2009年11月20日金曜日

金持景藤の墓(鳥取県日野郡日野町金持)

金持景藤(かもちかげふじ)の墓

●探訪日 2009年11月14日
●所在地 鳥取県日野郡日野町金持

◆解説(参考文献:「鳥取県史」、その他)
 鳥取県日野町から岡山県新庄村に向かう国道181号線沿いに金持神社がある。

 最近ではその名称から、金運祈願による参詣者が増えているが、読みは「かねもち」ではなく、「かもち」である。この金持神社から181号線をさらに岡山県側に登っていくと、県境の峠である四十曲峠(しじゅうまがりとうげ)にたどり着く。この峠を越えると、新庄村に入る。今回取り上げる場所は、その手前の沿道で、金持神社からは約2キロほど登ったところにある。
【写真左】金持景藤の墓遠望
 写真の右側に国道181号線が走っている。










 この地域は、もともとこの地を治めていた金持氏の領域だが、今年(2009年)7月に「金持景藤生誕700年」を記念して墓地を整備したという。現地の墓碑説明板から下段に転載する。

“金持大和守景藤公の墓

 景藤公は元弘元年(1332)、足利幕府の倒幕に失敗し隠岐島へ流刑となった後醍醐天皇を、護送途中の四十曲峠まで密かにお迎えし、御心を案じ奉った。翌2年天皇隠岐島を脱出、船上山に身を寄せられるや、金持妙見社の戸張を旗印とし、金持党300余騎を引き連れ馳せ参じ、苦戦中の名和長年公を助け、朝山六郎とともに幕府方佐々木清亨の大軍を殲滅した。

 天皇京都へ遷幸の折には天皇の左に錦の御旗を掲げ従った。天皇の親任厚く大和守に任ぜられ、名を俊宇と改め軍政にあたり、延元元年足利尊氏天皇に叛くや、金持党を率いて新田義貞、恒良・尊良両親王とともに各地に転戦奮闘し、北陸金ヶ﨑では天皇を守り籠城するなど、終始天皇に誠を盡(つく)した。

 この塔は、公の家臣が鎧を持ち帰り、当地堂ヶ平ルの丘に埋葬し供養した宝篋印塔である。その後片目の白蛇が公を守るかのようにたむろしていたと伝えられている。
    日野町金持  若林 朗 文責”
【写真左】金持景藤の墓その1
 写真奥に見える道が181号線。右側(北)に下がると金持神社がある。








 金持氏については、文治2年(1186)源頼朝が義経追討の際、全国に守護・地頭を置いたころに、すでに伯耆国の守護として在職している。

 このことから後醍醐天皇と行動を共にした景藤は、金持氏の3,4代目と思われる。また、これより先の後鳥羽上皇の配流の際も、金持兵衛が「流人の預かり人」を勤めている。そうしたことから、金持氏は鎌倉幕府の御家人の中でもかなり重責を負った一族と思われる。
【写真左】その2
 形式は宝篋印塔。製作年代は室町後期の作といわれている。


【写真左】周辺の山城(大要害)?
 同墓所がある裾野から上に延びる方向に「金持城」というのがある。おそらくこの山だろうと思われるが、確証はない。「榎ヶ岳」の山頂にあるとのことだが、どれがその山なのか資料がないため不明。
 遺構としては堀切があるという。


【写真左】小要害?
 上記の山城と対面する方向に、「小要害」の山城があるというが、これだろうか。

2009年11月19日木曜日

蒜山・徳山の五輪塔群(岡山県真庭市徳山)

蒜山・徳山付近の五輪塔群

●探訪日 2009年11月14日
●所在地 岡山県真庭市蒜山 上徳山・下徳山

◆解説
 前稿まで取り上げた五輪塔は、482号線(伯耆街道)沿いにあるものだが、今稿も同街道の岡山県蒜山地域に分布しているものである。今回は3カ所まとめて紹介したいと思う。
 所在地は、蒜山の旧川上村といわれたところだと思うが、現在は真庭市と合併していて、蒜山上下の徳山地域にある。

