2009年11月13日金曜日

江尾城(鳥取県日野郡江府町江尾)

江尾城(えびじょう)

●探訪日 2008年4月16日
●所在地 鳥取県日野郡江府町江尾
●標高200m、比高40~50m
●形態 平山城
●築城者 蜂塚安房守
●築城期 文明16年(1484)
●別名 江美城

◆解説(参考文献:江府町史等)
 鳥取県の名峰大山(だいせん)西南の麓にある江府町は、日野郡(3町)の北の玄関に当たる位置で、南の日野町から流れてきた日野川が、ちょうどこのあたりから北北西に曲がって日本海へ注いでいく場所である。また、旧伯耆街道(R482)と旧日野街道(R181)との分岐点で、特に江尾は古くから山陽と山陰を結ぶ交通上の要衝でもあった。

 今稿の江尾城付近は、そうした地理的な背景もあって、中世からさまざまな交流があった。また当時の大山寺と近いことから、江府町地域の中には大山寺領として支配されていたところもあったという。
【写真左】当時の江尾城周辺図(推定):江府町史より転載

















 江尾城そのものの築城期は、文明16年(1484)、蜂塚氏初代・安房守によって草創されたという。蜂塚氏については、清和源氏を祖とする新田氏の直系という説があるが、確証はない。

 初代安房守から、二代・三河守、三代・丹波守、四代・右衛門尉に至るまで80余年続いたという(『鳥取県神社誌』)。 四代までの城主の名が残っている記録はあるが、前述のように出自がはっきりしない。

 現地の案内板には文明16年の築城とされているが、江府町史によれば、大永4年(1524)に行われた尼子氏による伯耆の攻略(大永の5月崩れ)以前から、同氏は伯耆地域の国人衆の一人だったという。

 ちなみに、このころの伯耆国の守護は、山名政之であるが、築城された文明16年の2年前(文明14年)には、すでに出雲の尼子経久が、伯耆光徳寺(琴浦町:日本海側)に敷地を寄進し、屋敷・寺領の諸役を免除したりしている。

 伯耆守護であった山名氏も、このころから次第に衰退していった時期で、ひょっとして、このころから蜂塚氏は、尼子氏と何らかのつながりを持ち始めていたのではないだろうか。

 「大永の5月崩れ」については、近年定説が覆されつつあるが、どちらにしても尼子氏がこの年に、伯耆を制圧し、江府町も含む日野郡も支配下に置いている。その後大永7年、天文9年と伯耆勢は、但馬守護の山名を担いだり、因幡山名の重臣・武田常信などを擁して、伯耆奪還を図ったが、いずれも失敗する。

 下って、永禄7年(1564)尼子の陰りが出始め、それまで尼子氏に与していた伯耆勢も、毛利方に与していく。しかし、その中でも江尾城主・蜂塚右衛門尉と、八橋城主・吉田源四郎らは、尼子氏から離れることはなかった。

 これにより、翌永禄8年8月、毛利氏の総攻撃を受け落城、蜂塚右衛門尉らは自刃する(この落城時の悲話がもとになって、蜂塚氏らを祀る祭りがいまでも行われているという)。

 この時の毛利軍の主だった武将としては、尾高泉山城の杉原盛重、吉川元春の部将・二宮杢介・森脇市郎右衛門尉らで、寄手3,000余騎が天狗ヶ滝、兎丸、銀杏丸などから鉄砲による総攻撃を行ったという。
【写真左】旧「八幡丸」付近に立つ模擬天守兼博物館











【写真左】江尾神社(旧「上の段」)付近の公園から本丸方面を見る











【写真左】本丸跡その1
 本丸は、大山山麓の舌状台地を堀切で切り離した小字名「城ノ上」にある。大きさは東西約100m、南北約70m。現在本丸跡は、ほとんど田んぼ、または畑地となっている。









【写真左】本丸跡その2











【写真左】本丸跡その3
 東端部に土塁跡と思われる遺構が残っている。







【写真左】本丸跡その4
 同上付近。











【写真左】本丸跡その5
 左側の低地は堀切の一部。なおその後方には「旧兎丸」と呼ばれた郭跡があるが、現在は雑木林となっている。










【写真左】本丸北東部の「オクビ」「馬場跡」から本丸方面を見る。











【写真左】旧「寺の前」付近から本丸方面を見る











【写真左】旧「土居の内」付近から、北方の旧「銀杏段」方面を見る。











【写真左】旧「馬場跡」の東端部から大山(だいせん)を見る。











【写真左】本丸北の寺の前付近から本丸を見る
 左上部が本丸跡

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