2011年2月12日土曜日

太尾山城(滋賀県米原市米原)その1

太尾山城(ふとおやまじょう)その1

●所在地 滋賀県米原市米原(旧坂田郡米原町米原)
●築城期 不明(文明3年:1471年前)
●城主 京極氏・六角氏・浅井氏・織田氏等
●標高 254m
●指定 市指定史跡
●登城日 2008年3月19日

◆解説(参考文献「近江城郭探訪 合戦の舞台を歩く 滋賀県教育委員会編」「城格放浪記」等)
【写真左】太尾山城遠望
 麓の青岸寺からみたもの。










 前稿まで出雲国の斐川・高瀬城に関わった出城を紹介してきた。
 今稿は高瀬城の城主「出雲米原氏」の祖といわれる「近江米原氏」及び、同氏が築城したといわれる近江(滋賀県)の山城・太尾山城をとりあげたい。

 現地の説明板より

米原市指定史跡 太尾山城跡

 太尾山城の築城年代は明確ではありませんが、「近江国坂田郡志」によると、地元の土豪・米原氏が築いたと記しています。
 「妙意物語」によると、文明3年(1471)美濃守守護代・斎藤妙椿と米原山で合戦のあったことが記されており、このころ築かれたものと考えられます。

 戦国時代には、湖南の守護・六角氏の城となっていたようで、天文21年(1552)には、京極高広が太尾山城の攻略を今井氏に命じますが、失敗に終わっています。

 永禄4年(1561)には、浅井長政によって攻略され、長政は浅井郡の土豪・中嶋宗左衛門を城番に入れ置きます。
 元亀2年(1571)、織田信長によって佐和山城が攻められると、宗左衛門も太尾山城から退き、以後廃城となりました。

 太尾山城は、北城部分と南城部分の二つの城郭から構成されています。ここ北城跡は、標高254.3mの山頂に築かれています。その構造は、北辺に土塁を巡らせた主郭と、南方の3段の曲輪からなり、その先端は堀切によって尾根筋を切断しています。

 また、主郭北側の急斜面直下に位置する土塁に囲まれた小曲輪からは、敷地全域を総柱とした礎石建物が検出されており、櫓もしくは倉庫であったと考えられます。
 この礎石建物からは、土師器皿をはじめ、中国製の青花(せいか)と呼ばれる染付磁器、白磁などが出土しており、16世紀後半に築かれたものであることが分かりました。

 なお、「大原観音寺文書」には「太尾門矢蔵之用、上野より材木三本召寄候」とあり、検出された建物には、伊吹の上野の材木が用いられたようです”
【写真左】説明板
 太尾山城麓に設置されている。縄張図や当城の登城ルートなど分かりやすい。








 上記の説明板にもあるように、築城期については、「文明3年(1471)美濃守守護代・斎藤妙椿と米原山で合戦…」とあり、これ以前ということだろう。

 参考までに、これとは別に、明徳の乱(1391)のとき、米原平五が、また応仁元年(1467)の応仁・文明の乱に、米原平内四郎がそれぞれ在城した(★)、という記録もある。これが事実とすれば、明徳元年(1390)以前、すなわち室町幕府第3代将軍・足利義満のころとも考えられる。

米原氏

 ここで、近江・米原氏の出自について検証してみたい。
 米原氏は、近江六角氏(佐々木氏嫡流)の流れで、下記の系譜と考えられる。
  1. 六角氏 初代  泰綱   建保元年(1213)~建治2年(1276)
  2.      2代  頼綱   生誕不明    ~ 死没不明
  3.      3代  時信   徳治元年(1306)~興国7年(1346)
  4.      4代  氏頼   嘉暦元年(1326)~正平25年(1370)
  5.      5代  満高   正平20年(1365ごろ)~応永23年(1416)
  6.      6代  満綱   応永8年(1401)  ~文安2年(1445)
  7.      7代  久頼   生誕不明     ~康正2年(1456)
  8.      8代  高頼   生誕不明(1445又は1455とも)~永正17年(1520)
  9.      9代  定頼   明応4年(1495) ~天文21年(1552)
そして、米原氏については、六角氏第9代・定頼のとき、甥であった治綱養子となり近江国米原郷を領し、米原氏名乗たといわれている。
 
