2010年2月17日水曜日

愛宕山城(島根県安来市安来町十神)

愛宕山城(あたごやまじょう)

●所在地 島根県安来市安来町十神
●探訪日 2008年2月3日
●築城期 中世
●築城主 不明
●標高 20m前後
●遺構 削平され遺構が不明

◆解説(参考「島根県遺跡データベース}等)
 前稿「十神山城」から南西約1キロほどに位置する小丘が愛宕山城といわれている。現在JR安来駅の西端部に周囲を相当削られた小丘が残り、十神山城主松田氏の支城・砦と伝えられている。
 当城に関する資料は極めて少なく、現地の説明板より転載する。
【写真左】愛宕山城遠望
 所在地は前述のように、安来駅の西端部にあり、北側は国道9号線が走り、南側はJR山陰線が走っている。
 地形から考えると、当時この愛宕山は、南方の八幡城跡(現安来公園)の丘陵の北端部として繋がっていたかもしれない。現在JR安来駅の南方は日立金属安来工場が、東西500m、南北300mにわたって設置されているため、大幅な改変がなされている。このため、中世の地形を把握することは困難だが、愛宕山の位置は北方の十神山との連絡に欠かせない砦だったのではないかと思われる。
 全周囲が削られ、南北70m、東西40mほどの小丘となっている。

安来の愛宕山の由来
 今からおよそ500年ほど前、対岸の十神山に尼子氏と勢力争いをしていた松田備前守の十神山城がありました。そして、当時古城山と呼ばれていたこの山にも、松田氏の城砦が築かれました。
 江戸時代になって、安来に松江藩主の参勤交代の折、宿泊所(お茶屋と呼ばれた)が置かれることになり、火難除けを祈願して、山頂に愛宕大権現(愛宕地蔵菩薩)と稲荷大明神が御祀りされました。

 そのころから、この山は愛宕山と呼ばれるようになりました。この愛宕さんは、家内安全、家業繁栄、防火息災の神として、安来の人々に篤く信仰され親しまれてきました。例祭は毎年7月23日です。
 近年にいたって、北清事変(1900年)の慰霊塔や、大きな石灯籠もあり、月の輪神事のときには、舟形のイルミネーションによる大念仏が飾られ、安来の夏祭りの夜を盛り上げてきました。
【写真左】登り口付近
 登城口は西側にある「西方寺」と公民館の間の路地先端にある。ここから階段が設置され、1分ほどで頂上にたどり着く。写真右が西方寺、左が公民館の建物。

 第2次世界大戦もたけなわとなった昭和19年、山頂の一辺の施設が取り払われて、高射機関銃の基地となりました。戦後、火災の頻発から安来消防団の方々や、有志のみなさんの尽力で、再び祠を山頂に御祀りしました。

 この山には、東に大山、西に中海・島根半島・十神山を、そして眼下に安来の町を展望できるこの山は、四季折々の風情があり、心の故郷として親しまれてきました。
 このたび、市民の皆さんの浄財により、愛宕権現・稲荷大明神の祠を新造再建し、また昭和58年につくられた商業近代化実施計画による「やすぎらしさ」を打ち出したまちづくりの一環として、発展する安来が一望に見渡せるよう、ふるさとと出会いの場として整備しました。
昭和60年7月
愛宕山整備委員会”

 前稿「十神山城」で紹介した、当城主・松尾左馬頭重長の時代、十神山の薬師谷に薬師如来が祀ってあった。しかし、江戸期になって薬師堂が荒廃したため、上記写真に見える「西方寺」に移転されたという。残念ながら、その西方寺の写真や薬師堂を撮っていないので紹介できない。
【写真左】頂上部
 説明板にある愛宕権現・稲荷大明神の祠。
 平坦な面になっており、小規模な公園といったところか。
【写真左】愛宕山北端から十神山城を見る
 十神山を紹介した資料や遠望写真は、この角度からのものが多く、一見すると単一の独立峰に見える。しかし、前掲で紹介したように、この背後(北側)に中十神、小十神の山が繋がっている。
 当時はこの愛宕山付近まで中海として迫り、当山直下が船の出入り港だったかもしれない。

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