(1)上徳山の徳山神社付近の五輪塔群

 この場所は、以前紹介した「延助」という地区の付近で、下蚊屋側からきた伯耆街道と、南の白髪峠越えをしてきた俣野の谷からの街道が合流する地点である。ちなみに現在は、俣野の深山口から白髪峠越えする道は廃道に近い状態で、もうひとつの合流する道は、南の新庄村から近年できた野土路トンネルを越えて延助に繋がる北房川上線(県道58)である。
 このことから、当位置は当時の伯耆と作州との往来で、複数のアクセス道を選択できる経済的・戦略的な要衝であったと考えられる。
【写真左】五輪塔のある高台付近から延助方面を見る。
 写真の左の道はR482 (伯耆街道)で、中央部のカーブ付近が上記2本の道が合流する位置。左奥に蒜山道の駅があり、右側の小丘には米子道が走っている。

【写真左】徳山神社付近の五輪塔群その1
 伯耆街道から50m程度西の方に進むと、山の傾斜地に段が組まれ、写真のように鎮座している。
【写真左】 その2
 この中で大きいものは2基あり、他は小型のものが7,8基並んでいる。
【写真左】その3 上記五輪塔群のある小山
 五輪塔群がある位置は、写真左の小屋のさらに左にある。手前に見える道は伯耆街道。
 戦略的に考えると、この位置に山城もしくは物見台的な要塞施設があってもよさそうだが、残念ながら蒜山地域の資料を持ち合わせていないので、なんとも言えない。
 ただ、この山の南方には現在山裾をスキー場としている「丸山(標高1,065m)」という山があり、名称からいっても山城であった可能性が高い。

(2)延助付近の宝篋印塔
 前記したように、3本の街道が交差する位置にかなり保存状態のいい宝篋印塔が地元の人によって祀られている。
【写真左】小屋の中の宝篋印塔その1
 写真に見える道は、新城村へ向かう58号線である。
【写真左】その2
 保存状態は割といい方かもしれない。

【写真左】小屋の奥に設置された記録板
 文字が多少薄くなっているが、次のように書かれている。

“宝篋印塔 菩提石仏 移転工事
○年5月20日 中曽部落”

 年数のところが達筆で判読できないが、どちらにしてもこの場所に移転したということらしい。おそらく前の道が新しくなっているので、もとはこの道の付近にあったものだろう。
 ちなみに、前記した徳山神社側の五輪塔よりも、数は1基だが、大きさはだいぶ大きい。

(3)下徳山・道の駅「風の家」付近の五輪塔群
 この場所は、上記したように道の駅から直線距離で約100程度南東部にむかった田んぼの脇にあるもので、たまたま道の駅に駐車したあと、周辺を眺めていたら発見したものである。
【写真左】五輪塔群と道の駅
 五輪塔群は右側にある墓石で、左の墓石も古いようだが、江戸時代か明治時代ごろのものと思われる。
【写真左】五輪塔群
 左側のもの2基は大きいが、他のものは小ぶりである。総数は約20基程度。なお、この写真下方にも破損したらしい石の塊があったが、おそらくこれらももとは五輪塔群だったと思われる。

◆冒頭の徳山神社側にしても、道の駅のものにしても、特徴的なのは、規模の大きなものが2基前後あり、その他は中規模なものと小規模なものが組み合わさっていることである。このことから、大きなものについてはその一族の首長・正妻で、他のものは殉死した家臣らのものと思える。
 なお、今回は探訪していないが、この道の駅よりさらに東に1.5キロいくと、福王寺という寺がある。ここには昭和56 年、墓地工事をしていた際に、250体の五輪塔が出土し、現在それらがまとめて同寺に安置されているという。機会があったら訪ねてみたい。

下蚊屋の五輪塔群(鳥取県日野郡江府町下蚊屋)

下蚊屋の五輪塔

●探訪日 2009年11月14日
●所在地 鳥取県日野郡江府町下蚊屋

◆解説(参考:江府町史等)
 前稿の「助沢」地区から482号線(伯耆街道)を蒜山(岡山)の方へ約4,5キロほど登っていくと、下蚊屋という地区に出る。
 この場所は前にも述べたように、蒜山から来た道が、ここで助沢・江尾方面に向かう道と、御机・大山寺方面に行く道とが分岐する地点で、岡山県と鳥取県との県境でもある。

