2021年8月30日月曜日

渡川城(山口県山口市阿東生雲東分)

 渡川城(わたりがわじょう)

●所在地 山口県山口市阿東町生雲東分
●高さ 352m(比高120m)
●築城期 不明(文明2年以前)
●築城者 大内氏
●城主 大内氏
●遺構 土塁、郭、堀切
●登城日 2017年3月11日

◆解説(参考文献 『日本城郭体系』等)
 島根県の津和野から西隣の山口県へ国道9号線を使って西進すると、途中からJR山口線と併せて阿武川が並走していく。
 JR山口線渡川駅付近を過ぎると阿武川は大きく北に向きを変えて、南から伸びてきた山を囲むように蛇行する。この突き出してきた山に築かれたのが地元では要害山、または城山と呼ばれた渡川城である。
【写真左】渡川城遠望
 JR山口線の渡川駅から南西方向に見たもので、東麓を阿武川が大きく左旋回して当城を囲む。




現地の説明板より

‟渡川城址

  阿東町大字生雲東分字築地

  中世大内氏の三大古城の一つで、一夫万夫を防ぐ天然の要害を利用して、石州街道の要衝として築城されたものである。

 峰の頂上から東南に向けて峰尾を下りると堀切の跡とおぼしきところが5ヵ所、東北面6~7合目の辺りに斜めに広い道跡がある。

 文明2年(1470)大内道頓は、阿東町嘉年に陣して大内家の乗っ取りを計ったが、わずか14歳の陶弘護は、この渡川城に兵を集めてこれを散々に打ち破った。

 また、弘治3年(1557)津和野三本松城主吉見正頼は、毛利元就と相呼応して山口を挟撃し、この渡川城に立て籠った陶軍の将・野上隠岐守を打ち破り遁走させている。その他、大内氏時代の数次にわたる激戦の跡として有名である。

   山口県文化財愛護協会 
   阿東町教育委員会

     設置年月日 昭和63年3月20日❞

【写真左】登城口付近に設置されている案内板
 冒頭でも紹介しているようにJR山口線が麓を走っているため、鉄道ファンの撮影スポットでもあるようだ。特に、SLが走る時期になると、この山城にはかなりの人々が登って行くようだ。
【写真左】渡川城配置図
 これも現地に設置されていたものだが、大分色が劣化していたため、管理人によって修正を加えている。
 当城の本丸は北側の最高所であるが、南側の峰にも主郭と記されているので、二の丸として機能していたのだろう。


大内道頓の乱

 渡川城の築城期については不明な点が多いが、説明板にもあるように文明2年(1470)、渡川城に陣した陶弘護が、大内道頓を打ち破ったとあるので、これより遡った時期と考えられる。

 大内道頓については、すでに周防・若山城(山口県周防市福川)の稿でも紹介しているように、応仁の乱をきっかけに東軍の細川勝元誘いに応じて、大内家の乗っ取りを謀った(「大内道頓の乱」)武将である。

【写真左】渡川城登山道入口
 国道9号線沿いから少し歩くと、御覧の案内看板が設置されている。




 道頓は大内宗家である政弘の伯父に当たり、当時筑前の代官としてその任にあったが、近隣の少弐教朝、大友親繁に誘惑され東軍方細川勝元に通じていった。

 特に大友親繁は大内氏に反目していたこともあり、親繁自身大内氏の嶺邑である周防・長門に触手を伸ばしていた。また、大内政弘が応仁の乱においてしばらく在京していたことがさらに彼らの動きを加速させていった。

 道頓は先ず周防玖珂郡で兵を挙げ、安芸に向かって進発しようとしたが、文明2年(1470)12月22日、留守を預かっていた陶弘護の逆襲に遭い、玖珂郡の鞍掛山城(山口県岩国市玖珂町字谷津)に敗れ、一旦安芸の廿日市に逃れた。しかし、その後弘護の追手が厳しく、石見に入り、津和野城(島根県鹿足郡津和野町後田・田二穂・鷲原)の吉見信頼のもとに身を寄せた。
【写真左】最初の竪堀
 登城道を登って行くと、途中で墓地に向かう道もあり紛らわしいが、じっくりと周りを見ながら向かうと、本丸方向へ繋がっていく。
 写真は途中で見えた竪堀。


 文明3年2月、長門嘉年城(山口県山口市阿東町嘉年下)に進軍した吉見信頼は、道頓に西長門の大内氏に属する諸城を攻略させた。これに対し、陶弘護は渡川城に拠って道頓の攻撃を受けながらも果敢に防戦し、道頓は破られてしまった。

