2011年2月24日木曜日

姉川古戦場跡(滋賀県長浜市三田町・野村町)

姉川古戦場(あねがわこせんじょう)

●所在地 滋賀県長浜市三田町・野村町)
●探訪日 2008年3月19日

◆解説
 前稿「関ヶ原古戦場」を探訪した後、再び滋賀県に入り北上し、長浜市にある姉川古戦場を訪ねた。

 関ヶ原から国道365号線を使って向かうが、このあたりには中世の史跡が非常に多い。中でも上平寺の京極氏遺跡なども見たいと思ったが、時間がなくそのまま向かった。
【写真左】現地に立つ案内板













 姉川は東方伊吹山地の中にある新穂山(H:1,067m)を源にして流れる川で、途中で草野川と合流して琵琶湖にそそぐ。

 合戦のあった場所は、現在の国道365号線がこの川と交差する野村橋付近だが、次第に信長方が優位に立つと、草野川方面に移動していった。

【写真左】姉川
 姉川はさほど大きな川ではないが、古戦場付近には砂状の中洲が多くできている。

【写真左】現地に設置してある姉川の戦いの状況を記した説明板










 “元亀元年(1570)6月28日
   戦いは午前5時ごろに始まり 午後2時ごろには終わった。

 この姉川をはさんで、北に陣取る浅井・朝倉連合軍は約1万8千人、かたや南に織田・徳川連合軍も約2万8千人でした。

 徳川方から仕掛けられたこの戦いは、最初浅井・朝倉軍の方が優勢でした。織田方は、13段構えの陣を11段まで突破され、信長の面前に刀・槍が突き出るまでにいたりました。

 しかし、徳川軍の力戦によって、朝倉軍が後退したため、浅井軍は右翼から崩れ始め、これに力を得た織田軍も総攻撃に転じ、ついに浅井・朝倉軍は小谷城へ敗走することになりました。

 この戦いによる戦死者は、浅井・朝倉軍が1700余人、織田・徳川軍も800余人とみられ、負傷者は、その3倍にも及び、清らかな姉川の流れも数多くの死傷者によって赤く血に染まったと伝えられています。

 当時、浅井長政26歳、織田信長39歳でした。この後、一時和議が成立しましたが、天正元年(1573)8月、浅井氏は小谷城において滅びました。

 この戦いは、信長の天下統一のきっかけといわれています。左の図(下の写真参照)は、この戦いの各軍配陣図ですが、これにも各種の説があり、その一つです。”
【写真左】姉川合戦各軍配陣図
 

















  この図には描かれていないが、信長は姉山の戦いの前の6月21日に小谷城の出城・横山城近江・横山城(滋賀県長浜市堀部町・石田町)参照)を囲んでいる。

 小谷城に拠る浅井・朝倉勢をおびき出すための作戦である。これを知った浅井・朝倉勢は小谷城を出て、姉川方面に向かった。

 横山城にいた浅井勢は降伏、後に秀吉が当城に城番をつとめることになる。

 横山城(H313m)は、長浜市と米原市の境界にあって、石田山公園の北東端にある。もともと京極氏が築城したもので、近くには石田三成の出世地とされているところがある。

 当城については、サイト「城格放浪記」さんも紹介しているので、御覧頂きたい。
【写真左】姉川堤防に設置されている看板












 戦いは、織田勢の圧勝で、敗れた浅井勢は小谷城に逃げ戻ることになる。

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