2021年11月7日日曜日

田邊城(岡山県津山市中北上・宮部下)

 田邊城(たなべじょう)

●所在地 岡山県津山市中北上・宮部下
●別名 年末砦
●高さ 231m(比高85m)
●築城期 嘉吉元年(1441)
●築城者 山名教清
●城主 山名氏、田邊出雲守権右衛門実成
●遺構 郭、堀切、土塁、竪堀、井戸等
●登城日 2017年4月1日

◆解説(参考資料 HP「津山瓦版」、現地の資料等)
 田邊城は岡山県の津山市中北上と宮部下の間に聳える標高230m前後の山頂部に築かれた城砦である。田邊城の北麓を流れるのが宮部川で、南麓を流れる川は久米川である。両川が当城を南北から挟む形となる。
【写真左】田邊城の石碑
 二の丸付近に建立されているもので、中央に「田邊城址」右側に後段で紹介している城主・「田邊出雲守権右衛門実成」の銘が入り、左側には「戦国武将彼我鎮魂之碑」と筆耕されている。


岩屋城の属城

 南麓側の久米川としばらく並行して走るのが現在の中国自動車道で、久米川からさらに西に進み、岩屋から岩屋川を北上すると、以前紹介した美作を代表する岩屋城(岡山県津山市中北上)に突き当たる。因みに、田邊城から岩屋城までの距離は、直線距離でおよそ5キロほどとなる。
 田邊城は先述した西方に控える岩屋城の属城として歴史を刻んでいる。このためか、田邊城に関する史料はあまり残っていない。従って以下、岩屋城の動きを見ながら田邊城の変遷も推考してみたい。
【写真左】登城開始
 登城口は北東部にある。この右側に駐車場があり、そこから歩いていく。
 軽自動車の四駆なら直接最初の郭(馬場)まで行けるかもしれないが、途中で険しい急勾配があり、お勧めできない。


美作守護・山名教清

 嘉吉元年(1441)6月24日、それまでの美作守護であった赤松満祐が室町幕府将軍足利義教を謀殺するいわゆる嘉吉の乱(鷲影神社・高橋地頭鼻(島根県益田市元町)、鶴城(兵庫県豊岡市山本字鶴ヶ城)参照)が勃発、これに対し、幕府の命を受けた山名宗全、教之、並びに教清らは満祐追討軍に加わり、9月10日、播磨木山城に赤松満祐を自害に追い込んだ。
【写真左】縄張図
 この図では右上に宮部川が流れているが、南を流れる久米川は本丸からおよそ700m前後の位置を東西に流れている。


 この恩賞として教清が新たに美作守護として任じられた。岩屋城はこのとき教清によって築城されたものだが、おそらく岩屋城築城時に併せて当城の東方の防衛の観点から田邊城も築かれたものと思われる。

 岩屋・田邊両城が築城されてからおよそ25年後の応仁元年(1467)、京を舞台に応仁の乱が始まる。そして、西国を中心に主だった一族・諸氏が、京に上り東軍・西軍にそれぞれ分かれて戦いが始まることになる。
【写真左】五輪塔群
 坂を上りきると馬場跡にいたるが、その脇には五輪塔群が祀られている。おそらく田邊氏一族のものだろう。





赤松政則岩屋城奪還

 岩屋城主山名政清は配下の者3千を率いて上洛、宗全の軍に加わった。すると、この機を狙って、赤松政則方の大河原・中村・小瀬の諸氏が岩屋城攻略に動いた。大半が京に向かっていたため、岩屋城は陥落、文明5年(1477)、美作の守護は再び赤松氏(政則)となり、岩屋城主は武功を挙げた大河原治久となった。
【写真左】馬場跡
 上記の縄張図にもあるように、東側に長大な馬場跡がある。近代になって整地されたのだろうか平滑になっている。