 この戦い後道頓は次第に劣勢になり、この年(文明3年)12月26日、豊前に敗走し自害することになる。因みに、このころ道頓を中心とした勢力は、石見では、吉見・三隅・周布・小笠原らが参画し、嘉年城を中心として対峙していたが、その後、益田貞兼が陶弘護に与同し、戦局が大きく変わった。こうした弘護の一連の働きは京にあった大内氏に報告されている。
【写真左】さらに大きな竪堀
 更に進むと、先ほどの竪堀より大きな竪堀が現れた。








吉見信頼による陶弘護殺害事件

 陶弘護の活躍により陶氏の大内氏による信頼度は高まったかに思えたが、道頓の乱から12年後の文明14年(1482)5月27日、大内政弘邸において、弘護は吉見信頼の刃によって殺害されることになる(陶興房の墓(山口県周南市土井一丁目 建咲院)参照)。

 大内氏のこの頃の当主は第14代の政弘である。この事件は前述したように、弘護が道頓(教幸)の乱を鎮圧したあと、弘護が次第に領国を掌握し、主君大内氏を凌ぐ権力を有するようになったことから、政弘が吉見信頼に仕掛けたともいわれているが定かでない。


【写真左】吉見氏と陶氏の関係

 文明14年の両者の刃傷事件をきっかけに、吉見氏と陶氏の対立は決定的になり、正頼、晴賢の代になっても不仲は収まらなかった。


 因みに、弘護を殺害した信頼自身もその直後大内氏によって殺害されている。
 このことからも分かるように、大内政弘が当初から弘護共々信頼も抹殺することによって、両氏双方の怨恨をかわす狙いが読み取れ、当初から政弘が計画していたようにも思える。
【写真左】北城と南城との分岐点
 最初に示した北側の主郭側を便宜上「北城」とし、南側を「南城」とする。

 写真はちょうど両城の分岐点となる鞍部で、右に行くと「北城」へ、左に行くと「南城」に繋がる。
 「南城」のほうはほとんど整備されていなかったので、「北城」を目指す。


毛利元就の防長征服

 渡川城については、以前取り上げた御嶽城(島根県鹿足郡津和野町中山字奥ヶ野)でも少し触れているが、改めて当城に関わる部分を中心に見てみたい。

 渡川城における記録としては、上記した陶晴賢並びに大内義長が天文22年(1553)ごろから津和野城(島根県鹿足郡津和野町後田・田二穂・鷲原)主である吉見正頼と対峙した戦いのころがもっとも顕著である。

 同年(天文22年)11月、正頼は最初に津和野・三本松城から西に進んで嘉年城(山口県山口市阿東町嘉年下)に拠った。ここで常に絡んでくるのが、吉見氏に対立する益田氏であり、陶氏に対しては毛利氏がそれぞれ対立し始めていた。
【写真左】北城へ登る階段。
 北城に向かうと御覧の階段が設置されている。すべての箇所には設置されていないが、傾斜のある要所には設置されている。



 先ず毛利氏はこの頃、備後・旗返山城(広島県三次市三若町)を攻略したばかりで、吉見から支援の要請を受け、二宮元経・伊藤元種に兵をつけ三本松城に向かった。

 これに対し、陶晴賢は、11月12日、町野掃部介に嘉年城を攻略させた。当時嘉年城に拠っていたのは波多野孫右衛門秀信らで、阿武郡高佐原を要撃し、更に同郡池田峠に戦った。13日、陶軍が野坂峠(現在の国道9号線が使われる前の旧道で、9号線より西側を走り、長門と石見の境に当たる)を越えようとしたので、三本松から吉見氏が阻止した。
【写真左】堀切
 しばらく登って行くと御覧の堀切が現れる。この写真の堀切とは別に手前にも構築されている。




 これに対し、陶晴賢は翌天文23年3月、嘉年城を攻略し、これに伴い大内義長は山口を発し、渡川城に陣を構えた。因みに、嘉年城から渡川城までの距離はおよそ22キロ余りで、晴賢は嘉年城を攻略したあと、南下して徳佐に陣を構えた。

