荏原城(えばらじょう)
●所在地 愛媛県松山市恵原町●別名 恵原城・会原城・柵居城・平岡城
●築城期 南北朝期以前
●築城者 不明
●城主 大森盛直、平岡房実・通資・通倚・通房等
●形態 平城(沼城)
●遺構 水堀・土塁・郭
●規模 125.4m×105m
●指定 愛媛県指定史跡
●登城日 2011年9月14日
◆解説(参考文献『日本城郭大系第16巻)
松山市を東西に流れる重信川の南岸にあって、同川の支流御板川沿いの恵原町に所在する平城である。
この付近の地勢は全体に低丘陵地で構成され、大小の多くのため池があり、また古墳が多く点在していることから、古来より生活が行われていたところである。
【写真左】荏原城入口付近
ほぼ全周囲が水堀で囲まれているが、唯一南側が外とつながっており、ここから中に入ることができる。
現地の説明板より
“荏原城跡
愛媛県指定史跡
昭和25年10月10日指定
この城跡は、室町時代から戦国期、伊予の豪族河野家十八将の首位であった平岡氏代々の居城跡である。
高さ5mほどの土塁を周囲に築き、方形の平地で、長さは約東西130m、南北120m、堀の幅は北側20m、西と東は14m、南は10mで、南側で外とつながっている。
四隅に櫓があったらしく、西南の隅には石積みがある。矢竹が植えられているのは、この期の城塁に共通する特色である。
【写真左】説明版と石碑
東側の土塁登り口付近に設置されている。
建武2年(1335)、忽那氏が「会原城」で戦ったという記録が『忽那一族軍忠次第』にあり、築城はそれ以前である。
土佐からの侵入を防ぐ拠点であったが、天正13年(1585)平岡通倚(みちより)の時、秀吉の四国統一により、道後湯築城と共に落城した。
松山市 松山市教育委員会”
【写真日左】東側の土塁
荏原城の土塁は良好に残っており、歩きやすい。
築城期
説明板にもあるように、築城期が建武2年(1335)以前、すなわち南北朝期以前とされている。
『忽那一族軍忠次第』という史料では、この荏原城において、同年(建武2年)12月29日から翌3年2月の間、北朝方の武将大森盛直(砥部庄)と、南朝方の忽那一族が戦ったと記されている。
従って、荏原城の築城期はおそらく鎌倉後期だろう。
【写真左】土塁に囲まれた平坦地
現在は色々な樹木が植えてある。
当時、この中に平岡氏などの館が複数建てられていたのだろう。
平岡氏
城主の名が具体的に記されているのは、天文年間(1532~55)以降で、平岡氏の名が残る。ただこの平岡氏がいつから当城の城主となったかは明らかでない。
文安年間(1444~49)頃、河野一族内で惣領家と庶子家が争った際、平岡氏が忽那氏に対し河野本家(惣領家)に忠節を尽くすよう申し送った書状があり、南北朝時代には平岡氏が砥部・恵原地域を治めていた可能性が高い。
もっとも、この平岡氏は文亀3年(1503)、下総守の時代砥部の千里城で河野氏に背いてはいるが…。
【写真左】土塁に祭られている祠
土塁をぐるっと反時計方向に回っていくと、西側で一旦土塁が途切れるようになったところがある。
この位置に写真に見える祠が祀られている。
祠の左側に石碑が建っているが、奉納者名が平岡・水口という名が刻んである。平岡氏はおそらく、当城主であった平岡氏の末孫だろう。
当城における平岡氏の世襲は、房実・通資・通倚・通房と続いた。戦国時代末期もっとも警戒したのは、土佐の長宗我部元親である。
当時土佐から伊予河野氏の本拠であった湯築城(愛媛県松山市道後湯之町)を攻め入るルートとしてこの荏原城が立ちはだかることになる。具体的な合戦の記録は残っていないようだが、当城の役割は重要なものだったと思われる。
【写真左】土塁内部から北を見る。
土塁側には全区域に樹木が生えているため、全体の遺構が分かりにくいが、中に立つと予想以上に広い館跡地である。
【写真左】西側の外堀
水の循環が悪いせいか、堀の中の水は淀んでいる。
【写真左】東側の外堀
