2011年10月11日火曜日

菊間城(愛媛県今治市菊間町浜)

菊間城(きくまじょう)

●所在地 愛媛県今治市菊間町浜
●備考 菊間八幡神社
●築城期 不明
●築城者 不明
●城主 神野左馬助
●形態 海城
●遺構 腰郭(殆ど消滅)
●高さ 39m
●登城日 2011年9月14日

◆解説(参考文献『日本城郭大系第16巻』)
旧越智郡菊間町の菊間川河口から約300m北東部にある八幡山に築かれた海城である。
城主は来島城主であった村上通康の家臣・神野左馬助といわれている。
【写真左】登城口付近
 現地には「菊間城」関係の表示は一切ないが、登城口(八幡神社入口)には、写真にあるように「八幡大神」の石碑が立つ。

主郭跡に建つ八幡神社は、宝徳2年(1450)に高仙山城(菊間町種にあったH:250mの山城)の時の城主・得居通敦が宇佐八幡宮から勧請したといわれている。

現在は菊間の市街地と陸続きになっているが、当時は海に浮かぶ孤島だったと思われる。
【写真左】登り階段
 標高が40m弱とはいうものの、以外とこの階段はきつかった。
 途中で踊り場のような箇所があったが、その箇所は帯郭状の遺構があったかもしれない。
【写真左】頂上部境内
 階段を登りきって、振り返って撮ったもので、境内は想像以上に広い。

【写真左】八幡神社本殿
 本殿のある個所は境内からさらに奥に進んだところにあり、すこし高い位置に祀られている。
 前記したように、宝徳年間に当社が勧請されていることから、戦国期に当城主郭付近に既にこの建物があったということになる。
【写真左】境内東下の郭
 帰りのコースは東側に設置された道路を使用したが、その始点に写真にみえる壇が確認できた。
 幅5m、長さ20m程度か。恐らく腰郭の一部だろう。
【写真左】境内東端部から斎灘(瀬戸内)を見る。
 この位置から下にかけては切崖状が認められる。
【写真左】菊間城から東に伸びる尾根
 この尾根部分や、手前の平坦地付近には屋敷跡などがあったかもしれない。


 そして上述したように、当時はこの八幡山は孤島であり、この写真麓に軍船などが停泊していたものと思われる。

2011年10月10日月曜日

波妻城(愛媛県松山市大浦)

波妻城(はづまじょう)

●所在地 愛媛県松山市大浦
●築城期 不明
●築城者 不明
●城主 不明
●高さ 標高57m
●登城日 2011年9月13日

◆解説(参考文献『サイト:城郭放浪記』等)
所在地はJR予讃線の大浦駅西方に突き出した波妻ノ鼻の東方の小丘にある。当城については『日本城郭大系第16巻』にも記載されていない。

この城砦については、『サイト:城郭放浪記』さんがすでに紹介しているので、こちらもご覧いただきたい。
【写真上】波妻城遠望
 写真手前の施設は、道の駅「風早の郷 風和里」で、中央奥に波妻城が控える。

築城期、築城者及び城主なども一切不明だが、恐らくこの地を治めていた河野氏や、来島村上氏とかかわりがあったと思われる。

瀬戸内斎灘に突き出した位置にあること、また北側には大浦港が控えていることから恐らく海城としての城砦だったのだろう。
【写真左】道の駅「風早の郷 風和里(ふわり)
 上記写真の右側を写したものだが、奥に見える山を超えると、JR大浦駅につながる。
【写真左】波妻城近影
 写真下の道路が国道196号線で、波妻城はこの道路から並行して西に登る道を進む。
【写真左】閉鎖された北条スポーツセンター
 先程の道路を進むと、北条スポーツセンターに向かうが、現在この施設は閉鎖され行き止まりとなっている。
【写真左】波妻城跡
 さきほどの施設からバックし、手前に小道があったので、ここから歩いて向かうと御覧のミカン畑が広がる。
 
先ほどの施設も含め、このミカン畑も波妻城跡と思われるが、立入禁止札もあり、中まで入ることはできなかった。


 この写真の右側高所が主郭ではなかったかと思われる。
【写真左】波妻城から鹿島城を見る。
 このいちから南方を見ると、斎灘に浮かぶ「鹿島城」が見える。


 恐らく中世にはこの波妻城と併せ、鹿島城も海城としての役目を果たしてきたのだろう。

2011年10月9日日曜日

高穴城(愛媛県松山市横谷)

高穴城(たかあなじょう)

●所在地 愛媛県松山市横谷
●高さ 標高503m
●築城者 不明(河野氏一族か)
●築城期 不明(鎌倉時代か)
●登城日 2011年9月14日

◆解説(参考文献『日本城郭大系第16巻』『県別マップル38 愛媛県道路地図 2009年2版 昭文社発行』等)

