●高さ 352m(比高120m)
●築城期 不明(文明2年以前)
●築城者 大内氏
●城主 大内氏
●遺構 土塁、郭、堀切
●登城日 2017年3月11日
◆解説(参考文献 『日本城郭体系』等)
現地の説明板より
‟渡川城址
阿東町大字生雲東分字築地
中世大内氏の三大古城の一つで、一夫万夫を防ぐ天然の要害を利用して、石州街道の要衝として築城されたものである。
峰の頂上から東南に向けて峰尾を下りると堀切の跡とおぼしきところが5ヵ所、東北面6~7合目の辺りに斜めに広い道跡がある。
文明2年(1470)大内道頓は、阿東町嘉年に陣して大内家の乗っ取りを計ったが、わずか14歳の陶弘護は、この渡川城に兵を集めてこれを散々に打ち破った。
また、弘治3年(1557)津和野三本松城主吉見正頼は、毛利元就と相呼応して山口を挟撃し、この渡川城に立て籠った陶軍の将・野上隠岐守を打ち破り遁走させている。その他、大内氏時代の数次にわたる激戦の跡として有名である。
設置年月日 昭和63年3月20日❞
大内道頓の乱
渡川城の築城期については不明な点が多いが、説明板にもあるように文明2年(1470)、渡川城に陣した陶弘護が、大内道頓を打ち破ったとあるので、これより遡った時期と考えられる。
大内道頓については、すでに周防・若山城(山口県周防市福川)の稿でも紹介しているように、応仁の乱をきっかけに東軍の細川勝元誘いに応じて、大内家の乗っ取りを謀った(「大内道頓の乱」)武将である。
【写真左】渡川城登山道入口道頓は大内宗家である政弘の伯父に当たり、当時筑前の代官としてその任にあったが、近隣の少弐教朝、大友親繁に誘惑され東軍方細川勝元に通じていった。
特に大友親繁は大内氏に反目していたこともあり、親繁自身大内氏の嶺邑である周防・長門に触手を伸ばしていた。また、大内政弘が応仁の乱においてしばらく在京していたことがさらに彼らの動きを加速させていった。
文明3年2月、長門嘉年城(山口県山口市阿東町嘉年下)に進軍した吉見信頼は、道頓に西長門の大内氏に属する諸城を攻略させた。これに対し、陶弘護は渡川城に拠って道頓の攻撃を受けながらも果敢に防戦し、道頓は破られてしまった。
吉見信頼による陶弘護殺害事件
陶弘護の活躍により陶氏の大内氏による信頼度は高まったかに思えたが、道頓の乱から12年後の文明14年(1482)5月27日、大内政弘邸において、弘護は吉見信頼の刃によって殺害されることになる(陶興房の墓(山口県周南市土井一丁目 建咲院)参照)。
大内氏のこの頃の当主は第14代の政弘である。この事件は前述したように、弘護が道頓(教幸)の乱を鎮圧したあと、弘護が次第に領国を掌握し、主君大内氏を凌ぐ権力を有するようになったことから、政弘が吉見信頼に仕掛けたともいわれているが定かでない。
毛利元就の防長征服
渡川城については、以前取り上げた御嶽城(島根県鹿足郡津和野町中山字奥ヶ野)でも少し触れているが、改めて当城に関わる部分を中心に見てみたい。
渡川城における記録としては、上記した陶晴賢並びに大内義長が天文22年(1553)ごろから津和野城(島根県鹿足郡津和野町後田・田二穂・鷲原)主である吉見正頼と対峙した戦いのころがもっとも顕著である。
【写真左】北城へ登る階段。
先ず毛利氏はこの頃、備後・旗返山城(広島県三次市三若町)を攻略したばかりで、吉見から支援の要請を受け、二宮元経・伊藤元種に兵をつけ三本松城に向かった。
これに対し、陶晴賢は翌天文23年3月、嘉年城を攻略し、これに伴い大内義長は山口を発し、渡川城に陣を構えた。因みに、嘉年城から渡川城までの距離はおよそ22キロ余りで、晴賢は嘉年城を攻略したあと、南下して徳佐に陣を構えた。