろしていたと伝えられている。
日野町金持 若林 朗 文責”
【写真左】金持景藤の墓その1
写真奥に見える道が181号線。右側(北)に下がると金持神社がある。
金持氏については、文治2年(1186)源頼朝が義経追討の際、全国に守護・地頭を置いたころに、すでに伯耆国の守護として在職している。
このことから後醍醐天皇と行動を共にした景藤は、金持氏の3,4代目と思われる。また、これより先の後鳥羽上皇の配流の際も、金持兵衛が「流人の預かり人」を勤めている。そうしたことから、金持氏は鎌倉幕府の御家人の中でもかなり重責を負った一族と思われる。
【写真左】その2
形式は宝篋印塔。製作年代は室町後期の作といわれている。
【写真左】周辺の山城(大要害)?
同墓所がある裾野から上に延びる方向に「金持城」というのがある。おそらくこの山だろうと思われるが、確証はない。「榎ヶ岳」の山頂にあるとのことだが、どれがその山なのか資料がないため不明。
遺構としては堀切があるという。
【写真左】小要害?
上記の山城と対面する方向に、「小要害」の山城があるというが、これだろうか。
●探訪日 2009年11月14日
●所在地 鳥取県日野郡日野町金持
◆解説(参考文献:「鳥取県史」、その他)
鳥取県日野町から岡山県新庄村に向かう国道181号線沿いに金持神社がある。
最近ではその名称から、金運祈願による参詣者が増えているが、読みは「かねもち」ではなく、「かもち」である。この金持神社から181号線をさらに岡山県側に登っていくと、県境の峠である四十曲峠(しじゅうまがりとうげ)にたどり着く。この峠を越えると、新庄村に入る。今回取り上げる場所は、その手前の沿道で、金持神社からは約2キロほど登ったところにある。
【写真左】金持景藤の墓遠望
写真の右側に国道181号線が走っている。
この地域は、もともとこの地を治めていた金持氏の領域だが、今年(2009年)7月に「金持景藤生誕700年」を記念して墓地を整備したという。現地の墓碑説明板から下段に転載する。
“金持大和守景藤公の墓
景藤公は元弘元年(1332)、足利幕府の倒幕に失敗し隠岐島へ流刑となった後醍醐天皇を、護送途中の四十曲峠まで密かにお迎えし、御心を案じ奉った。翌2年天皇隠岐島を脱出、船上山に身を寄せられるや、金持妙見社の戸張を旗印とし、金持党300余騎を引き連れ馳せ参じ、苦戦中の名和長年公を助け、朝山六郎とともに幕府方佐々木清亨の大軍を殲滅した。
天皇京都へ遷幸の折には天皇の左に錦の御旗を掲げ従った。天皇の親任厚く大和守に任ぜられ、名を俊宇と改め軍政にあたり、延元元年足利尊氏天皇に叛くや、金持党を率いて新田義貞、恒良・尊良両親王とともに各地に転戦奮闘し、北陸金ヶ﨑では天皇を守り籠城するなど、終始天皇に誠を盡(つく)した。
この塔は、公の家臣が鎧を持ち帰り、当地堂ヶ平ルの丘に埋葬し供養した宝篋印塔である。その後片目の白蛇が公を守るかのようにたむろしていたと伝えられている。
日野町金持 若林 朗 文責”
【写真左】金持景藤の墓その1
写真奥に見える道が181号線。右側(北)に下がると金持神社がある。
金持氏については、文治2年(1186)源頼朝が義経追討の際、全国に守護・地頭を置いたころに、すでに伯耆国の守護として在職している。
このことから後醍醐天皇と行動を共にした景藤は、金持氏の3,4代目と思われる。また、これより先の後鳥羽上皇の配流の際も、金持兵衛が「流人の預かり人」を勤めている。そうしたことから、金持氏は鎌倉幕府の御家人の中でもかなり重責を負った一族と思われる。
【写真左】その2
形式は宝篋印塔。製作年代は室町後期の作といわれている。
【写真左】周辺の山城(大要害)?
同墓所がある裾野から上に延びる方向に「金持城」というのがある。おそらくこの山だろうと思われるが、確証はない。「榎ヶ岳」の山頂にあるとのことだが、どれがその山なのか資料がないため不明。
遺構としては堀切があるという。
【写真左】小要害?
上記の山城と対面する方向に、「小要害」の山城があるというが、これだろうか。
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