2021年10月15日金曜日

神尾山城(京都府亀岡市宮前町)

 神尾山城(かんのおさんじょう)

●所在地 京都府亀岡市宮前町
●別名 本目城
●高さ 450m(比高240m)
●築城期 戦国時代後期
●築城者 不明
●城主 柳本賢治、細川晴元、明智光秀
●遺構 土塁・曲輪・堀切
●備考 金輪寺
●登城日 2017年3月20日

◆解説(参考資料 「近畿の名城を歩く 滋賀・京都・奈良編」㈱吉川弘文館等)

デカンショ街道 

 丹波・八上城(兵庫県篠山市八上内字高城山)の北麓を東西に走るのが国道372号線である。「たんば三街道」の一つで、通称「デカンショ街道」と呼ばれる。これは京都府の亀岡市を起点とし、丹波篠山市を経由し兵庫県姫路市を終点とするルートである。

 「♪ デカンショー、デカンショで半年暮らす… ♪」という歌を初めて知ったたのは管理人が高校生のときであるから50年以上も前のことである。学園祭などがあると、応援歌としてよく歌わされた。当初この「デカンショ」の意味も分からず、とにかく大声で歌えと応援団長から命令されていたのを覚えている。因みに、この歌は明治から大正期にかけて学生にはやったもので、花柳界にも流行した。
 「デカンショ」そのものの意味は、哲学者「デカルト」「カント」「ショーペンハウエル」から来たという説と、「出稼ぎしよう」という語彙から来たものなど諸説ある。
【写真左】神尾山城の石垣
 当城は下段でも述べているように尾根に沿って南北500mの長さを持つ。最高所と先端部との比高差はおよそ50mあり、城域に入るとさほどの傾斜は感じられない。
 写真は途中で見えた石積(石垣)。


 さて、このデカンショ街道は、既述したように国道372号線がほぼトレースしているが、途中で南丹市の園部町埴生付近で372号線から離れ、南側の山裾に沿っておよそ5キロほど東進しながら南下し、亀岡市の宮前(みやざき)町宮川の辺りで再び372号線と合流する。

 この合流する手前の宮前から西方に聳えているのが神尾山城で、八上城からはおよそ30キロほどの距離になる。そして、神尾山城の南先端の尾根には古刹金輪寺が建立されている。
【写真左】金輪寺
 麓から金輪寺に向かう道は急坂となっているが、整備されているので車で行ける。駐車場は金輪寺の参道(階段)下に設置されている。


金輪寺と明恵上人

 そこで、最初にこの金輪寺と当寺を再興した明恵について触れておきたい。

 現地の説明板より

“神尾山金輪寺

 本山修験宗に属する金輪寺は、元天台宗として延暦2年(783)西願上人により創建されました。その後一時衰微しましたが、寛治年間(1087~93)に栂尾高山寺の明惠上人により再興され、宝蔵坊、極楽坊、一切経堂などの堂宇が建ち並び、隆盛を極めました。南北両谷の各所に残る坊舎の礎石などが、往時をしのばせます。
 本尊の薬師如来像は、奈良時代の作といわれ、日本最初の医学書である『医心方』を著した丹波康頼の念持仏といわれています。本堂背後の山道を少し登ったところに、康頼の供養塔があります。
【写真左】金輪寺側から神尾山城を遠望・その1
 写真の右奥にみえる山が神尾山城の城域となる。





 当寺には、南北朝時代の絹本著色仏涅槃図や、正応5年(1292)に建造された石造五重塔などの国の重要文化財のほか、正安3年(1301)に仏師定有らによって造像された金剛力士立像や、永徳2年(1382)の鰐口、天文3年(1534)の梵鐘など京都府や亀岡市指定の文化財が数多くあります。
(中略)
 幕末に至り、同寺の住職であった大橋黙仙は、勤皇僧であり、当寺の庫裡に勤皇志士が集まり、密議を交わしたといわれます。そのような中、安政の大獄で処刑された頼山陽の三男頼三樹三郎と桜井新三郎頼直の遺髪を、黙仙和尚が持ち帰り、供養のために建てた碑が本堂裏に残されています。“
【写真左】本堂
 本堂はさほど大きなものではないが、落ち着いた雰囲気がある。