 毛利元就が陶晴賢を厳島に破り、晴賢が自刃したのは弘治元年(1555)である(宮尾城(広島県廿日市市宮島町)参照)。その後、晴賢に担がれ大内氏の名跡を継いだのは大内義長であったが、晴賢が自刃したあと義長は劣勢に陥り、弘治3年(1557)4月、長府・勝山城(山口県下関市田倉)にて自害し、元就はここに防長征服を遂げ、安芸・吉田郡山城(広島県安芸高田市吉田町吉田)に凱旋することなる。
【写真左】もう一つの堀切
 先ほどの堀切からさらに上に向かった位置にあるもので、当城最大の堀切。
【写真左】郭が現れる。
 途中から小規模な郭状の場所も見えたが、この郭が最も明瞭な規模のもので、奥行もある。
【写真左】本丸が見えてきた。
【写真左】本丸
 登城したこの日、現場は伐採して間もないような光景だった。
【写真左】土塁
 本丸の一角には土塁が残る。
【写真左】本丸に設置された標柱から東方を俯瞰する。
 奥の方へ向かうと、徳佐や嘉年城、及び石見(津和野)に繋がる。
【写真左】本丸から東方のJR渡川駅を見る。
 JR山口線と並行して走っているのが、阿武川と国道9号線である。
 阿武川は渡川城の東麓から大きく北に向かって旋回し、当城を囲むように流れる。
【写真左】西方を見る。
 本丸から少し下った位置から見たもので、西方の長門峡方面(山口市方面)を見る。
【写真左】南城の郭
 北城を終えて、南城の方へも向かったが、道が整備されていないため途中で断念した。
 しかし、途中の中腹部に御覧のような郭が残っていた。
【写真左】北西麓から遠望する。
 下山後、渡川城を囲む阿武川沿いの県道篠目徳佐下線(311号線)側に回り込んで遠望する。

2021年5月13日木曜日

上桜城(徳島県吉野川市川島町桑村)

 上桜城(うえざくらじょう)

●所在地 徳島県吉野川市川島町桑村
●別名 植桜城・川島南城
●高さ H:142m
●築城期 南北朝期か
●築城者 河村小四郎か
●城主 篠原長房
●遺構 郭、空堀等
●指定 徳島県指定史跡
●登城日 2017年3月5日

◆解説(参考資料 平凡社発行「松永久秀と下剋上」天野忠幸著、その他)
 上桜城は以前紹介した同市内にある川島城(徳島県吉野川市川島町川島)から南へおよそ1.5キロほど向かった桑村の地区に所在する山城である。
【写真左】上桜城本丸
 本丸の一角には祠が祀られ、手前には上桜城の石碑が建立されている。







碑文
”城主 大和守長房右京之進弾正入道紫雲
上桜城址
  昭和46年7月16日 400年祭
  篠原 雅一 建立”
【写真左】上桜城に向かう分岐点
 川島城の南を走る国道192号線から南へ枝分かれする県道43号線(神山川島線)を南下していくと、途中で右側に林道のような道がでてくる。この道に入る。
 写真は県道43号線から枝分かれする部分。



現地の説明板より

❝徳島県指定史跡  上桜城跡
    平成元年12月8日指定

 上桜城は、戦国時代の末、篠原紫雲長房が、その実践の経験を生かし、この天然の要害に築いた。山頂の本丸は、二の丸、三の丸を廻らし、西の丸には北と南に空堀を持つ。
 元亀3年、長房は讒言(ざんげん)によって、主君三好長治の率いる兵7千によって攻められ、7月16日激戦の後、城兵全員が悲壮な戦死をとげ落城した。いわゆる上桜の戦いで、城跡の麓には両軍戦死者の慰霊碑がある。❞
【写真左】登城口
 車を脇に停めてここから向かう。
 登城口付近には説明板や石碑が建ててある。
 






篠原長房と三好一族

 当城の城主といわれているのが三好氏の家臣であった篠原長房である。 彼については、既に讃岐の財田城(香川県三豊市財田町財田中)や、川島城(徳島県吉野川市川島町川島)で紹介しているが、改めて彼の略歴を辿ってみたい。

 長房の父は篠原長政といわれ、篠原家はもともと近江の野洲郡篠原郷を本拠としていた。長政の父の代に近江から阿波国へ下り、三好氏に仕えたとされている。

 三好長慶(勝瑞館(徳島県板野郡藍住町勝瑞東勝地)参照)の時代になると、三好家は畿内を活動域とする長慶家臣団と、四国(阿波国・淡路国)を受け持つ長慶の弟実休家臣団(阿波三好家)の二つに構成された。

 そして、篠原長政の嫡男・長房は主として四国、即ち実休の家臣団の構成メンバーとなっていた。そして他国から入った立場であったため、一門衆とは別に譜代衆として次第に頭角を現すことになる。
【写真左】尾根を削平した平坦な箇所
 当時のものか不明だが、しばらくこうした歩きやすい箇所が続く。




 永禄4年~5年に三好長慶の実弟達である三好実休(河内・飯盛山城(大阪府四条畷市南野・大東市)参照)や十河一存(十河城(香川県高松市十川東町)参照)が相次いで亡くなると、実休の嫡男長治が跡を継いだが、幼少であったこともあり、彼(長房)が後見し、事実上の実権を握ることになった。