 前稿の「助沢の五輪塔」で紹介していなかったが、実は助沢の五輪塔の近くにも、今稿の下蚊屋のこの地区にも山城が記録されている。詳細は不明だが、『日野郡史』によるとおそらく次の山城を示していると思われる(原文のまま)。

1、助沢付近
名称 ◎「助沢の竜王陣」
 字竜王にあり。西に面する山の麓にて、今は耕地となれり。北の方御机の城山を遠望せらる。彼の城を攻めむと陣を構えし所なりと伝えり。

2、下蚊屋付近
名称 ◎「下蚊屋の砦」
 通称物見の平る下蚊屋の向西の方山上。長40間、幅10間余りの平地あり。傍らに堀切残存す。

 この他にも、「宮市の学塔城」「俣野の城山」「武庫の城の段」「下安井の大城」というのも記載されている。
◆この下蚊屋は前述したように、県境付近であるが、東に行くと「内海峠」があり、これを過ぎるとなだらかな下り坂を経て、蒜山の延助につながる。下蚊屋から内海峠までの範囲がもっとも谷が深く、中世のルートは、現在の482号線の軌跡とはこのあたりで微妙にコースを変えていたと思われる。今でこそ、車で多少の勾配のある急坂道でも通れるが、当時この街道については大量の運送手段が牛馬であったことから、少しでも傾斜の緩い道成りを選択したものと思われ、周辺にも古道らしき道の痕跡がうかがえる。

 この付近は従って、大きく曲がるカーブと、急こう配の道が約3,4キロ続く。そのカーブする一角に今回取り上げる五輪塔が多数安置されている。

 これらの五輪塔群については、江府町史でも紹介されておらず、詳細が不明である。しかし、その数や、個々の塔の大きさなどを考えると、当時の有力な一族・部将のものでなかったかと思われる。
 次稿でも取り上げるつもりだが、この伯耆街道沿いには、こうした五輪塔群が残存している個所が数カ所もあり、中国地方でも稀有な場所と思われる。
【写真左】下蚊屋付近の案内図
 写真右下が下蚊屋地域である。カーブの西端は眺望がよく、しかも北側は切崖状態なので、ひょっとしてこの突端部も山城か、熢台などがあったかもしれない。


【写真左】下蚊屋付近
 写真右方向が蒜山(岡山)方面で、手前が下蚊屋へ下る。
 五輪塔群は、この写真の道路と、左側の平地(幅10m程度)の狭い位置にまとめられている。
【写真左】道路側からみた五輪塔群の一部
 道路と五輪塔群の間には小屋が建っており、鳥取県側から車で通ると、見過ごすような場所にある。
 写真の奥の山並みは大山鏡ヶ成方面。手前の田んぼの奥は断崖絶壁の谷である。

【写真左】五輪塔群遠望
 なお、写真左側には、五輪塔以外にも手前に江戸期当たりの刻銘となった墓石が多数置いてある。
【写真左】五輪塔群その1
 五輪塔の設置数はきちっと数えていないが、おそらく大小合わせて20数基はあると思われる。

【写真左】五輪塔群その2
 一部は五輪塔の各部位をモルタルか何かで補修した痕跡がある。
【写真左】五輪塔群その3
 これだけの墓石群がこの場所にまとまっているのは、驚きでもあるが、おそらくこれらはこの付近に散在していたものを近年になって一か所にまとめたものと思われる。
 残念ながら、この五輪塔を含めた墓の元の場所を記録したものが現地にまったくない。
 当時この五輪塔群を移設した経緯などを記したものがあれば、史学的には大変貴重なものとなるのだが…。 

2009年11月18日水曜日

助沢の五輪塔(鳥取県日野郡江府町助沢)

助沢の五輪塔

●探訪日 2009年11月14日
●所在地 鳥取県日野郡江府町助沢

◆解説(参考:江府町史等)

