2011年2月14日月曜日

太尾山城・その3

太尾山城・その3

◆解説
 今稿は太尾山城の麓に創建されている「湯谷神社」を取り上げる。
【写真左】濱田口
 太尾山城の南城を下って、湯谷神社に向かう途中のところにある。

 現地には何も表示がなかったが、下山途中に数段の削平地跡らしきものが見えたので、このあたりに屋敷跡があったかもしれない。


湯谷神社

 現地に設置された縁起より

湯谷神社由緒
       脇祭神 保食神 豊受大神 宇迦之御塊神
 祭神   主祭神 大巳貴神 出雲の国造りされて大国主命
       脇祭神 水門神 宗像神 速秋津日神

由来
 古へは六所権現社と称せり。上古雲之国人諸国を巡視して此の山谷に至り。里人をして地を穿ためにしに、霊泉忽ち涌出せり。されば、蘆荻雑草の叢生せる荒地を拓き、五穀の種を植へしに美稲豊熟す。是れ祖神大巳貴神の霊験なりと大いに歓喜し、山谷の岩上(岩倉)に祠を建て奉斎す。
 温泉滾々として湧出して、病者一度浴すれば、諸病忽ち快癒せしと称し、今に尊敬者多し、後保食神、水門神を合祀す。
【写真左】湯谷神社

興地志略に
 湯谷は昔此の池に温泉ありて、諸病を治す、或る日、葦毛の子を此の湯坪に洗ひしより此の湯かるる。当地は奈良朝の頃より、富永十六・十七條の荘と称し、来り桓武天皇の御宇大膳職御厨所の管する所なりしが、御三条天皇、延久二年二月(1071年 903年前)其の厨所停止せられ、後白河天皇より山門日吉の供料に寄附あらせられて、寿永二年閏三月(1183年 791年前)日吉の社領となる。当社を以て土地鎮護の神とせらる依って一つに山王権現社とも称す。

曳山狂言由来
 後桜町天皇(女帝)即位を慶して明和七年(1771年 203年前)三輌の曳山を造り、児童をして狂言芝居を演せしむ。

祭礼
 太古は毎年卯月(4月)五日と定められるも、其の後卯月中の申の日を以て祭礼を定められ、明治五年(1873年 101年前)十月十日定めらる。それより後今日に及ぶ。
 春 祈年祭三月一日 春例大祭五月 日、秋例大祭十月の祝日 新嘗祭十一月二十三日


【写真左】湯谷神社から太尾山城を遠望する。

末社祭神
 春川稲荷神社  
 前光稲荷神社  豊受大神 宇迦之御塊神(伊勢外宮)
 金比羅神社 大山昨神 金山彦神併祀
  六所神社  天照大神 熊野大神(熊野権現) 三輪大神(三輪明神)
         住吉大神 鹿島大神(鹿島神宮) 市杵島大神(厳島神社)

 牛頭天王社 素盞之命 津島神社

本殿並拝殿建立
 本殿造営 文明四年(1473) 今井備中守藤原秀遠建立
        元亀三年(1573) 浅井長政の兵火に罹災焼す
 再興    享保十七年(1733) 井伊直惟の家臣藤原朝臣再建
 拝殿建立 天保四年(1834) 

 昭和四十九年五月吉日”

 縁起は以上の通りだが、「上古雲之国人諸国を巡視して此の山谷に至り…」とある。

 上古という時期は奈良時代、もしくは飛鳥時代までさかのぼった昔と思われるが、この時代にすでに出雲国に住む人が当地を訪れていたというのも興味深い。


今井備中守藤原秀遠 (東軍)
 さて、この縁起の中で、本殿造営の記録に、文明4年(1473)今井備中守藤原秀遠という武将が建立したと記されている。
 今井氏は、京極氏の家臣といわれ、備中守の父・美濃守高遠のとき、応仁の乱の際は京極持清に従って活躍している。子の備中守も父と同じく京極持清に従い、細川方(東軍)に属した。

 京極持清が文明2年(1470)に亡くなると、京極氏の重臣多賀氏の間で内訌が起こり、備中守は多賀高忠に与し、翌3年(1471)、当城・太尾山城の合戦で、一族の岩脇近俊ら多くの戦死者を出したという。