 赤松氏が美作守護となってからおよそ40年後の永正15年(1518)、政則から数えて3代目の政村(晴政)のときはすでに当地美作をはじめ、備前・播磨の守護職となり、政村自身は主として播磨の置塩城(兵庫県姫路市夢前町宮置・糸田)を居城としていた。
【写真左】二の丸に向かう。
 馬場から二の丸を繋ぐ部分だが、整地されたこともあってほぼフラットで歩きやすい。



浦上氏岩屋城奪取

 しかし、そのころ赤松氏の家臣で急激に力をつけ守護代でもあった浦上村宗(三石城(岡山県備前市三石)参照)は、永正17年(1520)の春、主君であった赤松氏に背き、岩屋城を奪取した。そして岩屋城の城主は、中村大和守則久となった。当然ながら赤松氏は再び小寺則職(範職)(御着城(兵庫県姫路市御国野町御着)参照)・大河原を将として岩屋城奪回に向かった。この戦いはおよそ半年にもわたったが、岩屋城を落とすことはできず、次第に赤松氏の凋落が始まった。
【写真左】二の丸
 冒頭で紹介した石碑とは別に左側には仏像が建立されている。
 それにしても北側はかなり解放された景観で、いつもの山城登城とは大分雰囲気が違う。


尼子氏美作攻略

 天文13年(1544)出雲の尼子経久・晴久らが美作へ侵攻、岩屋城は尼子氏の軍門に降った。時期は同年の秋ごろと思われ、主力部隊は高田城(岡山県真庭市勝山)攻めを行った宇山久信、及び尼子国久(新宮党館(島根県安来市広瀬町広瀬新宮)参照)らと思われる。
【写真左】堀切・その1
 二ノ丸から本丸に向かう途中に構築されたもので、大分埋まっているが当時はもう少し深かったものと思われる。


 このときの岩屋城主は中村則久の嫡男・則治であったが、尼子氏は則治を城主として据え置き、副将として尼子方の将・芦田備後守秀家を付けた。
 ところで、芦田秀家は尼子の将とされているが、尼子氏家臣団の史料ではあまり出てこない。想像だが、芦田氏はおそらく尼子氏の美作攻略開始直前に臣下となったのではないか、また、その姓名から考えて備後の芦田郡周辺(現・広島県福山市芦田町)の一族であったのではないかとも考えられる。
【写真左】堀切・その2
 先ほどの堀切で南側に延びるもの。
 奥には南側を東西に横断する旧出雲街道が走り、久米川が流れる。



毛利氏から宇喜多氏へ
 
 永禄9年(1566)11月21日、出雲月山富田城が落城、尼子義久はじめ秀久・倫久の三兄弟は毛利元就に降伏した(尼子義久の墓(山口県阿武郡阿武町大字奈古 大覚寺)参照)。
。
 その2年後の永禄11年(1568)、果せるかな、美作の岩屋城内でも大きな動きが起こった。城主則治は副将・芦田秀家の息子・正家に殺害された。芦田秀家から息子正家となっているが、秀家は永禄11年までに亡くなり、その跡を継いだのが正家だったのだろう。

 尼子の支配が無くなった岩屋城主正家は、次の主君を宇喜多直家(乙子城(岡山県岡山市乙子)参照)に求めた。そして、天正元年(1573)に至ると、城主は宇喜多直家の宿将・浜口淡路守家職となった。
【写真左】本丸に向かう。
 二ノ丸から本丸を繋ぐ道も平坦で、少し拍子抜けするが、当時から二の丸と本丸の高低差は余りなかったこともあり、堀切以外の遺構は認められなかった。


 宇喜多氏の居城となったのも束の間、毛利氏は中村大和守頼宗が夜襲をかけ奪い取った。しかし、ほどなくして毛利氏と織田氏との領土堺交渉の結果、再び宇喜多氏は岩屋城を手に入れ、城主は長船越中守(駒山城(兵庫県赤穂郡上郡町井上)参照)となり、記録上この長船越中守が岩屋城の最後の城主とされている。
 そうしためまぐるしい変遷を経た岩屋城も、天正18年(1590)の野火により焼失、この段階で廃城となったといわれている。
【写真左】本丸
 本丸の北側には祠が祀られ、その後背は宮部川の谷沿いに伸びる集落が見える。