 説明板にもあるように、金輪寺(こんりんじ)は延暦2年(783)西願上人の創建後、寛治年間(1087~93)に栂尾高山寺の明惠(みょうえ)上人により再興されたとある。ただ、明恵上人は承安3年(1173)に生まれ、寛喜4年(貞永元年)(1232)に遷化しているので時期が合わない。

 明恵の父は平重国で、治承4年(1180)平氏打倒を謀った源頼朝を討つべく東国に出陣したが、上総国で討死。孤児になった明恵は、京都高尾の神護寺に入り16歳で出家、その後仁和寺、東大寺などで真言密教や華厳宗などを学び、厳しい観行を経たのち、建永元年(1206)後鳥羽上皇から京都の栂尾を与えられ、神護寺の北方に高山寺を開山している。
 従って、金輪寺の再建は高山寺創建後と思われる。
【写真左】金輪寺側から神尾山城を遠望・その2
 西側から見たもので、庫裡の後背からほぼ城域となっている。






 明恵は栄西(土佐・和田本城(高知県土佐郡土佐町和田字東古城)参照)などからも教えを受けたが、華厳宗を信仰し、建暦2年(1212)法然没後、『摧邪輪(ざいじゃりん)』を著し、法然の『選択本願念仏集』を激しく非難している。

 因みに、その翌年5月、和田義盛が挙兵して北条泰時を攻めるが討死(和田合戦)し、和田氏に替わって北條義時が侍所別当を兼ねた。こうした流れの後、承久の乱(1221)が勃発するが、このとき明恵は上皇の恩義を重んじたのだろう、上皇方の兵を匿ったり、上皇を支援した公卿中御門宗行が惨殺された際、その妻のために山城に善妙寺という尼寺を建てたりしている。
【写真左】登城口
 金輪寺の右側奥から御覧のような道がついている。








神尾山城

 さて、冒頭でも述べたように神尾山城はこの金輪寺の背後にある尾根筋上に南北約500m、東西約200mの規模で築かれている。
 
現地の説明板より
 
 ”…戦国時代には寺の山続きに神尾山城(別名 本目城)があり、丹波平定を行った明智光秀の山城の一つとして数えられていました。

 光秀の丹波平定に最も抵抗したのが波多野秀治兄弟でしたが、居城であった八上城(現 兵庫県篠山市)を兵糧攻めの末、人質(光秀の母)を差し出すことで和睦が成立し、波多野兄弟が連れてこられたのがここ本目城であったと伝えられています。”
【写真左】歴代住職の墓と五輪塔
 登城口を登るとすぐに御覧のような墓石群が見える。
 左側に8基の住職の墓があり、その右に2基の五輪塔がある。
 この場所も削平された箇所で城域の最南端の一部だったかもしれない。


 著書『近畿の名城を歩く 滋賀・京都・奈良編』㈱吉川弘文館)に縄張図が紹介されているが、これを見ると、南北に延びる尾根筋を無駄なく利用し、郭は大・中・小の規模でおよそ10か所配置され、階段状に連なっている。
 このうち大型の郭は北側最高所の位置にある主郭と、中段の郭及び南端部のもので、長さはいずれ50m前後を測る。幅は尾根幅に制限があるので、最大で30m前後である。
【写真左】堀切
 最初におよそ50m程の長さを持つ郭があり、そこを過ぎると3段ほどの小郭が階段状に連なるが、この写真はその小郭手前の堀切。


柳本賢治と細川高国

 大永6年(1526)10月、管領に復帰した細川吉兆家当主・細川高国は、従弟の細川尹賢(ただかた)の讒言を信じ、香西元盛を殺害した。これは阿波を本拠とした細川澄元・晴元及びそれを支援していた三好元長らが政権の奪取を図っており、これに香西元盛が内通したという噂を尹賢が高国に伝えたためであった。
【写真左】さらに右の道から上がる。
 左側に郭群が配置されている。









 当時、両細川の乱という幕府管領職を巡って、高国と澄元との対立抗争が勃発していたが、高国を支えていたのが香西元盛の兄である波多野元清や、弟の柳本賢治(かたはる)である。
【写真左】細川氏略系
 細川氏が不安定な継嗣となったのは、政元の代からといわれる。
 修験道に凝ったり天狗の業に熱中し、「所詮京兆若衆好み」といわれ、男色だった。
 当然実子がいなかったため、左図にもあるように無謀にも3人の養子をとった。これがのちの細川氏の内紛へと繋がる。


