2010年1月12日火曜日

多度津城跡(香川県仲多度郡多度津町桃山)

多度津城跡(たどつじょうあと)

●所在地 香川県仲多度郡多度津町桃山
●探訪日 2008年3月8日
●築城年 貞治3年(正平19年:1394)頃
●築城者 香川氏
●備考 別名 本台山城

 このところ、石見国や島根県の山城に偏った紹介が続いたので、今稿はこのブログでは初めてとなる讃岐(香川県)の山城・多度津城を取り上げたい。
【写真左】多度津城遠望
 南側の駐車場からみたもの。この城山の奥が瀬戸内海になる。








◆解説(参考文献「サイト:城格放浪記」「サイト:武家家伝」その他)

 築城者である香川氏は、元々相模国の一族で、当時の諸将一族と同じように、承久の乱における軍功によって、安芸(広島)と、讃岐(香川)などの所領を得た。また別の説によれば、同氏は鎌倉権五郎景政の末孫香川兵部少輔景房が、細川頼之に従って讃岐に下り、貞治元年(1362)の白峰合戦の功によって多度津の地を与えられ、その後この地に多度津城を築いたという。
【写真左】桃陵公園配置図
 公園として大幅な改変がされているので、多度津城の遺構は、どの程度残っているものか分からないが、右側部分が高くなっておるので、この位置に主郭があったものと思われる。



 それからのちの戦国期に至るまで、紆余曲折をたどりながら、四国統一を果たした長宗我部氏に属し、長宗我部氏が豊臣秀吉に降ると、同氏も九州征伐に参陣。
 このとき知られるように、四国から入った長宗我部氏一群は、島津軍のまえに大分で大敗北。長宗我部元親の失意と判断のまずさから、香川氏最後の一人であった親和は23歳の若さで亡くなり、同氏の直系は滅亡したという。

 多度津城は、香川氏のいわゆる居城であったが、有事の際は、この場所から南方3キロ余りにある天霧山を拠城した。
【写真左】本丸・主郭跡と思われる場所
 遊技施設が劣化し、使用禁止となっている場所で、写真左の小高い所(水槽のようなものが建っている)が、そんな雰囲気を残している。




 ところで、多度津城の役割とどの程度関係があったものか分からないが、文安2年(1445)の記録とされる「兵庫北関入船納帳」という史料によれば、多度津船籍の船が延べ21艘、兵庫北関を通関している。

 この中で香川氏所有の船が7回通過、同年5月には10艘が一度に通関している。こうしたことから、香川氏は瀬戸内海水運の水軍領主的な権力を中心とした一族でもあった可能性がある。

 さて、多度津城跡は、現在ほとんど公園化され「挑陵公園」という施設になっている。よって、現地にある説明板では、山城そのものに関する内容は少ないが、参考のため転載しておく。
【写真左】同上付近その2
 一見すると、主郭と思われる周辺が帯郭状の形状を残している。
 案外この付近は大掛かりな改変がなかったものと思われるが、現地には元の遺構名を表示するものが一切ないため、あくまでも想像の域を出ない。


挑陵公園案内板

 挑陵公園は、中世の豪族・香川氏が居館をかまえた本台山(多度津城)一帯で、その面積は10.06haである。

 小高い丘の公園には、ドライブウェイと遊歩道が整備されている。公園北端に設けられた展望台の眼前は、江戸時代から明治にかけて、金毘羅参りの船や、北前舟でにぎわった多度津港である。その展望台下、本瓦葺きの民家の町並みにその時代のにぎわいを見ることができる。

 また、正面のあくまでも青い海に、瀬戸の島々が点在している。公園内には、2500本の桜があり、県内でも代表的な桜の名所である。春は桜、つつじ、ふじ、秋には、はぎ、冬には、椿が咲く花の名所でもある”
【写真左】公園端の展望台付近より、多度津の港を見る。
 向こうに見えるのは瀬戸内海






 なお、当地が県立公園の指定を受けたのが戦後間もない昭和22年で、都市公園の指定が昭和31年というから、山城の遺構残存度は期待できないものの、公立公園としての歴史的価値はあるということだろう。

【写真左】現地から、香川の名峰「讃岐富士」を見る。
 瀬戸内大橋から最初に出迎えてくれるのは、いつもこの讃岐富士だ。この山はどの角度からみても美しい山である。

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