2011年10月13日木曜日

遠見山城(愛媛県今治市波方町郷)

遠見山城(おみやまじょう)

●所在地 愛媛県今治市波方町郷
●別名 海山城(砦)
●築城期 貞観年間、承平年間
●築城者 村上氏
●高さ 標高155m
●遺構 一部犬走り
●登城日 2010年10月11日

◆解説(参考文献『日本城郭大系第16巻』)
 瀬戸内しまなみ海道を本州側から走ってくると、四国今治市の来島海峡SA手前で本道が大きく左にカーブする箇所がある。
 この付近から天気がいいと、正面に模擬天守のようなものが見える。
これが今治市波方郷にある「海山城公園」の展望台である。
この公園一帯が旧海山城(遠見山城)とされている。
【写真左】遠見山城近影
 最高所には天守台を模した展望台が設置されている。








現地の説明板より

海山(遠見山)砦


 遠見山(現在は海山という)とは、遠見番所(見張所)に由来する地名であるが、ここには大宝律令時代(8世紀ごろ)から番所が置かれ、宮崎の火山(ひやま)であげた狼火(のろし)は、金山・海山(遠見山)、近見山を経て今治市(府中)の国府へと伝達されていた。


 中世初頭には、現在の養老地区の「別台(べだい)」に「館(やかた)」を構えた在地勢力があり、海山を「詰の城」として活用していたが、室町時代に来島村上氏が勢力を増し、その勢力下に吸収された。
【写真左】海山城展望公園の配置図








 守りの拠点であった海山の砦も「来島城」や「波方館」防衛のための水軍城砦群の一つとなったが、来島氏も海山を重視し、ここに遠見番所を置いた。
 しかし、関ヶ原合戦後、来島氏が豊後の森(大分県玖珠町)に転封後は、砦も壊され、当時の遺構の面影は失われ、犬走りの一部がわずかに散見されるのみである。


 この城塞型の展望台は、構造、規模は異なるが、当時の面影を偲んで建設したものである。


 波方町  波方町教育委員会”
【写真左】展望台(主郭跡か)
 公園化した段階で遺構は相当改変されたと考えられる。現地には当時の縄張図のようなものはなく、上掲した説明板のみが残っていた。





 説明板にもあるように、16世紀頃に至って、それまで本拠としていた村上氏は、居城・来島城から西方の波方浦に移した際、当地周縁の海岸部に複数の城砦を配置した。

このとき本館としていたのが、波方館で、ここを中心に四周にわたって小砦を配置した。

今稿の遠見山城はそのうちの南方を担う城砦である。ちなみに、他の主だった城砦としては、東岸部では大浦砦・長福寺鼻砦・対馬山砦があり、北岸部では大角の砦・大角番所・天満鼻見張り台、黒磯城、西岸部では梶取鼻砦・御崎城・宮崎城などがある。

なお、遠見山城の遺構として『日本城郭大系第16巻』では、「土塁」があると記されているが、当日その箇所を確認できなかった。
【写真左】展望台から東方に瀬戸内しまなみ海道(西瀬戸自動車道)を見る。
 手前が四国来島(小浦町)で、その先に「馬島」、さらに先の島が大島になる。

 なお、来島城がある来島はこの写真には載っていないが、左側になる。



合戦の記録

 天文10年(1543)、村上通康による河野家の家督相続をめぐり、同族内で反対派が蜂起し、来島城を攻撃したという。このときの合戦の場所は、遠見山城付近ではなく、来島領辺りとされているが、その後天正9年(1581)になると、能島・因島の水軍が波方浦へ攻めよせたときは当城もふくめた広い範囲で戦いが行われたという。

その際、当時の村上通総は来島城を脱出奔走した。その後、秀吉による四国征伐の際、一時通総は波方館に戻ったが、翌14年風早郡へ移封され、この段階で波方館を中心とする城砦はすべて廃城となった。
【写真左】展望台から南方に石鎚山系を見る。
 頂上部がかすかに見えているが、視界が良いともっと鮮やかに見えるだろう。
【写真左】東麓に来島海峡を望む。

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