 現在の高速道・米子自動車道ができる前まで、伯耆や出雲のほうから岡山県方面に向かうには、四十曲峠や、犬挟峠などを越えていかなければならなかった。昭和40年代までは、よく大雪のため通行止めになることが多く、近代までこうした状況が続いていた。

 中国地方を東西に走る山並みは、「中国山地」といわれ、日本アルプスのような、「山脈」ではない。当然標高が2,000mにも満たないことから、「中国山脈」ではなく、「中国山地」というようになったのだろう。しかし、実際に人が通行する道の状況といえば、山脈であろうが、山地であろうが、その厳しさには変わりがない。

 さて、前記したように、伯耆国から作州方面へ向かう街道としては、3つのコースがあった。峠で示すと、①白髪越え②土用越え③延助越え、となる。ただ、江府の街付近を通る街道は、日野川のたび重なる洪水や、路の悪いところが多く、脇街道であった。従って、出雲街道はこの江府の街を通らないコースとなっている。

【写真左】助沢地区から北東方面を見る
 写真の中央部横に走っている道は、R482号線(伯耆街道)。旧伯耆街道はおそらく手前の坂道だったと思われる。

 この谷の奥(右)へ行くと、下蚊屋ダムがあり、大山横手道と合流し、北へは、御机方面(大山寺)へ、東へは蒜山(延助)へつながる。



 今回取り上げる「助沢」という地区は、峠のコースでいえば、③の延助越えの街道から江府町にむかう枝筋になる。延助というのは、岡山県の蒜山にある地区で、江府町から向かうもう一つのコース(南側の谷)である「俣野」を始点とする①白髪越えの道と合流する位置になる。

 ③の延助越えの街道は別名「大山横手道」といわれ、延助から大山をぐるっと南から西に回り大山寺の方へ向かう道である。

【写真左】「助沢の五輪塔」付近
 集落のほとんどは米子自動車道側(南)の斜面に階段状に家が並んでいる。






 余分な説明が長くなったが、現在の地名・道路名で示すと、要するに「助沢」という場所は、国道482号線(伯耆街道)脇にあるところで、現在の米子道がほぼ平行して走っている場所にある。

 伯耆街道は、米子高速道ができたため、山陽・近畿方面に行く際、ほとんど利用していなかったが、江府町史などを読むと、この街道周辺には古代・中世・近世にかけて、少なくない史跡や伝承地があることが分かってきた。

 今回取り上げる「助沢の五輪塔」もその一つである。当ブログのタイトル「山城」関係も調べれば相当ありそうだが、機会があったら投稿したいと思う。
【写真左】「助沢の五輪塔」の説明板
 道の南側に御覧のように傾いたまま設置されている。

 以下、説明板を転載する。

“鳥取県指定保護文化財

助沢正平五輪塔
(昭和58年4月26日指定)

 鳥取県下の在銘五輪塔の代表的優品である。塔の高さ2.2m、地輪の幅0.7m。塔の形も梵字の刻字も鎌倉時代の優美な姿を残している。

 地輪の左側に正平15年(1360)庚子(かのえね)3月20日の記銘がある。南朝の正平年号は、近くの日南町印賀の宝篋印塔(県指定)や、岩美町網代(あじろ)の廃阿代寺正平在名鐘(あじろじしょうへいざいめいしょう)などにもある。

 当時、伯耆・因幡などを支配した山名時氏・師義父子が、南朝に属した影響を示すものといわれる。この塔は、正平型五輪塔の標準となると共に、正面に修行門、側面に菩提門の種子(しゅうじ)が彫られ、塔建立趣旨がしのばれる。

 この地、竜王は古道に沿う由緒のある土地で、中世仏教の聖地であることも示している。
昭和59年9月
鳥取県教育委員会”
【写真左】五輪塔?
 上記の説明板付近に五輪塔がなかったため、さらに上の方に行くと、小さな古墓が3基並んでていた。

 高さが2.2mと表記してあるので、これではないと思い、さらに上の杉林の方まで登って行ったが、結局見つからなかった。

 普通は、説明板に案内図のようなものがあってしかるべきだが、何もないため、断念した。
【写真左】他の五輪塔
 先ほどの場所からさらに上流部の集落が多い所へ行くと、道路脇に御覧のような五輪塔があった。

