2010年2月20日土曜日

大内神社(島根県東出雲町 西揖屋)

大内神社(おおうちじんじゃ)

●所在地 島根県東出雲町 西揖屋●創建時期 天文12年以降
●創建者 網元・八斗屋惣右衛門
●探訪日 2008年2月11日

◆解説
 前々稿京羅木山城・砦群(島根県八束郡東出雲町植田)その1の転載した説明板に、すこし触れてあるが、 天文12年の大内氏による富田城合戦の大敗時、多くの武将が討死や溺死をしている。この中で、特に悲運の武将として伝承されているのが、大内氏の嗣子であった若干20歳の春(晴)持である。

 当社所在地は、京羅木山から北西に向かった中海沿岸部にある東出雲町の西揖屋というところにある。 現在は陸地となっているが、当時はこのあたりまでは中海湖岸だった。
 なお、このとき同じく悲運の討死をした大内氏方武将には、小早川正平がいる(小早川正平の墓(島根県出雲市美談町)参照)。

【写真左】大内神社前の鳥居
 東出雲町の街部にあり、手前の道は旧道のため狭い。

 駐車場はこの付近にはないので、東西どちらかの空地を見つけないと駐車困難。



 当社に詳細な説明板があるので、転載する。

“今から450年ほど前(天文12年)、瀬戸内海沿岸を支配していた山口の武将・大内義隆は、山陰地方を支配していた尼子氏を討つため北進してきた。尼子氏の城は広瀬の富田城だったので、広瀬が見下ろせる京羅木山に陣をとった。

 義隆は、3万の軍勢で富田城を落とそうと、2度も総攻撃をかけたが、成功せず、持久戦となった。しかし、その間に尼子氏に味方する武将が現れたり、長雨が続いたりして義隆の軍勢は次第に弱っていった。

【写真左】大内神社本殿
 規模は小さく、周囲は住宅が並んでいる。









 そこで、義隆は山口に退却することを決心し、ある夜に全軍を京羅木山から脱出させた。そして、自らは、揖屋から津田、宍道を経て、尼子氏の追撃を振り切り、石見路から山口へ退却していった。

 義隆の軍勢の中に、義隆の嗣子・大内晴持(20歳)という若大将(別名:義房)がいた。彼は海路出雲から脱出を命じられていたので、大混乱の中、揖屋の灘へたどり着いた。
 灘には船が用意してあったが、沢山の将兵が我も我もと乗り込んだために、晴持の乗った船は転覆してしまった。暗闘の中、とうとう晴持はおぼれ死んでしまった。

 翌日、晴持の水死体が揖屋の漁師の網元・八斗屋惣右衛門の網にかかって、引き上げられた。見れば、若いがその装いからただならぬので、調べてみたら、大内氏の若大将だと分かった。揖屋は尼子氏の領地なので、敵方である晴持の屍を葬ることは、厳しく禁止されていたが、心の広かった惣右衛門は、年若くして他郷で死んだ晴持を憐れんで、現在の大内神社の地に密かに葬り、回向した。

 葬った当初は、晴持の霊魂が馬で通行する武士などを悩ませた。そこで、惣右衛門は、その霊を慰めるために、小さな社を建て、晴持を祭神として大内権現と名づけ、毎年催事を執り行った。
 明治時代になって、大内神社と改めたが、古いしきたりで今でも「権現さん」と呼ばれて親しまれている。
【写真左】境内にある石碑












 昔の道は、神社の北側を通っており、社殿は道路を背にして建ててあった。それは晴持がはるか南方の故郷・山口を慕う心を酌んだ思いやりのある建て方であったと思われる。

※大内晴持は、京都の公家・一条大納言の次男で、母は大内義隆の姉。3歳のとき、義隆の養子となる。顔形が美しく、詩歌、管弦、蹴鞠の道はもとより、武芸にも優れた腕前を持っていたといわれている(原典:陰徳太平記)。"

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1 件のコメント:

  1. 霊を鎮めた初代神主が佐次家であると伝えられています。

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