 なお、後段でも述べるが、長房には木津城(鳴門市撫養町木津)主となる弟の篠原自遁がおり、当初兄長房ともども三好長治を支えていくが、後に実休の妻との間を巡って袂を分かつことになる。
【写真左】旧道か
 上記写真の箇所の左側には北側登ってくる旧道らしきものが確認できる。当時の大手道の一部だったかもしれない。



 さて、三好実休・十河一存が亡くなった2,3年後の永禄7年(1564)5月9日、松永久秀の讒言によって、兄・長慶は残った一人の実弟・安宅冬康(白巣城(兵庫県洲本市五色町鮎原三野畑)参照)を河内・飯盛山城(大阪府四条畷市南野・大東市)で誘殺してしまう。

 なお、これより先の永禄6年(1563)、長慶は嫡男・義興も病没している。このように、短期間のうちに子息や、さらには讒言とはいえ自ら実弟を殺害したことに大きなショックを受けたのか、長慶はその2か月後の7月4日、飯盛山城で病死する。
【写真左】主郭が近づいてきた。
 途中の道は整備されていて歩きやすい。









 長慶が亡くなった後、跡を継いだのは長慶に養子として入っていた義継である。義継は、十河一存すなわち、長慶の弟の子であるから、長慶の甥に当たる。

 彼を支えたのがいわゆる「三好三人衆」と松永久秀といわれている。三好三人衆とは、三好長逸・三好宗渭(そうい)、そして岩成友通である。このうち、三好長逸と宗渭は長慶の一門衆で、岩成友通は新参衆とされる。彼らは主として畿内にあって長慶を支えてきた。松永久秀は岩成友通と同じく新参衆の一人で、信貴山城(奈良県生駒郡平群町大字信貴山)の稿ですでに紹介している。

【写真左】三好氏略系
 左図は長慶が亡くなった後の流れで、既述したように長慶の跡を継いだのは、十河一存の息子・義継である。

 これは、三好本宗家が天皇家の桐御紋の使用が許される家格を保持していて、それに相応しい跡継ぎを考えた本宗家は、十河一存の妻が前関白九条稙通の養女であることから、彼を本宗家(長慶)の養子として迎え入れた。
 

 長慶が亡くなったあと、三好家では長慶の養子であった義継を当主とし、三好三人衆と松永久通(久秀の嫡男)らが支える体制を整えるように見えた。しかし、その後松永久秀が復帰(嫡男に家督を譲っていた)すると、三人衆らは義継に久秀との断交を迫った。永禄8年(1565)11月のことである。

 永禄9年(1566)6月、長房は足利義栄(平島館(徳島県阿南市那賀川町古津字居)参照)を擁立し、長治や細川真之(仁宇城(徳島県那賀郡那賀町仁宇)参照)を奉じて四国勢を糾合し畿内に上陸した。

【写真左】三好長慶・実休の家臣団構成図
 ★マークが三好三人衆で、篠原長房は実休の譜代衆の代表格。










 このころ長房は三好三人衆(信貴山城(奈良県生駒郡平群町大字信貴山)参照)と与同し、松永久秀と敵対していた。そして、摂津及び大和国に転戦し、ついには永禄11年(1568)2月8日、足利義栄を第14代征夷大将軍に押し上げている。また、義栄が征夷大将軍となったこのころ、長房は松永久秀の拠る信貴山城も落としているので、まさに彼にとってはこのころが絶頂期だったといえる。

 しかし、彼らの勢いは長く続かなかった。この年の9月、織田信長が足利義昭を奉じて上洛の動きを開始すると、長房及び三人衆らは退却を余儀なくされた。畿内での活動拠点の一つとしていた越水城(西宮市)にあった長房らは本国阿波へ落ち延びた。さらに不運が続いたのは、長房らと阿波国へ奔走していた足利義栄が10月20日、31歳の若さで病死してしまったことである。
【写真左】主郭付近
 定期的に整備されているせいか、左側に基壇を置き、北に向かって広い郭が囲繞している。





 それでも、四国に一旦帰国したあと体制をすぐに整え、翌永禄12年(1569)1月、三好三人衆は和泉に入り、信長から御座所として本圀寺(ほんこくじ)(京都市山科区)に宛がわれていた足利義昭を襲った(本圀寺の変)。しかし、すぐさま細川藤孝や三好義継並びに摂津国衆(荒木村重ら)らの援軍に敗れ四国に再び逃れた。

 この後も度々三好三人衆らは機会あるごとに四国から畿内に入って信長らと交戦していくが、元亀元年(1570)11月に織田方となっていた松永久秀と長房の間で人質交換が行われ和睦が成立した。
【写真左】主郭
 左側が基壇の形式を持った主郭で、その周りが二の丸と思われるが、三の丸と明確な区画があったのか思い出せない。