 周辺にも五輪塔ではないが、古墓が数基まとまって安置されている。説明板らしきものがないため、何時の頃のものか不明。
【写真左】もうひとつの五輪塔群
 上記の場所と道を挟んで反対側にあったものだが、手前の大きいものは半分は欠損している。

 この五輪塔は、一般の墓地の隅に安置されている。




◆後日、この五輪塔の写真が掲載されている資料をもう一度みると、周辺には杉などが生えている場所らしく、このことから、安置されている場所は、やはり当日途中まで向かった位置よりさらに上部の方のようだ。

 ところで、当五輪塔の記銘年号である正平15年(1360)は、南朝方の年号であるが、説明板にもあるように、当時当地を治めていた山名時氏が関係したものであることはまず間違いないと思われる。

 翌正平16年(康安元年)7月12日、時氏は二人の息子師義・氏冬らと、伯耆・出雲・因幡の兵を率いて美作へ向かう。美作の倉掛城を包囲して、11月4日陥落させている。尊氏が没した正平13年後、一段と混乱を極め、中国地方でも北軍と南軍に分かれていたため、国境ではたびたびの合戦が繰り広げられていたようだ。

 以前紹介した「印賀宝篋印塔」も、正平12年(1357)のものであるから、案外この助沢の五輪塔も、合戦前に武将自らが造ったものかもしれない。

2009年11月15日日曜日

美女石城跡・佐川神社(鳥取県日野郡江府町)

美女石城(びじょいしじょう)跡及び
佐川神社(さがわじんじゃ)

●探訪日 2009年11月14日
●所在地 鳥取県日野郡江府町佐川付近
●築城期 不明
●城主 天竺三郎四郎元氏(天正年間)
●比高 20~30m


◆解説(参考:『江府町史:昭和50年発行』等)

 江府町にある主な山城としては、前稿で取り上げた「江尾城」と、旧伯耆街道沿いにあるといわれている「宮市の要害城」、佐川の亀山城(小丸山城)、そして今回取り上げる同じく佐川付近にある「美女石城」がある。

 このほかには、『日野郡史』によれば、「宮市の学塔城」「御机の城山」「下蚊屋の砦」「助沢の竜王陣」「俣野の城山」「武庫の城の段」「下安井の大城」などが挙げられているが、残念ながら、いずれも所在地を比定するほどの詳細な資料がない。

 今回取り上げる「美女石城」についても、確定した場所までは示していない(『江府町史』)。しかし、同史に書かれている内容を見る限り、かなり城跡の位置を絞り込むことができそうである。

 さて、築城期は不明ながら、天正年間に在城したとわれている天竺三郎四郎元氏については、『伯耆誌』によると次のように記されている。

“天竺は伊予(愛媛県)の地名にて(中略)、天竺氏旧備中国下道郡西油野、軽尾の城主なり。何れの頃伊予より移りしや(中略)。天正元年(1573)当郡美女石城に転移す(中略)。この後、何の頃か、元氏又備中軽尾城に帰る。(天正10年と伝えり)”

 しかし、『鳥取県神社誌』によると、備中に帰った3年後当たる天正13年(1585)に、佐川神社に美女石城主天竺氏が、社殿を造営し、社領75石を寄進しているという。従って、「江府町史」では、在城最終年については、はっきりしていないとしている。

 ちなみに、前稿「江尾城」の蜂塚氏が没落してから、8年後に天竺氏が来ている。常識的に考えれば、同氏は毛利氏の支配下にあったものと思われる。

 なお、『伯耆誌』にある「備中・軽尾城」は、現在の岡山県高梁市備中町西油野にある山城で、標高580mの位置にある。いずれ当城も機会があったら探訪してみたい。

◎関連投稿
軽尾城(岡山県高梁市備中町西油野)
【写真左】佐川神社正面
 日野川東岸の位置にあり、境内の広さは30m四方程度か。祭神は誉田別尊、足中彦命、昭和50年当時の氏子は70。もとは八幡宮と称していたらしい。