田邊城と田邊氏

 さて、ここまで田邊城の本城とされる岩屋城を長々と述べてきたが、田邊城及び城主といわれる田邊氏について、少し紹介しておきたい。
 田邊氏はもともと赤松氏の系譜に繋がる。つまり嘉吉の乱首謀者・赤松満祐の臣下であったが、上述したように岩屋城が浦上氏に攻略され、さらには出雲の尼子氏が当城を攻め落としたとき、同国(美作)の田邊氏をはじめ13将がそろって尼子氏に降った。
【写真左】岩屋城遠望
 本丸のそばに「岩屋城展望」の標柱が建っており、その方向に目を転ずると霞んでいるが岩屋城が確認できる。



 その後、天正9年(1579)になると、前記したように毛利氏が当城を攻め立てた。攻め立てたのは苫西郡山城村の葛下城主で毛利氏に属した中村頼宗である。
 頼宗が攻め立てたときの田邊城主が、田邊出雲守権右衛門実成といわれ、自裁(自害)したといわれる祠が祀られている。
【写真左】三の丸方面に向かう。
 本丸を過ぎ、三の丸に向かうと少し下り坂になる。







遺構概要

 縄張図を見ても分かるように、城域は東西におよそ600mにわたって構成されている。東側には長大な馬場を配し、そこから西に向かって二の丸、堀切を介して主郭を置き、さらに西に向かって三の丸が配されている。また西端部には北の尾根下に井戸が残り、この付近の尾根にはまとまった郭が3段連続する。

【写真左】三の丸
 特筆されるような遺構ではないが、削平された郭
【写真左】北側に大きな谷
 三の丸を過ぎると途中で北側に見える谷で、左側は北に向かって細い丘陵が伸びる。
【写真左】井戸
長径5m前後はあろうか、大きな岩をくりぬいた構造となっている。
【写真左】土橋・土塁
 写真は、三の丸から大分西に移動した箇所で、現地を踏査した記憶では、途中で中規模な郭段があるものの、土塁・土橋以外は明確な遺構は見当たらなかった。
【写真左】土塁・土橋側から西方に三の丸方面を振り返る。
 三の丸から相当下に降りていたようで、この位置からはかなりの高低差がある。
【写真左】青木の段といわれる個所の神社
 自害した田邊出雲守実成は後に地元に残った田邊株の人々によって祀られている。

 なお、前段で紹介している五輪塔は当時この北麓にあったものと思われ、近年になって馬場跡(駐車場)に移設されたものと思われる。
【写真左】田邊城遠望
 北側から見たもので、右側が本丸から三の丸にかけて解放された箇所と思われる。



2021年10月30日土曜日

丹波・八木城・その2(京都府南丹市八木町八木)

 丹波・八木城(たんば・やぎじょう)・その2

●所在地 京都府南丹市八木町本郷内山・小谷
●高さ 330m(比高220m)
●築城期 不明(室町時代)
●築城者 内藤氏
●城主 内藤国貞、内藤宗勝、内藤ジョアン
●遺構 石垣、土塁、郭、堀
●登城日 2017年3月20日

◆解説(参考資料 『近畿の名城を歩く 滋賀・京都・奈良編』㈱吉川弘文館、HP「南丹市八木町観光協会」等)

 前稿につづき八木城をとり上げたい。今稿では本丸からさらに北東方面に残る遺構や、内藤宗勝の息子の一人・ジョアン(如安)などを中心に紹介していく。
【写真左】八木城本丸
  主郭には隅の方に櫓台があり、前稿でも紹介した虎口がその横にある。
 またこれとは別に直線形の土塁があり、そこから北側にかけてもう一つの虎口が配置されている。



内藤ジョアン(如安)