 ところで、長房が四国にあった元亀元年ごろ、娘を讃岐の雨滝城(香川県さぬき市大川町富田中)の城主・安富盛定に嫁がせている(昼寝城(香川県さぬき市多和)参照)。

 これはそれまでの領主であった寒川氏から安富氏に大内4郡を譲渡させ、讃岐東部までの地盤を拡大強化する狙いがあったためである。さらにこのころ毛利氏の圧迫を受けていた備前の浦上宗景(天神山城(岡山県和気郡和気町田土)参照)の求めに応じ、瀬戸内を渡海し備前児島に上陸、小早川隆景配下の粟屋就方を打ち破っている。
【写真左】石碑 その1
 郭の一角には下記の内容の碑文が刻まれている。



❝上桜城跡 展望
 白砂碧水鳴海に注ぐ 大麻紀雲霞に宿る
 阿北穀倉一望に治む 風静也上桜城跡

  昭和五十年 篠原 雅一❞


三好長治による上桜城攻め

 さて、冒頭で紹介している説明板には、「元亀3年、長房は讒言によって、主君三好長治の率いる兵7千によって攻められ、7月16日激戦の後、城兵全員が悲壮な戦死をとげ落城した。」とあるが、この戦いは史料によっては、元亀3年ではなく、元亀4年(天正元年・1573年)とされているものもある。
【写真左】石碑 その2
 別の箇所にも石碑が祀られている。

❝紫雲は細川藩政戦国乱世の時代に総侍大将として活躍し、新加制式目を制定して争い、事を治め詩人でもあり、文武兼備正義誠忠の武将であった。
 ◇◇謹書❞



 このころ篠原長房はしばらく畿内方面に出張していたが、その留守を預かっていたのが実弟の自遁である。彼はあろうことか、実休の妻、すなわち長治・十河存保の母・小少将と不倫の関係を持つようになった。このため、兄長房がそれを諫めたため、自遁は長房を疎んじるようになった。このため、長房は意欲が失せ上桜城に引きこもった。

 長房のこの行動に対し、三好長治は讒言によって、彼が裏切りもしくは、反撃に出ると思ったのか、上桜城の長房討伐へと動いた。その讒言の首謀者は弟の自遁であろうとしている。
 戦いは、5月に始まりその2か月後の7月に上桜城は落城し、城主・篠原長房が自害することなるが、討伐側である三好長治側には、阿波三好氏の元の主君・守護であった細川真之(仁宇城(徳島県那賀郡那賀町仁宇)参照)がいた。
【写真左】上桜城から川島城を遠望する。
 上桜城から北におよそ1.5キロの位置に川島城が見える。その奥を流れるのが吉野川。

 長房が討死したあと上桜城は廃城となり、替わって吉野川沿いにこの川島城が築かれた。

 川島城の稿でも述べているように、築いたのは川島兵衛之進(惟忠)で、この後天正7年の長宗我部氏の阿波攻めで川島一族は備中(上ノ殿城(岡山県久米郡久米南町中籾))に逃れた。



 真之の母は、前述した小少将である。彼女は実休に嫁ぐ前は、細川阿波守護家9代持隆の側室で、このころから彼女は実休と相通じていたという。真之は公式には持隆の子としているが、こうした経緯もあったため、実父は実休であった可能性が高い。因みに、持隆の正室は山口の大内義興(大内氏遺跡・凌雲寺跡(山口県山口市中尾)参照)の娘である。
【写真左】北側から見る。
 外周部はさほど険峻なところはないが、主郭を取り巻く郭はかなり広々としている。





 さて、上桜城の篠原長房が自害したあと、4年後の天正5年、今度は三好長治はこの細川真之を那賀の茨ヶ岡城に攻めた。ところが、逆に真之を支援した地元国人領主一宮成祐(一宮城跡(徳島県徳島市一宮町)参照)らによって敗れ自害した(白地・大西城・その2(徳島県三好市池田町白地)参照)。
【写真左】上桜城から西麓を遠望する。
 中央を横断しているのが吉野川で、この付近の中洲(国有地)は同川の中でも最大級の規模を誇る。
【写真左】上桜城を遠望する。
 北西麓から見たもので、南から伸びてきた尾根の先端部に築城されているため、独立峰のような景観でなく分かりにくいが、写真の鉄塔付近と思われる。

2021年4月10日土曜日

徳島城(徳島県徳島市徳島町城内)

徳島城(とくしまじょう)