【写真左】正門脇の灯篭の標柱 「江府町指定有形文化財 佐川神社泉州石工の灯篭」とある。 泉州、つまり大阪南部の方の石工を連れてきて造らせたということだろう。
 同社境内には数基の灯篭があるが、おそらく下の写真のものだろう。

【写真左】灯篭と狛犬
 灯篭には、「寛政10年(1798)」の文字が見え、狛犬には、「天保3年(1832)」の文字が見える。
【写真左】佐川神社から美女石城方面を見る。 写真下段の川は、日野川でこのあたりの流れはかなり早いようだ。
江府町史によれば、

「…城跡といわれる付近を訪ねてみれば、数段の石垣で囲まれた棚田がある。これら石垣の列の中央には石段が掘りこまれている。伝承では、そこが門跡とされ、石組がわずかに大きく打込みはぎになっている。しかし、そのほかには城跡を推定させる遺構は残っておらず、天竺屋敷跡と伝えられる一郭が見られるのみである」

 とある。
【写真左】美女石といわれている大岩
 写真に見える集落は、佐川神社の前を流れる日野川の対岸にある。当日、向こうに渡れそうな橋を探したが、どこからいけるものか分からず、遠望のみとした。

 結論からいって、城跡は、この大岩を含む高台全体がその範囲ではなかっただろうか。地形から考えて、目前の日野川そのものが、堀の役目を十分果たしただろうし、天竺氏が毛利氏の与力として、天正年間(毛利氏がほぼこの地域を治めた頃)に、この城にやってきたということなら、あまり高所に本丸を置く必要もなかったと考えられる。

 むしろ機敏に対応するためには、できるだけ日野川の河岸に近いほうがよかったのではないだろうか。

2009年11月13日金曜日

江尾城(鳥取県日野郡江府町江尾)

江尾城(えびじょう)跡

●探訪日 2008年4月16日
●所在地 鳥取県日野郡江府町江尾
●標高200m、比高40~50m
●形態 平山城
●築城者 蜂塚安房守
●築城期 文明16年(1484)
●別名 江美城

◆解説(参考文献:江府町史等)
 鳥取県の名峰大山(だいせん)西南の麓にある江府町は、日野郡(3町)の北の玄関に当たる位置で、南の日野町から流れてきた日野川が、ちょうどこのあたりから北北西に曲がって日本海へ注いでいく場所である。また、旧伯耆街道(R482)と旧日野街道(R181)との分岐点で、特に江尾は古くから山陽と山陰を結ぶ交通上の要衝でもあった。

 今稿の江尾城付近は、そうした地理的な背景もあって、中世からさまざまな交流があった。また当時の大山寺と近いことから、江府町地域の中には大山寺領として支配されていたところもあったという。
【写真左】当時の江尾城周辺図(推定):江府町史より転載

















 江尾城そのものの築城期は、文明16年(1484)、蜂塚氏初代・安房守によって草創されたという。蜂塚氏については、清和源氏を祖とする新田氏の直系という説があるが、確証はない。

 初代安房守から、二代・三河守、三代・丹波守、四代・右衛門尉に至るまで80余年続いたという(『鳥取県神社誌』)。 四代までの城主の名が残っている記録はあるが、前述のように出自がはっきりしない。

 現地の案内板には文明16年の築城とされているが、江府町史によれば、大永4年(1524)に行われた尼子氏による伯耆の攻略(大永の5月崩れ)以前から、同氏は伯耆地域の国人衆の一人だったという。

 ちなみに、このころの伯耆国の守護は、山名政之であるが、築城された文明16年の2年前(文明14年)には、すでに出雲の尼子経久が、伯耆光徳寺(琴浦町:日本海側)に敷地を寄進し、屋敷・寺領の諸役を免除したりしている。

 伯耆守護であった山名氏も、このころから次第に衰退していった時期で、ひょっとして、このころから蜂塚氏は、尼子氏と何らかのつながりを持ち始めていたのではないだろうか。