 永禄8年(1565)、内藤宗勝は赤井直正との戦いにおいて討死した。宗勝には下図に示したように、二人の男子(貞勝、如安)と娘(のちのジュリア)がいた。
 宗勝死去により内藤家の家督継承をめぐって、この長男・貞勝と次男・如安の間で内紛が起きた。その結果、形式上は貞勝が家督を継ぎ、如安は執政を取り仕切る立場となった。ただ、残っている文書を見る限り実際には如安が家督を継いだような形跡がある。
【写真左】松永氏略系
 嫡男貞勝については、不明な点が多い。八木城主としては貞勝となっているものの、父・長頼健在中でも彼の動きが記録上残っていないため、事実上ジョアンが長頼(内藤家)の後継者となった可能性が高い。


現地の説明板より

“MISERICORDIAS DOMINI IN AETERNUM CANTABO
戦国キリシタン武将 ジョアン内藤飛騨守忠俊 ゆかり之地

 ジョアン内藤飛騨守忠俊は、八木城主備前守宗勝の子、八木城に生まれ、1565年頃、南蛮寺にて宣教師ルイス・フロイス神父より洗礼を受ける。将軍足利義昭に仕え、織田信長との戦に際しては、頭に十字架をHISの打物を施した兜を頂き、二千の兵を率いて二条城に出陣した。
【写真左】主郭周辺の配置図
 前稿で全体の配置図を紹介しているが、この図はさらに主郭を中心とした遺構の配置図。下方が北を示す。

 主郭は▲マークの位置に当たり、ここを中心として登ってきた東側をはじめ、南、西(二の丸)、そしてその途中からさらに北に延びる尾根筋(北の丸)にも郭が連続する。
 また、主郭周辺の郭群とは別に、西側にも独立した郭群(烏嶽 内藤法雲)もある。
【写真左】石積
 本丸から北の方へ少し進んだ位置で、大分崩れているが、石積が残る。






 また、八木城落城後は、将軍足利義昭と共に鞆の浦に隠棲した。
 文禄の役に際し、小西行長の客将として講和使節の大任を命じられ、朝鮮を経て明国北京に赴き、講和を締結して文禄の役を終結せしめた。
 以後、前田利家に仕えたが、1614年遂に徳川家康の禁教令により、ユスト高山右近と共にルソンに追放された。
 マニラ市サン・ミケルにてますます信仰の道を究め、かたわら医学書、宗教書を翻訳した。1626年(寛永3年)波乱万丈の生涯を終え、異国の地にて帰天。七十余歳。
1982年6月8日 建立。
【写真左】帯郭
 どの箇所を撮ったのか記憶が曖昧だが、帯郭状の箇所。








小西行長、高山右近との出会い

 如安が八木城の城主としてあったのは二条城の戦いの翌年、すなわち天正2年(1574)ごろまでといわれ、その後、それ以前から支援していた足利義昭とともに備後鞆の浦(鞆城(広島県福山市鞆町後地)参照)に移っている。

 ところで、内藤氏の居城であった八木城だが、神尾山城(京都府亀岡市宮前町)の稿でも述べたように、おそらく明智光秀によって天正7年(1579)ごろに落城もしくは閉城したものと思われる。
【写真左】左に行くと妙見宮方面
 堀切の箇所と思われるが、この日は妙見宮まで向かっていない。






 天正13年(1585)如安は小西行長(近世宇土城(熊本県宇土市古城町)参照)に出会い、秀吉の朝鮮出兵の際にも、行長の家臣として行長を補佐した。
 慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いで行長は西軍に属したが、敗れ斬首された。その後如安は肥前の有馬晴信の斡旋で平戸に逃げ、その後加藤清正(熊本城(熊本県熊本市中央区)参照)の客将となる。
【写真左】長い郭
 この写真も妙見宮方面に向かう途中の場所で、尾根筋に長い郭を残す。







