2010年2月8日月曜日

国信八幡神社と五輪塔(鳥取県西伯郡大山町國信)

国信八幡神社(くにのぶはちまんじんじゃ)と

五輪

●所在地 鳥取県西伯郡大山町國信
●探訪日 2009年3月8日

【写真左】國信神社鳥居











◆解説(参考文献「鳥取県立博物館データベース」等)

 前稿「末吉城」の場所から、国道9号線を800m前後鳥取方面に向かうと、国道の南にこんもりとした森が見える。この中に國信八幡神社がまつられている。
 探訪したこの日(2009年3月8日)、たまたま末吉城を見た後、車を走らせていたら、同社の西側畑地に五輪塔の影が見え、急遽車を南の脇道に入れた。

 この地区は國信という地区だが、西隣の末吉とは隣り合わせで、地図を見ると、末吉地区と國信地区は、東西に伸びているものの、一つのかたまりのような住居地区となっている。
 特に国道9号線に沿って、南北に段差を構成しており、國信神社がまつられている丘陵北端部は、国道9号線が造られた際に削られ、北と分断されているが、昔は一つの丘陵上にまとまった集落を構成していたものと思われる。
 先ず、國信神社については、当地にあった縁起より転載する。
【写真左】國信神社北端部と国道9号線
 国道9号線の北向かいも一部丘陵を残しており、当時はその先端まで舌状丘陵の形をなし、その先は日本海の波がすぐに打ち寄せていたものと思われる。




國信神社
 当社の御祭神は、誉田別尊(ほんだわけのみこと)他十一神です。
 社名は、古くは国山八幡、江戸時代に正八幡宮、明治4年から國信神社と命名されました。
 寛永年間(1630年ごろ)池田藩主より社領の寄進があり、汗入郡総大社としてますます重んぜられました。
 例祭日には、米子城主の大勢の家臣による競馬(くらべうま)や、流鏑馬の行事が盛大に催され、往時をしのばせる馬場小路の地名が残り、毎年10月15日には、これにちなんだ神事が行われています。
昭和61年10月  大山町教育委員会”
【写真左】境内脇に無造作に置いてあった神社名称の札
 これには「汗入郡大社八幡宮」とある。現在の名称となったのが、明治に入ってからなので、説明板にもあるように、江戸時代ごろの正八幡宮の時と思われる。
 



 また、鳥取県立博物館の資料データベースによると、
①延久3年(1070)8月15日、宇佐八幡宮「放を生会」の式を修行し、持ち帰って伝えられている。
②建久2年(1191)、源頼朝の命により佐々木四郎高綱が源氏の武運長久の祈願所として当社を再来し、御供料を寄付したとある。

 さらに戦国期、山中鹿助が末吉城にあって、毛利との交戦の際、当社は大半が焼失したとある。
【写真左】境内内の石など
 当社の遷宮は最近行われたようで、以前祀られていた石祠などが境内の脇に置いてあった。

【写真左】当社西側の風景
 本殿はこの写真の右奥にあるが、次の写真に示す「空堀」のような遺構がこの写真の左側に見えた
【写真左】西側にみえた空堀状の遺構
 南北に伸びたもので、深さは約3m近い。長さはおそらく100m以上はあったものと思われる。
 後段で述べる山中鹿助らの末吉城の支城の一つとして、この神社にもこうした要塞施設が造られたのではないだろうか。

【写真左】同上空堀から西の畑地に鎮座した五輪塔
 神社を包む森を西に抜けると、築山状の高まり部に写真にある五輪塔が祀られている。
 なお、このとき付近におられた地元の老夫婦に少しお話をきいたところ、この付近を土地改良した時、こうした五輪塔が大量に出てきたという。工事施工をした者(業者か)も、あまり大量に出てきたので、面倒だからといって、大半この田圃の下に埋めたという
 ここにあるのは、従ってその一部を残している、とのこと。

この話を聞いた時、当方は大げさにいえば、「絶句」してしまった。
 土地改良工事を行った時期がいつなのか、分からないが、おそらく昭和40年代であろう。当時の中世遺跡に対する関心がさほどなかったとはいえ、余りにも悲しい処置である。

 末吉城に拠った鹿助らの兵は、おそらく負けいくさとなって、東方に敗走し、この地で武運つたなく討死したと思われる。
(合掌)

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