 「大永の5月崩れ」については、近年定説が覆されつつあるが、どちらにしても尼子氏がこの年に、伯耆を制圧し、江府町も含む日野郡も支配下に置いている。その後大永7年、天文9年と伯耆勢は、但馬守護の山名を担いだり、因幡山名の重臣・武田常信などを擁して、伯耆奪還を図ったが、いずれも失敗する。

 下って、永禄7年(1564)尼子の陰りが出始め、それまで尼子氏に与していた伯耆勢も、毛利方に与していく。しかし、その中でも江尾城主・蜂塚右衛門尉と、八橋城主・吉田源四郎らは、尼子氏から離れることはなかった。

 これにより、翌永禄8年8月、毛利氏の総攻撃を受け落城、蜂塚右衛門尉らは自刃する(この落城時の悲話がもとになって、蜂塚氏らを祀る祭りがいまでも行われているという)。

 この時の毛利軍の主だった武将としては、尾高泉山城の杉原盛重、吉川元春の部将・二宮杢介・森脇市郎右衛門尉らで、寄手3,000余騎が天狗ヶ滝、兎丸、銀杏丸などから鉄砲による総攻撃を行ったという。
【写真左】旧「八幡丸」付近に立つ模擬天守兼博物館











【写真左】江尾神社(旧「上の段」)付近の公園から本丸方面を見る











【写真左】本丸跡その1
 本丸は、大山山麓の舌状台地を堀切で切り離した小字名「城ノ上」にある。大きさは東西約100m、南北約70m。現在本丸跡は、ほとんど田んぼ、または畑地となっている。









【写真左】本丸跡その2











【写真左】本丸跡その3
 東端部に土塁跡と思われる遺構が残っている。







【写真左】本丸跡その4
 同上付近。











【写真左】本丸跡その5
 左側の低地は堀切の一部。なおその後方には「旧兎丸」と呼ばれた郭跡があるが、現在は雑木林となっている。










【写真左】本丸北東部の「オクビ」「馬場跡」から本丸方面を見る。











【写真左】旧「寺の前」付近から本丸方面を見る











【写真左】旧「土居の内」付近から、北方の旧「銀杏段」方面を見る。











【写真左】旧「馬場跡」の東端部から大山(だいせん)を見る。











【写真左】本丸北の寺の前付近から本丸を見る
 左上部が本丸跡

2009年11月9日月曜日

黒坂城跡(鳥取県日野郡日野町黒坂)

黒坂城(くろさかじょう)跡

●探訪日  2009年11月8日
●所在地 鳥取県日野郡日野町黒坂
●遺構 石垣、土塁、郭、堀、井戸等
●形態・高さ 平山城 380/50m
●築城者 関一政
●別名 鏡山城

◆解説(参考文献:「広報ひの」、「城格放浪記」等)
●日野町は、最近よく取り上げる鳥取県の伯耆地方の一つで、米子から山陽方面に向かう際、R181号線が岡山県新庄村に向かう地点と、そこから広島県庄原に向かう180号線とが枝分かれする地点で、昔風に言えば、出雲街道(津山街道)と日野街道が交差するところでもある。

 この付近も西隣・日南町や奥出雲(島根)と同じく、昔から「たたら」など鉄の産地として繁栄してきた。

●今回取り上げる黒坂城は、別名鏡山城ともいわれ、築城期は戦国期ではなく、江戸期に入った近世城郭の跡だが、最近になって地元の有志によって、それまで荒れ放題になっていたのを少しずつ整備してきたという情報を得たので、当地に向かった。

 簡単に当城の経緯を記しておきたい。
 慶長15年(1610)、伊勢(三重県)亀山の領主・関一政が、この黒坂の地に石高5万石で黒坂藩主として転封される。2年後の慶長17年から城の工事が始まり、完成はさらに2年後の慶長19年(1614)だった。

 しかし、4年後の元和4年7月、詳細は不明だが藩内での内紛がおこり、これが幕府に知れ渡り、所領没収、改易される。黒坂藩の所領は、そのまま鳥取藩主・池田氏の属領となった。一政はその後、寛永2年(1625)10月20日に死去する。