 因みに彼ら三兄弟の父親は八上城であった波多野清秀で、彼はもともと石見国の吉見氏一族(黒谷横山城(島根県益田市柏原)参照)といわれ、18歳のとき上洛し細川勝元(船岡山城(京都府京都市北区紫野北舟岡町)参照)に仕えたとされている。
【写真左】切岸
 小郭段を右手に見たもので、ここを直登。
 史料によっては、手前までが第1郭群で、ここから先が当城の第2郭群としている。



 元盛殺害をきっかけに、波多野元清・柳本賢治兄弟は高国と対立、京を離れ、本貫地丹波へ戻った。そして、この年(大永6年)11月、元清は八上城へ、賢治は当城・神尾山城にそれぞれ籠城した。これに対し、高国は尹賢をはじめとし、内藤・長塩・奈良・薬師寺・波々伯部(ははかべ)・荒木の諸氏に神尾山城へ向けて進発させた。
 尹賢らは激しく神尾山城を攻め立てたが、賢治はこれをよく持ちこたえ、逆に敵の陣所に反撃を加えたりした。
【写真左】第2群の最大の郭
 長径は30mほどだが、東西幅は20m前後あり、この郭の南端部には東に突き出した小郭が付随している。


 またこの戦いでは丹波勢とは別に阿波からも援軍を差し向けている。それはのちの細川晴元となる細川六郎からも感状がこのとき発給されていることからもわかる。この戦いのあと柳本賢治ら丹波勢は阿波方と連合し京都進撃の体制を図ることになる。

 この後の詳細な動きについては省略するが、享禄3年(1530)6月29日、柳本賢治は細川高国・浦上村宗(三石城(岡山県備前市三石)参照)らによって、播磨東条で暗殺される。

 しかしその高国も翌4年6月4日、三好元長(岩倉城(徳島県美馬市脇町田上)参照)、赤松政村(鶴居城(兵庫県神崎郡市川町鶴居)参照)らによって天王寺で敗れ、4日後の8日、今度は村宗の裏切りに遭い高国は窮地に追い込まれ、大物(尼崎)の広徳寺で拘束され切腹した。
【写真左】第1群の郭
 さきほどの郭を過ぎると、尾根幅が狭くなり、細長く北に延びていく。








明智光秀の丹波平定

 柳本賢治、細川高国死去からおよそ40年後の天正7年(1579)、明智光秀は丹波・八上城を攻略、城主・波多野秀治・秀尚兄弟を捉え、信長の安土城へ送還した。同年6月8日、信長は二人を磔刑に処した。

 光秀が信長から丹波攻略を命ぜられたのは天正3年(1575)といわれる。当時足利義昭が信長と対立し丹波には義昭に与する者が多くなっていた。丹波国では八上城主・波多野秀治が光秀に従っていたが、黒井城(兵庫県丹波市春日井春日町黒井)の赤井直正攻めを行うと、突然秀治は光秀を裏切った。この突然の出来事に光秀は奔走を余儀なくされた。その後光秀は信長の命を受け各地に転戦するが、過労で一旦治療を続ける。
【写真左】第1群の最高所に向かう。
 このあたりから木立に遮られ、日差しが途切れる。






 天正6年(1578)3月、赤井直正が病死すると再び丹波平定に向かった。その後も丹波勢との一進一退の戦いが繰り広げられたが、最終的には天正7年(1579)8月9日、黒井城攻略を以て丹波を平定している。おそらく神尾山城も金山城などと同じく、このころすでに光秀の拠城となっていたものと思われる。
【写真左】最高所の郭
 主郭と思われる個所だが、木立に囲まれて明瞭でない。
【写真左】帯郭
 最高所側の郭には西に小規模な竪堀、北東部には2段の小規模な帯郭などがある。
【写真左】大岩
 東側に突き出した岩で、自然地形のものだが、切岸の役目をしている。

2021年10月3日日曜日

丹波・猪崎城(京都府福知山市猪崎字城山)

 丹波・猪崎城(たんば・いざきじょう)

●所在地 京都府福知山市猪崎字城山
●築城期 天文年間ごろ
●築城者 小笠原政信・塩見筑前守利勝
●城主 塩見氏
●形態 平山城
●高さ 65m(比高40m)
●遺構 郭・土塁・空堀等
●登城日 2017年3月19日

