2010年2月6日土曜日

岸本要害(鳥取県西伯郡伯耆町岸本)

岸本要害(きしもとようがい)

●所在地 鳥取県西伯郡伯耆町岸本字尻谷の西
●登城日 2009年12月1日
●標高 73m 比高 20~25m
●現状 林、畑地
●築城期 詳細不明、一説には鎌倉・南北朝期、または大永6年(1526)、もしくは天正8年(1580)
●築城者 巨勢(こせ)氏、または別所氏
●城主 別所与三左衛門尉など
【写真左】JR岸本駅から岸本要害を見る
 位置的には、写真中央の坂道の後山で、同道は坂のピークで左にカーブし、同要害を取り囲むルートになっている。写真左後方の山は、大山。




◆解説(参考文献「岸本町誌」「サイト山陰の城館跡」等)

 岸本要害は、鳥取県の伯耆地方を流れる日野川の東方に位置し、JR伯備線岸本駅と米子自動車道大山PAの間にある丘陵地にあったとされている山城である。

 鳥取県文化財課によるサイト「山陰の城館跡」で、当城の縄張り平面図が紹介されている。これによると、平面方形の館跡を基本として、東西に各1カ所づつ配置し、西側には土塁、東側虎口前面に土橋があるという。当該図からみると、大きさは東西約150m、南北70~90mほどの規模になる。

 また別の史料として、岸本町誌には、「鳥取藩文政11年古城址地図『別所長治調書』による」として、要害略図が示されている。
 これによると、郭は南北70間、東西50間のものが単一とされ、郭の南北両端部に大きな堀切を西側に覗かせ、それらの堀切は郭を取り囲む空堀と繋がり、東端部にはさらに、二重の空堀を構築している。
【写真左】岸本要害の東側入口付近
 現在同地の北側には団地が造成され、南側には畑地や造林が構成されている。

 岸本要害を示す石碑は、上段写真にみえた坂道の脇にあるが、ここからは直接向かうことはできない。この写真は、東側の造林部分に見えた農道(ほとんど最近つかわれていない)から入ったところで、標識などはまったくない。


 以上のように多少その概要に誤差があるものの、形状は類似した説明となっている。


三木城主・別所長治の遺児

 ところで、先月の投稿で三木城(兵庫県三木市上の丸)を取り上げた際、天正8年秀吉に攻められ自刃した城主別所長治の遺児・竹松丸(後の別所長兵衛)が、この岸本の地で住んでいたことを紹介した。

 晩年は尾高城の客分扱いとなるが、その前にはこの岸本要害に居た可能性が高い。かれを三木城から極秘に抱えて脱出したのが、もともと岸本町出身の野脇新三郎だったことがそれを裏付ける。
【写真左】南端部の切崖付近
 この写真の奥が切崖となっているので、冒頭示した堀切・空堀の遺構と思われる。






岸本城主・別所氏

 ただ、ここで別所長治の遺児・竹松丸とは別の別所一族の者が、当地に来ている史料もあるので、併せて紹介しておきたい。

 その史料とは、野口徳正著『尾高の里三』というもので、これによると

別所与三左衛門尉、村上源氏、播州赤松則村後胤で、三木城落城後落ち延び、伯耆に来たり尾高城杉原盛重に属し、戦功あり岸本城主となる。

 杉原氏滅亡後、吉川広家に仕え朝鮮の役に出陣して戦功あり、岩国では御手廻役30石、その子孫明治3年別所小三郎、9石7斗7升軍医となる。米子市中島に一族残る。…」


 とある。この資料もなかな詳細なものだが、こうなると、どれが確かなものか分からなくなる。さらに、岸本要害のある同町には、清原の高平城という山城もあったらしく、この城主は別所小三郎という武将がいたという。

 こうしてみると、三木城から落ち延びてきたのは、長治の遺児らだけでなく、別所氏一族がある程度集団で当地に来たのではないかとも思えてくる。
【写真左】西側郭跡
 現況は、果樹園もしくは畑地のようになっている。 鳥取県文化財課のサイトに載っている縄張り平面図でいえば、西側の郭跡と思われる。

 写真では分かりにくいが、西端部は南北にわたって50cm程度の高さの土塁跡が確認された。
 なお、西郭と東郭の間にあったとされる溝(空堀か)は畑地として改修されたためか、段差の個所を確認することはできなかった。


関連投稿
瑞応寺と瑞仙寺(鳥取県西伯郡伯耆町・米子市日下)

0 件のコメント:

コメントを投稿