●所在地 徳島県徳島市徳島町城内
●別名 渭津城、渭山城
●形態 平山城
●高さ 62m(比高60m)
●築城期 至徳2年(1385)
●築城者 細川頼之
●城主 細川頼之、蜂須賀家政、以下蜂須賀家(至鎮、忠英,光隆,綱通、綱矩、宗員、宗英、宗鎮、至央、重喜、治昭、斉昌、斉裕、茂韶)
●指定 国指定史跡
●遺構 石垣、郭、堀、井戸等
●登城日 2017年3月5日

◆解説
 徳島城は吉野川河口近くにあった中洲状の小丘に築かれた連郭式山城である。
【写真左】徳島城の石垣
北側の部分で、左に向かうと本丸に繋がる。

 後段でも述べているが、秀吉の命によって、当時伊予にあった小早川隆景、土佐の長宗我部元親、さらには比叡山の僧侶などが築城に協力したという。
 石積には穴太(あのう)衆も関わったとされる。


現地の説明板より

”本丸跡
 徳島城の山城部分には、本丸・東二の丸・西二の丸・西三の丸が置かれていました。
 本丸は標高61mの城山頂上に置かれた曲輪で、山城部分の中では最も面積が広く重要でした。本丸には、中央に置かれた御座敷と城山の管理人であった御城山定番の詰めた御留守番所のほか、弓櫓や東西の馬具櫓、武具櫓、火縄櫓が設けられていました。

 櫓は戦いの際には防御施設となりますが、普段は武器を収めていました。藩主は城山麓の御殿で暮らし、城山に登ることは稀でしたが、この御座敷にも藩主専用の部屋があり、台所も設けられていました。また本丸東部に置かれた鐘は、城下町の火事の際に打ち鳴らされ、町人たちの危急を救いました。
【写真左】徳島城周辺地図
 徳島城を中心とするこの付近は徳島中央公園となっており、城北には助仁川が東西に流れ、そこから城東に水を引き込み、城南の方まで濠が残る。


 本丸の出入口は東西の門が使われましたが、北口には御座敷の建物で隠された非常時の脱出口(「埋門(うずめもん)」があり、大名の非常時に対する備えがうかがえます。

 東二の丸には三層の天守が設けられていました。一般的に、天守は城郭の最上部に建てられましたが、徳島城では本丸から一段下がった同地に置かれていました。天守の一階は7間(約14m)四方と大きかったのですが、天守台はありませんでした。
 西二の丸には鉄砲櫓と帳(とばり)櫓、その西方の西三の丸には材木櫓と平櫓が設けられていました。
 西三の丸の跡地には、現在水道配水池が設置されています。”
【写真左】本丸を囲む石垣
 奥に向かうと冒頭の箇所に至るが、全体に石垣の法面は曲線部はなく直線的な構成となっている。




渭山城・寺島城

 徳島城の前身は南北朝時代後期の至徳2年(1385)、細川頼之(讃岐守護所跡(香川県綾歌郡宇多津町 大門)、白峰合戦古戦場(香川県坂出市林田町)参照)が、四国南朝方を滅ぼしたころこの地に城砦を築いたのが始まりといわれている。
 また別説では鎌倉時代当時この地が富田庄と呼ばれたころ、地頭として来住した河野通純が文永9年(1272)築いたともいわれるがはっきりしない。
【写真左】本丸
 説明板にもあるように、御座敷、御留守番所、弓櫓、東西の馬具櫓、武具櫓、火縄櫓などといった建物があり、L字型の大きな郭となっている。



 徳島城は別名渭山(猪山)城とも呼ばれた。現在の地図を見ても当城が当時吉野川の三角州の一角に岩塊状の島として存在していたことが想像される。そして、当城には「城山の海蝕痕」が残り、縄文時代には大規模な「海進」があった(下段参照)。

戦国期

 天正13年(1585)、豊臣秀吉による四国征伐の際、臣下の一人であった蜂須賀家政が阿波一国(18万石余)をその勲功により賜り、当国に入り、最初に居城として入ったのが、徳島城から南西10キロ隔てた一宮城跡(徳島県徳島市一宮町)である。

 入封したものの、家政はすぐに居城を一宮城から紀伊水道に面した現在の位置に平山城を築城計画し、翌天正14年に完成させた。このように、工期が短期で完成したのも、南北朝時代に細川頼之がすでに城郭としての基盤を形成していたからだろう。


清玄坊

 本丸の一角には御覧のような祠が祀られている
【写真左】清玄坊神社(祠)
 神社といわれているが、現在現地には祠のような大きさのものが祀られている。
 おそらく家政寺時代には社が建てられていたものと思われる、