◆解説(参考資料 HP『城郭放浪記』等)
 福井・滋賀、そして京都府との県境にある三国岳(標高776m)から西に向かって流れだす由良川は、福知山市に入ると南から流れてきた土師川と合流するが、その合流地点の北側に築かれたのが猪崎城である。
【写真左】猪崎城の空堀
 下図にもあるように、主郭の西側を除いてほぼ全周を囲繞している空堀。
 右側の切岸を上がると主郭に繋がる。


 
現地の説明板より

❝三段池公園 猪崎城跡

  眼下に由良川・福知山市街地を望む小さな丘の上にあるこの猪崎(いざき)城跡は、今も「猪崎の城山」と呼ばれている中世の山城です。烏ヶ岳、鬼ヶ城などの山々から、由良川・土師川の合流部近くまで、長く伸びた裾野の先端にあります。

 城の範囲は、東西150m・南北160mあまりあり、ほぼ円形のこの丘全域にあたります。中核部分の主郭(近世城郭でいいう本丸)は、東西約45m・南北約50m、さらにこの主郭の北西の隅には矢倉台らしき盛土も残っています。

 主郭から1段下がった周囲三方(北・東・南)には、高さ0.5m~3.5m程の大きな土塁(敵の侵入を防ぐ防壁)があり、主郭との間は幅15mほどの空堀となります。通路も兼ね、おそらく武者溜まり(非常の際に伏兵を配置する所)にも利用できるこの空堀は、福知山地方では最大の規模を誇っています。
 さらに、その周辺には約10か所余りの曲輪(城域を形作る平坦な区画)を裾に向かって階段状に付属させています。
【写真左】猪崎城要図
 現地に設置されているもので、北麓(右側)には小ヶ谷池が残っていることから、これが濠の役目をし、あえて北側には曲輪段が設けられなかったのだろう。
 


 これら空堀様式や曲輪の配置形式は、畿内では天文~永禄年間(1532~1569)に盛んに造られたことから、この猪崎城は、福知山地方では最も新しいタイプの中世城郭の一つと考えることができます。

 天正7年(1579)、明智光秀は丹波を平定し、近世城郭福知山城を築造します。その直前の姿を今に伝える猪崎城は、私たちを戦国時代へと誘ってくれるでしょう。

 平成10年3月

                福知山市制施行六十周年記念事業
      協力 三段池公園整備後援会“

【写真左】入口付近
 北東側に登城口があるが、この付近全体が公園化されているため、非常に歩きやすい。
 写真中央に「猪崎城」と筆耕された石碑があるが、その奥にすでに最下段の曲輪が見えている。
 右側の坂道を登って向かう。


丹波・塩見氏

 説明板には記されていないが、『丹波志』『塩見系図』という史料によれば、地元の国人領主・塩見大膳太夫頼勝の三男・利勝を猪崎城の城主としている。もともと、頼勝は猪崎城から南の由良川対岸に築かれていた横山城の城主であったという。この横山城というのが、後に明智光秀が築くことになる福知山城である。

 ところで、この塩見氏は清和源氏信濃小笠原流の小笠原長清の支流といわれる。長清といえば、阿波・重清城(徳島県美馬市美馬町字城)・その1でも紹介したように、阿波・小笠原氏の始祖でもある。丹波にいつ小笠原氏が下向したのか分からないが、おそらく承久の乱以降と思われる。
【写真左】東側の園路付近
 左側に既に郭段が見える。









 塩見姓としたのは頼勝の代で、その父・政信は小笠原姓を名乗り、当時の天田郡(現在の福知山市内)に根を張った。
 頼勝には、5人の息子がおりそれぞれ天田郡内に下記の城主とさせた。
  •  嫡男・頼氏     横山城(福知山城)
  •  次男・奈賀山長員  奈賀山城(中山城)
  •  三男・塩見利勝   猪崎城(本稿)
  •  四男・和久長利   和久城(別名:茶臼山城・安尾城・山田城)厚安尾
  •  五男・牧利明            牧城(愛宕山神社)