 しかし、上掲の(★マーク)・下線で示した記録が事実とすれば、六角氏5代・満高の代に、「米原平五」がいたことになり、さらには、8代・高頼の代にも、「米原平内四郎」なるものがいたことになる。
 この記録の出典が不明なため、判断がつかないが、現地の説明板にあるように、
  1. 太尾山城の築城者が米原氏であること。
  2. 文明3年(1471)に、美濃守守護代・斎藤妙椿と米原山で合戦。
  3. 戦国時代には、湖南の守護・六角氏の城となっていた。
という説を見ると、必ずしも六角氏第9代・定頼に養子に入った治綱を、米原氏初代とする説を有力とすることはできないだろう。
 
近江米原氏の出雲国移住時期

 ところで、近江米原氏については当地名と同じく、「まいばら」と読み、出雲国・高瀬城の米原氏については、「よねはら」と呼称する。
【写真左】出雲・高瀬城(島根県)遠望
 南方の登城ルートからみたもの。
 高瀬城の南方には、南北朝期築城とされる「城平山城(2009年2月投稿・参照)」があり、両城は尾根伝いに迂回しながら歩くルートが設置され往来できる。



 さて、これまで出雲国・高瀬城主米原氏については、度々紹介してきたように、この近江米原氏が、戦国期出雲国に来住し、特に綱広の代になって尼子氏の被官となったと一般的にいわれている。

 では、近江米原氏がいつごろ出雲国に来住したのか。これまでのところ明確に示した史料が見えないため、はっきりしない。
 さらに、混乱させる他の伝聞では、
  1. この治綱が尼子経久に仕えて軍功を立てた。
  2. 別の説では、「米原宗勝入道」が、尼子清定(経久の父)のころ、出雲に来住した。
というのもある。

 1.の説でいくと、米原氏初代であった治綱が、尼子経久の元(出雲国)にすでに赴いていることになる。
 2.の伝聞については、尼子清定(1410~87)のころになるが、六角氏でいえば、6代・満綱から8代・高頼のころとなる。米原宗勝入道なる人物については、全くわからない。

 経久は、長禄2年(1458)に生まれ、天文10年(1541)没している。83歳という当時としては大変な長寿を全うした武将である。
 六角定頼の生存期と、尼子経久の生存期はほぼ同時期である。このことは、時系列で考えると、定頼のもとへ養子に入ったとされる治綱が、尼子経久のもとへ赴くことは可能である。しかし、地元出雲国において、治綱がいたという記録は見えない。
 
 定頼が治綱を養子として迎えた当初は、おそらく彼を六角治綱と命名したのであろう。
 天文7年(1538)の北近江侵攻後、太尾山城はその後「六角氏」の所有となっている。ところが、近江米原初代となった治綱がこの段階で、当城の城主となっていたかは明確でない。
【写真左】六角氏の居城・観音寺城遠望
  近江湖東地区(滋賀県近江八幡市安土町)にあり、その西には安土城がある。

 国の指定史跡で、近江国ではもっとも規模が大きい。いずれ当城も取り上げたい。



 しかも、六角氏が支配下に置いた当城は、その後境目の城であったこともあり、湖北の京極・浅井氏とその後も度々攻防が繰り返されている。

 元亀2年(1571)の信長による浅井氏攻めにいたるまで、度々当城の争奪戦が繰り広げられた割には、その間米原氏の記録が全く見えない。

 こうしてみると、六角治綱(米原治綱)は、定頼の元に養子に入った直後、六角氏から離れていったとみるしかない。治綱が、米原氏を称したものの、六角氏(定頼)と袂を分かつ何らかの事由が生じたとしか思えない。

 その事由を補完するのが、出雲米原氏の尼子氏被官である。尼子氏は、実は六角氏と敵対する京極氏である。
 近江米原氏が当地(太尾山城)を離れる動機が、六角氏と京極氏との間の紛争が根底にあったことは、後の尼子氏に被官したことで想像できる。つまり、米原氏が六角氏から京極氏へ移ったということであり、当時の当事者は、六角氏においては定頼であり、京極氏においては高清(1460~1538)のころと思われる。

 室町時代後期のできごとについては余りにも変化が激しく、京極・六角氏との抗争はもちろんだが、両氏それぞれの家督相続における内紛がさらに拍車をかけ、その中にあって、一介の土豪領主であった米原氏の痕跡の糸を紡ぐのは容易ではない。

 出雲米原氏が初見されるのは、天文元年(1532)8月の尼子経久で塩冶氏に養子に行った興久の反乱の際、米原綱広(綱寛の父)の名が記録されている。

 次稿では、現地太尾山城を紹介したい。

◎関連投稿
紫城(岡山県高梁市備中町平川後北)

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