2010年1月10日日曜日

向横田城(島根県益田市向横田)

向横田城(むかいよこたじょう)

●所在地 島根県益田市向横田
●別名 片木城・首旁(くびき)城・首片木城・頸ヶ滝城
●標高 90m(比高70m)
●築城期 文治元年(1185)、または貞応年間(1222~24)
●築城主 石川治部少輔頼恒、または領家公恒
●遺構 本丸・二の丸・出丸、郭・土塁・空堀等
●登城日 2007年2月12日及び2013年1月19日

◆解説(参考文献「島根県遺跡データベース」、「益田市誌(上巻)」等)
【写真左】向横田城遠望
 東側から見たもので、常設の登城道はこの裏側(西側)にあり、麓には駐車場も整備されている。






現地の説明板より

“向横田城址の由来

  1. 文治元年(1185)源義家を祖とする石川治部少輔頼恒は、源頼朝の命により、この峯に首旁(くびき)城を築いて居城とした。七尾城よりも8年早い石見最古の築城といわれる。
  2. 貞応元年(1222)、領家対馬守公恒は、鎌倉幕府から向横田、神田、大滝、川登4カ村の地頭に補され、一番家老椋木清左衛門以下を従えて、相模国からこの地に下り、養階山片木城(別名要害山首片木城)を築き、福林山に出丸を置いて居城とした。
  3. この峯から一望すれば、当時は横田の二本松城をはじめ、奥田の小倉虫追の大嶽、東に高浪、南に三星、西に丸嶽の諸城があって、互いに対峙しあっていた。延文4年(1359)、片木城主・正利は弟の三星城主・恒利を攻め、これを殺したが、このとき邯鄲の枕奪取について有名な物語がある。
  4. 貞治6年(1367)、片木城の軍兵200余名は、内田氏の二本松城を陥れ、一時期2万余石の知行を擁して全盛時代を築いたが、文明3年(1471)、七尾城主・益田兼堯に攻められ落城し、249年続いた領家氏の時代は終わった。
  5. 楠木正成から5代目に当たり、領家氏と祖を同じくする益田氏の家臣・城市勘助正雄は、文明10年(1478)軍功により、この峯に頸ヶ滝城を築いて居城として天文2年(1551)死没するまで、この地に善政を布いたと伝えられている。
  6. 徳川時代は、津和野藩の治下に入り廃城のまま明治維新を迎えた。明治38年地元の住民は、峯の本丸跡に忠魂碑を建て、忠魂山と改め管理にあたったが、第二次大戦後は荒廃した。昭和45年再開の上、祭事を行い、49年には城域の所有者6名から約60アールの土地を寄贈され、50年には文化財として益田市の指定を受けた。
  7. 地元においては、本会を組織して管理に当たり、併せて登山道路をはじめ地域に各種の施設、花木、球根類の植栽と保存にあtり、市民の憩いの山として公園化事業を推進して今日に至っている。
        平成元年11月吉日 向横田観光開発振興会”
【写真左】案内図
 西側駐車場に設置されている。東側(右)が本丸及び二の丸で、二の丸の西端部に土塁を介して比高約6,7mの深さを持った堀切があり、その西の峰に出丸が構築されている。




【写真左】本丸下から見上げる。














 築城されたのが文治元年(1185)だが、石川頼恒が初めて石見に来住したのは、これより23年前の応保2年(1162)3月である。きっかけは、周防国大内満盛から源頼朝へ言上があり、采地百貫文をあてがわれた。

 なお、このころ出雲国では出雲守・源光保らは謀反のかどで遠国へ配流(1160)、また石見では、頼恒が石見に来住する前年の応保元年(1161)に、石見守だった藤原永範が罷免されている。いわゆる平氏・清盛の隆盛時期である。

 頼恒が首旁(くびき)城(後の片木・向横田城)を築城した文治元年は、事実上平氏が滅亡する時期で、彼が実際に活躍するのは益田兼高に与してからである。
 元暦元年(1184)2月7日、益田兼栄(かねひで)・兼高父子は、源頼朝の下知に応じて、義経に従って一の谷の戦いで軍功をあげている。その後、兼高は石見国押領使に任命され、これによって石見国御家人は兼高を中心として、平家追討の任を負う。石川頼恒はこの時期に主だった活躍を見せているようだ。
【写真左】本丸付近・その1
 この日探訪した時、地元の俳句の同好会のような方々10数人もおられ、この場所にたって句を詠じておられた。

 短時間で登れる山城であることや、現在は、説明板にもあるように、公園化をめざし、だれでも気軽に登ってもらいたいという関係者の目的もあり、こうした趣味を持った人にはちょうど手ごろな山城といえるかもしれない。
【写真左】本丸付近・その2
 2回目に訪れた2013年1月19日のもので、少し雪が残っていた。







