2009年5月24日日曜日

三沢城・その2

三沢城その2

◆三沢氏について

前稿で記したように、三沢城の築城期については、嘉元3年(1305)、三沢為仲が三沢郷に三沢城(鴨倉城)を築城、となっている。

その為仲の出自については、諸説があり、ひとつは木曽義仲と巴御前の間に生まれた二男・清水冠者嘉基の子が、六郎三郎為仲で、これが三沢氏の開祖だとするもの。

【写真左】三沢城登城口の駐車場付近
 登城口までは道は狭いものの、舗装整備されており、駐車場が完備され、トイレも設置してある。

 
 もう一つは、飯島系といわれるもので、前稿の写真にもあった飯島氏である。この系譜では、南信濃に住む源経基の子・満快の流れをくむ一族で、信濃国伊那郡飯島本郷を領地とした土豪・飯島氏である。

特に飯島氏については、為光の代、承久の乱において論功行賞により、出雲国三沢郷を賜り、為光の孫・広忠が当地三沢郷に下向したとある。

さらにその広忠の孫(為長のちの為仲)が、乾元元年(1302)、まず、因幡(鳥取県)の鹿野に一時在住し、その後、奥出雲の斐伊川源流に近い横田・雨川(現在の八川)に移住している。さらに3年後の嘉元3年(1305)、三沢郷に当城を築城したとある。

●ところで、以前取り上げた三刀屋城の諏訪部氏(三刀屋氏)などは、承久の乱後(1221年ごろ)ただちに三刀屋郷に下向している。
同氏と比較すると、三沢氏の場合は、論功行賞を賜ってから約80年後である。鎌倉幕府が遺漏なく記録・文書を管理し、三沢氏(飯島氏)の80年前の論功行賞に対して、措置を行なったことになる。しかし、あまりに年月が経ちすぎて不自然に思われる。

【写真左】三沢城より須我非山方面を見る
 この写真は、2007年3月に登城したときのもので、やはり山城登城は、秋から冬にかけてが一番いいようだ。

 
 現代の立法府・行政府でさえ、数十年も時が経てばほとんどの案件は、不履行されるケースが多いのにである。

また、三沢氏が山陰に初めて下向してきた乾元元年(1302)からわずか3年で、奥出雲を支配していることになるが、これもかなり無理があるように思える。

●こうしたことも含めて考えると、史料・記録がないものの、私にはこれらの記録とは別に、実際に同氏が出雲にやってきたのは、もっと早く、たとえば、承久の乱の論功行賞による新補地頭の細則を公式に定めた寛喜3年(1231)直後ではないかと思えるのだが…。

もちろん史料がないため、まったくの想像である。が、この期間前後に行わないと、論功当事者である飯島為光一族が納得しないのではないかと思われる。

●さて、三沢氏はその後、しだいに勢力を拡大していく。記録に残っているものを抜粋すると次の通り。
●元亨2年(1322)、孤峯覚明が平田・康国寺を開山する際、三沢康国を開基をとする(ただこの康国の名前が三沢氏系図に記載されていないので、同氏直系ではないかもしれない)。

●延元3年(暦応元年)(1338)、三沢郷よりさらに西北にある大原郡加茂町屋裏郷の地頭職も獲得し、宍道湖周辺進出の足がかりをつくる。

●室町時代には出雲守護の山名氏に属し、明徳の乱(1391)には山名氏に従って出陣し、当主・三沢為忠は討死している。

●永正6年(1509)、三沢為忠(為仲から8代目)のとき、三沢郷からさらに西の横田・高鍔(つば)山に藤ケ瀬城を築城し移る。このとき、三沢城には為忠の弟・為常、為理が続いて城主として住む。

その後、三沢氏は藤ケ瀬城を拠点として活動するが、為国の代になって尼子氏の傘下に入る。このあたりから三沢氏も含め、出雲・石見・安芸の諸将はめまぐるしく大内・尼子・毛利などに属していく。

永禄3年(1560)、尼子晴久が没すると三沢為清をはじめ、三刀屋・赤穴氏などは相次いで毛利氏に降礼していき、その後尼子氏に与することはなかった。
【写真上】三沢氏の菩提寺・蔭涼寺
三沢の旧城下町の北側に建立されている。現在は臨済宗妙心寺派。

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