 慶長8年(1603)清正の客将から加賀前田家に4千石で迎えられ、当時同じく前田家に入っていた高山右近(宇陀・沢城(奈良県宇陀市榛原区沢)参照)がいたことから二人は熱心に布教活動や教会の建設に励んだ。

 しかし、その後家康による江戸幕府は次第にキリスト教の禁圧を始める。慶長17年(1612)3月21日、本多正純の家臣でキリシタンであった岡本大八は、火刑に処され、翌日前述した肥前のキリシタン大名・有馬晴信は、甲斐国に配流され自害させた(「岡本大八事件」)。
【写真左】二の丸から西に延びる郭
 この日は主だった郭群をすべて踏査していない。すべてを見ようと思えば丸一日かかるだろう。




キリスト教徒海外追放

 そして、慶長19年(1614)3月7日、幕府は高山右近・内藤如安らキリスト教徒百余人の海外追放、並びに残党70余人の陸奥国外ヶ浜流刑を決めた。陸奥国外ヶ浜というのは、現在の青森県津軽半島から夏泊半島までの陸奥湾を望む地である。地名は、陸地が尽きるという由来から来たもので、鎌倉時代から流刑の地としてすでに知られていた。

 その後、如安らの追放先となるフィリピン側との事前協議や、船の準備などもあったのだろう、決定してから7ヶ月後の10月6日、正式に船出となった。100名をこえる海外追放者であるので、おそらく船は2,3艘用意されたのだろう。
 因みに、この翌月(11月15日)、家康・秀忠は大阪城にあった豊臣秀頼攻略のため出陣した。いわゆる「大阪冬の陣」である。
【写真左】内藤ジョアンの石碑
 登城口手前の農道わきに設置されているもので、右下に上段で紹介した説明板の内容が筆耕されている。

 なお、この写真の奥に見える小山は、八木城の支城といわれる鶴首山城で、その麓には後段で紹介する八木城の居館跡とされる東雲寺がある。


 高山右近らがマニラに到着したとき、当時フィリピンはスペイン領であったので、総督ファン・デ・シルバ(第14代総督 任期(1609~1616年))らから大歓迎を受けた。しかし、右近は慣れない気候などもあって翌年死去する。如安には妹・ジュリアも随従した。

 マニラでは日本人キリシタン町サンミゲルを築いたといわれるから、右近・如安らと同船していた日本人キリシタン100余名が協力して町を興したのだろう。如安はその後寛永3年(1626)当地で没した。説明板では享年70余となっているが、資料によっては74歳とするものもある。ジョアンが亡くなったころ、江戸幕府の将軍は、3代目の家光となっていた。

東雲寺

 東雲寺は、前述したように、内藤ジョアンの石碑から北におよそ500m程向かったところにある。八木城主の居館跡に建てられたという寺院である。創建時期ははっきりしないが、上述したように、明智光秀が丹波を平定した天正7年(1579)以降と考えられる。

 残念ながら当院を写した写真が少なく、物足りないが、外周部に残る石垣などは当時のものが再利用されたように見える。
【写真左】東雲寺の脇に残る門。
 現在の通用門はこれとは別の位置にあり、この門のみ独立して置かれている。居館時代のものだろうか。
【写真左】東雲寺の背後
 墓地が見えるが、その後背には鶴首山城が控える。








龍興寺

 東雲寺から西に200mほど向かうと龍興寺がある。享徳元年(1452)細川勝元の香華寺として建立されたとあるので、前記した東雲寺よりも古い寺院となる。
【写真左】龍興寺
 境内には、本堂(方丈)、鐘楼の他、牡丹園、梅園、花奔園などがあり、裏側には写真を撮っていないが、織田信長の弟・信包(のぶかね)の供養塔などもある。


 現地の説明板より

”南丹市指定文化財   昭和61年3月30日

 龍興寺鐘楼

 当寺は、享徳元年(1452)細川勝元公の香華寺(こうげじ)として建立されたと伝わる。このことは元禄15年(1702)に完成した『本朝高僧伝』の玄詔伝に記されている。
 鐘楼は本堂の東側、参道の傍らに建つ。切妻造桟瓦葺で、桁行・梁間各一間である。柱は粽(ちまき)付の円柱で、四方転びに建てられている。軒は一軒で半繁垂木、妻は一重の紅梁蟇(こうりょうかえる)股となっている。
【写真左】龍興寺の鐘楼