 「高穴城」として一般的に知られるのは、前々稿の「高縄山城」から西麓に降る河野川の中腹である横谷字高穴に聳えている高穴山(H292m)の山頂に築かれた山城である。

 この高穴城については、サイト『城郭放浪記』氏が既に紹介しているので、ご覧いただきたいが、本稿で取り上げる高穴山城は、この場所のものではない。

もう一つの「高穴城」

 道路地図として市販されている昭文社の「県別マップル38 愛媛県道路地図」を見ると、「高縄山」から西下する道路「178号線」を辿ると、横谷集会所とのほぼ中間地点に、「高穴城跡」が記されている。

 一般に知られている「高穴城」は、前述したように横谷集会所の北西約500m地点に聳える高穴山の箇所だが、同名の山城がもう一つあることになる。この高穴城は下流の高穴城をさらに遡った標高503mの位置である。
【写真左】高穴城・その1
 写真の右側に当たる箇所になる。この場所は高縄山側から伸びた細い尾根筋途中を切削し、ほぼ180度の角度でUターンさせた道(「178号線」)が走っている。
【写真左】高穴城・その2
 下の道路から上方の高穴城方向を見上げる。
 周囲から登城できそうな箇所を探したが、周囲はほとんど切り立った崖や、崩落した箇所が多く、断念した。
【写真左】高穴城・その3
 この日は特に雨上がり後だったせいか、崩落箇所が多かった。


 この「178号線」は、狭く深い谷筋に沿って造られているため、一年中こうした崩落などがあり、度々補修工事をしているようだ。
【写真左】高穴城・その4
 下流側から見たカーブ地点。
 高穴城はこの写真の左側になる。
【写真左】カーブ下の尾根付近
 カーブの外側以降はさらに細くなり、左右の谷の深さが一段と険しくなる。






考察

 さて、この場所を高穴城と記した昭文社の地図と、『日本城郭大系第16巻』に示された高穴城との差異がどこからきたものか分からないが、本稿で取り上げた高穴城が、はたして城砦であったかは、この写真のみでは何とも言えない。

 しかし、この地域の地勢などを考えると、高縄山城から少し下った険峻なこの尾根に城砦があったとしても、全く違和感はないと思える。

2011年10月8日土曜日

恵良山城(愛媛県松山市上難波)

恵良山城(えりょうさんじょう)

●所在地 愛媛県松山市上難波
●別名 立烏帽子山城
●築城期 天暦2年(948)
●築城者 河野散位親経
●城主 河野氏・赤橋重時・土居通世・得能氏・来島一族等
●遺構 郭・城井戸
●高さ 標高302m(比高280m)
●指定 愛媛県指定史跡
●登城日 2011年9月13日

◆解説(参考文献『日本城郭大系第16巻』等)
 前稿の高縄山城(愛媛県松山市立岩米之野)から北西約8キロの位置にある恵良山に築かれた山城である。
【写真左】恵良山城遠望
 南麓からみたもので、頂上部に祀られている社がかすかに見える。


 見るからに切り立った天険の要害であり、特に東側(写真右)は断崖絶壁となっている。


 西麓の今治街道(196号線)が北側から南下し、下難波の交差点で直角に東方に向きを変えると、左手前方にそれぞれ特徴のある三山が並んで見えてくる。
 手前から新城山(183m)、腰折山(214m)、そして奥にひと際切り立った独立峰恵良山(302m)である。

現地の説明板より

“恵良城(上難波)


 伊予旧跡史に「天暦2年(948)河野散位親経が城を恵良山に築いた」とあり、標高302mの山頂に天険を巧みに利用した石積みや、延長130mの帯状の腰曲輪、各所に張り出した枡形郭の名残り等、中世の山城として貴重な資料を提供してくれる城跡で、湯築の本城の控え要地として河野氏盛衰に直接的役割を果たした城である。”
【写真左】恵良神社奥之宮前
 恵良山城に登るルートは、南麓側にある最明寺側を目指していくが、この寺の駐車場は使用できない(「駐車お断り」の札があった)。


 この寺の手前で右に向かう狭い道があり、始点付近に「恵良山登山道」という看板があり、その道を向かう。幅は狭いながらも簡易舗装されているので、ゆっくりと慎重運転すれば写真にある中腹の「恵良神社」前の駐車場に辿り着ける。


 この写真にある階段を登っていくことになるが、右側にも林道のようなものがあったが、崩落などで使用できない。
【写真左】恵良神社の祠
 小規模なもので、階段右側に祀られている。








鎌倉期

 前稿「高縄山城」でも記したように、治承5年(養和元年:1181)7月、伊予の大族河野通清が源氏に呼応して高縄山城に拠って挙兵した際、平氏方として伊予に攻め入った主な武将としては、備後国の奴可入道西寂(ぬかにゅうどうさいじゃく)がいる。
【写真左】奴可入道西寂の居城・備後亀山城(広島県庄原市東城町小奴可)







