高縄山城(たかなわやまじょう)
●所在地 愛媛県松山市立岩米之野
●築城期 養和元年(1181)か
●築城者 河野通清
●高さ 標高986m
●遺構 不明
●登城日 2011年9月14日
◆解説(参考文献『日本城郭大系第16巻』等)
先月取り上げた石見国(島根県)吉賀町の高尻城と石水寺(島根県鹿足郡吉賀町上高尻)でも少し触れているが、石見国の吉賀河野氏の出自とされている伊予国(愛媛県)の高縄山城を取り上げる。
【写真左】高縄山城遠望
西麓の松山北条バイパス(196号線)から見たもので、高縄山(城)はこの写真の左側に聳える山である。
高縄山は愛媛県の中予地域にある標高986mの山である。
『日本城郭大系第16巻』の「研究ノート」によれば、「この山を居城とするにはどう考えても不向きで、当山麓の台地に居館を置き、その東端に位置する雄甲(260m)・雌甲(192m)及び、北東に屹立する高穴(292m)の諸城が「高縄城」と総称されたものであった」としている。
確かに現地に足を踏み入れてみると、西麓から険しい山並をたどり、当山に拠って居城とするためには、相当の時間と労力を費やして住環境を整備しなければならないと思える。ただ、以下に示す記録を見ると、あながち全くそれが(居城とすること)不可能であったとはいえない気もする。
【写真左】高縄寺
所在地は高縄山山頂から東へ約300mの位置にあって、標高は約900m。
現地の由来によると、河野氏の戦勝祈願所となり、同氏菩提寺でもある。
その理由の一つとしては、高縄山には歴史的にも相当古い時代から、修行僧らの場として使用されてきた寺院(高縄寺)があるからである。
当山頂部の東方に創建された高縄寺の縁起によれば、桓武天皇の時代(御宇:781~806年)、弘法大師順錫(じゅんしゃく)のとき、寺号を「河野山 高縄寺」と改め、行基の作といわれる千手観音を安置した。そして後に述べる当地支配者であった河野通信が、養和元年(1181)、千手観音菩薩を本尊として七堂伽藍を再建立する。
このことから、仏閣・寺院の建立がすでにこの時期当山にあったとすれば、高縄山城に拠ったとする説は、限りなく居城としての役割をも担っていたのではないかとも思えるからである。
【写真左】山頂付近に設置された看板
「奥道後玉川県立自然公園」とある。この日管理人は当然自動車で登って来たのだが、写真にあるように自転車が置いてあった。
この上にあるテレビ塔で横になって休んでいた人がいたので、恐らくこの人のものだろう。
車でもかなりきついコースなのに、ここまで自転車で登ってくるとはおどろきだ。
また、もう一つの理由としては、下段の河野氏の項に示すように、源氏方として活躍した同氏が、平家方目代の拠った南方の赤滝城という高縄山よりもさらに高い山城(標高1,300m余り)を攻略したことなどから、当時高縄山城だけが突出して標高の高い山城ではなかったことが挙げられる。
河野氏
瀬戸内は平安期ごろより海賊の出没が頻発し、治安が不安定になり、押領使や追捕使などがこの警護に当たるようになった。その押領使として代々その任を担ったのが越智氏である。
この越智氏の一族である河野氏は、平安後期になると当地を次第に勢力下に治め、武士として頭角を現すことになる。
【写真左】高縄山山頂のテレビ塔
山頂付近には写真にあるように車が4,5台駐車できるスペースがある。
写真でいえば、このテレビ塔付近が頂部となり、左側にむかって数百メートル尾根がつづき、その先にキャンプ場・高縄寺がある。
赤滝城の戦い
治承4年(1180)4月、源頼朝が伊豆で挙兵し源平合戦が始まった。この前年、頼朝の密書を受け取っていた河野通信及び父・通清は、風早郡高縄山に拠って、源氏の挙兵に呼応した。
通清は、当時伊予の国守であった平維盛の目代を討伐することとなった。これに対し、目代は周桑郡の桜樹の赤滝城に立て籠もった。通清はこの戦いで勝利し、伊予国における源氏方の勢威を高めた。
この赤滝城は、現在の西条市丹原町明河と南の久万高原町との町境にある青滝山(H1,303m)にある山城で、愛媛県下の山城では最高所のものである。赤滝城は、その後南北朝期にも戦いが繰り広げられている。
河野氏が伊予国において最初の礎(いしずえ)を築いたのは、平氏の滅亡、すなわち文治元年(1185)ごろである。
【写真左】基本測量・三角点
テレビ塔施設の裏側に祠などがあるが、その脇に三角点が設置されている。
承久の乱と河野氏の所領没収
下って承久3年、承久の乱が起こると、通信の子・通政は討幕軍、すなわち後鳥羽上皇に加担した。京に上って戦うも、衆寡敵せず討幕軍は敗北、後鳥羽上皇は隠岐に配流される。
