2010年2月24日水曜日

瀬戸山城(島根県飯石郡飯南町下赤名上市)その1

瀬戸山城跡(せとやまじょうあと)その1

●所在地 島根県飯石郡飯南町下赤名上市
●登城日 2008年10月28日
●指定 飯南町指定史跡
●標高 683m
●築城期 永和3・天授3年(1377)
●築城者 佐波常連
●別名 衣掛城、藤釣城、赤穴城
●遺構 郭、帯郭、腰郭、土塁、堀切、虎口、石垣など

◆解説(参考文献 「『尼子十旗』島根県中近世城郭研究会 1997」「飯南町教育委員会編資料・」「『出雲・隠岐の城館跡』1998 島根県教育委員会」「新雲陽軍実記・妹尾豊三郎編著」その他

 これまで出雲、石見の主だった山城を取り上げてきているが、特に出雲部の中では、今まで取り上げていない地域として、この飯南町がある。当町は、数年前、北部にある頓原町と、南部にある赤来町が合併した町である。

 この飯南町を南北に走る国道54号線の道の駅「赤来高源」から、南東約1.5キロに見えるのが、瀬戸山城である。
【写真左】瀬戸山城遠望(2011年6月撮影)
 国道54号線の道の駅「赤来高原」から見たもの。







 昨年暮れ、当地旧頓原町の図書館に出向き、地元の郷土誌関係の本を借りた。このとき、受付の女性の方に大変親切な対応をしていただいた。

 さらに詳しいことを知りたい場合は、I氏という方がいるが、本日はこちらにいないので、コンタクトを取りましょうとのこと。数日後、拙宅にI氏から同町の山城関係の資料が送られてきた。
【写真上】案内図
 上記道の駅に、2011年ごろ設置されたもので、「赤穴瀬戸山城登山道 案内図」と記されている。


 頂上部には、主郭(本丸)・第2郭・第3郭・南西郭群・東郭群が図示され、麓には松田左近の墓・稲荷神社・恵厳寺・愛宕神社なども紹介されている。
 そのほか左側にも関連する史跡の紹介があり、大変わかりやすい案内図である。


 同封されたI氏の手紙に、瀬戸山城について、つぎのようなコメントが載っていた。

“ 近年、飯南町では特に瀬戸山城のある赤名地域の住民を中心に、地域資源として地元の歴史や文化を見直そうという活動が行われるようになりました。
 瀬戸山城は、木々に埋もれた格好でしたが、平成20,21年度で、本丸周辺の雑木が伐採され、登山する人々も増えております。
 瀬戸山城については、城の歴史、構造など未だ不明な部分も多く、教育委員会としましても調査中です。云々…”

 主だった資料は、瀬戸山城、賀田城、祇園山城の縄張図や、略歴等であるが、地元ならではの情報もあり、こうした資料はなかなか手に入りにくい。あらためてお礼を申しあげます。
今稿では、その主だった資料を紹介しながら、瀬戸山城を含めた飯南町の山城・中世を概観したいと思う。


出雲国「八所八幡」(石清水八幡宮)

 鎌倉期におけるこの地域は、赤穴(あかな)といい、石清水八幡宮の別宮の出雲国「八所八幡」の一つとされている。このころ他の別宮とされたものには、近くでは日蔵(掛合)などがある。
石清水文書に初見される八所八幡の時期は、保元3年(1158)ごろである。保元3年は、後白河天皇が譲位し、いわゆる院政を始めた年である。

 下って、文永8年(1271)の文書によれば、当時来島郷内の位置づけだった赤穴庄の規模は、50町2反60歩とされ、近在ではもっとも規模が大きい。このときの地頭としては赤穴太郎という人物である。

 頓原町誌によると、この時の赤穴太郎は、嘉暦元年(1326)8月付のある赤穴八幡宮神像胎内銘に書かれた「地頭・紀季実」と同族で、おそらく石清水八幡宮から派遣された下司の流れを組む人物であろう、としている。

 ただ、このときの赤穴氏が 瀬戸山城を築城したかどうかは明らかでないとしている(「『尼子十旗』島根県中近世城館研究会1997」)。
【写真左】石清水八幡宮
 京都府八幡市にあり、木津川、宇治川、桂川の3本の川が合流し、淀川となって大阪に下る位置にある。春になると、同社境内周辺や上記河川土手に見事な桜が咲き、多くの人が訪れる。



 ところで、石清水八幡宮(写真参照)は、貞観2年(860)大分県にある宇佐八幡宮(写真参照)を勧請したもので、現在の京都府にあるが、源頼信が篤く八幡神を信仰し、それ以来清和源氏の氏神的存在となり、全国に八幡神が勧請される。

 さきほどの保元3年時点では、宮寺領100カ所、33か所にも及ぶ巨大な荘園領主となった。前記した出雲国「八所八幡」もその中のものである。
【写真左】宇佐八幡宮
 大分県宇佐市にあり、八幡総本宮である。祭神は、八幡大神、比売(ひめ)大神、神宮皇后の三神を祀る。最近では、中国や韓国からの観光客が増えている。
【写真左】赤穴八幡宮
 瀬戸山城北西麓に鎮座し、創建は宝亀元年(770)といわれ、当時は松尾神社といわれた。平安末期に赤穴庄が石清水八幡宮の荘園となり、赤穴別宮が併せて置かれる


 さて、大分前置きが長くなったが、瀬戸山城が記録上出てくるのは、これまでのところ南北朝初期である。

 このころ、赤穴氏(この出自は石清水八幡宮の下司・赤穴氏とは違い、石見国佐波氏の庶流といわれている)一族・兄弟の中で、所領をめぐって争いがおこり、兄は隣国石見佐波郷の佐波実連と結び、貞和7年(正平6年・観応2年:1351)に、その弟常連に所領を譲ったという。

 そうした経緯で常連が瀬戸山城を築城したとされている。このころには、常連は当地名の赤穴氏を名乗ったとされている。

 これらの状況を裏付ける資料としては、同年1月、佐波顕清赤穴庄内東方惣領分地頭職の安堵を請い、18日足利直冬これを承認する(萩閥37)、というのがある。

 足利直冬は主に石見国で活躍するが、出雲国赤穴庄にまで範囲を広げている理由として考えられるのが、当時、赤穴庄北方に接する来島荘付近まで侵攻してきた、高師直方である三刀屋の諏訪部扶貞がいたからだと思われる。この年の彼の戦歴は華々しい。

 7月8日、阿用荘(大東町)蓮花城、12日、来島荘由来城、13日、同荘野萱・下小城、8月8日には東出雲に転戦し、安来津、13日、富田関所、14日平浜八幡宮という軍功をあげ、高師直の証判を受ける(三刀屋文書)。

【写真上】瀬戸山城遠望
 昨年秋ごろに地元有志のみなさんによって、本丸付近の伐採作業が行われ、城下からこうした光景が見えるようになった。 

【写真左】瀬戸山城本丸跡
伐採前の2008年10月に登城したときのもので、このころは眺望も北方方面程度しか確保できなかった。

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