 奴可入道西寂は、亀山城(広島県庄原市東城町小奴可)でも紹介したように、現在の広島県庄原市東城町小奴可にあった当城の城主であるが、当時備後の山奥からわざわざ瀬戸内を渡り、伊予に攻め入ったことを考えると、その頃瀬戸内周辺の主だった平氏方が少なくなっていたか、それとも、奴可入道西寂が抜きんでた武将だったのか、いずれかだろう。

 この戦いで、西寂は恵良山城を初めとする河野氏の諸城(日高・高穴)を攻め落としたという。
【写真左】登城道
 登城道は岩肌の箇所がほとんどだが、地元の方による手入れが行き届いているせいか、歩きやすい。


 終始つづら折りのコースがとってあり、急坂なものの途中から眼下に景色が見えだし、気持ちのいい登山ができる。



南北朝期

 奴可入道西寂が当城を落とした後の約100年間について、恵良山城の城主が誰であったかはっきりしないが、南北朝期に入ると、北条氏の一族・赤橋重時という武将が当城に拠って挙兵するも、宮方の攻撃を受けて滅亡したという。建武2年(1335)のことである。

 そして宮方の重鎮土居通世(湯築城(愛媛県松山市道後湯之町)参照)が当城に拠り、暦応4年(1341)には武家方であった河野通盛が攻めよせたという。おそらくこの時の戦いで、河野氏が勝利したものと思われ、その後貞治3年(1364)になると、河野通堯が細川頼之の大軍に包囲され、宮方の水師村上義弘と今岡通任が通堯らを救出したとあるので、このときの河野氏は武家方から宮方に替わっていたことがうかがえる。
【写真左】頂上部の配置図
 麓から当山を見上げると、頂上部は尖った形をしているため、平坦部は狭いと思われるが、現地に足を踏み入れると想像以上の広さがある。


 全体に東西に長く、長径100m余り、短径20m前後の規模を持ち、西側に長径40m×短径20mの削平地(B)を設け、東隅に通夜堂がある。
 主郭とされる東側(A)は、(B)よりさらに15m程度登った岩塊に配置され、恵良神社・石鎚神社などが祀られている。






室町・戦国時代

 室町時代になると、得能氏の支族得居氏の居城と記録されているが、戦国時代になると、来島村上氏(来島城(愛媛県今治市波止浜来島)参照)の支配が強くなり、村上通康の長子通久を養子に迎え、得居氏は事実上来島村上氏の麾下となった。

 その後、毛利氏や能島(能島城・その1(愛媛県今治市宮窪町・能島)参照)・因島水軍(因島・青陰山城(広島県尾道市因島中庄町)参照)の攻撃を受けたという。しかし、そうした攻撃に耐え、秀吉の四国平定後、その活躍を認められ改めて恵良山城主として3000石を与えられたという。

 関ヶ原の合戦では西軍に属したため、戦後豊後森へ移封され、恵良山城はこのときをもって鹿島城とともに廃城となった。
【写真左】西側の削平地
 上記の(B)の部分に当たるか所で、奥に通夜堂が見える。
【写真左】主郭付近
 通夜堂を通りすぎると、主郭に向かうルートがあるが、右側は鎖を伝ってよじ登るコースで、左に回り込むと倒木を利用した橋のような箇所を進む。


 写真にみえる社は恵良神社と思われる。なお、この日このあたりから大型の蜂が数匹飛び回り、盛んに威嚇してきた。恐らくこの社近辺に巣を作っているのだろう。
 できるだけ遠回りしながら北側の郭に進む。
【写真左】主郭東端部の郭
 上記の社裏に当たる箇所だが、全く予想外の平坦地となっており、しかも広い。もっともこの写真の先は断崖絶壁で、端の方には気安く近づけないが…。
写真左】主郭北側
 ぐるっと一周し北側に回ると、御覧の通り岩肌が露出した箇所が増える。

【写真左】主郭から瀬戸内の斎灘を見る。
 恐らく奥に見える島々は、広島県の倉橋島や以前紹介した丸屋城(広島県呉市下蒲刈町三ノ瀬)がある芸予諸島の蒲刈島などだろう。
【写真左】主郭から鹿島城を見る。
 写真手前に見える島が鹿島で、当島も建武年間(1334~38)、風早郡那賀郷の地頭職・今岡四郎通任が築城した海城といわれている。

2011年10月7日金曜日

高縄山城(愛媛県松山市立岩米之野)

高縄山城(たかなわやまじょう)

●所在地 愛媛県松山市立岩米之野
●築城期 養和元年(1181)か
●築城者 河野通清
●高さ 標高986m
●遺構 不明
●登城日 2011年9月14日

◆解説(参考文献『日本城郭大系第16巻』等)
  先月取り上げた石見国(島根県)吉賀町の高尻城と石水寺(島根県鹿足郡吉賀町上高尻)でも少し触れているが、石見国の吉賀河野氏の出自とされている伊予国(愛媛県)の高縄山城を取り上げる。
【写真左】高縄山城遠望
 西麓の松山北条バイパス(196号線)から見たもので、高縄山(城)はこの写真の左側に聳える山である。





