2011年10月17日月曜日

湯築城(愛媛県松山市道後湯之町)

湯築城(ゆずきじょう)

●所在地 愛媛県松山市道後湯之町
●築城期 建武3年(1336)
●築城者 河野通盛
●別名 湯月城
●形態 平山城
●高さ 72m
●遺構 外堀・内堀
●指定 国指定史跡
●登城日 2011年2月19日

◆解説(参考文献『日本城郭大系第16巻』)
 伊予・松山城(愛媛県松山市丸の内)とともによく知られた平山城で、建武年間に河野通盛によって築かれた。
【写真左】湯築城の土塁
 湯築城の特徴としては、外堀と内堀及び、土塁が挙げられる。
 写真は内堀の一部で、内回り約820m余りある。



現地の説明板より

“ようこそ、道後公園/国史跡湯築城跡へ
(中略)
 この公園は、地元住民や観光客の散策や休息の場として利用されているほか、桜の名所となっており、多くの人が花見などに訪れ広く親しまれています。

 公園の一角には、松山市立子規記念博物館があり、正岡子規の俳句、短歌、小説、水彩画などのほか、松山とかかわりの深い文化人などの資料が収集・展示されており、松山の伝統文化や文化についての認識と理解を深めることができる場となっております。
【写真左】湯築城配置図
 現在の姿を現したもので、南側から西側にかけて復元化され整備されている。













 道後は古くから開けていた地域で、道後温泉は三千年の歴史をもつ日本最古の温泉といわれています。

 公園周辺には、四国遍路八十八か所第51番札所の石手寺や、伊佐爾波(いさにわ)神社、一遍(いっぺん)上人の生誕地といわれる宝厳寺(ほうごんじ)など、歴史のある社寺も多く、愛媛を代表する歴史・文化・観光の中心地となっています。

 公園内南側の動物園のあった区域では、昭和62年(1987)10月に動物園が閉園した後、埋蔵文化財発掘調査を実施したところ、中世当時の湯築城の武家屋敷跡や土塀跡、道、排水溝などの遺構や、陶磁器などの遺物が数多く出土しました。

 このため、武家屋敷や土塀の復元などを内容とする文化財を活かした公園として平成10年(1998)度~平成13年(2001)度にかけて整備を行い。平成14年(2002)4月、リニューアルオープンしました。
【写真左】土塁跡
 外堀と内堀の間に設置されたもので、規模が大きく、高いところでは4mぐらいあるだろうか。






 湯築城は、中世の伊予国守護河野氏の居城でした。南北朝期(14世紀前半)から戦国期(16世紀末)まで、250年以上にわたって伊予国の政治・軍事・文化の中心でした。

 現在の道後公園全体が湯築城跡(南北350m、東西300m)で、中央に丘陵があり、周囲に二重の堀と土塁を巡らせた平山城です。

 築城当初は、丘陵部を利用した山城でしたが、16世紀前半に外堀と外堀土塁を築き、現在の形態になったものと推定されます。また、江戸時代に描かれた絵図から、東側が大手(表)西側が搦手(裏)と考えられます。
【写真左】外堀
 幅は10~15m程度で、外回り約930m余りある。
 この写真に見える道路を奥に向かうと、伊予松山城へつながる。



 
 河野氏は、風早郡河野郷(北条市)を本拠として勢力を伸ばした一族で、源平合戦(1180~85)で、河野通信が源氏方で功績を挙げ、鎌倉幕府の有力御家人となり、伊予国の統率権を得ました。
 承久の乱(1221年)で没落するものの、元寇(1281年)で通有が活躍し、確固たる地位を築きました。
 また、鎌倉時代には、河野氏から出た一遍上人が時宗を興しました。南北朝期、通盛の頃には本拠を河野郷から道後の湯築城へと移しました。


 その後有力守護細川氏の介入や、一族間の内紛がありましたが、足利将軍家と結びつき、近隣の大内氏、大友氏、毛利氏などと同盟を保ちつつ、伊予支配を維持しました。
【写真左】いこいの広場付近
 西側にある位置で、外堀と内堀の間に挟まれた平坦地。
 文字通り市民の憩いの広場で、夕方ともなると多くの人が散歩やウォーキングなどに訪れる。
 桜の木が沢山植えてあるようだ。



 庶子家との争いも克服し、通直は湯築城の外堀を築き(1535年頃)、娘婿の海賊衆村上(来島)通康との関係を強化しました。最後の当主通直(牛福丸)は、全国統一を目指す豊臣秀吉の四国攻めにより、小早川隆景に開城し(1585)、河野氏の伊予支配に終止符が打たれました。


 管理者:コンソーシアムGENKI 道後公園管理事務所/湯築城資料館(089-941-1480)
 湯築城資料館や復元された武家屋敷では、湯築城や河野氏にまつわる歴史の詳細をご覧いただくことができます。
【写真左】丘陵広場
 内堀を超えて中央部の丘陵部分に登っていくと、御覧の広場が見える。
 規模は25m×100mで、河野氏の別邸「湯の館」があったところとされている。


 この場所から南に向かい更に高くなったところに展望台(下の写真参照)があるが、これらを含めた区域は、本壇とされている。


河野通盛

 湯築城を築いたとされる通盛は、当時の河野氏惣領家であるが、南北朝期他の地域と同じく、同族間にあって、北朝方と南朝方に分かれるという構図が生じている。通盛らは北朝方であったが、一族である土居・得能氏及び忽那(つな)・村上氏などは南朝方に与した。

【写真左】展望台
 湯築城の最高所で、高さ72m。
当時、この場所には望楼が築かれていたといわれる。






 暦応4年(1341)11月、土居通世・忽那義範らが湯築城を攻めた。この戦いは翌年の3月まで続き、湯築城は陥落した。しかし、足利尊氏が近隣の武家方であった細川皇海に、通盛への援助を命じ、安芸・土佐からの軍を率い、再び通盛は湯築城を奪還することになる。
【写真左】湯築城展望台から西方に松山城を遠望する。
 湯築城から松山城までは直線距離で約2キロほどである。松山城は高さ132mであるから、湯築城の約2倍近い高さとなる。



 ところで、湯築城西方にある現在の松山城は、当時味酒山(勝山)といい、南朝方の拠点であった。湯築城がこの場所に築城された理由の一つは、この味酒山(松山城の前身)に籠る南朝方を攻略するためだったかもしれない。
【写真左】展望台から東麓を見る
 湯築城の東側にはグランドやゆうぐ広場といった施設が設置されている。






戦国期

 享禄年間(1528~32)湯築城主の継嗣をめぐって内部対立が勃発した。このころ城主は、弾正少輔通直であったが、嫡男がいなかったため、女婿である来島城(愛媛県今治市波止浜来島)主村上通康を迎え入れようとした。これに対し、重臣のほとんどが異を唱え、分家である予州家河野通存を擁して湯築城を攻撃した。このため、通直は通康とともに湯築城から来島城へ逃げ込んだ。

 その後、家督は通存の子通政に譲られるが、通政が早世したため、通直は再び復帰する。この争乱はのちに来島騒動と呼ばれるようになったが、背後には大内氏・大友氏・一条氏・尼子氏・安芸武田氏など近隣の権力者たちによる内部干渉も絡んだものだった。
【写真左】湯釜
 湯築城の最北端部にある。
この湯釜は日本最古で、湯釜薬師が祀られてる。

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