2009年11月22日日曜日

亀山城(広島県庄原市東城町小奴可)

亀山城(かめやまじょう)

●所在地 広島県庄原市東城町小奴可
●探訪日 2009年11月16日
●築城期 平安時代
●城主 奴可入道西寂・四郎・源吾・平四郎、飯田新助、亀井武蔵守玆経、宮下野守定実・隆盛ら
●指定 庄原市史跡(昭和50年3月17日)
●別名 亀石城
●遺構 郭8カ所、堀切、土塁

◆解説(現地の説明板より)

“亀山城跡
 丘陵を利用して築かれた山城で、亀石城とも呼ばれ、本丸以下段状に郭が8カ所築かれ、いたるところに堀切や土塁がめぐらされている。西方のふもとが居館跡と伝えられ、一角に要害桜が名残りをとどめている。

 この城に関する正確な史料は現存しないが、近世の文献によると、平安時代末期には、奴可入道西寂の居城であったとされ、その後、奴可四郎・奴可源吾・奴可半四郎・飯田新助・亀井武蔵守玆経らが居城したというが明らかでない。

 戦国時代の永正年間から慶長年間までは、宮氏の一族である宮下野守定実・同隆盛・同盛常・同盛慶らのいわゆる小奴可宮氏が居城していた。

 このうち隆盛は、尼子氏に味方し毛利勢と戦い戦死するが、その子盛常は、許しを得て毛利氏の家臣となった。
   平成19年3月 庄原市教育委員会”
【写真左】314号線に設置されている看板
 城跡の東麓に設置されている。山城の紹介もあるが、どちらかというと、「要害桜」のほうが有名のようだ。



 以前紹介した五品嶽城(広島県庄原市東城町川西)の宮氏と同族の宮氏が治めていた城だが、解説にもあるように、戦国期までのところで城主がたびたび変わってきている。
 備後・備中・伯耆・出雲との境目であることから、当然めまぐるしい攻防があったことが想像される。

 場所は、314号線(東城街道)の沿道にあり、JR芸備線の小奴可駅にも近い。説明用の大きな看板が道路脇に設置されているので、すぐにわかる。

 最近になって城郭の北半分(本丸まで)の雑木が伐採され、314号線の北側からだとよく見えるが、南側から走っていると、当城の遺構は分かりにくいかもしれない。

【写真左】亀山城遠望
 上記案内図の駐車位置が分からず、そのままぐるっと亀山城の西から南まで車を回し、高台の墓地の空地に駐車してから向かった。

 当城が整備されているのは、前述したように北側で、写真でいえば左側になる。遺構は右側竹林付近も見ごたえのあるところがある。




【写真左】屋敷跡付近の段から、二の丸を見る
 屋敷跡付近は写真左側に中心部があるらしいが、手前の段にも居住用の施設があったかもしれない。




【写真左】要害桜
 この根元付近は立ち入り禁止となっている。春にはおそらく相当見事な満開の花を咲かせるだろう。







【写真左】二の丸跡
 現地には、要害桜以外にも桜の木が植えてある。おそらく毎年春には、この場所が桜の行楽客でにぎわうだろう。

 二の丸は北の方向に向かって長く伸びている。奥行きは25m前後はあるだろう。


【写真左】二の丸から本丸を見る
 二の丸から本丸の段までの高さは4m前後だが、屋敷跡地(要害桜)から二の丸までの高さは7,8mはあるかもしれない。




【写真左】本丸
 この場所もかなり広く、二の丸とさほど変わらない規模を持つ。








【写真左】本丸南端部の土塁
 高ささは2m前後はあると思われ、その反対側はほとんど垂直に近い切崖が施工されている。土塁は本丸幅(東西)両端部までつながっている。







【写真左】土塁頂部より切崖を見る
 亀山城そのものの規模は小ぶりな方だが、こうした土塁など、遺構そのものの施工精度が高い。









【写真左】本丸より東方を見る
 小奴可地域には、このほかに地名として「内堀(うつぼり)」「寺ヶ成山」といったところがあり、小奴可宮氏関連の遺構がまだありそうである。
 写真は内堀方面遠望






【写真左】本丸の北側にある登城路を降りた、南側付近  山城ファンの希望としては、北側の開けた部分の整備もありがたいが、できればこの南側の遺構をもう少し整備していただくと、かなり満足する。

 竹林状態や倒木が多い状況になっているが、遠くから見る限り、北側面以上に城塞としての遺構が多いように見える。しかも、他の山城ではあまり見かけない変化に富んだ遺構があるようだ。

【写真左】南側途中の登城口
 このあたりは、民有地のせいか、手が加えられていないようだ。しかし、この付近もなかなか見ごたえのある遺構がありそうだ。

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