 高縄山は愛媛県の中予地域にある標高986mの山である。

 『日本城郭大系第16巻』の「研究ノート」によれば、「この山を居城とするにはどう考えても不向きで、当山麓の台地に居館を置き、その東端に位置する雄甲(260m)・雌甲(192m)及び、北東に屹立する高穴(292m)の諸城が「高縄城」と総称されたものであった」としている。

 確かに現地に足を踏み入れてみると、西麓から険しい山並をたどり、当山に拠って居城とするためには、相当の時間と労力を費やして住環境を整備しなければならないと思える。ただ、以下に示す記録を見ると、あながち全くそれが(居城とすること)不可能であったとはいえない気もする。
【写真左】高縄寺
 所在地は高縄山山頂から東へ約300mの位置にあって、標高は約900m。
 現地の由来によると、河野氏の戦勝祈願所となり、同氏菩提寺でもある。



 その理由の一つとしては、高縄山には歴史的にも相当古い時代から、修行僧らの場として使用されてきた寺院(高縄寺)があるからである。

 当山頂部の東方に創建された高縄寺の縁起によれば、桓武天皇の時代(御宇:781~806年)、弘法大師順錫(じゅんしゃく)のとき、寺号を「河野山 高縄寺」と改め、行基の作といわれる千手観音を安置した。そして後に述べる当地支配者であった河野通信が、養和元年(1181)、千手観音菩薩を本尊として七堂伽藍を再建立する。

 このことから、仏閣・寺院の建立がすでにこの時期当山にあったとすれば、高縄山城に拠ったとする説は、限りなく居城としての役割をも担っていたのではないかとも思えるからである。
【写真左】山頂付近に設置された看板
「奥道後玉川県立自然公園」とある。この日管理人は当然自動車で登って来たのだが、写真にあるように自転車が置いてあった。


 この上にあるテレビ塔で横になって休んでいた人がいたので、恐らくこの人のものだろう。
 車でもかなりきついコースなのに、ここまで自転車で登ってくるとはおどろきだ。



 また、もう一つの理由としては、下段の河野氏の項に示すように、源氏方として活躍した同氏が、平家方目代の拠った南方の赤滝城という高縄山よりもさらに高い山城(標高1,300m余り)を攻略したことなどから、当時高縄山城だけが突出して標高の高い山城ではなかったことが挙げられる。


河野氏

 瀬戸内は平安期ごろより海賊の出没が頻発し、治安が不安定になり、押領使や追捕使などがこの警護に当たるようになった。その押領使として代々その任を担ったのが越智氏である。
この越智氏の一族である河野氏は、平安後期になると当地を次第に勢力下に治め、武士として頭角を現すことになる。
【写真左】高縄山山頂のテレビ塔
 山頂付近には写真にあるように車が4,5台駐車できるスペースがある。
 写真でいえば、このテレビ塔付近が頂部となり、左側にむかって数百メートル尾根がつづき、その先にキャンプ場・高縄寺がある。










赤滝城の戦い

 治承4年(1180)4月、源頼朝が伊豆で挙兵し源平合戦が始まった。この前年、頼朝の密書を受け取っていた河野通信及び父・通清は、風早郡高縄山に拠って、源氏の挙兵に呼応した。
 通清は、当時伊予の国守であった平維盛の目代を討伐することとなった。これに対し、目代は周桑郡の桜樹の赤滝城に立て籠もった。通清はこの戦いで勝利し、伊予国における源氏方の勢威を高めた。

 この赤滝城は、現在の西条市丹原町明河と南の久万高原町との町境にある青滝山(H1,303m)にある山城で、愛媛県下の山城では最高所のものである。赤滝城は、その後南北朝期にも戦いが繰り広げられている。

 河野氏が伊予国において最初の礎(いしずえ)を築いたのは、平氏の滅亡、すなわち文治元年(1185)ごろである。
【写真左】基本測量・三角点
 テレビ塔施設の裏側に祠などがあるが、その脇に三角点が設置されている。










承久の乱と河野氏の所領没収

 下って承久3年、承久の乱が起こると、通信の子・通政は討幕軍、すなわち後鳥羽上皇に加担した。京に上って戦うも、衆寡敵せず討幕軍は敗北、後鳥羽上皇は隠岐に配流される。

 通政は伊予に帰国することになるが、北条方幕府軍は追討の兵を差し向けた。このため、通政及び存命中だった父・通信、並びに弟の通末、通俊ら一族は、高縄城に立て籠もった。幕府軍の執拗な攻撃の前に、ついに高縄山城は落城、父・通信は捕らわれ、やがて平泉に配流されたという。

