2009年4月12日日曜日

三刀屋尾崎城 その2 地王峠・八畝の戦い

三刀屋尾崎城 その2

 地王峠・八畝の戦い

 前稿の話から少し先に移るが、永禄5年(1562)からの毛利の動きを中心に進めたい。
 この年の夏、元就は1万5千から2万ともいわれる大軍を率いて、石見から出雲に入ってきた。出雲の最初の着陣地は赤穴の瀬戸山城である。

 このころ、元就は石見銀山にいた本城常光を誅殺したため、出雲国人で桜井・牛尾などが再び尼子方に帰参している。しかし、三刀屋・三沢・赤穴・米原などは毛利にとどまっている。
【写真左】三刀屋尾崎城物見櫓跡











 同年12月、松江の洗合(荒隅)まで陣を進め、まずは東方の富田城でなく、北の白鹿城を目標とした。

 元就が約半年近くもかけて、ゆっくりと出雲の地で陣構えができたのも、安芸から出雲(宍道湖方面)までの補給路が完全に確保されていたからである。特に現在の国道54号線ルートを盤石なものとしていたことが大きい。

 中でも三刀屋城の位置は、まっすぐ北に向う(宍道町方面)ルートと、東方の月山冨田城へ向かうルートの始点になることから、戦略上重要で、逆にいえば尼子方にとって、この三刀屋城を落とせば、補給路を断つことができる。

 このころ三刀屋久扶は、毛利の宍戸隆家、山内隆通らと地元三刀屋城付近にあって、糧道の確保に当たっている。そうしたところ、12月下旬、予想通り尼子方の軍勢が大原方面から押し寄せてくる。
 久扶は特に、三刀屋城に近い「八畝峠」を越えさせてはならないと判断し、先手を打って尼子方・熊野入道西阿率いる1,500騎を討ち取った。この戦功に対し元就から久扶に対し感状が送られている。

【写真左】峯寺弥山から「八畝峠」方面を見る
 八畝峠は、斐伊川の支流・赤川沿いにある加茂の立原源太兵衛の居城であった近松城から南へ約2㎞入ったところで、東には大東下佐世の佐世氏の居城・佐世城がある。標高はさほど高くないものの、入り組んだ谷間を持つ。

 ここを抜けると斐伊川本流に出てくるが、三刀屋城はさらに斐伊川を超え、地王峠を越え三刀屋川を渡って初めてたどりつく位置にある。


 さらに明くる永禄6年正月、再び尼子方が三刀屋を目指して攻めてくる。これが「地王峠の戦い」である。このくだりは、「新雲陽軍実記」を借りて示したい。

 “尼子方では西阿の弔い合戦をせんものと、立原源太兵衛を案内に、宇山飛騨守久信・牛尾遠江守幸清を両大将に2千余騎が富田城を出発した。先鋒の立原は日井の江川を一気にかけわたって、地王が峰に駆け上り、三刀屋が家の子・坂倉彦六と渡り合い、槍を合わせること8度に及んだ。

 このとき、彦六は槍傷を2か所に受け、すでに源太兵衛に討たれそうに見えたところ、諏訪部左近・南原豊前守・坂谷平蔵等が駆けつけて助成したので、ようやく助かり、源太兵衛も高股を突かれ、やむを得ず三谷山へ退いて行った。

【写真上】地王峠付近を見る
 現在松江尾道高速道の三刀屋木次ICになっているところで、地王峠の戦いに関する遺構は消滅している。三刀屋尾崎城からは、三刀屋川をはさんで東方に約1.5キロ程度の位置になる。

 三谷山は三刀屋の城を眼の下に見下ろす要地だったので、ここに退いたのである。三刀屋勢ももともと小勢であったので、相引きに別れて行ったが、双方死人を含めると132人あり、手負いも300人余りに及んだ。

【写真左】三刀屋尾崎城からほぼ真正面に見える「三谷山城」(H180m)




 あれこれしているところへ、尼子の本隊・宇山・牛尾も駆けつけてきたので、
「明日は勝負を一気に決しよう」
と、三刀屋の在家に放火して城を見上げると、後方は深山峨々として茂林の枯木が枝を交え、前方には大河が取り巻いて、容易に渡れそうにない。

 いかがはせんと思案していると、源太兵衛が、
「要塞に立て篭もっている敵に対して、われわれが長蛇の如く川を渡れば、定めて敵は矢衾(やぶすま)を作って、我等を川中に射とめんとはかるだろう。その時を見計らい、牛尾殿が搦手から横槍を入れられたならば、川岸の敵は退路を断たれまいと、隊伍を乱して引くであろう。そこを目がけてわれわれは飛龍の如く川を渡り、勝敗を一挙に決しよう」
といった。一同もこれに同意したので、追手を承った立原・宇山は城の東西から川に沿って乗り出した。

 牛尾は700騎を引率し、搦手から幅3町ばかりある三刀屋川の下流をうちわたり、八幡の杜を右手に天神丸を左方にして、川の方へ向かっていった。ちょうどこのとき、物見の者どもが尼子の陣中に帰ってきて、
「毛利軍は富田よりも、三刀屋の救援が急務であると聞いて、今朝荒隈から後詰が出馬したとの由である。その援軍は、小早川・熊谷・天野・赤穴の猛勢で、一手は和名佐・佐世を通り、もう一手は、宍道を通過して進軍している。包囲されぬうちに開陣した方が良い」
という。尼子勢は、
「そうなっては大変」
と、我先ににと大東を通り、富田を目指して引き揚げて行ったが、あとになって調べてみると、これは全くあとかたもない空言で、荒隈からの計略であったという。”



 こうして二度にわたる尼子軍の三刀屋攻めも失敗に終わったことから、補給路としての三刀屋が維持され、その後10月には毛利軍の総攻撃で、松江の白鹿城がおちた。

 元就はその勢いで一気には攻めず、翌永禄7年(1564)は持久戦をとり、明くる永禄8年(1565)になってからいよいよ最後の富田城を攻め入る。4月17日、総勢3万騎といわれた毛利軍は、三軍に分けて攻めかかった。

 このとき、三刀屋久扶は、小早川隆景の下に入り、米原綱寛(斐川高瀬城主)、三沢為清らとともに月山の菅谷口から先陣をつとめている。

 このときの戦も、元就は決して急がず、月山冨田城の兵糧が欠乏し始めた永禄9年の11月、尼子義久からの開城の申し出があり、これを和議という形で受け入れた。このとき実質上の手続きを行ったのは、毛利方の名家老といわれた福原貞俊と、琵琶甲城主・口羽通良である。

 尼子方は、義久はじめ、弟の倫久・秀久とともに杵築大社まで送られ、ここで一族郎党と別れた。なお、尼子方の中には、先述した三刀屋蔵人も山中鹿助らとともにいた。

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