三刀屋じゃ山城
●登城日 2009年3月11日
●所在地 雲南市 三刀屋町 古城大谷
●時代 中世
●遺跡種別 城館跡
●遺跡の現状 山林
●土地保有 民有地
●指定 県指定
●標高 247 m
●備考 石丸城跡。一部試掘調査有。
●遺構概要
畝堀 切岸 池(天水池) 郭23 切岸 堀切 帯郭 畦、砦 郭 土塁 池 堀切 空堀 竪堀 池 路 土橋 桝型状郭 蔀と窪み(畝状阻塞?or堀障子?)郭 帯郭 虎口 馬出
●遺物概要 青磁 青磁 古備前陶器 常滑系陶器 茶臼(以上、島根県遺跡データベースより)
◆解説(現地本丸跡の説明板より)
“島根県指定文化財(史跡)
三刀屋「じゃ山」城跡
本城跡は、鎌倉期より室町、戦国時代にかけてこの地を支配した三刀屋氏代々の旧居城である。東西南北に数多くの支城や、物見郭等をめぐらせており、その規模の広壮さと、堅固な要害は山陰地方を代表する典型的な戦国期の山城といえる。
本城跡の根城城郭は、南北約80m、東西約120m、南端に深い空堀をめぐらせた第1郭(詰め丸)、その北東隣接の最大郭である第2郭(主郭)、さらに西に開く馬蹄形の旧尾根を活用して築いた低土塁と、これらに遮断された凹地形に設けられた夭水池、第2郭の北から西にかけて裾野を取り巻くように設けた長い第3郭、その他の小郭群より成り立っている。
根城郭への登路は、ほぼ東西南北にそれぞれ認められるが、搦手部は夭水池とそれを取り囲む小郭群あたりと思われる。
なお、現在の城山城跡は、かつて本城跡の支城の一つであったのを、おそらくは戦国末期に移城し、居城として用いたものである。
昭和62年12月
島根県教育委員会”
【写真左】三刀屋じゃ山城登山口
2008年の暮に訪れた時、この場所から行ったが、この先100m付近は東西に「猪」用のネットが張り廻られ、出入り口も完全に封鎖され、登城を断念した。諦めて降りてきたら、付近のおばあさんがおられ、現在の当城の登り口を教えてもらい、翌年(2009年)その場所から改めて登った。
【写真左】現在登城可能となっている登城口の道
上記の場所からさらに約1キロ程度上ったところに、高橋商店という雑貨店があり、その左脇に写真のような簡易舗装の道を登って行く。なお、この道はさらに上にある一軒の民家用のもので、自分の車は、高橋商店の付近の空き地スペースに停め、ここから歩いて登った。
【写真左】登城途中の道
この日(3月11日)の一週間前に、地元の方によってじゃ山城までの道を清掃されたとのこと。おかげでずいぶんと歩きやすくなっていた。
ただ、最初の方は相当きつい傾斜の道なので、滑りやすい。雨天もしくは雨天直後の途上は避けた方が無難と思えた。
当城の登城道はあまり七曲のコースがなく、ほとんど直線で尾根道をあがっていく設定になっている。
【写真左】城郭付近入口に見えた堀切
上段遺跡データにある遺構のどれに当たるか分からないが、おそらく2重の空堀構造ということなのだろう。
こういう構造のところはこれまで見た山城の中では初めて見るものである。竪掘りの延長部がそのままこの尾根までつながったものとも考えられる。
なお、城郭主要部はこの写真の左側から見え始めるが、この位置からの段差が余りない(2m程度)ことから、こうした特殊な空堀構造としたのかもしれない。
ちなみに、写真右の尾根付近も上がってみたが、尾根筋が細くなっているだけで、特別な遺構は確認できなかった。
【写真左】じゃ山城本丸入口付近
この写真でいえば、右側から左に登る道ができており、上がると南側を主体とした削平地があり、この位置から30m程度いったところ、本丸跡らしき場所がある。
【写真左】下の方から南方向の数段の郭を見る
遺構部分にはごらんのとおり無数の竹や雑木が生えたままになっているため、分かりにくいが、遠目からみると、おおよその形状が判断できる。
【写真左】郭の一部
【写真左及び下】北側に見えた池
城郭の形状は全体に南側から北に向かって数段の中小の郭を階段状に配置し、中央よりやや西の方には写真にある「池」が残っている。池の大きさは10m四方あるが、当時はもう少し大きく、また深さも相当あったような姿を残している。
池の渕には写真にあるような石垣が残り、その高さは約1m程度か。この池の南土手(土橋)下にも窪みのよ
うな形跡があり、かなりの量の水を使用した施設のようだ。当城にある中小の段が侍屋敷の跡とすれば、この上の池は生活用のものとして使われ、その下の池は、馬洗い場のような役目をもっていたかもしれない。
【写真左】上記池の付近に見えた石碑
この池のすぐ上に石積みの崩れた部分があり、その中に「八大神社」という刻銘された石を発見した。八大という意味がよくわからないが、このじゃ山城の守護神だろうか。
◆感想
上段の遺構調査結果にもあるように、当城にはその種類が実に多く列記してあり、当時の調査(昭和62年等)には相当の時間をかけたものと思われる。ただ、これらの遺構種類と、実際の現地・現場と照合してみる際の縄張り図などを持ち合わせていないため、漠然と見るだけになってしまった。 登り道は整備してあったものの、城郭範囲がごらんのとおりの状況のため、十分に中まで入ってみることができなかった。
島根県の指定史跡として登録されてはいるが、現地がもう少し管理されていれば、その遺構種類の多さなど十分に堪能できる山城と思われる。
●なお、三刀屋じゃ山城及び、三刀屋氏については次の稿でもう少し取り上げる。
●登城日 2009年3月11日