 蜂須賀家が当地に入る前、この場所には三好家と共に阿波に下向し、祈祷所を建てていた清玄坊という修験者が居た。

 蜂須賀家政が阿波に入国し、当城を築城した際付近の全寺社に移転を命じたが、この清玄坊だけはこれをかたくなに拒否した。このため、清玄坊を謀殺した。

 その後蜂須賀家には災いが続出したため、清玄坊の祟りと畏れ、前非を悔いて石碑を建立し末代まで供養することを誓った。この結果変事は収まったという。
【写真左】本丸から眉山を遠望する。
 徳島城から眉山までは直線距離でおよそ2キロとなる。

 この日は時間がなく向かっていないが、当山には家祖・蜂須賀正勝(家政の父)をはじめとする藩主蜂須賀家墓所(万年山墓所)が祀られている。
 なお、正勝は天正14年(1586)5月大阪で没しており、墓石は昭和46年大坂から移されている。
【写真左】弓櫓
 本丸の西端部には弓櫓があり、現在では石垣の一部が残る。


【写真左】弓櫓から西の二の丸へ向かう。
【写真左】西二の丸
【写真左】帳櫓
【写真左】西三の丸・その1
【写真左】西三の丸・その2
【写真左】西三の丸から下に降りて行く。
 なお、下山してから分かったのだが、本丸の東には「東二の丸」が配置されていることをすっかり忘れてしまい。見ることができなかった。
【写真左】8620形式蒸気機関車
 下山した公園内に御覧の蒸気機関車が展示されていた。

 大正12年から昭和44年まで徳島県内を走っていた汽車で、昭和45年に徳島市が国鉄から譲り受けて当地に保存したという。
 因みに徳島城の西隣にはJR四国の徳島駅があり、転車台もある。
【写真左】蜂須賀家政公銅像
 公園内には家政の銅像が建立されている。

 因みに戦前までは父である正勝の銅像が建っていたが、戦時中の金属類回収令に伴い無くなり、昭和40年に改めて今度は息子の家政の銅像が建てられた。
【写真左】数寄屋橋(すきやばし)
 現地の説明板より

❝数寄屋橋
 徳島城の鬼門(北東)に当たる門が、旗櫓の下にあった数寄屋門です。別名「不明門」とも呼ばれたように、城内の凶事の際以外には開かれることのない門でした。

 その数寄屋門の東側、堀に架け渡されて橋が数寄屋橋です。
 長さ五間=約9.75m、幅一間=約1.95mの太鼓橋でした。現在は、木製の橋が架けられており、往時をしのばせるものとなっています。”

【写真左】城山の海蝕痕
 岩肌に大小の円形の窪みが海蝕痕(かいしょくこん)といわれるもので、縄文時代前期(6,000~5,000年前ごろ)に海水が内陸まで入り込んだいわゆる「海進」の跡。

【写真左】城山の貝塚
 徳島城を支えるこの岩山には4,000~2,300年前の縄文時代後期・晩期の岩蔭・洞窟遺跡があり、その貝塚が3か所存在している。

 ハマグリ・カキ・ハイガイなどの貝層が見られ、そのほか土器片、さらには完全な屈葬人骨1体を含む3体分の人骨が出土している。
 これは大正11年(1922)鳥居龍蔵博士らによる発掘調査で判明している。当時この周辺は豊富な魚介類がたくさんとれたのだろう。
【写真左】中央公園
 徳島城の東麓から南麓にかけて広がる園で、この中には徳島城博物館・御殿庭園・お花見広場などの施設がある。
 写真の奥には東二の丸がある。


◎関連投稿

2021年4月2日金曜日

万福寺・尼子経久位牌(鳥取県日野郡江府町武庫)

 万福寺(まんぷくじ)・
   尼子経久位牌(あまごつねひさ いはい)

●所在地 鳥取県日野郡江府町武庫
●創建期 大永年間(1521~28)
●創建者 尼子経久
●宗派 天台宗・曹洞宗
●備考 熊野堂

◆解説(参考文献等『山陰の戦国史跡を歩く 鳥取編』加賀康之 ハーベスト出版)

指の腱鞘炎

 私事で恐縮だが、昨年の7月を過ぎたころから次第に体調が芳しくなく、消化器系の痛みを覚え、検査していただいたところ、消化器系は問題ないが、心臓や循環器系に少し問題があることが分かった。これまでのところ、薬で体調を維持しているが、その後昨年末から特に右手の指に変調をきたし、主に中指と人差し指が曲がらなくなり、さらにはモノをつかむと痛みが走り、今度は整形外科に通う羽目になった。

 結局指の腱鞘炎ということで、中指の部分を手術して以前よりは動くようになった。このこともあって、一時は文字を書くことも、キーボードを打つこともできなくなった。現在は積極的に指を伸ばしたり曲げたりといったリハビリの効果もあって、何とかキーボードを打つこともできるようになった。