通政は伊予に帰国することになるが、北条方幕府軍は追討の兵を差し向けた。このため、通政及び存命中だった父・通信、並びに弟の通末、通俊ら一族は、高縄城に立て籠もった。幕府軍の執拗な攻撃の前に、ついに高縄山城は落城、父・通信は捕らわれ、やがて平泉に配流されたという。
この結果、河野氏の所領53か所、公田60余町、さらに一族149人の旧領もことごとく幕府に没収された。そして、通政は信濃の葉広において斬首され、通末は同国伴野庄に配流、通俊は周桑郡得能の僅かばかりの土地を領することを認められた。
【写真左】キャンプ場方面・その1
山城としての明確な遺構は認められないが、これだけ標高の高い位置であること、また容易に頂部までたどり着けない険峻な山であることを考えると、そうした城砦施設をわざわざ造る必要もなかったかもしれない。
むしろ、この山で生活できるための住環境を整備する方にエネルギーを費やしていたのではないだろうか。
そうした生活の主な場所として考えられるのが、テレビ塔のある頂部から下り、高縄山に向かう途中にかなり広い平坦地があり、奥に向かうとキャンプ場となっている辺りではなかっただろうか。
【写真左】キャンプ場方面・その2
河野通久
これに対し、河野氏一族の中で、一人幕府軍(北条氏側)に与した通久は、阿波国富田庄及び、温泉郡石井郷を領有した。この結果、それまでの河野氏の統治組織が根幹から変わり、同氏の同族性が希薄になり、地域的結合すなわち土着性が強くなった。
なお、このころ伊予国南の南予地域においては、橘氏に代わって西園寺氏が宇和郡を領有することとなった。
河野通有
承久の乱から約50年後の文永年間と弘安年間、蒙古が北九州を目指して来襲した。このとき、河野通有が九州の他の武士たちも驚く活躍を見せた。特に通有は元(蒙古)の船に乗りこんで敵将を生け捕ったという。
そして志賀島の戦いでは負傷を負ったものの、この活躍が認められ、同氏の旧領を回復し、更には肥前国の神崎庄をも手にすることができた。
【写真左】「四国のみち」案内図
高縄寺に設置されていたもので、周辺の配置がよく分かる。
ところで、通有については、父を通継とし、温泉郡石井郷を鎮し縦淵城(サイト『城郭放浪記』の「伊予・縦淵城」参照)に拠っていた(『愛媛県史概説:上』)とされる。
通久の継嗣については、通久の異父弟であった通継が継ぎ、その子が通有とされている。
●所在地 愛媛県松山市立岩米之野
●築城期 養和元年(1181)か
●築城者 河野通清
●高さ 標高986m
●遺構 不明
●登城日 2011年9月14日
◆解説(参考文献『日本城郭大系第16巻』等)
先月取り上げた石見国(島根県)吉賀町の高尻城と石水寺(島根県鹿足郡吉賀町上高尻)でも少し触れているが、石見国の吉賀河野氏の出自とされている伊予国(愛媛県)の高縄山城を取り上げる。
西麓の松山北条バイパス(196号線)から見たもので、高縄山(城)はこの写真の左側に聳える山である。
高縄山は愛媛県の中予地域にある標高986mの山である。
『日本城郭大系第16巻』の「研究ノート」によれば、「この山を居城とするにはどう考えても不向きで、当山麓の台地に居館を置き、その東端に位置する雄甲(260m)・雌甲(192m)及び、北東に屹立する高穴(292m)の諸城が「高縄城」と総称されたものであった」としている。
確かに現地に足を踏み入れてみると、西麓から険しい山並をたどり、当山に拠って居城とするためには、相当の時間と労力を費やして住環境を整備しなければならないと思える。ただ、以下に示す記録を見ると、あながち全くそれが(居城とすること)不可能であったとはいえない気もする。
【写真左】高縄寺
所在地は高縄山山頂から東へ約300mの位置にあって、標高は約900m。
現地の由来によると、河野氏の戦勝祈願所となり、同氏菩提寺でもある。
その理由の一つとしては、高縄山には歴史的にも相当古い時代から、修行僧らの場として使用されてきた寺院(高縄寺)があるからである。
当山頂部の東方に創建された高縄寺の縁起によれば、桓武天皇の時代(御宇:781~806年)、弘法大師順錫(じゅんしゃく)のとき、寺号を「河野山 高縄寺」と改め、行基の作といわれる千手観音を安置した。そして後に述べる当地支配者であった河野通信が、養和元年(1181)、千手観音菩薩を本尊として七堂伽藍を再建立する。
このことから、仏閣・寺院の建立がすでにこの時期当山にあったとすれば、高縄山城に拠ったとする説は、限りなく居城としての役割をも担っていたのではないかとも思えるからである。
【写真左】山頂付近に設置された看板
「奥道後玉川県立自然公園」とある。この日管理人は当然自動車で登って来たのだが、写真にあるように自転車が置いてあった。