●所在地 雲南市 三刀屋町 古城大谷
●時代 中世
●遺跡種別 城館跡
●遺跡の現状 山林
●土地保有 民有地
●指定 県指定
●標高 247 m
●備考 石丸城跡。一部試掘調査有。
●遺構概要
畝堀 切岸 池(天水池) 郭23 切岸 堀切 帯郭 畦、砦 郭 土塁 池 堀切 空堀 竪堀 池 路 土橋 桝型状郭 蔀と窪み(畝状阻塞?or堀障子?)郭 帯郭 虎口 馬出
●遺物概要 青磁 青磁 古備前陶器 常滑系陶器 茶臼(以上、島根県遺跡データベースより)
◆解説(現地本丸跡の説明板より)
“島根県指定文化財(史跡)
三刀屋「じゃ山」城跡
本城跡は、鎌倉期より室町、戦国時代にかけてこの地を支配した三刀屋氏代々の旧居城である。東西南北に数多くの支城や、物見郭等をめぐらせており、その規模の広壮さと、堅固な要害は山陰地方を代表する典型的な戦国期の山城といえる。
本城跡の根城城郭は、南北約80m、東西約120m、南端に深い空堀をめぐらせた第1郭(詰め丸)、その北東隣接の最大郭である第2郭(主郭)、さらに西に開く馬蹄形の旧尾根を活用して築いた低土塁と、これらに遮断された凹地形に設けられた夭水池、第2郭の北から西にかけて裾野を取り巻くように設けた長い第3郭、その他の小郭群より成り立っている。
根城郭への登路は、ほぼ東西南北にそれぞれ認められるが、搦手部は夭水池とそれを取り囲む小郭群あたりと思われる。
なお、現在の城山城跡は、かつて本城跡の支城の一つであったのを、おそらくは戦国末期に移城し、居城として用いたものである。
昭和62年12月
島根県教育委員会”
【写真左】三刀屋じゃ山城登山口
2008年の暮に訪れた時、この場所から行ったが、この先100m付近は東西に「猪」用のネットが張り廻られ、出入り口も完全に封鎖され、登城を断念した。諦めて降りてきたら、付近のおばあさんがおられ、現在の当城の登り口を教えてもらい、翌年(2009年)その場所から改めて登った。
【写真左】現在登城可能となっている登城口の道
上記の場所からさらに約1キロ程度上ったところに、高橋商店という雑貨店があり、その左脇に写真のような簡易舗装の道を登って行く。なお、この道はさらに上にある一軒の民家用のもので、自分の車は、高橋商店の付近の空き地スペースに停め、ここから歩いて登った。
【写真左】登城途中の道
この日(3月11日)の一週間前に、地元の方によってじゃ山城までの道を清掃されたとのこと。おかげでずいぶんと歩きやすくなっていた。
ただ、最初の方は相当きつい傾斜の道なので、滑りやすい。雨天もしくは雨天直後の途上は避けた方が無難と思えた。
当城の登城道はあまり七曲のコースがなく、ほとんど直線で尾根道をあがっていく設定になっている。
【写真左】城郭付近入口に見えた堀切
上段遺跡データにある遺構のどれに当たるか分からないが、おそらく2重の空堀構造ということなのだろう。
こういう構造のところはこれまで見た山城の中では初めて見るものである。竪掘りの延長部がそのままこの尾根までつながったものとも考えられる。
なお、城郭主要部はこの写真の左側から見え始めるが、この位置からの段差が余りない(2m程度)ことから、こうした特殊な空堀構造としたのかもしれない。
ちなみに、写真右の尾根付近も上がってみたが、尾根筋が細くなっているだけで、特別な遺構は確認できなかった。
【写真左】じゃ山城本丸入口付近
この写真でいえば、右側から左に登る道ができており、上がると南側を主体とした削平地があり、この位置から30m程度いったところ、本丸跡らしき場所がある。
【写真左】下の方から南方向の数段の郭を見る
遺構部分にはごらんのとおり無数の竹や雑木が生えたままになっているため、分かりにくいが、遠目からみると、おおよその形状が判断できる。
【写真左】郭の一部
【写真左及び下】北側に見えた池
城郭の形状は全体に南側から北に向かって数段の中小の郭を階段状に配置し、中央よりやや西の方には写真にある「池」が残っている。池の大きさは10m四方あるが、当時はもう少し大きく、また深さも相当あったような姿を残している。
池の渕には写真にあるような石垣が残り、その高さは約1m程度か。この池の南土手(土橋)下にも窪みのよ
うな形跡があり、かなりの量の水を使用した施設のようだ。当城にある中小の段が侍屋敷の跡とすれば、この上の池は生活用のものとして使われ、その下の池は、馬洗い場のような役目をもっていたかもしれない。
【写真左】上記池の付近に見えた石碑
この池のすぐ上に石積みの崩れた部分があり、その中に「八大神社」という刻銘された石を発見した。八大という意味がよくわからないが、このじゃ山城の守護神だろうか。
◆感想
上段の遺構調査結果にもあるように、当城にはその種類が実に多く列記してあり、当時の調査(昭和62年等)には相当の時間をかけたものと思われる。ただ、これらの遺構種類と、実際の現地・現場と照合してみる際の縄張り図などを持ち合わせていないため、漠然と見るだけになってしまった。 登り道は整備してあったものの、城郭範囲がごらんのとおりの状況のため、十分に中まで入ってみることができなかった。
島根県の指定史跡として登録されてはいるが、現地がもう少し管理されていれば、その遺構種類の多さなど十分に堪能できる山城と思われる。
●なお、三刀屋じゃ山城及び、三刀屋氏については次の稿でもう少し取り上げる。
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