 頼勝は細川高国(置塩城(兵庫県姫路市夢前町宮置・糸田)参照)に仕えた。桂川原の戦いに敗れた高国は、その後越前の朝倉孝景を最初に頼り、それが叶わないとみるや、享禄2年(1529)9月16日、越前から出雲国に至り、尼子経久に協力を求めた。

 翌享禄3年6月29日、高国は備前の守護代浦上村宗(三石城(岡山県備前市三石)参照)と共謀し、柳本賢治(鶴居城(兵庫県神崎郡市川町鶴居)参照)を播磨東条で暗殺、その勢いをかって京へ進軍した。進軍中摂津中嶋の戦いで頼勝は細川晴元勢の三好元長らを相手に戦い、さらには天王寺でも戦ったが敗れ、高国は遂に広徳寺(尼崎市寺町)で自害することになる。
【写真左】北西側から遠望
 すぐに本丸に向かわず、一旦北西側まで進み、そこから本丸方向を眺めたもの。
 左側にある建物はトイレだったと記憶している。


 この後、三好長慶(河内・飯盛山城(大阪府四条畷市南野・大東市)参照)が畿内を席巻、松永久秀の弟・長頼(内藤宗勝)が丹波方面に勢力を拡大していく。このとき本拠としたのが、船井郡にあった八木城(丹波・八木城・その1(京都府南丹市八木町八木)参照)である。これに対し、地元丹波国人衆が反発、永禄3年(1560)鬼ヶ城(同市大江町)において合戦が繰り広げられ、頼勝も国人衆の一人として参陣している。
【写真左】西側の曲輪
 本丸の下に設置されているもので、長径80m前後あり、最大の規模を誇る。





 永禄8年(1565)氷上郡の黒井城(兵庫県丹波市春日井春日町黒井)主・赤井直正が天田郡に侵攻してきた。赤井氏はもともと天田郡も支配していたといわれ、のちに塩見氏が奪取した経緯もあったのだろう、直正が永禄8年に侵攻する前の弘治3年(1557)、直正の兄家清が内藤宗勝と戦ったが、その戦の怪我がもとで死去していた。

 永禄8年の戦いにおいて、直正は横山城にあった塩見頼勝を攻めた。このとき、内藤宗勝は塩見氏を支援していた。しかし、この戦いの8月2日、和久郷で宗勝は討死した。

【写真左】本丸方向を見る。
【写真左】本丸・その1
【写真左】本丸・その2
【写真左】本丸から下の曲輪を見る。
【写真左】福知山城を遠望する。
 猪崎城から南へ由良川を介しておよそ1.3キロほどの位置に福知山城(横山城)がある。
【写真左】石碑
 本丸の一角に建立されている。歌碑のような内容で現代人が詠ったもののようだ。
【写真左】土塁の一角に窪み。
 当城の特徴である空堀を補う土塁の一か所に窪みがある。この個所だけ破壊されたのだろうか。

【写真左】空堀・その1
【写真左】空堀・その2
【写真左】空堀から南方を望む。
【写真左】空堀より更に下の段から本丸方向を見る。
【写真左】虎口か
 どの箇所だったのかはっきりしないが、虎口のような遺構
【写真左】街部から遠望する。
 周辺部は住宅となっているが、当時はこのあたりに屋敷などがあったのだろう。

 なお、今回は登城していないが、猪崎城からおよそ900mほど北に向かった中という地区に、中村城という城郭が残っている。おそらく猪崎城の出城であったのだろう。

2021年9月23日木曜日

大内氏・築山館(山口県山口市上竪小路)

 大内氏・築山館(おおうちし・ちくやまやかた)

●所在地 山口県山口市上竪小路
●築城期 15世紀中頃
●築城者 大内教弘
●形態 館跡
●遺構 土塁・築地
●指定 国指定史跡
●備考 八坂神社・築山神社
●登城日 2017年3月11日

◆解説
 大内氏・築山館(以下「築山館」とする)は、前稿大内氏館(山口県山口市大殿大路)の北隣に所在する館跡で、大内氏館と同じく大内氏が滅亡したあと主だった遺構は消滅し、現在はその跡に八坂神社や築山神社が祀られている。
【写真左】築山館遠望
 南側の八坂公園側から見たもので、奥には八坂神社が見える。