【写真左】日野町公民館前にある「城下町黒坂の歴史と自然を訪ねて」という看板案内図
 写真をクリックすると拡大されある程度読めると思われるが、この図では中央やや左に鏡山城(黒坂城)が描かれている。
 その左には、後段の聖神社などがある。




【写真左】黒坂城遠望
 伯備線の黒坂駅の反対側の山の斜面にあるが、写真に見えるネットは日野高校黒坂舎のグランドと接している。

 直接城下付近まで行く道もあるが、この時はJR黒坂駅構内駐車場に止め、そこから徒歩で鉄道をまたぎ、向かった。この方法が一番時間的にも短く、簡単に向かうことができる。


【写真左】城下左(南側)から向かう道
 写真に見える道は土橋のような形状で、左右にため池、もしくは堀のような跡を残している。









【写真左】井戸跡
 グランドの南端部にかなり大きな井戸跡が残っており、中までは見ていないが、となりのため池から考えて現在でも水がたまっているものとおもわれる。






【写真左】南側からみたもの
 左の斜面が当城の壇











【写真左】今度は北側見たもの
 左の平坦地は黒坂校舎のグランド 。登り口は、このグランド中央部あたりから坂道がついており、そこから登っていく。







【写真左】下のグランド側からみたもの
 石垣がよく見える。










【写真左】坂道を上がりきった地点
 おそらくこれが大手門の入口と思われるが、かなり形が不鮮明になっている。当時は、もう少し壇ごとに石垣を積み、階段状になっていたものと思われる。







【写真左】上記位置から平坦地を見る
 広さはほぼ50m四方以上あるとおもわれる。この場所の遺構名がはっきりしないものの、これだけ大きい面積を考えると、かなり大きな櫓を構えていたものと思われる。

 冒頭の案内図には、改易後陣屋絵図としてこの場所に建物が描かれているが、関一政が築城したころに、この場所を本丸としたかどうかはわからない。

 地形的にみると、この平坦地のさらに上に山があり、この山そのものが後背の他の山並みと独立した位置にあることから、築城時はおそらくその頂部に天守を持っていたのではないだろうか。ただ近世城郭の地どりは、戦国期とはだいぶ変わってきているので、なんとも判断できないが。


★追補
 後日他の資料を見たところ、やはりこの上の山頂には、中世の頃と思われる山城主郭群があるとのこと。ただ、この場所に向かう道がどこにあるのか分からない。

 地形的に見れば、北側の緩斜面がなんとなく登れそうな形状を持っているようなので、案外そのあたりに旧道があるかもしれない。なお、山頂部には東西に土塁を設けた細長い郭があるとのこと。次回機会があったら再度登城してみたいものだ。
【写真左】平坦地北側奥の隅に見えた窪み
 一見すると井戸跡にも見えるが、排水溝にも見える。
 この場所からさらに上に向かう道跡があり、少し上まで行ってみる。(次の写真参照)







【写真左】前記の位置から一段上に上がったところの石垣跡
 平坦地の北側斜面にあるもので、右側にも崩れているものの、若干の平坦地をもって、さらに下に壇を構成している。その下はグランドの敷地につながる。





【写真左】平坦地の北側奥の斜面
 現状は竹林状態で、枯れ竹が行く手を阻むため、これ以上進めなかった。ただ、なんとなく奥を見た感じでは、この上にも遺構らしきものが残っているようにみえた。

 案外、七曲のような道があって、最終的には頂部に本丸をもっていたのではないだろうか。




【写真左】平坦地から北東方面を見る
 冒頭の案内図には、この写真の左側にあたるが、「黒坂要害山」という山城もあったらしい。

 写真のグランド下は、JR伯備線が走っている。






【写真左】黒崎城の南にある聖神社鳥居










【写真左】聖神社本殿の北の壇にある稲荷神社
 先ごろの鳥取地震で本殿が傾いたままになっている。この社殿の黒崎城側崖が崩れ、現在でも改修工事が行われている。






【写真左】稲荷神社側から、黒坂城方面を見る
 この位置からは竹林などで全く見えないが、左側の高くなったところが、当城背後の山の最高所になる。