2011年2月15日火曜日

太尾山城・その4

太尾山城・その4

◆解説(参考文献「米原町史」等) 本稿では、前稿「湯谷神社」の隣に創建された「青岸寺」について取り上げる。
【写真左】青岸寺入口付近













青岸寺

 現地に当寺及び庭園について、下記の内容の説明板がある。

青岸寺
 青岸寺は、近江守護職であった佐々木京極導誉が書写した法華経八巻のうち、最後の一軸を納め、祈願所としたところです。

 永正年間(1504~21)の兵火で、堂宇は焼失しましたが、慶安3年(1650)に要津守三和尚が入山して現在の寺観に再興しました。

 庭園(国指定名勝)
 青岸寺三世興欣和尚が、井伊家の家臣で彦根の玄宮園、楽々園を造園した香取氏に命じて造らせた庭園です。
 太尾山山麓の地形を巧みに利用した回遊式枯山水庭園で、山水画を思わせるような深山幽谷の美を出現させています。
 江戸時代前期の近江を代表する名庭園です。
【写真左】青岸寺庭園説明板
 残念ながら、この日は登城のみで、庭園は観賞していない。











 本尊木造聖観音菩薩坐像(米原市指定文化財)

 永和元年(1375)、佐々木六角氏頼が、荒れていた青岸寺を修復再興し、翌2年に金剛仏師讃岐法眼堯尊に刻ませたのが、この木造聖観音菩薩坐像です。

 像底部の墨書きから仏師堯尊は、三条門弟とあり、京仏師の流れをくむ仏師と考えられます。室町時代前期の仏像彫刻の優品です。


 木造十一面観音菩薩立像(米原市指定文化財)

 像高56cmの小さな仏像ですが、腰のくびれや全体のスタイルは美しく、天衣・裳は流れるように華麗です。作風から平安時代末期の彫刻と見られ、青岸寺諸仏中最古のものです。
 一木造り、彫眼で、素地に仕上げられています。

また、庭園についての説明板は次の通り。

青岸寺庭園
 青岸寺は、600余年前佐々木導誉によって創建され、江戸のはじめに井伊家より再興され、禅刹(曹洞宗)となりました。
 山麓を利用した回遊式枯山水の庭園は、国指定の名勝であり、水流をあらわす白砂のかわりに杉苔が石組の間を流れるように埋め尽くされています。
 特に雨上がりには、しっとりと露を含んだ庭一面の苔が一層の趣きで見る人の心を打ちます。”
【写真左】湯谷神社参道から米原市街・琵琶湖方面を見る。
 青岸寺は、この写真の右側にある。











 青岸寺は、「湯谷神社文書」によると、以前は「米泉寺」と呼んでいたようで、米原氏が居たころ、同氏が当寺の再興にも尽くしたという。

 説明板にもあるように、青岸寺の創建者が佐々木導誉であることから、前稿「太尾山城・その3」でも記したように、太尾山城との関係がうかがわれる。

 すなわち、導誉(佐々木氏)を太尾山城の築城者とすると、築城期を正和5年(1316)とする説も強ち否定できないだろう。

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