 2008年の暮れから始めたこのブログも14年目に入った。当初は10年も続ければ御の字と思っていたので、これからはこうした体調などによる中断も出てくるだろう。昔で言えば古希の年齢である。古代中国の詩人・杜甫が、70歳を生きのびるのは「古来稀である」といったところからできたらしいが、今まで通り無理をせず、マイペースでアップしていきたいと思っている。

 さて、久しぶりの投稿は山城・城郭とは少し趣が違う寺院と、「位牌」についてとり上げたい。

万福寺

 鳥取県の伯耆大山南麓を源流とする俣野川が、西進したあと日野郡日南町の三国山(1,004m)を源流とする日野川と合流する場所が武庫(むこ)といわれる地域である。

【写真左】万福寺

 右側が俣野川と並行に走る県道113号線で、このまま奥に向かうと、国道482号線にの下蚊屋に繋がり、美作の蒜山へと向かう。



 武庫という地名は、摂津国の古名が有名だが、その語源は「武器」を収めた、あるいは埋めたという伝承から生まれたものといわれる。もともと神功皇后の代にその地名が出ていることから、当地(伯耆国)の武庫もおそらくそのころには呼ばれていたのだろう。

 その武庫から少し俣野川を少し登ったところには、大永年間(1521~28)に出雲の尼子経久が西伯耆を攻めて、高谷山を通った際、景勝地だったことから尼子氏の祈願所として、天台宗の寺として創建した万福寺が建っている。

 こうした歴史を持っていることから、当院本堂には「尼子経久の位牌」とされるものが安置されている。

【写真左】万福寺側から武庫の街並みを遠望する。
 右側に日野川が流れ、俣野川と合流している。この写真の奥からおよそ5キロ余り遡っていくと、日野町で備後、備中方面へと道が分かれていく。


尼子経久の位牌

 この日当院に参拝した折、御住職から実物を拝見させていただいた。しかし、そこに記された戒名(法名)の文字を見る限り、尼子氏もしくは経久に関わるものが読みとれず、御住職もご指摘されているように、尼子氏ではなく、「南条氏」を想起させる銘が記されていた。どういう根拠で「尼子経久の位牌」とされたのか、この位牌を見る限り分からない。

【写真左】尼子経久のものとされている位牌

 高さおよそ40㎝前後のもので、文字はだいぶ劣化して鮮明でないが、何とか読み取れる。


 件の位牌を示したのが、左の写真だが、表には「開基慈雲院殿澤翁宗勝大居士〇位」と筆耕され、裏には「天文ニ申十月十三日」が記されている。

 注目されるのは、この裏に記された時期、すなわち天文2年(1533)と書かれていることである。当院に残っている以上、この位牌は「本位牌」と思われるので、当年の10月13日に亡くなったことを表わしている。

 単純に考えれば経久が没したことを示す位牌なのだが、実際には経久が亡くなるのは、天文2年から8年後の天文10年(1541)の11月3日である。また、「宗勝」銘から考えられる南条氏、すなわち南条宗勝(羽衣石城(鳥取県東伯郡湯梨浜町羽衣石)参照)が亡くなるのは天正3年(1575)であるから、これは件の時期と合致しない。

【写真左】位牌の裏
 少し黒ずんでいるが、「天文ニ申十月十三日」と銘記されている。


 ところで、先述したように尼子経久が伯耆国に触手を伸ばし始めたのは、大永年間を遡った永正3年(1506)頃といわれている。このころは伯耆守護であった山名尚之と、反守護であった山名澄之(堤城(鳥取県北栄町北条島)参照)との対立が鮮明となり、そこへ尼子経久が介入し始めている。





南条宗勝の位牌か 

 そして、大永4年(1524)には尼子経久が本格的に伯耆に侵攻したという「大永の五月崩れ」があったといわれているが、現在では否定されている。

 天文2年頃になると、東伯耆の南条氏及び小鴨氏らが美作の国人領主とともに、尼子晴久と敵対し始めている。しかし、天文5年(1536)12月には尼子晴久が美作及び備中の一部を制圧しているので、出雲と美作の間に当たる伯耆もほぼ制圧していたのではないかと推察される。因みに、尼子氏に制圧されたあと、宗勝は一時的に尼子氏の臣下となっている。

【写真左】拡大したもの。

 南条宗勝という名は、入道した際の号で、「そうしょう」と読む。実名は国清、その後元清と改めていた。


 こうしたことから、件の位牌は南条宗勝が尼子氏に敵対した天文2年の戦の際、宗勝自身が自らの死を覚悟したうえで、あらかじめ位牌を作っておいたか、もしくは別の人物の首級が間違えられて宗勝とされたのかもしれない。

 いずれにしても謎の多い位牌である。