現地の説明板より・その1

❝史跡(大内氏遺跡附凌雲寺跡)
築山跡
    昭和34年11月27日国指定

 ここは大内氏28代教弘が15世紀中頃に築いたといわれる築山館跡です。築山館は教弘以後歴代当主の居館となったところです。
 中世の連歌師宗祇は
「池はうみ こずえは夏の深山かな」
 と詠んでおり、この句からかって豪華であった庭の様子が忍ばれます。

 築山館は、大内氏滅亡後朽廃しましたが、園池の跡は残っていたといわれています。しかし、この池も江戸時代中頃周囲の築地の土を盛って埋めてしまい、現在のようになったといわれています。
 江戸時代末の絵図によると、築地の外面は自然石の石垣であったことが伝えられています。
 現在指定地内の北西隅に、鍵の手に土塁築地が残っていますが、往時の館の規模を示す遺構として重要です。
 また、指定地内には八坂神社(本殿が国指定重要文化財)と築山神社があります。
    管理団体 山口市”
【写真左】築山跡平面図
 現地に設置されているもので、南側に八坂公園、北側に西から築山神社、八坂神社が祀られている。

 ほぼ方形の敷地で一辺が140m前後の規模だが、南に大内氏館があったことから、当時はこの場所と繋がっていたと考えられる。
 また、東側には現在学校法人が建っているが、この場所も築山の範囲だったと想像される。
【写真左】八坂神社の鳥居
 入口は南西の角にあり、最初に鳥居がある。このあたりは八坂公園という名称になっている。




現地の説明板より・その2

❝国指定 重要文化財
 八坂神社本殿
             大正6年8月13日指定
    山口市大字上竪小路103番地

 本社は今から600年余前に大内弘世が京都から勧請したもので、素戔嗚尊・稲田姫・手名槌命・足名槌命を祭神としている。
 はじめ社殿は上竪小路に建立されたが、さらに水の上に社地がかえられた。その後永正16年(1519)に大内義興が大神宮を高峰山麓に建立したとき、本社もその地に移し社殿を新築した。
 江戸時代の末期毛利氏は、社殿をこの地に移したが、本殿は永正年間に建立されたままのものである。
【写真左】八坂神社


 本殿は三間社流造りで、屋根は檜皮葺である。本殿の周囲に配されている13個の変化に富んだ蟇股は、珍稀な図柄とともに室町時代の特色をよくあらわしている。

 本社の祭礼は、7月20日の夜から7日間にわたって行われるが、古来山口の祇園祭として有名である。大内氏の時代から伝わっている神事「鷺の舞」(山口県指定無形文化財 昭和48年10月19日指定)も、この祭りのとき奉納される。
     山口県教育委員会
     山口市教育委員会”
【写真左】毛利氏の家紋
 拝殿の大棟には毛利氏の家紋と八坂神社の社紋が配されている。
【写真左】土塁・その1
 遺構として唯一残るもので、西側の築山神社の後ろから八坂神社のほうにかけて部分的に残る。

 写真は築山神社側のもの。
【写真左】土塁・その2
 高さは1m前後はあるだろう。
【写真左】土塁・その3
【写真左】土塁・その4
 八坂神社側のもの。

   

   




2021年9月22日水曜日

大内氏館(山口県山口市大殿大路)

 大内氏館(おおうちしやかた)

●所在地 山口県山口市大殿大路(龍福寺)
●築城期 正平5年(1360)
●築城者 大内弘世
●指定 国指定史跡
●形態 居館
●遺構 土塁
●備考 龍福寺
●登城日 2017年3月11日

◆解説 参考資料(『日本城郭体系 第14巻』等)
 山口市内には大内氏関連の史跡が点在しているが、その中でも同氏の基礎を築いたといわれる24代弘世が建てた館として有名なのが、大内館である。
【写真左】大内氏館の入口付近
 南側に設置されたもので、手前に「史跡 大内氏遺跡附 凌雲寺跡 館跡」と表記された標柱が建ち、奥の山門左右の柱には「曹洞宗 龍福禅寺」及び「大内義隆卿菩提寺」と書かれた表札が掛けられている。
 また暖簾には大内氏の家紋とされる大内菱が飾ってある。