 この結果、河野氏の所領53か所、公田60余町、さらに一族149人の旧領もことごとく幕府に没収された。そして、通政は信濃の葉広において斬首され、通末は同国伴野庄に配流、通俊は周桑郡得能の僅かばかりの土地を領することを認められた。
【写真左】キャンプ場方面・その1
 山城としての明確な遺構は認められないが、これだけ標高の高い位置であること、また容易に頂部までたどり着けない険峻な山であることを考えると、そうした城砦施設をわざわざ造る必要もなかったかもしれない。


 むしろ、この山で生活できるための住環境を整備する方にエネルギーを費やしていたのではないだろうか。


 そうした生活の主な場所として考えられるのが、テレビ塔のある頂部から下り、高縄山に向かう途中にかなり広い平坦地があり、奥に向かうとキャンプ場となっている辺りではなかっただろうか。
【写真左】キャンプ場方面・その2












河野通久

 これに対し、河野氏一族の中で、一人幕府軍(北条氏側)に与した通久は、阿波国富田庄及び、温泉郡石井郷を領有した。この結果、それまでの河野氏の統治組織が根幹から変わり、同氏の同族性が希薄になり、地域的結合すなわち土着性が強くなった。

 なお、このころ伊予国南の南予地域においては、橘氏に代わって西園寺氏が宇和郡を領有することとなった。


河野通有

 承久の乱から約50年後の文永年間と弘安年間、蒙古が北九州を目指して来襲した。このとき、河野通有が九州の他の武士たちも驚く活躍を見せた。特に通有は元(蒙古)の船に乗りこんで敵将を生け捕ったという。

 そして志賀島の戦いでは負傷を負ったものの、この活躍が認められ、同氏の旧領を回復し、更には肥前国の神崎庄をも手にすることができた。
【写真左】「四国のみち」案内図
 高縄寺に設置されていたもので、周辺の配置がよく分かる。






 ところで、通有については、父を通継とし、温泉郡石井郷を鎮し縦淵城(サイト『城郭放浪記』の「伊予・縦淵城」参照)に拠っていた(『愛媛県史概説:上』)とされる。

 通久の継嗣については、通久の異父弟であった通継が継ぎ、その子が通有とされている。

2011年9月30日金曜日

益田藤兼の墓(島根県益田市七尾町桜谷)

益田藤兼(ますだふじかねのはか)

●所在地 島根県益田市七尾町桜谷
●探訪日 2011年2月1日


◆解説(参考文献『益田市誌上巻』等)
【写真左】妙義寺(妙義禅寺)
 創建は弘安5年(1282:又は文永年間)といわれている。文字通り禅宗曹洞宗の古刹である。一時廃れていたが、天文・弘治年間に藤兼が七尾城の大修理に併せ再建したといわれている。




 戦前の昭和18年1月、藤兼の勤王実績が知られるようになり、地元の益田仏教奉仕団・石見文化会という団体によって、同年2月「藤兼勤皇実績顕彰法会」が開催され、矢富熊一郎氏の講演を行い、その後藤兼の碑に墓参したという。
 藤兼は晩年仏教に熱心に信仰したことが知られている。

 なお、矢富熊一郎氏は当ブログ投稿において、もっとも参考史料として活用している『益田市誌(上巻)』(昭和50年発行)の執筆者の一人で、既に他界された方だが、石見における中世史学の碩学で、管理人が山城を含む中世史に興味を持ったのも、同氏の膨大な著作史料によるところが大きい。
【写真左】本堂屋根の益田氏の家紋
 益田惣領家の家紋は、下り藤に久文字が入ったもので、庶流となった三隅氏・福屋氏・周布氏などの家紋にも必ず「久」の文字が入った。





 益田市の七尾城の西麓にある妙義禅寺境内奥に益田藤兼の墓が安置されている。

現地の説明板より

“益田市指定文化財

 益田藤兼の墓
    指定 昭和46年6月21日

 益田氏19代当主の藤兼(1529~96)は、11歳で将軍足利義藤(後に義輝)から、藤の字を授けられて藤兼と称し、15歳で家督を継承しました。
 天文20年(1551)に姻戚関係のあった陶隆房(後に晴賢)が挙兵して、大内義隆を討つと、石見の国人を統率してこの挙兵に協力した藤兼は、毛利元就と対立することとなり、三宅御土居を離れ、改修した七尾城に居住しました。
【写真左】三宅御土居
【写真左】七尾城

 厳島合戦で陶氏を破った毛利氏は、石見へ侵攻を始めましたが、吉川元春の仲介によって、藤兼は元就と和睦し、子の元祥(もとよし)とともに下城して、再び三宅御土居を本拠としました。