 元文5年(1740)園部藩作成の『寺社類集』には、鐘楼の記述はないが、19世紀のはじめに書かれた考えられる『丹波志桑船記』には、鐘楼の記述がある。また戦時中に供出された梵鐘には、延享4年(1747)の銘があったとの伝承もあるので、天明6年(1786)再建の現本堂と同じ頃にこの鐘楼も建造されたものと思われる。
   平成17年3月  南丹市教育委員会”
【写真左】龍興寺から八木城を遠望する。
 龍興寺からほぼ真南に見える。
 写真中央の尖った山が八木城。






 細川勝元は船岡山城(京都府京都市北区紫野北舟岡町)の稿でも紹介したように、応仁の乱における東軍方のリーダーだが、龍興寺を建立したのが享徳元年であるので、まだ乱が勃発する前である。

 龍興寺を建立する2年前の宝徳2年(1450)、勝元は山城国(京都)に龍安寺を創建し、寺領を寄進している。現在、龍安寺は世界遺産の一つとなっており、枯山水の方丈庭園が特に有名で、多くの観光客が訪れる名刹である。

 また、出雲国との関連でいえば、龍興寺を建立した同じ享徳元年(1452)、出雲大社の国造・千家持国が、杵築大社祈祷巻数を細川勝元に贈呈している。16歳で管領に就任し、通算23年間もその任にあったことから、まさに勝元の絶頂期であったと思われる。

2021年10月25日月曜日

丹波・八木城・その1(京都府南丹市八木町八木)

 丹波・八木城(たんば・やぎじょう)・その1

●所在地 京都府南丹市八木町本郷内山・小谷
●高さ 330m(比高220m)
●築城期 不明(室町時代)
●築城者 内藤氏
●城主 内藤国貞、内藤宗勝、内藤ジョアン
●遺構 石垣、土塁、郭、堀
●登城日 2017年3月20日

◆解説(参考資料 参考資料 「近畿の名城を歩く 滋賀・京都・奈良編」㈱吉川弘文館、HP「南丹市八木町観光協会」等)

 丹波・八木城(以下「八木城」とする。)は、前稿神尾山城(京都府亀岡市宮前町)から東へ10キロ余り進んだ現在の亀岡市と南丹市の境にある城山周辺部に築かれた山城である。
【写真左】八木城遠望
 北側にある龍興寺側から見たもので、八木城の北麓には現在京都縦貫自動車道が走っている。





現地の説明板より

❝八木城
 八木城は、八木南西部に位置し、京街道(山陰道)を眼下に望む口丹波随一の要害である。丹波国内では、八上城、黒井城と並んで三大城郭のひとつといわれ、中世の山城としては有数の規模を誇る。
【写真左】登城道のコース
「城山自然遊歩道」と名付けられた案内図があり、下方が北を示す。
 下段でも紹介しているように、左図の左側に登城口がある。








 丹波守護代内藤氏の居城として伝えられ、15世紀~16世紀に丹波地方の中心として機能した。戦国時代、キリシタン武将としてルイス・フロイスとも親交のあった内藤如安(じょあん)は有名で、文禄・慶長の役のおり、明側との交渉に当たった。
【写真左】城山登山道入口
 登城口は北東側の京都縦貫自動車道下にあるトンネルに設置されている。
 写真にもあるように、入口は城門を模したような意匠となっている。車はこの隅のスペースに停める。