 源頼朝が、益田兼栄・兼高父子の所領を安堵したのは、元暦元年(1184)11月25日である。その明くる年の3月24日、壇ノ浦の戦いがあり、平氏が滅亡する。

 壇ノ浦の戦いにも当然、益田兼高や石川氏など石見御家人も参陣した。首旁城(向横田城)の完成は、そうした凱旋後の時期であったと思われる。
【写真左】出丸
 本丸の西に残るもので、東西に約30m近い長さを持つ。
なお、この西端部には土塁があり、その下には高さ7,8mの切崖を設け、西方の出丸と画している。



 石川氏は、その後頼恒から恒親と継承され、三代・吉左衛門尉就恒におよび、彼は蒙古襲来の際、軍功があったという。さらにその子・恒那(つねとも)は正応3年(1290)病没している。
以降の動きについては、説明板の通りである。
【写真左】向横田城本丸から出丸といわれた「高浪山城」を見る。
 高浪山は、向横田城から南東にある山で、上記の説明板では福林山といっていた。
 貞応元年、地頭職として入部した領家氏は、高津川を挟んだ東部の豊田城領主・内田致茂と境を接し、たびたび紛争をおこしている。

 おそらく、高浪山城の役目は内田氏との抗争を目的として築城されたものと思える。このためか、340m余りの標高をもつので、向横田城の90mよりはだいぶ高い。
【写真左】井戸跡
 本丸から北へ降りていくと、途中で左側傾斜面に設置されている。
 標柱のみで、多少の窪みは残るが、ほとんど埋まっている状態。



 また、当城の構図については、現地の別の説明板(「史跡 向横田城跡」によれば、

“…この城は南北に長い約400mの尾根を利用して築かれています。南端の本丸跡直下には高津川が流れ、北方の愛宕山には出丸があります。出丸跡の周囲には平坦地がとりまいており、馬場跡といわれています。

 城の東は急斜面で、西側の山との間は空堀で遮断された堅固な山城でした。本丸跡は標高約95mに位置し、西側には土塁が設けられ、北側は空堀を隔てて、長方形をした二の丸跡に連続していますが、ここにも土塁が残っています。二の丸跡から北の出丸跡までには、全長300mに及ぶ武者走りと思われる遺構があります。

 このように、この城は本丸、二の丸、空堀、土塁などの遺構が明確に残っており、さらに武者走り、出丸、馬場と推定される遺構も備えた中世の貴重な山城跡です。

平成11年3月 益田市教育委員会”

とある。
【写真左】向横田城の近くにある八幡社
 貞応年間、領家氏が建立したとされている。

3 件のコメント:

  1. はじめまして。

    私もこの夏に向横田城に登りました。

    「島根の伝説」(日本標準)という児童向けの本があるのですが(昔、小学生のときの課題本でした)、向横田城の邯鄲の枕の伝説が収録されています。「ふしぎなまくら」という題で、話中では片木城と呼ばれています。

    領家対馬守恒正の子、領家正利(恒正の後を継いで片木城主)、恒利(三星城主)の兄弟がささいなことから争いとなり、遂に戦になってしまいます。正利は三星城を攻めますが、中々落とせません。正利の妻、直の方(恒利の養女)が三星城にはふしぎな枕があり、三日先のことまで分かるので落とせないのだと教えます。

     三星城では毎年七月の天気の良い日に馬具や鎧を干すと決まっていました。直の方は三星城に単身入り恒利に面会、気を許した恒利が城内を見回りに出た隙を見計らって枕を持ち帰ります。その後、枕を手にした正利の軍は先手先手を打って三星城を落としてしまったというお話です。

    直の方は薄原城主、斎藤隠岐守の娘だが訳あって恒利の養女として育てられ、後に正利の妻となったとあります。この複雑な人間関係が興味深いです。

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  2. mitsuzakura様へ

    メールありがとうございます。

    領家恒正親子の時代は南北朝期ですね。この時代は他の国もそうであったように、一族の親子・兄弟が南朝方・北朝方に別れ、激しく争った時代です。

    弟の恒利は一時馬谷高嶽城に寄った足利直冬ともよしみを通じていましたので、南朝方で、兄が北朝方(尊氏)だったようです。

    弟を殺害した兄は、その後父恒正の激怒によって誅殺され、その父もその後暗殺されます。

    何ともはかない戦乱の世です。

    今後ともご笑覧のほどよろしくお願いします。

    トミー 拝

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  3. >管理人様
    レスありがとうございます。南北朝の時代に当たるのですね(高校で日本史を履修していなかったので……)。その後の史実も分かり、イメージがパッと広がりました。

    他、益田市で現時点で行ったことがあるのは七尾城と赤雁の天道山です。

    当方、横浜在住ですが、都筑区の茅ヶ崎城址公園は中世の山城が手軽に楽しめますね。

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