2009年11月8日日曜日

名和氏先祖墓所・長田城跡(神社)付近(鳥取県西伯郡大山町長田)

名和氏先祖墓所・長田城跡(神社)付近


●探訪日 2009年11月3日
●所在地 鳥取県西伯郡大山町長田


◆解説
 今年(2009年)1月20日投稿の小松城(鳥取県南部町)を取り上げた際、長田城について少し触れていた。このときはその場所を比定できそうな資料がなく、保留していたが、今回多少なりとも手掛かりになりそうな場所を突き止めたので、紹介したいと思う。

その前に、小松城と長田城の関係を再度確認しておきたい。先ず時代は、戦国期から約200年ほどさかのぼる南北朝期で、地元の武将・名和長年が絡む話である。

小松城の稿で紹介したように、建武3年(1336年)6月19日、塩冶高貞の傘下にあった出雲国造舎弟・貞教(さだのり)が、最初にこの長田城を攻め、その後同月30日、南部町の小松城を攻略したとある(千家文書)。

建武3年は、名和長年が正月明けから、伯耆・因幡・出雲の軍勢をもって勢多(滋賀県)防備にあたり、後醍醐天皇の守将として戦うが、同年6月ついに敗死してしまう。このときから一気に足利尊氏、塩冶高貞らが盛り返していく中での動きである。
つまり、当時小松城や長田城には、名和長年らの地元伯耆に残っていた一族らが守城していたと思われる。

頭(かしら)である長年が死亡すれば、当然戦意は低下する。伯耆地方ではこのほかに、長年一族の杵築太郎が平賀共兼に、同じ6月5日討たれている(萩藩閥閲録)。隣の島根・石見地方では足利尊氏がより積極的に手を下している。その動きは非常に早く、同年(建武3年)の11月には、室町幕府を開き、建武の式目を制定することになる。後醍醐天皇は忸怩たる思いで吉野へ移ることになる(南北朝の始まり)。

さて、長田城の場所だが、以前にも指摘していたように、記録にある「長田」という地名は現在の長田神社を中心とした地域である。またこの付近には、「妻木晩田(むきばんだ)遺跡」が約1キロほど西方にある。 大山北麓にそびえる孝霊山(751m)の麓で、小波城(米子市淀江町)とは直線距離で3キロ余り、小松城(南部町)とは30キロ弱の距離になる。

【写真左】現地にある「長田神社」と「清見寺」の案内板
 大山町を走る山陰道(名和・淀江道路:R9)とほぼ平行に大山北の稜線を横断して走る大山広域農道が、妻木晩田遺跡区域に入る東側にあり、この写真の道は旧道と思われる。 この位置からどちらにも徒歩1,2分で着く。
【写真左】清見寺の入口




 この寺は、万治2年(1659)に、因幡藩池田光仲によって大山寺末寺として建てられている。当寺に祀られている本尊は、室町時代末期につくられたという木造千手観音立像で、町指定保護文化財となっている。 




写真左】清見寺境内
 本堂は近世に建てられた小さなものだが、境内の広さはかなりある。
 写真では分かりずらいが、この奥にはさらに高くなった小丘があり、位置的に見てもこの付近が長田城の郭跡ではなかったかと思える。


 江戸期に当寺が創建されたということだが、境内の造成工事などを考えると、当時から郭跡などがあったため、この場所に寺院を建てやすかったのではないか。あるいは、名和氏一族を永代供養する意味も含め、建立されたと思える。のだが…。
【写真左】清見寺境内の北側
 植林されているため、奥の方まで入ることができなかった。
【写真左】長田神社
 清見寺から西に約50mほど行くと、道路南側に建立されている。
【写真左】本殿の後ろ部分にあった石造
 柱の礎石のようだが、写真にあるようにかがんだままの形をした彫刻がなされている。

【写真左】名和氏先祖之御墓所
 長田神社前の道を西に向かうと、長田地区の集落がある。この集落の中ほどから北の方へ下がる道にでる。約100mほど行くと、小川を挟んで東側にこの墓所がある。


【写真左】同墓所の「名和氏五輪塔」説明板
 この説明板には次のように記されている


名和氏五輪塔
 この五輪塔は、名和長年の祖父である村上行明行盛の墓と伝えられている。承久の乱(1221)の頃に、丹馬(但馬か:管理人)から伯耆の長田に移住してきたときは、「村上」の姓を称していた。このことは五輪塔所在地の上手に「村上氏邸址」と称されるところがあり、このことを物語っている。


 かつて、五輪塔は「村上氏邸址」近くに所在していたといわれており、洪水のために流出したものを、里人の手により今の場所に移健され厚く祭祀されている。


 二基ともに、塔高1m70cmで、石材は孝霊山特有の角閃石安山岩で造られている。製法は、荒い叩き仕上げで各輪ともに無地である。火輪は軒が反るが、軒口の切り方等に甘さがある。風輪空輪が非常に大きいのが特徴である。
 平成14年 大山町教育委員会”

 この中に書かれている「村上氏邸址」の場所を確認していないが、どちらにしても、塩冶氏兵が攻略した相手は、名和長年の祖父など極めて身内・親族などで、濃い縁者が住んでいたようだ。
ちなみに現在の長田集落も傾斜のある山の斜面に、階段状に家が設置され、いかにも当時の屋敷集落の趣をもった景観をなしている。

こうした状況を考えると、現在の清見寺を中心とした位置に「長田城」を置き、その東北部の麓付近に城主である村上氏の居館(邸址)を置いていたのではないだろうか。
【写真左】名和氏五輪塔
 空輪というのは、写真の一番上部に当たる部分で、人間でいえば、「頭でっかち」の形状である。ちなみに、この場所から東にある名和町の長年らを祀った「三人五輪」と非常によく似ている(2009年1月9日投稿参照)。

【写真左】同墓所から南方の清見寺・長田神社方面を見る。
 中央右の当たりになる。後方の山は孝霊山の稜線
【写真左】同墓所と、北に日本海・美保関半島を見る。
 この場所にたたずむと、日本海の動き、東西の動きが非常に把握しやすいことが分かる。

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