2011年2月8日火曜日

鷹の巣城(島根県簸川郡斐川町大字神庭)

鷹の巣城(たかのすじょう)

●所在地 島根県簸川郡斐川町大字神庭
●築城期 中世
●築城者 不明
●城主 錦織右京進
●標高 130m
●遺構 郭・石垣その他
●登城日 2008年10月9日

◆解説
 前稿「狼山城」に続いて、同じく高瀬城の支城といわれた「鷹の巣城」を取り上げる。
【写真左】登城口付近にある神代神社の案内板
 残念ながら「鷹の巣城」に関する事項は全く記載されていない。
 権現山と宇夜都弁命について書かれている。
 
 所在地は、高瀬城の北東麓に聳える標高130mの権現山といわれたところにあり、その西麓には宇夜都弁命(うやつべのみこと)を主祭神とする神代神社(通称:宇夜八幡宮)が祀られている。
現在、当城の城域だった北半分は、ゴルフ場となっており、当該区域は大分改変されているが、本丸周辺部は高圧線の鉄塔以外、余り手が加えられていない。

錦織氏

 鷹の巣城の城主は錦織氏といわれている。神代神社の縁起によれば、元弘元年(1331)、後醍醐天皇に従い、笠置山(H289m:京都府相楽郡笠置町字浜)の戦いで討死した錦織判官代俊政が同氏の家系という。

 錦織氏の出自は、河内とも近江ともいわれている。笠置山で討死した錦織氏の一族がなぜ、遠国出雲にきたのだろうか。そこで想起されるのが、後醍醐天皇の隠岐配流との関係である。

 「増鏡」によれば、元弘2年(正慶元年:1332)3月7日、幕府は後醍醐天皇の隠岐配流を決め、京を立った。そして4月に隠岐にたどり着いた。

 錦織氏の出自が上記のうち河内となれば、同氏が出雲に来住してきた理由がさらに現実味を帯びる。というのも、後醍醐天皇が隠岐に流されていた間も、各地に反幕府の火の手が上がっており、特に楠木正成は、赤坂城が陥落した後、紀伊から河内・和泉当たりで盛んに活動している。

 錦織氏は、後醍醐天皇の配流地・隠岐に近接した出雲国にあって、楠木正成らと事前にコンタクトをとりながら、畿内における反幕府方の戦況を逐次報告(後醍醐天皇側へ)する密使の役目をになっていたのではないだろうか。
 ただ、残念ながら船上山に馳せ参じたメンバーに、錦織氏の名は見えないので、あくまでも想像の域を出ないが…。
【写真左】神代神社入口
 この階段はほぼ直線で、途中から傾斜がきつくなり、階段に使われている石も大分年数を経たものが残っている。




戦国期

 さて、天文8年(1539)には、高瀬城主だった米原綱広(綱寛の父)が、当社境内に八幡神を勧請している。

 これについては、同じ年に「米原新五兵衛尉」で、神代神社より尾根を越えたところにある学頭諏訪神社にも棟札が上棟されている(斐川町新指定文化財「米原氏関連寄進状、棟札」講演その2参照)。

 元亀年間についていえば、「狼山城」と同じく、米原綱寛の拠る高瀬城の支城のひとつとして使われ、当城には錦織右京介清次(右京進)が米原氏の最前線として戦ったという。清次は、老臣ながら毛利軍と激戦を重ねたといわれている。
【写真左】神代神社本殿
 境内は予想以上に広い。戦国期にはおそらくこの場所も米原・錦織氏が陣を構えていた場所だろう。




 以上のことから、錦織氏と米原氏の繋がりを考えた場合、高瀬城に最初に米原氏が入ったころ(室町期)、すでに錦織氏がこの地区(神庭)の領主としていた可能性が高い。

 そして、神官(神代神社)の身分のまま、高瀬城初代城主・綱広のころに被官し、武士となったと考えられる。
【写真左】登城路
 境内の南隅から写真にみえる道が途中まで整備されている。しばらく南側から迂回していくと、途中からつづら折りの登城路が設置されている。

 現在では、ほとんどこの道は高圧電線の鉄塔管理のために使用されているらしく、要所には階段が設けられているので助かる。
【写真左】本丸跡その1
 神社本殿からは約20分程度で本丸跡にたどり着ける。
 この写真は南側からみたもので、石垣が見える。鉄塔用に築かれたものではなく、むしろ石垣を避けているような配置なので、おそらく戦国期のものだろう。

【写真左】本丸跡その2
 本丸の概要は、2,3段の削平地を構成し、規模は10m四方といったところか。
 なお、島根県遺跡データベースでは、「堀切」の遺構も登録されているが、踏査した範囲では確認できなかった。おそらく、ゴルフ場建設時に消滅したかもしれない。

 この個所周辺は除草が行き届いているが、それ以外は雑木で覆われている。
 なお、この写真の奥から(北方向)ゴルフ場の区域となっているため、ネットや境を示す設備が施されている。

【写真左】本丸跡から西方を見る
 鷹の巣城は山城としては全く管理されていないので、当然眺望も期待できない。
 写真は本丸より少し下がった登城路付近から見えた景観で、西方に少し斐川平野を望むことができる。
 写真左に見える山麓は、仏教山の裾野。

【写真左】寺院跡?
 神代神社の階段途中の北側にみえたもので、「東光寺」という標識の建物がある。この付近はかなり広い平坦地が残り、奥には数基の墓石が建っている。

 史料がないため、なんとも言えないが、往時この場所に「東光寺」という寺院があったようだ。鷹の巣城や神代神社の直下にあることから、錦織氏と関わりのあった寺院かもしれない。

【写真左】神代神社付近から高瀬城を遠望
 高瀬城全景を確認できる場所は意外と少なく、神代神社のある宇屋谷が最もいい場所である。

 最近では、当城の北部に高速道路の山陰道が横切り、中腹部を遮るような景観となった。ただ、この山陰道を車で走る際、高瀬城を非常に近くに見ることができ、これもまた楽しみの一つとなった。

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