 藤兼は三隅大寺において68歳で没し、妙義寺に葬られました。藤兼の墓と伝えられるこの石塔は、高さ2.11mの市内で最大の五輪塔です。近年の研究では、鎌倉時代後期に遡るもので、石材は六甲山御影石製であるとの見解が有力になっています。

 平成20年3月
  益田市教育委員会”
【写真左】益田藤兼の墓・その1
 妙義禅寺と七尾城の間にある桜谷という所にある。


謚(おくりな)は、大蘊全鼎(たいうんぜんてい)という。
【写真左】益田藤兼の墓・その2
 藤兼の墓と並んでもう一つの墓があったが、御覧の通り今はない。


 これは、妙義禅寺の保護者であった13代・秀兼のものといわれているが、この墓の破却については様々な風説があるというが、管理人は耳目に触れていないため分からない。



益田藤兼

 石見益田氏第19代(別説では18代)藤兼については、これまで下記の投稿
で、断片的な動きを紹介してきたが、ここで改めて彼の略歴を整理しておきたい。

 藤兼は、享禄2年(1529)に生まれ、又次郎と称し、天文13年(1544)の15歳のとき家督を継いだ。これより先立つ天文8年正月、時の将軍足利義輝(義藤)より偏諱を受け、藤兼を名乗った。彼が偏諱を受けた理由は、永正8年(1511)、京都船岡山の役(船岡山城(京都府京都市北区紫野北舟岡町)参照)で父・尹兼及び祖父・宗兼が活躍したことによるものである。

 なお、この船岡山の役では、益田氏を初め、周布興兼・久利清兵衛・小笠原長隆・高橋治部少輔、そして尼子経久らが大内義興に従って戦っている。この戦いでは、義興が細川高国と連合し、細川政賢の軍を破った。

 藤兼の妻は、杉宗長(興重)の女である。杉宗長は大内義興・義隆の奉行人を務めていた。そして次室(側室)を石津経頼の女としている。ただこの側室は元亀元年に逝去したため、その後内藤隆春の女を側室とした。

益田氏と陶氏

 説明板にあるように、益田藤兼が陶晴賢に協力した理由は次のようなことからである。
藤兼の曽々祖父である兼堯の女は、晴賢の祖父・弘護(陶興房の墓(山口県周南市土井一丁目 建咲院)参照)に嫁ぎ、曽祖父・貞兼の母は陶氏の女であり、また祖父・宗兼の室即ち彼の母梅林智惷は、陶氏の出である。

 天文15年(1546)11月、陶晴賢は居城・周防・若山城(山口県周防市福川)に留まり、密かに豊後の大友宗麟へ密書を送った。こうした動きは大内義隆の耳に入ったが、義隆はすぐに行動を起こさなかった。その後、晴賢は自らの計画を益田藤兼に伝えた。晴賢にとって、石見国では藤兼がもっとも信頼のおける強力な味方だったからである。
【写真左】若山城(山口県周防市福川)
 陶氏は正平5年(1350)から弘治3年(1557)までこの地方を治め、晴賢が元就との厳島合戦で敗れ事実上滅亡する。若山城は、1470年に築城された。





 この動きと対峙するのが、津和野の吉見氏であった。吉見正頼は大内義隆に好意を寄せていた。正頼の妻は義興の女・大宮姫を娶っていた。

益田藤兼の吉見氏攻撃

 陶晴賢が大内義隆を討つのは、天文20年9月だが、これに先立つ3月16日、益田藤兼はいち早く晴賢の支援を得て、吉見討伐を開始した。その前哨戦となったのが、脇本加賀守の拠る鹿足郡日原町の下瀬山城(未登城)攻撃である。

 脇本氏は一名下瀬氏と称し、吉見三河守頼行の嫡子・大蔵大輔頼直が初めて石州へ下向した際、吉賀に来住し、同族の下瀬頼石が横山に住み、下瀬姓を名乗ったのが始まりとされている。

 藤兼は攻撃する前に下瀬城の脇本加賀守に打渡し(降参)の意志があれば、攻め入らないとの書状を送っている(「萩閥下瀬七兵衛文書」)。脇本加賀守の本名は、脇本弥六左衛門頼郷といった。

 彼は「勇力諸人に越え、常に太刀を帯ぶ」(「萩閥下瀬文書」)という武将であったから、藤兼の書状に対し、これを拒否した。このため、藤兼は下瀬山城の攻略にかかったが、逆に撃退されてしまった。これと相前後して、藤兼は吉見氏本城の三本松城をも攻撃したが、要害堅固な山城であったこともあり、ここでも撃退されてしまった。

 しかし、同年(天文20年)10月、再び陶晴賢が藤兼に檄を飛ばし、藤兼は吉見領である吉賀郡津和野村下領の野戸呂山に陣を構え、吉見氏と戦端を交えることになる。藤兼による二度目の攻撃も下瀬氏などの働きにより失敗に終わった。

