2011年2月15日火曜日

太尾山城・その5

太尾山城・その5

◆解説(参考文献「米原町史」等)

 今稿は直接太尾山城と関係するものではないが、当地に出雲米原氏(綱寛)関係の書状が残されているので、紹介したい。

松原文書(米原氏関係文書)

 太尾山城のある米原市米原に、米原氏を祖とする松原氏があり、入手経路はよく分からないが、「松原文書」として、出雲高瀬城主だった米原綱寛に宛てられた書状が残っている。

 詳細は細川涼一著「近江米原氏と尼子勝久」(『日本歴史』588号・1997年)に記されている。

 米原氏の関係文書は、33号~35号、並びに37~39号で、特に後者については、すべて米原綱寛へ送られた書状である。

 これらの書状は、永禄年間に山中鹿助尼子勝久らが、尼子再興を願って蜂起したとき、一旦毛利方に属した出雲高瀬城主・米原綱寛に対して、再び尼子方に加わるよう催促したものである。

 また、もうひとつの書状は、九州で毛利方と交戦していた大友宗麟が、尼子再興軍と手を結び、毛利氏を挟みうちにするため、おそらく九州に陣していたと思われる米原綱寛に対して送った書状である。

《37号》 永禄12年(1569)8月12日付
     尼子勝久書状

 “今度此方現形祝着に候。然る間、その方身躰においては、別して表裏なくその感を立つべく候。
 知行等の儀、別紙(《38号》のこと)をもって申し候。いよいよ向後御入魂においては、日本国中大小神祇杵築大山も照覧候え。偽り有るべからず候。 恐々謹言

 8月12日   勝久(花押)
 米原平内兵衛尉(綱寛) 殿
  これをまいらせ候”
【写真左】尼子勝久書状《37号》
(米原町史より転載:以下同)








 この書状を見ると、その前にすでに勝久から綱寛に対して、事前協議があり、綱寛が毛利方を離れ、尼子再興軍に加わる決意を固めていたように見える。

 ただ、勝久としては、さらに彼を具体的に動かすために、論功行賞として記したのが別紙・《38号》の書状である。


《38号》 永禄12年(1569)8月12日付
   尼子勝久書状

“此法について現形申し付くる知の事。
一、当知行分の事。
一、宍道当領知の事。
一、加茂700貫の事。
一、平田300貫の事。
一、案威1000貫の事。
一、原手三郡奉行の事。
己上
 右の分領知有るべく候。いよいよ忠儀専用に候。 恐々謹言

8月12日   勝久(花押)
  米原平内兵衛尉殿
  これをまいらせ候”
【写真左】尼子勝久書状《38号》 









 尼子再興が成就したら、上記の領地や権限を綱寛に与えると約束した内容である。

 中身を見ると、以前領していた斐川の土地以外に、北の平田地域、そして南の加茂地域、さらに案威(安来のことか)など、数倍の新地を宛がう内容である。

 次の書状は、上記の書状が布達される3カ月前の、5月17日付で記された大分の大友宗麟から、綱寛に宛てられた書状である。


《39号》永禄12年(1569)5月17日
  大友宗麟書状

“防長一行の儀に至り、入魂に預かり候。其の意を得候。承る如く候。芸州の事、この砌(みぎり)差し寛め候わば、向後においても、一つも雅意止む事有るべからざるの条、自他申し談じ、取詰め覚悟すべし。油断に非ず候。然らば、勝久御一家再興この節に候の間、各々別して馳走有り、本意を遂げらるるは肝要に候。なお年寄共に申すべく候。 恐々謹言

5月17日    宗麟(花押)
米原平内兵衛尉殿”
【写真左】大友宗麟書状《39号》









 日付を考えると斐川町新指定文化財「米原氏関連寄進状、棟札」講演その2及び立花山城(福岡県新宮町・久山町・福岡市東区)でも記したように、綱寛が福岡の立花山城で交戦中に宗麟から渡されたものと思われる。

 文面からすると、宗麟から綱寛に対して、尼子再興軍(勝久・鹿助)に加わるよう盛んに勧めている。


書状の経緯

 ところで、これらの書状が、なぜ当地・米原市に残っていたのだろうか。
 米原町史によると、尼子氏滅亡ののち、出雲米原氏の一族が、縁者の近江米原氏を頼って、近江に帰農した者がいるためだろう、としている。

 伝聞では、綱寛は元亀2年(1571)3月19日、高瀬城が落城した後、勝久・鹿助らが陣取る真山城(島根県松江市法吉町)に逃げ込んだが、8月21日、その新山城も落城し、綱寛は京都へ向い、後に出家したといわれる。

 おそらく、綱寛が京都へ向かった際、随従した家臣の中で、その書状を携えて、近江米原に向かった者がいたのかもしれない。

 なお、地元出雲高瀬城のある島根県出雲地方にも、米原姓の人が少なくないので、両城(高瀬城・新山城)落城の際、一族が二手に分かれた処置をとったものと考えられる。

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