現地の説明板より・その1
❝史跡(大内氏遺跡附凌雲寺跡)
大内館跡
  昭和34年11月27日国指定

 ここは、大内氏24代弘世が正平15年(1360)頃、それまでに館があった大内御堀から山口に移り、館を定めたところです。
 大内氏は弘世以後歴代がここで政務をとり、その領国は、中国・九州地方までおよんだため、山口は西日本の政治経済の中心地となりました。また、大内氏は海外との交易によって冨の蓄積と、異国文化の移入、京の戦乱を避けて公卿・僧侶などの文化人がこの館を訪れたことによって、当時の山口は京都を凌ぐほどの富と文化を誇ったといわれています。
【写真左】大内氏館配置図
 現地に設置されたもので、左が北を示す。右(南側)に上掲した門があるが、その手前の東西に横断している道が大殿大路といわれた道で、参道から山門をくぐると右手に鐘楼、奥に向かうと、資料館、龍福寺本堂が配置されている。

 なお、東側(上)には池泉庭園があるが、この日は向かっていない。
 館外周には後に再現された土塁と堀跡が北から西側にかけて配置されている。
 また、次稿に予定している築山跡(八坂神社)が北側に隣接している。

 
 天文20年(1551)大内氏31代義隆は、重臣陶晴賢の叛乱により滅亡しました。その後、陶氏を滅ぼした毛利氏は、弘治3年(1557)大内義隆の菩提を弔うため、この館跡に龍福寺を建立しました。
 館は、百閒四方の堀と土塁に囲まれた中に造られていたといわれています。現在は、ほとんどその面影を見ることはできませんが、山門の東側竹藪の中に土塁の一部を見ることができます。
     管理団体 山口市”
【写真左】宝現霊社
 大内氏祖の琳聖太子から31代義隆までの歴代当主の神霊を祀る祠で、龍福寺の鎮守として建立されている。

 最初に創建したのは北隣にある築山館を創建した第13代大内教弘で、以後歴代当主によって各忌日には祭祀がされてきたという。
 江戸期になると、代わって毛利氏が祭祀を執り行った。現在のものは江戸時代中頃のもの。

大内弘世

 大内氏は、推古19年(611)百済から同氏の祖となる琳聖太子が来朝し、その後8代経た正恒が多々良性を賜り、仁平2年(1152)には周防国在庁官人としてこの多々良氏の名が記録されている。そして、このころ周防権介に任じられ、以後権介を世襲し大内介を称したことから始まるとされている。

 大内弘世については、これまで陶氏居館(山口県周南市大字下上字武井)などでも紹介しているが、大内氏第24代の当主とされる。資料によっては、多々良性大内氏第9代としているが、どちらかといえば、こちらの方がより信憑性が高いと思われる。

 弘世の時代はめまぐるしい動乱の南北朝期である。大内氏館が建てられたのは、正平15年(1360)ごろという。その5年前に弘世は周防守護となり(文和10年・1355)、3年後の正平13年には長門も平定し長門守護も獲得している。なお、その前後は石見守護も兼ねていた。弘世が中世に勃興した大内氏の礎を築いたといっても過言ではないだろう。
【写真左】梵鐘
 入って少し進むと右手に梵鐘がある。現在のものは平成に再建されたもので、最初は天文元年~2年(1532~33)ごろ、大内義隆が九州葦屋(遠賀郡芦屋町)の名工大江宜秀に命じて「興隆寺梵鐘(国重要文化財)」を造らせている。写真のものは、この梵鐘を縮小複製したもの。

 因みに、この頃大内義隆は石見銀山を奪回し、博多の貿易商・神谷寿貞、宗丹・慶寿を伴って銀山に入り、初めて銀の現地精錬(灰吹き銀精錬)に成功している。

凌雲寺

 ところで上記説明板に「凌雲寺」という史跡も掲載されているが、これはすでに大内氏遺跡・凌雲寺跡(山口県山口市中尾)でも紹介したように、永正4年頃(1507)に同氏30代の義興が開基した寺院で、場所は本稿の大内館から西北西へ直線距離でおよそ3.5キロほど向かった中尾にあり、当地には義興の墓が建立されている。
【写真左】凌雲寺跡
 2014年に訪れたときのもので、石積された土塁(石塁)が残る。