 ところで、こうした益田氏と吉見氏との戦いは、藤兼の代に限らず永い間の両氏の争いの一端であるが、陶晴賢の謀叛(大内義隆誅殺)に絡んで特に顕著なものとなった。

 天文22年11月13日、それまで益田氏(藤兼)が主体となっていた吉見氏攻撃は、陶晴賢・大内義長の軍が主体となった。藤兼らは吉見氏の支城を主に担当することとなり、陶氏・益田氏の陣構えが整ったわけである。
【写真左】三本松城(津和野城)












 吉見氏側の本城・三本松城とは別に同氏の支城としては、長州の嘉年城(山口県山口市阿東町嘉年下)、津和野の中入茶磨山、坪尾城などがあったが、次々と益田氏らの攻撃によって陥落、大内義長らは同じく吉見氏の支城である吉賀城・隅城・下風呂谷砦などを攻略、陶晴賢は三本松城を眼下に見下ろすことができる当城西南の栃ヶ嶽(別名陶ヶ嶽:H420m)に陣を敷いた。

 当初三本松城にいた吉見正頼は、孤立した三本松城から密かに脱出し下瀬山城へ逃げ込んだ。しかし、戦況は吉見氏側にとってますます不利となり、8月、正頼は13歳になる嫡男亀王丸(後の広頼)を人質として差出し、和睦を願い出た。

 こうして津和野三本松城の吉見氏攻略は終わったが、すでに吉見氏は陶・益田氏に降る前に、毛利氏に対して援軍を求めていたので、これが後に同氏の陶氏攻略のきっかけともなった。

その後の経緯については説明板の通りである。
【写真左】番外編:50歳の豚さん
 藤兼の墓に向かう途中の畜舎に養豚場のようなものがある。


 この日墓に向かっていたところ、二人の年配の方がこの豚の前でしきりに感心しておられる。

 聞くと「この豚は年齢が50歳だ」という。よく見ると左右から牙がのぞいている。われわれの存在を全く無視して、もくもくと餌を食べている。


 管理人も今まで見た豚の中では最大級のもので、純粋な豚というより、いわゆる「イノブタ」系のものではないかと思われるが、この日の印象は益田藤兼の墓とセットで、この豚さんも管理人の脳裏に焼きついた次第である。

2011年9月26日月曜日

稲岡城(島根県益田市下本郷稲岡)

稲岡城(いなおかじょう)

●所在地 島根県益田市下本郷稲岡
●築城期 鎌倉期(弘安年間:1278~87年か)
●別名 上の山城・城の辻
●高さ 標高30m
●遺構 郭
●遺跡の現状 消滅
●築城者 多根兼政
●登城日 2011年2月1日

◆解説(参考文献『益田市誌上巻』)

弘安の役

弘安4年(1281)5月、高麗の東路軍が、対馬・壱岐に襲来した。そして6月6日、東路軍が博多湾に現れた。閏7月暴風雨により敵船の多くが標没し、残った船は逃げ帰った。鎌倉中期、蒙古襲来ともいわれる弘安の役(1回目は1274年で、文永の役)である。
【写真左】稲岡城跡付近
 稲岡城跡は残念ながら遺構は殆ど消滅しており、跡地には「雪舟の郷記念館」「雪舟の墓」「大喜庵」及び、「小丸山古墳」などがある。
 この写真は「雪舟の郷記念館」側の駐車場付近。

多根兼政

これに対し、中国探題は、石見国においては同国最大の豪族・益田氏に対し、石見海岸全域にわたって防備に当たるよう指示を出した。時の益田氏の当主は兼時である。

兼時の弟である末元兵衛兼直は、浜田市の松原(当時の岩崎)を岡本常房と協力して当たった。常房の後室は兼直の女である。

そして兼直の弟は、東北両仙道地頭の多根兼政である。兼政は高津の鍋島(現在の長者原付近)を中心に防備に専念した。
この時築かれた砦は、後に「石見18砦」といわれ、益田氏が担当したのはこのうち6砦である。
【写真左】多根兼政公顕彰碑
 この場所は基本的に雪舟関係の施設と、小丸山古墳を主だった観光施設として打ち出
しているため、多根兼政に関するものはこの顕彰碑と、下の写真にある宝篋印塔のみである。
【写真左】移設された兼政の墓
 この脇には次のような説明板が掲示されている。


“公は益田兼季(益田城第5代当主)の五男で、北・東仙道、種(多根)の地頭職を努め後年、乙吉に上の山城を築いて、益田城外城としての大役を果たし、この地を拓いた功労者である。
 公墓は上の山、一升野にあったが、この地に移して復元した。”

さて、今稿で紹介する「稲岡城」は、この多根兼政の居城といわれている。上記したように彼は益田兼時の弟になるが、仙道地頭に封ぜられ、本拠を種(多根)村としたので、このときより益田姓を廃し、地名である多根をもって姓とした。