 この記録は、「太尾山城・その1」で紹介した現地説明板にある
  「妙意物語」によると、文明3年(1471)美濃守守護代・斎藤妙椿と米原山で合戦のあった…」
 と書かれている事項と符合する。

 参考までに、このころ太尾山城の戦いで関わった主な武将を挙げておきたい。

多賀高忠(東軍)
 京極持清・政経に仕え、官位は豊後守、通称新左衛門。主君であった持清とは従兄にあたる。応仁の乱においては、細川勝元らの東軍に属し、西軍の六角高頼を倒し山城国に如意岳城を築く。

 文明元年(1469)には、六角氏本城の観音寺城を奪取するも、翌年主君持清が亡くなり、嫡子・政経を擁するも文明4年(1472)に敗走、政経と越前に逃れる。

 3年後の文明7年(1475)、出雲国の国人領主を催促して、六角高頼に一時勝利するも、土岐成頼や斯波義廉が高頼についたため敗北。三沢氏(「三沢城・その1」2009年5月23日投稿 参照)ら主だった武将が討死する。

斎藤妙椿(西軍)
 斎藤妙椿(みょうちん)は、美濃斎藤氏の一族で、応仁の乱では西軍(山名宗全)に属し、文明元年(1469)ごろより、近江国へ侵攻、当時六角氏の西軍方は高頼であったため、彼を支援する。

 太尾山城の戦いのあったこの年(文明3年)、及び、翌年にわたって、東軍方京極氏の守護代多賀高忠軍を攻め立てたという。


 以上のことから、今井備中守は、応仁の乱において東軍方に属し、太尾山城での戦い(文明3年)が行われた翌年、湯谷神社の本殿造営を行ったということになる。


 本殿造営(再興)の目的は、おそらく家臣の岩坂某をはじめとする多くの家臣を失ったことからくる慰霊・忠魂の意味が大きかったと思われる。

太尾山城の築城期について(補記)
 湯谷神社脇には、当城の説明板としてもう一つのものがある。
 ここに書かれている内容は「太尾山城・その1」で記した内容と大分違うので、参考までに掲載しておく。
【写真左】もうひとつの説明板

みどりと戦国ロマンの里山
   史跡 太尾山城址について

 南北朝時代、源頼朝が平家を滅ぼすや、佐々木氏は戦功により近江の守護職に任ぜられて、この地が京都に通じる北陸道及び中仙道の要路のため、ここに小城を築き警戒にあった。

 山城は、痩せた尾根を堀切って、左右の絶壁から敵の攻撃を不可能にする地形を選んで、山全体を利用して築かれた。

 北条高時の時代(1316)、京極高氏の支城となり、その後京極氏と六角氏の勢力争いが繰り返された境目の城で、永禄4年6月(1561)、浅井長政は、六角方の吉田安芸守が守備していたのを攻め落とさんとしたが能わず、引き返した。元亀3年1月(1573)、織田信長の兵2万が佐和山城を攻め、ついで朝妻・太尾の両城を攻撃し、太尾城は灰□に帰した。

 この太尾山城は、北と南に主郭があり、別城一郭といわれ、今も見事に堀切や土塁・曲輪跡が残されている。
 頂上の城跡からは、琵琶湖や湖北・湖東・西江州が展望できる絶景の里山である。
 太尾山城跡は、平成13年9月19日、米原町の史跡に指定された。”

 この中で、「北条高時の時代(1316)、京極高氏の支城となり、」とある。京極高氏とは、佐々木導誉のことである。
 1316年は正和5年になるが、このとき導誉は21歳である。導誉は嘉元2年(1304)に外祖父・佐々木宗綱の跡を継いで家督を継承し、19歳の正和3年の12月、左衛門尉に任じられている。
 21歳の時、導誉が近江の国に在住していたか、実ははっきりしない。幼年期・少年期には鎌倉にあったことが知られるので、このあたりが何とも言えない。

 ただ、次稿に予定している同じく当城麓にある「青岸寺」の創建者も、導誉といわれているので、まったく根拠がないともいえない。
 

 ところで、この説明板の冒頭「南北朝時代、源頼朝が平家を滅ぼすや」とあるが、南北朝時代でなく、平安後期だろう。
 

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