この上にあるテレビ塔で横になって休んでいた人がいたので、恐らくこの人のものだろう。
車でもかなりきついコースなのに、ここまで自転車で登ってくるとはおどろきだ。
また、もう一つの理由としては、下段の河野氏の項に示すように、源氏方として活躍した同氏が、平家方目代の拠った南方の赤滝城という高縄山よりもさらに高い山城(標高1,300m余り)を攻略したことなどから、当時高縄山城だけが突出して標高の高い山城ではなかったことが挙げられる。
河野氏
瀬戸内は平安期ごろより海賊の出没が頻発し、治安が不安定になり、押領使や追捕使などがこの警護に当たるようになった。その押領使として代々その任を担ったのが越智氏である。
この越智氏の一族である河野氏は、平安後期になると当地を次第に勢力下に治め、武士として頭角を現すことになる。
【写真左】高縄山山頂のテレビ塔
山頂付近には写真にあるように車が4,5台駐車できるスペースがある。
写真でいえば、このテレビ塔付近が頂部となり、左側にむかって数百メートル尾根がつづき、その先にキャンプ場・高縄寺がある。
赤滝城の戦い
治承4年(1180)4月、源頼朝が伊豆で挙兵し源平合戦が始まった。この前年、頼朝の密書を受け取っていた河野通信及び父・通清は、風早郡高縄山に拠って、源氏の挙兵に呼応した。
通清は、当時伊予の国守であった平維盛の目代を討伐することとなった。これに対し、目代は周桑郡の桜樹の赤滝城に立て籠もった。通清はこの戦いで勝利し、伊予国における源氏方の勢威を高めた。
この赤滝城は、現在の西条市丹原町明河と南の久万高原町との町境にある青滝山(H1,303m)にある山城で、愛媛県下の山城では最高所のものである。赤滝城は、その後南北朝期にも戦いが繰り広げられている。
河野氏が伊予国において最初の礎(いしずえ)を築いたのは、平氏の滅亡、すなわち文治元年(1185)ごろである。
【写真左】基本測量・三角点
テレビ塔施設の裏側に祠などがあるが、その脇に三角点が設置されている。
承久の乱と河野氏の所領没収
下って承久3年、承久の乱が起こると、通信の子・通政は討幕軍、すなわち後鳥羽上皇に加担した。京に上って戦うも、衆寡敵せず討幕軍は敗北、後鳥羽上皇は隠岐に配流される。
通政は伊予に帰国することになるが、北条方幕府軍は追討の兵を差し向けた。このため、通政及び存命中だった父・通信、並びに弟の通末、通俊ら一族は、高縄城に立て籠もった。幕府軍の執拗な攻撃の前に、ついに高縄山城は落城、父・通信は捕らわれ、やがて平泉に配流されたという。
この結果、河野氏の所領53か所、公田60余町、さらに一族149人の旧領もことごとく幕府に没収された。そして、通政は信濃の葉広において斬首され、通末は同国伴野庄に配流、通俊は周桑郡得能の僅かばかりの土地を領することを認められた。
【写真左】キャンプ場方面・その1
山城としての明確な遺構は認められないが、これだけ標高の高い位置であること、また容易に頂部までたどり着けない険峻な山であることを考えると、そうした城砦施設をわざわざ造る必要もなかったかもしれない。
むしろ、この山で生活できるための住環境を整備する方にエネルギーを費やしていたのではないだろうか。
そうした生活の主な場所として考えられるのが、テレビ塔のある頂部から下り、高縄山に向かう途中にかなり広い平坦地があり、奥に向かうとキャンプ場となっている辺りではなかっただろうか。
【写真左】キャンプ場方面・その2
河野通久
これに対し、河野氏一族の中で、一人幕府軍(北条氏側)に与した通久は、阿波国富田庄及び、温泉郡石井郷を領有した。この結果、それまでの河野氏の統治組織が根幹から変わり、同氏の同族性が希薄になり、地域的結合すなわち土着性が強くなった。
なお、このころ伊予国南の南予地域においては、橘氏に代わって西園寺氏が宇和郡を領有することとなった。
河野通有
承久の乱から約50年後の文永年間と弘安年間、蒙古が北九州を目指して来襲した。このとき、河野通有が九州の他の武士たちも驚く活躍を見せた。特に通有は元(蒙古)の船に乗りこんで敵将を生け捕ったという。
そして志賀島の戦いでは負傷を負ったものの、この活躍が認められ、同氏の旧領を回復し、更には肥前国の神崎庄をも手にすることができた。
【写真左】「四国のみち」案内図
高縄寺に設置されていたもので、周辺の配置がよく分かる。
ところで、通有については、父を通継とし、温泉郡石井郷を鎮し縦淵城(サイト『城郭放浪記』の「伊予・縦淵城」参照)に拠っていた(『愛媛県史概説:上』)とされる。
通久の継嗣については、通久の異父弟であった通継が継ぎ、その子が通有とされている。
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