 城は、明智光秀の丹波侵攻により没落したが、江戸時代に亀山藩が幕府に提出した絵図の模写によると、最高所の本丸は、四方に野づら積みの石組が描かれている。
 また、本丸の南西端に金の間と書かれた一段と高い部分が張り出しているが、これは、天守閣の祖形(そけい)と考えられる。現在は、石垣の一部や尾根づたいに曲輪跡が残るのみであるが、当時の雄大な様子を伝えている。
     八木町・八木町教育委員会”
【写真左】八木城 城跡図
 左図は本丸に設置されているもので、中央が本丸になるが、周辺に配置された各郭群には「古絵図による城の配置と内藤家の武将配置」も示されている。

 現物はモノトーンで書かれているため、管理人によって郭群等を彩色している。
  参考までにこの図に載っている内藤家武将の名前を下に示す。


主な内藤家武将名
 ●大八木但馬(対面所・御茶屋) ●内藤備前守(本丸・金の間、馬屋) ●内藤和泉 ●内藤五郎 ●並河重郎(北の丸) ●八木玄蕃 ●内藤法雲(烏嶽) ●内藤土佐。
 因みに登城口からすぐ登った付近が武家屋敷となっている。

【写真左】登城開始
 前半のルートは谷筋を登って行くコースがとられている。
 
【写真左】屋敷群・その1
 右側に「一合目」と書かれた看板があるが、登城口から歩きだすとすぐに屋敷群が現れる。

 現況は荒れ果てた光景だが、道を挟んで左右に段が連なり、屋敷があったといわれている。


内藤氏

 八木城の築城期については今のところ具体的な時期は確定していないが、南北朝期に足利尊氏から内藤氏が戦功により八木の地を賜り、この地に城砦(砦)を築城したと伝えられている。
 このことからおそらく正平10年(文和4年)(1355)、尊氏が義詮とともに京都において南朝軍を破り義詮が入京しているので、この時期と考えられる。
【写真左】屋敷群・その2
 登城道の2合目付近だが、屋敷群の北端部で、足元には五輪塔の部位がまとめられている。



 内藤氏が丹波守護代として正式に任命されるのは、永享3年(1431)頃だが、それ以前の同氏の系譜をたどると、尊氏が室町幕府を開いた延元元年(建武3年)(1336)の段階で内藤道勝の名が記録されている。従って、前述した八木の地に城砦を築城したのはこの道勝と考えられる。
 その後の内藤氏の系譜として主だった人物を時系列で挙げると、
  1. 之貞  嘉吉3年(1443)~宝徳元年(1449)
  2. 元貞  享徳元年(1452)~文明14年(1482)
  3. 貞正  永正2年(1505)~大永元年(1521)
  4. 国貞  永正17年(1520)~天文22年(1553)
 となっている。なお、尊氏から八木の地を賜った際、当時室町幕府の管領で丹波守護も兼ねていた細川頼元(鴨山城(岡山県浅口市鴨方町鴨方)参照)の家臣であったと思われ、以後道勝から貞正に至るまで主君を細川氏とし、丹波守護代の任にあったものと思われる。
【写真左】対面所
 大八木但馬(対面所・御茶屋)といわれているところで、6合目付近に当たる。
 堀切が残る。




内藤宗勝(松永長頼)

 国貞の代になると、細川氏は「両細川の乱」などにより分裂、国貞の父・貞正の代から細川高国に従っていた内藤氏は、その後嫡男国貞も高国に従っていたが、前稿神尾山城(京都府亀岡市宮前町)の稿でも述べたように、大永6年(1526)細川高国が細川尹賢の讒言を信じ香西元盛を殺害したため、これに激怒した波多野稙通・柳本賢治兄弟が丹波に帰参し高国らと敵対したとき、国貞は尹賢らの追討軍から離脱した。
【写真左】7合目
 6合目の対面所を過ぎると、一転して傾斜のある登坂道になる。







 その後、天文2年(1533)細川晴元に属し、丹波守護代に復帰している。このころの国貞の動きを見ると、細川氏の凋落にともない、三好長慶や松永久秀らの急激な台頭があり、彼らの動きを見定め、安易な主従関係を求めない自立した姿勢が窺える。

