2011年2月6日日曜日

平田城・その2(島根県出雲市平田町)

平田城・その2


●登城日 2012年2月12日


◆解説(参考文献「日本城郭大系第14巻」その他)
今稿では、平田城の戦国期について概説しておきたい。

 多賀氏のあと、飯野氏が平田城に入ったとしているが、これは尼子氏による処置である。飯野氏については、尼子氏家臣団などの史料にも見えず、出自が不明である。
【写真左】平田城の西2郭から、南方に高瀬山城及び、狼山城を見る。
 この写真は、2012年2月12日撮影のもの。丁度南側斜面の雑木の伐採作業が行われていたため、視界が良くなっていた。


【写真左】平田城
 本丸跡北方にある郭に設置された社で、戦国期の関係のものではない。










 この飯野氏を入れたのが大永8年(享禄元年:1528)といわれている。それから30数年後の永禄5年(1562)になると、毛利氏が出雲に侵攻し、当城は同氏のものとなった。

 それまでの城主が件の飯野氏だったかどうかは不明であるが、天文元年(1532)8月、尼子経久の子で塩冶氏に養子となった塩冶興久が父・経久に反旗を翻し、佐陀城(伝:薦津殿山城といわれている:松江市薦津町:未投稿)で敗れ、備後の山内直通甲山城(広島県庄原市山内町本郷)参照)のもとへ敗走した頃、当地平田は興久らの軍に挟まれた場所であったので、城主飯野氏に何らかの変化が起こったかもしれない。

 平田城が毛利氏の手におちたといわれる永禄5年(1562)の状況を見てみると、この年は実に大きな動きを見せている。
 その兆候を引き起こしたのは、2年前の永禄3年(1560)12月に、尼子晴久が急逝し、嫡子・義久が継いだことから始まっているとみてよい。このころから尼子氏の陰りが見え始める。
【写真左】平田城から東方を見る。
 右側に宍道湖が見え、写真中央部の丘陵地は布崎地区になる。平田城とともに、斐川高瀬山城を攻略する際の城砦として、「布崎城」が記録されているが、比定が確定していないものの、写真に示した辺りにあったのではないかと考えられる。


 また、写真にみえる手前の田圃(新田)などは、戦国期はもとより、近年まで宍道湖であった。




 平田城付近でこの時期の記録を見ると、義久は永禄4年(1561)7月20日、家臣・坪内宗五郎に対し、天文21年(1552)に遣わした林木荘(平田の西部で、出雲市との境)内の遊屋名・内道名半分を安堵し(坪内文書)、9月には先例にならって鰐淵寺領を安堵(鰐淵寺文書)、10月には、日御碕社に宇龍浦を安堵し、舟役を定めている(日御碕神社文書)。(宇龍城(島根県出雲市大社町宇龍)参照)。

 義久としては、当初父・晴久の手法を踏襲すべく政務を行っていたが、永禄4年から翌5年(1562)にかけて、将軍足利義輝による和睦調停(雲芸和議)に応じたため、尼子一族及び与党の国人領主の動揺と離反を惹起させ、その後毛利氏はこの和睦を破って、石見から出雲にかけて一気に攻め入ることになる。
【写真左】高瀬城遠望
 左側が本丸で、右に二ノ丸・三の丸と続く








 平田城が毛利氏によって奪取された月日は不明だが、上記の動きの中で、それまで尼子方だった三沢氏・三刀屋氏・赤穴氏及び、南隣りの斐川高瀬城主・米原綱寛も義久を見限り、毛利方についたので、平田城主であったと思われる飯野氏も、彼らと同じ行動をとったと思われる。

この年(永禄5年)9月4日付の「岩国藩中諸家古文書纂」によれば、

吉川元春、石見福屋氏が杵築に隠れているとの連絡があったとして、安楽寺・森脇氏以下の鳶ヶ巣城の番衆に注意するよう伝える
とある。
【写真左】鳶ヶ巣城遠望










 これから推察すると、平田城も鳶ヶ巣城と同じころ(同年の春季か)に毛利氏のものとなっていたと考えられる。また、同年12月になると、毛利元就は松江市にあった荒隅城(島根県松江市国屋町南平)を築き、尼子方の富田城と白鹿城の連絡を断っている。

