2010年1月18日月曜日

感状山城(兵庫県相生市矢野町)

感状山城(かんじょうざんじょう)

●所在地 兵庫県相生市矢野町瓜生
●登城日 2007年7月29日
●標高 301m
●指定 国指定史跡(平成8年)、市指定文化財(昭和60年)
●築城期 鎌倉時代、または建武3年(1336)
●築城者 瓜生左衛門尉、または赤松則祐

◆はじめに
 この山城へ登城したのは、もう3年近く前になる。当時、山城探訪初期のころで、関西方面の山城としては初めてのものだったと思う。
 はっきりとした記憶としては、とにかく暑く、途中で何度も脱水症状のような状況になったことだ。未経験とはおそろしいもので、平地でいると暑いものだから、山に上がれば、きっと涼しいだろう、という全く単純な発想から、この山へ登ったわけである。なぜ、この山城に決めたのか、今では余り覚えていないが、おそらく「国指定」をうけているから、ということだったと思う。

 出雲から車を飛ばして、麓にいくと夏休みだったこともあって、多くの父子連れがキャンプなどをしていた。渓流から涼しい風が吹き、この段階ではいい場所に来たものだと満足していた。そして、ゆっくりと登城をし始めたが、中腹辺りから険しい道となり、おまけに先ほどの涼しい風は全く吹かず、もううだるような暑さである。連れ合いも同じような状況で、とにかく微風を求め、影を求めるだけが目的となっていった。四足のトミー嬢(綽名・チャチャ)も、大きな口を開けたまま、ハーハーと尋常でない。
 そうやって、脱水症状の一歩手前のタイミングで本丸にたどり着いた。反対側から登ってきた御夫婦も、私らと同じ状態だったらしく、「もうー、参った、参った、こんなに風がないとはねー」とへたり込んでしまった。
 そんな体調になってしまったため、まともな写真が少ない。
【写真左】本丸付近その1

◆解説(参考文献「サイト相生市」など)
 築城期や築城者については、二説あり、一つは鎌倉時代に瓜生左衛門尉が、もう一つの説は、建武3年(1336)、赤松円心の三男則祐が築いたという。
 特に後者の関係では、建武年間(1334~36)、足利尊氏を追っていた新田義貞を、赤松則祐がこの山で50日余りにわたって、足止めさせたという。これにより、尊氏から則祐に対して、その功を称え感状を与えられ、この山城を「感状山城」としたとされている。
 この感状山城と関係する山城としては、おなじ播磨にある「白旗城」がある。新田義貞を足止めさせた城としては、どちらかといえばこの城の方の記述が多い。
 赤松氏は義貞に対して表向き降伏したといいながら、実際には降伏はせず、その言で義貞に油断を与えさせ、白旗城や感状山城の防備を固めた。このことを怒った義貞が、必要以上にこの地で赤松討伐のため、長期間在陣することになった。これによって、尊氏は着々と九州において再起の準備をすることができたわけである。

 さて、感状山城の遺構概要だが、石垣による郭形状が、鎌倉南北朝期とは違い、戦国期のものであるという指摘もあり、当城の使用期間も200年以上ではなかったかといわれている。
 主な遺構としては、倉庫跡、井戸、大手門、Ⅰ、Ⅱ、Ⅲ各曲輪群、南曲輪群などがある。
【写真左】その2

【写真左】石垣
【写真左】本丸付近から城下を見る
【写真左】「ど根性大根」のキャラクター
 ちょうど、このころ「ど根性大根」が全国的に有名になり、相生港近くの休憩所で撮ったもの

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