 その後、国貞は晴元や氏綱(父・尹賢)などと手を結んだりするが、天文17年(1548)細川晴元と三好長慶が対立するや、国貞は晴元を見限り長慶に与した。そして、長慶の下には松永久秀がいた。
 長慶に属してから4,5年経った天文20年から21年ごろと思われる、国貞は娘を久秀の弟松永長頼に嫁がせた。のちの内藤家の家督を握る内藤宗勝である。
【写真左】いよいよ本丸が見えてきた。
 左側の切岸の上は本丸に当たる。









 天文22年(1553)3月、三好長慶は前年和睦したばかりの将軍足利義藤(義輝)と再び断交、8月には義輝を近江に追放した。そして翌9月3日、長慶は松永久秀・長頼兄弟に丹波出陣の命を発した。

 久秀らが最初に攻め入ったのが、波多野秀親らが籠る数掛山城である。因みに、当城は前稿神尾山城から南へ2キロほどの位置になり、八木城は直線距離で北東方向におよそ8キロの位置に当たる。
【写真左】本丸虎口付近
左に行くと本丸、右に行くと妙見宮。








 数掛山城の戦いでは、松永方が当城を囲んだが、その後香西元成、三好宗渭などが後巻きを行い、このため松永軍にあった内藤国貞が討死した。こうした劣勢は八木城にも及び、落城の危機を迎えたが、国貞の娘婿であった松永長頼が直ちに八木城救援に向かい、城を守り抜いた。

【左図】松永氏略系
 松永久秀の兄弟には長頼(宗勝)とは別にもう一人の弟がいたが、記録が残っていないので不詳とし、その子に八上城主となった松永孫六などがいた。

 内藤ジョアンの下にはジュリアという妹がおり、彼女も洗礼を受けている。


 この後長頼は国貞娘との間にできた嫡男・千勝(後の貞勝)を正式な内藤家当主とし、自らはその後見人となり、内藤宗勝と名を改めた。

 これにより松永久秀及び内藤宗勝兄弟は、三好長慶の畿内制圧の一つとして、八木城を本拠とし丹波平定への大きな足掛かりを作った。
 参考までにこのころの三好長慶が支配した地域は以前にも紹介したように下記の通りである。
  • 山城国 淀城       ―  細川氏綱
  • 摂津国 芥川山城     ―  三好義興
  • 大和国 多聞城・信貴山城 ―  松永久秀
  • 和泉国 岸和田城     ―  十河一存
  • 丹波国 八木城      ―  内藤宗勝。八上城―松永孫六            
  • 淡路国 炬口城      ―  安宅冬康
  • 阿波国 勝瑞城      ―  篠原長房
  • 讃岐国 十河城      ―  十河一存
  • 河内国(北部) 飯盛山城 ―  三好長慶
【写真左】右側の妙見宮方面を見る。
 妙見宮は麓にあるが、そこにいくまでに多くの遺構がある。
【写真左】本丸・その1
【写真左】本丸・その2
【写真左】本丸・その3,土塁
【写真左】空堀
【写真左】空堀と先端部
 猪が大分崩している。
【写真左】本丸・その4
【写真左】土塁
【写真左】虎口か
【写真左】本丸から北東に八木の街並みを見る。
 写真の左側に少し見えているのが大堰川(おおいがわ)で、右側が亀岡市。
 八木城から大堰川沿いに南におよそ10キロほど降ると、明智光秀が築いた亀岡の丹波・亀山城(京都府亀岡市荒塚町)がある。

 因みに大堰川は、亀岡市辺りで名前をかえて川下り観光で有名な保津川となり、京都市内に入ると、今度は嵐山付近では、桂川と名乗り、最終的には淀川に合流する。


◎次稿に続く
 
 とりあえず本稿ではここまでとし、次稿では本丸からさらに北東方面に向かった遺構並びに、内藤宗勝の息子・ジョアン(如安)や、麓にある内藤氏所縁の寺院などを紹介したいと思う。