●築城期 南北朝期以前
●築城者 不明
●城主 大森盛直、平岡房実・通資・通倚・通房等
●形態 平城(沼城)
●遺構 水堀・土塁・郭
●規模 125.4m×105m
●指定 愛媛県指定史跡
●登城日 2011年9月14日
◆解説(参考文献『日本城郭大系第16巻)
松山市を東西に流れる重信川の南岸にあって、同川の支流御板川沿いの恵原町に所在する平城である。
この付近の地勢は全体に低丘陵地で構成され、大小の多くのため池があり、また古墳が多く点在していることから、古来より生活が行われていたところである。
【写真左】荏原城入口付近
ほぼ全周囲が水堀で囲まれているが、唯一南側が外とつながっており、ここから中に入ることができる。
現地の説明板より
“荏原城跡
愛媛県指定史跡
昭和25年10月10日指定
この城跡は、室町時代から戦国期、伊予の豪族河野家十八将の首位であった平岡氏代々の居城跡である。
高さ5mほどの土塁を周囲に築き、方形の平地で、長さは約東西130m、南北120m、堀の幅は北側20m、西と東は14m、南は10mで、南側で外とつながっている。
四隅に櫓があったらしく、西南の隅には石積みがある。矢竹が植えられているのは、この期の城塁に共通する特色である。
【写真左】説明版と石碑
東側の土塁登り口付近に設置されている。
建武2年(1335)、忽那氏が「会原城」で戦ったという記録が『忽那一族軍忠次第』にあり、築城はそれ以前である。
土佐からの侵入を防ぐ拠点であったが、天正13年(1585)平岡通倚(みちより)の時、秀吉の四国統一により、道後湯築城と共に落城した。
松山市 松山市教育委員会”
【写真日左】東側の土塁
荏原城の土塁は良好に残っており、歩きやすい。
築城期
説明板にもあるように、築城期が建武2年(1335)以前、すなわち南北朝期以前とされている。
『忽那一族軍忠次第』という史料では、この荏原城において、同年(建武2年)12月29日から翌3年2月の間、北朝方の武将大森盛直(砥部庄)と、南朝方の忽那一族が戦ったと記されている。
従って、荏原城の築城期はおそらく鎌倉後期だろう。
【写真左】土塁に囲まれた平坦地
現在は色々な樹木が植えてある。
当時、この中に平岡氏などの館が複数建てられていたのだろう。
平岡氏
城主の名が具体的に記されているのは、天文年間(1532~55)以降で、平岡氏の名が残る。ただこの平岡氏がいつから当城の城主となったかは明らかでない。
文安年間(1444~49)頃、河野一族内で惣領家と庶子家が争った際、平岡氏が忽那氏に対し河野本家(惣領家)に忠節を尽くすよう申し送った書状があり、南北朝時代には平岡氏が砥部・恵原地域を治めていた可能性が高い。
もっとも、この平岡氏は文亀3年(1503)、下総守の時代砥部の千里城で河野氏に背いてはいるが…。
【写真左】土塁に祭られている祠
土塁をぐるっと反時計方向に回っていくと、西側で一旦土塁が途切れるようになったところがある。
この位置に写真に見える祠が祀られている。
祠の左側に石碑が建っているが、奉納者名が平岡・水口という名が刻んである。平岡氏はおそらく、当城主であった平岡氏の末孫だろう。
当城における平岡氏の世襲は、房実・通資・通倚・通房と続いた。戦国時代末期もっとも警戒したのは、土佐の長宗我部元親である。
当時土佐から伊予河野氏の本拠であった湯築城(愛媛県松山市道後湯之町)を攻め入るルートとしてこの荏原城が立ちはだかることになる。具体的な合戦の記録は残っていないようだが、当城の役割は重要なものだったと思われる。
【写真左】土塁内部から北を見る。
土塁側には全区域に樹木が生えているため、全体の遺構が分かりにくいが、中に立つと予想以上に広い館跡地である。
【写真左】西側の外堀
水の循環が悪いせいか、堀の中の水は淀んでいる。
【写真左】東側の外堀
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