 また翌永禄6年の記録としては、「益田家文書」5月9日付に次のような記録がある。

 「吉川元春、益田藤兼に対し、明日は尼子方が大東へ出張った後、牛尾に退却し、今朝は中蔵(宍道)へ攻勢をかけたので、増援したこと、また、平田の動静について、藤兼の助言を元就に伝えたことなどを賞す

 とある。これから推察すると、尼子方の勢力範囲が大分狭められ、宍道湖南岸から東方へ後退していることが分かる。

 それでも義久は、寄進や安堵の手段を用いて、奪われつつあった出雲西方の地になんとか繋ぎの手を打っている。
  • 5月29日 尼子義久、黒田浦を日御碕社に新寄進する(日御碕神社)。
  • 5月29日 尼子義久、宇龍浦を山海とともに守護不入の地として日御碕社に寄進する(日御碕社)。
  • 6月2日 尼子氏、坪内重吉に対し、富田城籠城を賞して杵築内(大社)で給地を与え、石見銀山・荒木の権益を安堵する(坪内文書)。
  • 6月25日 尼子義久、御碕検校に対し、宇龍津に着岸した船には、その商売の実態に即して、諸役を課すよう命じる(日御碕神社)。
【写真左】白鹿城本丸跡
 いずれ当城も投稿する予定だが、現在の松江市法吉町にある山城で、北方には真山城(島根県松江市法吉町)が隣接する。







 しかし、こうした義久の努力もあまり効果がなかったと見え、その年(永禄6年)の10月29日、松江白鹿城(島根県松江市法吉町)が毛利氏に攻略され、永禄9年(1566)11月21日、ついに尼子方本城・富田城が落城、尼子義久・秀久・倫久が降伏した。

 さて、それから4年後の元亀元年(1570)、山中鹿助をはじめとする尼子再興軍が蜂起した時、平田城の南方に聳える高瀬城には、毛利方として九州にあった米原綱寛が尼子方に寝返り、この城に拠った。

毛利方は、吉川元春が主力となって、鳶ヶ巣城を本拠とし、平田城には家臣・岡又十郎元長及び、牛尾大蔵左衛門らが陣した。
 このころ、平田城附近に関する記録を拾ってみると、元亀元年(1570)8月16日付で次のように記されている(萩閥107)。

 “毛利元就、末次城への兵糧100俵を、18日に杵築から平田へ積み出すので、杵築在陣衆・鳶ヶ巣在陣衆と相談して、警護にあたるよう、祖式賢兼に命ずる”

 そして、11月22日になると、

 “吉川元春、口羽通良・宍戸隆家らに対し、18日に平田へ陣替えしたこと、満願寺城へは日吉・大庭あたりに進出している富田城の兵を待ってから行くつもりであること、口羽・宍戸らも満願寺城へ向けて渡海すべきことなどを伝える”(萩閥100)
 と記録されている。
【写真左】新山城(真山城)本丸跡









 こうした態勢をとった毛利氏は、翌元亀2年(1571)3月19日、毛利から再び尼子方に寝返った米原綱寛の拠る斐川の高瀬城(島根県斐川町)を落としていくことになる。

 上記の記録からみると、斐川高瀬城を落とした毛利方戦力は、平田城を主力として吉川元春が自ら先頭に立って攻め入ったと考えられる。

 高瀬城陥落の際、城主・米原綱寛は宍道湖北東部の新山城へ逃げ込んだ。なお、新山城もその年8月21日、落城し、尼子勝久は隠岐国へ逃走した。
【写真左】西2郭といわれている箇所。
 伐採されたことにより、南面の険しい切崖が確認できる。
【写真左】南麓から見上げる。
 写真左の墓地は南麓にある「極楽寺」のもので、写真中央部奥に主郭があり、その左の展望台は、「西1郭」といわれる箇所。

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