2013年11月13日水曜日

阿波・重清城(徳島県美馬市美馬町字城)・その1

阿波・重清城(あわ・しげきよじょう)その1

●所在地 徳島県美馬市美馬町字城
●築城期 暦応2年・延元4年(1339)ごろか
●築城者 小笠原長親
●城主 小笠原氏
●指定 美馬市指定史跡
●形態 平山城
●遺構 郭・土塁・二重空堀・井戸等
●高さ 90m(比高10m)
●登城日 2013年11月4日

◆解説(参考文献等、『石見町誌(上巻)』、島根県川本町HP「中世の小笠原氏」等)
  重清城は、岩倉城(徳島県美馬市脇町田上)でとりあげたように、阿波に入部した小笠原氏が初期のころ築城した城砦である。
 所在地は、岩倉城から吉野川を約13キロ前後遡った美馬町の重清西小学校の北西部にある。
【写真左】重清城遠望
 ご覧の通り形態としては平山城、もしくは館跡の遺構が残る。

 手前の畑は東側にあたり、城との比高差はほとんどないが、西側はほぼ垂直な切崖で構成された箇所が残る。




 現地の説明板より・その1

 “重清城跡

 承久の乱後、阿波に入部した小笠原氏の2代守護長房の孫長親が鎌倉時代末期にこの地にやって来て築いたのが重清城である。

 前に断崖、背後に讃岐山脈をひかえた台地の上に、北と西を城ケ谷川でさえぎり、東と南を土堀とその外側の二重堀に守られた約30アールほどの本丸があり、井戸や土塀、二重堀が遺構として残っている。
【写真左】土塁と二重の壕
 東側に残るもので、外側に浅い壕と土塁を置き、城館側の壕と、土塁は3~4m程度の高低差がある。
 当時はもっと深い壕だったものと思われる。



 吉野川上流から下流への交通の要衝にある難攻不落の大城で、戦国時代、土佐の長宗我部元親の阿波侵寇の時は、2度にわたる攻防があり、天正6年、当時の城主小笠原豊後守長政と、その長子を謀略にかけ暗殺した。その後一旦は阿波方に戻ったものの、再び落城、廃墟の道をたどった。”
【写真左】説明板など
 虎口だった現在の入口の南東部に設置されている。なお、この付近にも駐車は可能だが、その東側にある幅員の広い道路があり、そこに留めることができる。



甲斐・小笠原(加賀美)氏の信濃国移住時期

 阿波の小笠原氏は本姓清和源氏(又は甲斐源氏)義光流とされ、始祖は長清といわれている。

 この長清は、高倉天皇(後白河天皇の子で、在位は仁安から治承年間(1168~80))に仕えた加賀美遠光の次男として生まれている。
【写真左】縄張図
 南北に長い三角形の形をしており、中央には朽ち果てた小笠原神社本殿があり、最奥には井戸跡が残る。
 西側はほぼ全面切崖状となっている。

 なお、城館から東側については既述したように畑・民家などが建っているが、これよりさらに南東の方へ下っていくと、次稿で紹介する予定の倭大国魂神社や、小笠原長親が石清水八幡宮から分霊勧請した八幡神社が建立されているので、それまでの区域も同氏関連の住居等関連したものがあったものと思われる。



 ところで、小笠原の姓は、出身地であった旧甲斐国巨摩郡小笠原からきている。巨摩郡とは現在の山梨県西部地域で、近年合併によって新しく「南アルプス市」という名の市ができたが、この地に現在も「小笠原」という地名が残っているので、おそらくこの附近が小笠原氏の発祥の地だろう。

 長清が加賀美から小笠原の姓を名乗ったのは、元服のときといわれ、父遠光が仕えた高倉天皇からこの姓を賜ったといわれている。
【写真左】小笠原神社
 土塁で囲まれた中央部に当たるが、手前に「重清城」と刻銘された石碑があり、写真には載っていないが、右側には「重清城歴代城主合祀 小笠原神社」と刻んだ石柱が建っている。

 市の指定史跡を受けているものの、本殿が朽ち果てかけ、なんとも痛ましい。


 甲斐の小笠原氏がその後、西隣の信州(信濃国)に入部したのは、長清の父・加賀美遠光が存命の時で、平家が壇ノ浦の戦いで滅亡した年、すなわち文治元年(1185)年である。
 そしてこの年の11月29日、源頼朝は諸国に守護・地頭を置くことになるが、遠光が信濃守に任じられたのはおそらくこの時だろう。そして実際に信濃国に入部したのは遠光の次男・長清である。

 このように遠光や長清の時代は、平安末期から鎌倉前期すなわち、源平合戦のころで、元は平氏に仕えていたという。しかし、頼朝挙兵の際、源氏方に与し、治承・寿永の乱において武功を挙げ、鎌倉幕府御家人の地位を得ることになる。そして長清は当地信濃国に土着していくことになる。
【写真左】井戸跡
 数年前までこの井戸跡についての説明板があったようだが、今はない。

 井戸深さ7.8m、水深約2m、直径90cm。今でも澄んだ水を湛えている。



信濃・小笠原氏の阿波移住時期 

 信濃国守護職を得た小笠原氏長清の子には、長経及び、後に信州佐久の伴野荘に本拠を構えた伴野(小笠原)時長らがいた。

 このうち長経は、父とともにその後勃発した承久の乱において武功を挙げ、阿波国守護職を得た。そして、長清が最初に阿波国において築城したのが、池田・大西城(徳島県三好市池田町上野)である。
【写真左】中央部
 周囲は2~3m程度の高さの土塁が残る。大きさから考えて、住居としての建物が数棟建っていたと考えられる。