龍福寺

 さて、大内氏館跡に建てられたのが現在建っている龍福寺である。当院はもともと大内氏館から西に1キロほど離れた白石(町)にあったが、弘治3年(1557)毛利隆元が天文20年(1551)に長門・大寧寺(山口県長門市深川湯本)で自害した大内義隆の菩提を弔うためこの地に再興した。
【写真左】大内氏館の南側を東西に走る大殿大路。
 大内氏が京都を模した街づくりを目指したこともあって、町割りや通りの景観は今でもその面影を残している。


 隆元が龍福寺を建てた弘治3年は、陶晴賢が弘治元年(1555)厳島で自害した(宮尾城(広島県廿日市市宮島町)参照)あと、奔走していた大内義長がこの年(弘治3年)の4月、随従していた内藤隆世ともども且山城で自害(勝山城・勝山御殿(山口県下関市田倉)参照)し、これによって毛利元就が防長征服を完遂した年に当たる。

 因みに、大内方の残党がこの年の11月再度蜂起したがすぐに鎮圧しているので、おそらくこうした処置を終えた年末ごろに龍福寺が再建・竣工したものと思われる。
【写真左】龍福寺本堂
 説明板にもあるように、当院はこの場所ではなく白石というところにあり、その後毛利隆元が弘治3年に当地に移築している。
 

現地の説明板より・その2

重要文化財
 龍福寺本堂
    昭和29年9月17日指定

 龍福寺は、もとは白石(山口市白石)の地にありましたが、天文20年(1551)に兵火にかかり、そのままになっていたものを、弘治3年(1557)毛利隆元が大内義隆の菩提を弔うためにこの地に再興しました。
 明治14年(1881)、龍福寺は火災に遭い、ほとんどの建物が焼失しました。そのため、吉敷郡大内村(現在の山口市大内御堀)の大内氏の氏寺であった天台宗の興隆寺から釈迦堂を移築し、曹洞宗の龍福寺本堂へ改造しました。
【写真左】大内氏館から出土した遺物
 これは龍福寺史料館に展示されているもので、昭和53年から発掘調査が開始され、土師器・瓦・陶器・陶磁器などが出土している。

 特に特筆されるのは、金箔土師器で、館の井戸から出ていて、井戸を埋める際の祭祀に使用されたのではないかといわれている。


 この本堂は、文明11年(1479)に建立されたといわれており、内部の大虹梁(だいこうりょう)、板蟇股(いたかえるまた)、組物などは室町時代の建築の特徴をよく表しています。
 移築後、約百年の月日が経ち、大規模な修繕が必要となったことから、平成17年から平成23年にかけて保存修理工事が行われ、建立当初の室町時代の姿へ戻されました。
 本堂は、桁行五間、梁間五間の入母屋造で、屋根は檜皮葺、正面には蔀戸があります。中でも内・外陣を隔てる板扉と格子戸の組み合わせによるしつらえは、大変珍しいものです。”

毛利隆元

 龍福寺を移築再建したのが毛利元就の長男・隆元である。大内義隆の菩提を弔うために再建しているが、彼は14歳のとき(天文6年)毛利家から大内家に人質として預けられ、のちに義隆を烏帽子親として元服、義隆の一字を賜って「隆元」と名乗っている。その後、妻を大内義隆の養女(内藤興盛の娘)から娶っている。
 こうしたことから隆元にとって、大内義隆は義父のような存在であったのであろう。(吉田郡山城・その2(広島県安芸高田市吉田町吉田)参照)
【写真左】大内義隆と毛利元就・隆元対面の場面。
 同館に展示されている人形で、天文18年(1549)4月、毛利元就父子が義隆に長年の支援に対し、大内館を訪れ謝意を述べているときの場面である。


【写真左】禁制
 これは元亀3年(1572)に毛利輝元が龍福寺に与えたもので、境内の竹木を切ったり、狼藉を禁止した制札。

 因みに、この前年祖父・元就が亡くなっているが、これを境に輝元は短期間に多くの発給文書を矢継ぎ早に出している。
【写真左】土塁・その1
 北側から西にかけて廻らされているもので、土塁と並行して堀跡も模したものが再現されている。
【写真左】土塁・その2
【写真左】枯山水庭園
 1500年代前半に築庭されたもので、1500年代中ごろに火災で庭園としての機能を失ったという。
 大内義隆の時代のものといわれる。
 なおこれとは別に南東部に池泉庭園があるが、写真に収めていないので、記憶がはっきりしないが、おそらく立ち寄っていないと思われる。