2009年5月30日土曜日

藤ケ瀬城(ふじがせじょう)跡・その1(島根県奥出雲町横田六日市)

藤ケ瀬城(ふじがせじょう)・その1

●登城日 2009年2月28日(土曜日)
●所在地 仁多郡 奥出雲町 横田 六日市
●時代 中世  ●遺跡種別 城館跡  ●指定 未指定
●標高 438 m
●備考 1509(永正6)年、三沢為忠が築城。
●遺構種別 溝 その他 
●遺構概要 郭 帯郭 腰郭 土塁 堀切 虎口 櫓台


解説(参考:尼子盛衰人物記:編者 妹尾豊三郎、横田町誌など)
 三沢城の稿でも述べたように、三沢氏は、為仲の代からから以降14代・287年という長い期間、強力な出雲国人として、その勢威を保った。
【写真左】藤ケ瀬城遠望
左下に見える川は斐伊川で、藤ケ瀬城はその北側の山にある。







 あらためて、三沢氏累代のリストを下記に示す。
 初代:為仲、2代:為宗、3代:為家、4代:為昆5代:為助、6代:為在、7代:為行、8代:為忠、9代:為常、10代:為理、11代:為国、12代:為幸、13代:為清、14代為虎

 この中で赤字で示したのが、特に尼子氏と関係が深かったようだ。
 今回取り上げた藤ケ瀬城は、8代:為忠が永正6年(1509)に三沢城から当城に移っているので、築城期はその直前ごろと思われる。当城は高鍔山という山の南区域を利用した山城で、為忠は築城と同時に、禁裡仙洞から上意を蒙り、仁多地方の総地頭職を務めた。

 藤ケ瀬城に移ってから6年後の永正11年11月に、尼子経久がこの城に攻め込んだ。8代:為忠はこのとき隠居していて、9,10代の為常、為理は実弟だが、二人とも三沢城の城主として在城している。
【写真左】JR木次線横田駅前にある横田地域の地図
 残念ながら、藤ケ瀬城については詳しく書かれていない。





 藤ケ瀬城には11代となる為国が、藤ケ瀬城北東部にあった岩屋寺の寺衆らとともに籠城して防戦し、このときはついに城は落ちず、経久は引き揚げた。ただ、岩屋寺の堂塔僧坊すべてが尼子氏の兵火によって焼失した。

 その後享禄2年、為国は経久の再来攻に備えて、籠城の準備をはじめた。そして、2年後の享禄4年年(1529)、経久は今度は2万の大軍を率いて藤ケ瀬城を攻めた。さすがにこのときは藤ケ瀬城は持ちこたえられず、為国と弟・帯刀は捕えられ、富田月山に送られ塩谷に幽閉。

【写真左】登城口からしばらく登った位置

 現地には登城口らしき案内板がなく、当城の東側の民家の小道から上がっていった。この道が当時からの登城道だったかどうかは不明だが、斐伊川側から登るとすれば、地形的にはこの場所しかないように思われる。

 ただ、当城の高鍔山北東部には「岩屋寺」があったので、案外そちら側からのルートも存在したと思われる。



 藤ケ瀬城はそれ以後無住となり、翌天文元年より安部氏5代・次郎兵衛近豊が再び代官となり、同12年尼子氏がこの地を領するまでその職にあった。

 天文9年、三沢城主・三沢三郎左衛門尉為幸は、経久に従って安芸吉田郡山城に毛利氏を攻めた。戦は年を越し同年正月、為幸は元就を討ち取る寸前、遮られてついに討死した。この戦は尼子氏の大敗で、やがて石見・備後・出雲の諸将のうち、13人は連判状をもって大内氏に通じた。この中に為幸の子・三沢左衛門為清、三刀屋久意などがいた。

 天文11年(1542)正月、大内義隆は毛利元就以下5万の兵を率いて山口を発ち、件の13人の諸将も合流し、翌12年2月富田城を囲んだものの、尼子方の糧道攻撃の作戦が功を奏し、大内軍は困窮し、それを見た三沢、三刀屋の諸将は再び尼子方に帰順した。このため大内軍は惨憺たる負け戦となって山口に帰った。

 直後、尼子氏は大森銀山も手中におさめたが、この藤ケ瀬城のある横田荘にも改めて下記の諸将を配置している。
【写真左】本丸方向へ登る入口付近
 この場所からしばらくは歩けるように下草が刈ってあったが、100mぐらい過ぎたあたりから、藪こぎと倒木の連続で、行く手を阻まれ残念ながら断念した。




1、中村の代官には、森脇山城守家貞
2、その統率の下、竹崎村には河本
3、大呂村には河制
4、下横田村には大石
5、蔵屋村には羽島
6、原口村には本田家吉
7、尾園村には多賀山氏

【写真左】二の丸方面に向かう途中の広場
 写真中央部の標識が上の写真と同じもので、この場所は現在写真のように公園、グランドのような広場になっている。
 当時この場所がどのような種類の遺構だったのか不明だが、郭のようなものだったと思われる。
なお、写真の右側上部が本丸方向になる。





 他の領地にも同じような処置を行っているようだが、特にこの横田荘に力点を置いた理由には、ひとつは、毛利からの侵入を防ぐ前線基地的位置であること、もう一つは大森銀山の銀と同じく価値の高い「鉄の産出」があったからだと思われる。特にこの地方の鉄の品質は現在でも一級品であることから、戦国時代も相当他国との交易を盛んに行っている。
【写真左】広場付近から二の丸に向かう途中の南東方向の切崖
 遺構がどの程度の保存状態なのか分からないが、部分的には険阻な場所も見受けられる。

【写真左】南側にある郭(二の丸と思われる)
さきほどの広場を南に通り抜けると、この場所に行きつく。現在、当城の中では最も管理された場所で、ベンチや他の施設などが設置されている。





 天正17年(1589)国替えのため一門残らず安芸に移住したが、後長門に移ったという。正安4年/乾元元年(1302)から天正17年まで287年、14代にわたって連綿と続いた三沢氏も、住み慣れた出雲の地と決別する。

 前述したように、三沢氏は出雲における最強の旧勢力で、経久の台頭とともにその傘下に加わった
が、尼子が弱体化すれば、新興の毛利に従うのは戦国乱世の時代である。どちらにしても、三刀屋氏同様その末路はさびしいものとなった。
【写真左】二の丸から南東方向の横田の町を見る


【写真左】二の丸から南西方向に横田の町を見る
 写真左奥の方向には、三沢氏が最初に下向した雨川(八川)が見える。


【写真左】二の丸から西南西方向を見る
写真左下の川は斐伊川。当時はこの家並部分も河原状態だったと思われる。したがって藤ケ瀬城の南側は天然の要害で、簡単にはこの場所から攻め込むことは不可能だったと思われる。

【写真左】二の丸から本丸の尾根西側奥にある神社
 二の丸奥には「諏訪神社」の鳥居が設置してある。ここから尾根下を行くと、写真の祠がある。
なお、その途中に数段の郭らしき削平地を認めたが、笹木に覆われていて、中まで入ることはできなかった。
 この位置から再度、尾根方向によじ登ろうと試みたが、傾斜がかなりあることと、岩盤状の地が多く、諦めた。

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