2009年4月28日火曜日

御城山城(おしろやまじょう)跡(島根県雲南市三刀屋町殿河内

御城山城跡 (おしろやまじょうあと)

●登城日 2008年11月14日 (金曜日)晴れ
●所在地 雲南市 三刀屋町 殿河内 御城山 ●時代 中世  ●遺跡種別 城館跡 
●遺跡の現状 山林  ●土地保有 民有地  ●指定 未指定
●標高 154 m
●備考 一部発掘調査。
丘陵先端「椎ノ木」の地名。古墓あり。宝篋印塔がある。
●遺構概要  郭(戦国時代) 井戸(戦国時代) 堀切(戦国時代) 虎口(戦国時代)搦手(戦国時代)    
宝篋印塔 郭 腰郭 堀切 虎口 櫓台
(以上島根県遺跡データベースより)


宇佐輔景(参考:三刀屋町誌等)

●建武2年(1335)、後醍醐天皇に反旗を翻した尊氏が、12月箱根の竹之下で新田義貞らを降し、さらに敗走する天皇軍を追って、山崎で一大合戦を行う。
以前にも記したように、このとき山陰からは尊氏軍に属した武将が多いが、名和長年のように最後まで天皇に着いた武将もいた。知名度からいえば、長年ほどではないが、今回取り上げる御城山城主だった「宇佐輔景」もその一人である。

●三刀屋家文書によると、軍忠状の中に、「出雲国三刀屋太田荘藤巻村地頭・佐兵衛尉宇佐輔景」という記録が残っている。

 三刀屋町誌によると、彼の系譜は「三刀谷(屋でない)系図」から見ると、諏訪部助親(扶重の祖父)の弟に助清がおり、その子が孫太郎扶景である。同誌によると、この孫太郎扶景が、「宇佐輔景」ではないかとみている。

●宇佐輔景は、件の山崎の合戦において、名和長年のもとで奮戦して数々の軍功をたて、天皇が比叡山に逃れた時も同行し、左衛門尉に任じられた。その後の消息は史料がないため、長年とともに戦死したかもしれない。

●さて、この当時、三刀屋の諏訪部一族はほとんど尊氏派についていた。それにも関わらず輔景だけ、天皇方についたわけである。


 一族であるにもかかわらず、彼一人が別行動をとったということである。

 そのことと関係するか分からないが、諏訪部一族であれば、当然輔景も、「諏訪部輔景」ということになるが、あえて、姓を「宇佐」としていることもその理由の一つかもしれない。
【写真上】御城山城遠望
 本丸があるのは右側の山らしい。

御城山城と宇佐輔景顕彰活動

●ところで、輔景の居城といわれている「御城山城」は、三刀屋尾崎城の麓を流れる三刀屋川をさらに3キロほど上ったところにある。

●宇佐輔景については、大正7年に刊行された「飯石郡誌」によって紹介され、その忠臣ぶりを讃えられたこともあって、2年後の大正9年、「宇佐輔景遺跡保存会」が結成される。
 そのあと当時の県知事を迎えて「宇佐輔景公贈位(従四位)報告祭」が行われる。特にこの一連の顕彰活動の中心となったのが、医師で県 議会議員でもあった藤原薫である。
【写真左】登城した東北部の畑の脇に見えた宝篋印塔らしきもの
 この付近には不揃いな墓地が点在し、その中にポツンとひとつこの墓が見えた。鎌倉期のものか、戦国期のものか不明





●彼は宇佐輔景によほど心酔したと見えて、ついには宇佐輔景の唱歌「宇佐輔景」を自ら作詞し、作曲は当時東京音楽学校にいた広田龍太郎が手掛け、文部省認可ともなった。


現在地元の80歳前後の方なら、小学校時代にこの歌を歌っていたという。

【写真左】同上
 周辺にも宝篋印塔もしくは五輪塔の破片のようなものが転がっていた。最近ではほとんど手入れされていないようだ







●さて、当日同地を探訪し、目の前の山であることは確認できたが、登城口が分からず、最初に東北側の段々畑あたりから登りはじめた。しばらくすると途中から、進入するような隙間がないほどの藪こぎになり、断念していったん下まで降りた。

すると、途中から下の畑で仕事をしていたご年配の方がおられたので、登城口を訪ねた。
「登城口は、あるには、あるが、口では説明できない場所だ。それより、あんた、じつは心配して居った。あの山付近にはイノシシのワナをかけているところがかなりあってな、もしそれに足を挟まれたら、えらいことになるところだった。」と云う。

山城を探訪している旨を伝えると、
「きょうは無理だが、今度来られたら、ワシが案内してあげるから」と御親切な言葉。しかし、次回がいつになるのか、当方もわからないので、
「いや、そういうお手間までおかけしては恐縮ですので、よろしいです。」
と丁重にお断りをする。
このおじいさんも、宇佐輔景の歌を子供のころ歌った覚えがあるとのこと。

【写真左】土塁跡をうかがわせるもの
 たまたま登りはじめた東北部の畑地が、よく見るとこのあたりから城郭の遺構を残した地形に見える。







◆結局、現地の本丸など城郭までは踏み込めなかったが、それ以上に、城主だった宇佐輔景という人物と、彼を顕彰しようと尽力した大正時代の地元の人々の足跡も、一つの歴史となっていることを強調しておきたい。

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