 長経が阿波守護に命じられたのは貞応2年(1223)といわれている。北条政子によって注進されたいわゆる新補の守護・地頭である。このとき、長経には他の守護職とは別の大役があった。

 それは、後鳥羽上皇の第一皇子・土御門の阿波国配流の警固である。御門はその後、寛喜3年(1231)10月に崩御しているが、現在の鳴門市にそのときの火葬場跡が残っている(土御門天皇火葬塚(徳島県鳴門市大麻町池谷)参照)。また、土御門の墓は、京都府長岡京市金ヶ原の陵にあるが、実は出雲国にも御門に関係した墓がある。これについては、改めて紹介したい(伝・土御門の墓(島根県松江市宍道町東来待浜西)参照)。

 さて、長経には4人の男子があった。このうち次男・長忠に父から続いて阿波国守護職を引き継いだものの、その後弟(三男)の長房に譲り、自らは信濃国に帰国したとされる。

 長忠がなぜ信濃国にもどったのかその理由ははっきりしないが、出生地であった伊那の松尾に戻ることになる。その時期については、はっきりしないが、おそらく以前にも紹介したように、弘安の役、すなわち弘安4年(1281)より大分前と思われる。したがって、現在飯田市に残る松尾城(県指定史跡・未登城)も、築城期はほぼそのころではないかと推察される。
【写真左】北側から西方を見る。
 中央部の小笠原神社から北の方は一段高くなった削平地となっている。

 写真右の土塁の外は藪になっているが、ここから急峻な崖となっている(下段写真参照)



 さて、長房の阿波における具体的な記録が見えるのは、文永4年(1267)、三好郡の郡領を支配していた平盛隆を打ち破り、その恩賞地として美馬郡と三好郡が与えられたというものである。

 鎌倉幕府が成立して半世紀も過ぎた段階で、平姓を名乗る人物が三好郡を支配していたということになるが、おそらくこれは、平氏の流れをくむものの、鎌倉開幕期に源氏に味方した一族であったのだろう。そして、平盛隆は三好郡の荘園領主として生き残ったものの、長房に攻略されたという経緯だったかもしれない。結果として、この戦いはこの頃各地に起こった荘園領主と地頭(守護代)の争いの例の一つともいえるだろう。
【写真左】西側の切崖
 写真では分かりずらいが、ほぼ垂直な崖を構成している。
 もともと谷状の地形だったかもしれないが、さらにそれを険しい切崖としたようだ。

 おそらくこれは、戦国期の天正年間、土佐の長宗我部氏が吉野川上流の白地城を陥れたのち、東進してくることを予知して、特に西側の防備を堅牢としなければならなかったためだろう。


小笠原長親

 前置きが大分長くなったが、今稿の重清城の築城者は小笠原長親とされている。
 この長親について、現地の説明板によれば、長親は前記した長房の孫とされているが、このことについては、次稿で改めて述べたい。


長宗我部氏と三好氏の攻防

 さて、戦国期に至ると、重清城は土佐の雄・長宗我部元親の台頭により、阿波の三好氏、伊予の河野氏らを圧迫し始めた。
【写真左】西側の郭
 中央部の郭から西にかけて2m程度下がった腰郭状のものが残る。
 東西幅10m前後×南北長さ20m前後の規模。

 ここからさらに西に向かうと、「城ケ谷」という深い谷があり、当城の中では最前線基地の位置に当たる。
 



現地の説明板より・その2

“美馬市指定史跡  重清城跡
   指定年月日 2001年(平成13年)12月7日

 重清城跡は、長宗我部元親の阿波侵攻の際に三好氏との間で三度にわたり争奪が繰り広げられた城跡です。

 約90×80mの範囲を城ヶ谷の断崖と二重堀・土塁で囲み、内側の中央には城主を祀った神社、北端付近には井戸があります。堀・土塁は、南東隅が切られておりそこが虎口です。
 その北側には櫓台が置かれていたと思われ、堀・土塁が方形に張り出しています。特に二重堀・土塁は他に類を見ないほど良好な保存状態です。

 長宗我部氏と三好氏の三度にわたる争奪については、まず土佐方の大西上野介と中鳥城主久米刑馬によって重清城主小笠原豊後守が謀殺され、それに対し三好(十河)存保は三千余の兵で城を包囲し、城を取り戻します。しかし、重清城は阿波侵攻の要衝であったため、長宗我部氏は再び重清城に侵攻します。この時、吉野川北岸には阿波方約五千人、南岸には土佐方がその数分からぬほどの大軍で対峙していたといわれています。
   美馬市教育委員会”
【写真左】西側の郭から本丸をみる。
 竹が繁茂しているが、遺構の状況は十分確認できる。








 説明板・その2にもあるように、戦国期に至ると、それまで阿波を治めていた三好氏に陰りが見え始める。

 特に、天正5年(1577)、阿波国を強引な力で支配しようとした三好長治が、長宗我部元親の支援を受けた対立する細川真之と、阿波荒田野で戦い敗死すると、一挙に元親が阿波侵攻を企てた。直接的には長宗我部氏の侵略が阿波・三好氏の滅亡につながっているが、細川・三好(小笠原)一族間の内部抗争がその引き金ともなったといえる。

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