2013年10月31日木曜日

撫養城(徳島県鳴門市撫養町林崎)

撫養城(むやじょう)

●所在地 徳島県鳴門市撫養町林崎
●別名 岡崎城・林崎城
●形態 平山城
●築城期 不明(鎌倉後期~南北朝期か)
●築城者 小笠原氏
●城主 小笠原氏・四宮氏(三好氏)・真下飛騨守(長宗我部氏)・蜂須賀氏
●高さ 62m
●遺構 郭・石垣その他
●備考 阿波九城の一つ。妙見山公園
●指定 鳴門市指定史跡
●登城日 2013年10月27日

◆解説
 撫養城は、徳島県の東端部鳴門市に築かれた城砦である。当城については、川島城(徳島県吉野川市川島町川島)の稿でも紹介したように、天正13年(1585)に入国した蜂須賀家政のとき、阿波九城の一つとされた。
【写真左】撫養城遠望
 北側から見たもので、右に見える天守は模擬天守で、旧博物館だった建物。
 奥には紀伊水道が見える。




 現地の説明板より

“史蹟 撫養城址
 
 天正13年(1585)蜂須賀家政が阿波に入国し、国内九ヵ所に城塞を設けた。阿波の九城という。
 撫養城は淡路渡海の押さえとして異母兄弟の益田内膳正忠を城番にし、手勢300名をもって守らせた。
 寛永15年(1638)一国一城の令により阿波九城は破却された。
 社殿後方の城石は当時の面影を残している。
【写真左】なると観光マップ
 駐車場付近に設置された地図版で、撫養城(妙見山)は、この図中央部に記されている。





撫養付近の地勢

 当城のある現在の妙見山(H61.6m)も含め、その東方に隣接する「いわし山」を含めた箇所は、丁度北西部にある大桑島(現在神戸淡路鳴門自動車道が横断)と同じく、中世には紀伊水道に浮かぶ島嶼であったと思われる。
【写真左】妙見神社
 模擬天守の北側に祀れているもので、天保元年(1830)、旧城主・四宮加賀守の子孫と、撫養町林崎郷の近藤利兵衛氏がこの城址に当社を再建した、とされる。


 従って、当城の形態を「平山城」としているが、実態は水軍城の機能をもった城砦であったと考えられる。
 西麓を流れる撫養川は、北に小鳴門海峡を臨み、南には旧吉野川河口と紀伊水道を連絡する粟津漁港の間で感潮現象を起こす河川となっている。

 実際、登城を終えて、撫養川に架かる文明橋を通った時、海抜2m程度しかなく、川の水位が道路面の際まで来ていたことに驚いたものである。
【写真左】石垣・その1
 当城で唯一遺構として確認できるもので、妙見神社本殿の奥にコの字状に石積みされたもの。
 この写真は右側のもの。




 こうしたことから、中世にはこの水路は、備後の尾道水道のような状況をつくりだしていたものと思わる。
 そして、徳島城を本城とし、これを支える目的とされた阿波九城の中でも特に当城の果たす役割は、淡路島及び紀伊水道を監視する重要な城塞としての位置づけがあったものと推察される。
【写真左】石垣・その2
 左側のもの。
【写真左】妙見神社から模擬天守を見る。
【写真左】模擬天守
 この建物は「鳥居記念博物館」という施設だったらしいが、平成22年3月末をもって閉館している。
 このため、入口は閉鎖され入館することはできない。
【写真左】模擬天守付近から西方を見る。
 下の街並みは鳴門市街地で、左側の奥には
勝瑞館(徳島県板野郡藍住町勝瑞東勝地)勝瑞城(徳島県板野郡藍住町勝瑞)などが位置する。
【写真左】模擬天守付近から北方を見る。
 奥に見えるのは小鳴門海峡で、神戸淡路鳴門自動車道の撫養橋が見える。

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