彼はその後、兄兼時の命によって大規模な益田川の開墾・土木工事に着手した。現在の益田市街を流れる益田川・高津川などは、兼時による新田・川違い工事などる箇所が多い。さらに、彼は大規模なため池も手がけている。

稲岡城

稲岡城が所在した当時の下本郷の稲干山(稲岡山)は、それまで益田本郷の屯倉(みやけ)に関係した稲の収蔵地であったが、大化の改新後荒廃していたという。兼政はこの地に稲岡城を築いた。
【写真左】稲岡城略図(『益田市誌上巻』より転載)
 城砦としての構成は極めて単純なもので、本丸・出丸ともほぼ同程度の規模という。周囲400mと記されているので、全体に小規模なものだったようだ。

築城期は従って、弘安年間(1278~87)ごろと思われる。当時の記録では東西にそれぞれ丘があり、東に本丸、西に出丸を設け、全周には幅4mの馬場を設け調練場とした。

兼政は晩年、当城の東南麓にある椎ヶ森に菩提寺・東光寺を建立し、信仰生活に入ったといわれるので出家したと思われる。稲岡城を築いて間もない弘安7年(1284)、この寺で逝去した。
法名 涼徳院殿前猷厳大居士
【写真左】旧東光寺(現大喜庵)
 兼政の菩提寺・東光寺があったところで、現在大喜庵となっている。
 室町期の画聖・雪舟が特にこの地域を気に入ったようで、この上に向かうと彼の墓地がある。

現地に設置された縁起は次の通り。


“大喜庵(東光寺)の由来
 大喜庵は元禄3年(1690)、都茂の僧・大喜松悦が建立した庵です。
 その前身は白水山東光寺(一名山寺)・後に妙喜山と呼ばれたこの地方きっての大伽藍でした。
 鎌倉の中期・益田氏の一族・多根兼政が菩提寺として建立、室町期には南宗士綱が再興し、以来石窓禅師・勝剛長柔・竹心周鼎が入山しました。


 文明年間に山口の雲谷庵より来住した雪舟等揚禅師は、付近の風景が中国の名勝瀟湘や洞庭の雰囲気によく似ていることからこの地を殊に愛し、「山寺図」をスケッチし、また「益田兼尭寿像図」「四季花鳥図屏風」を描く傍ら、医光寺・万福寺に心の庭を築きました。


 禅師が東光寺に生活の場を求めたのは、文亀2年(1502)、2度目の益田訪問の時です。まさにあこがれの舞台でしたので、日夜禅の道に精進しながら画業にも専念していましたが、永正3年(1506)87歳、終にこの地で永眠しました。


 東光寺は、その後天正年間に全焼し、仁保成隆が再建した小庵も、益田氏の須佐転封で廃頽するばかりでした。前述した大喜松祝の力によって、雪舟禅師の香りを現今にとどめることができました。


 裏山には雪舟禅師や、大喜松上座の墓があり、堂内にはただ一つ焼失をまぬがれた東光寺のご本尊観世音菩薩像があります。


正和56年9月
 雪舟顕彰会”
【写真左】雪舟の墓・その1
益田市指定文化財となっており、「石州山地雪舟廟」と銘記されている。
現地の説明板より


“益田市指定文化財
雪舟の墓
  昭和46年6月21日


 雪舟は応永27年(1420)に備中(岡山県)に生まれ、幼くして相国寺に入り、周文から画法を学び、応仁元年(1467)、明に渡り中国の画法も学んだ。


 また、益田氏の招聘によって、石見を二度も訪れ益田で死没したといわれる。
 雪舟の没年は、永正3年(1506)であるといわれており、終焉地については東光寺(現大喜庵)の他、山口雲谷庵、備中重源寺、同真福寺など諸説があるが、墓が存在するのは益田市のみである。
【写真左】雪舟の墓・その2
 上部に相輪が納めてあるようだ。


 雪舟の墓は東光寺の荒廃とともに寂れたが、江戸時代中ごろの宝暦年間に乙吉村の庄屋金山太右衛門が施主となり願主である佐州(佐渡島)の浄念とともに改築したものが現在の墓で、内部には旧墓の相輪が納められている。”
【写真左】小丸山古墳・その1
 雪舟の墓・多根兼政の墓を過ぎ、そのまま登っていくと、小丸山古墳がある。
 稲岡城と隣接した場所であるため、鎌倉期にこの古墳も城域の一部とした可能性もある。


 型式は前方後円墳で、古墳時代後期6世紀の初めごろ造られたと考えられ、当時この地方を治めていた首長の墓と考えられている。
 墳丘の全長は52mで、石見地方としては4番目の規模を持つものといわれている。
【写真左】小丸山古墳・その2
【写真左】小丸山古墳・その3
【写真左】小丸山古墳・その4
 後円部北端部最高所から北方を見たもので、稲岡城が使用されていた時は、この場所も物見櫓的な利用があったかもしれない。