2010年1月27日水曜日

桐山城(鳥取県岩美郡岩美町浦富)

桐山城(きりやまじょう)

●所在地 鳥取県岩美郡岩美町浦富
●登城日 2010年1月18日
●築城期 鎌倉末期・南北朝期
●築城者 塩冶高貞
●城主 山中鹿助、垣屋光成・恒総、鵜殿氏
●標高 203m

【写真左】桐山城遠望
 浦富の浜辺からみたもので、中央の最高所が本丸跡付近。右側尾根伝いにも遺構が点在してる(後段写真参照)



◆解説(参考文献「岩美町誌」等)
 この城の築城者は、前稿「加古川城跡」で少し触れている塩冶高貞といわれている。先ず、略歴については、桐山城本丸跡にあった説明板より転載する。

“桐山城について
 桐山城跡は標高203mの日本海を一望できる桐山頂上にあり、郭が頂上と南東尾根に4カ所、東の谷に7カ所残っています。古くから浦富は因但国境海上交通の要所の港町でした。

 築城年は、不明ですが、鹽冶(えんや)周防守が桐山の攻め難く守り易く、かつ眺望の良い地形と、田後・岩本・網代の三村にも尾根が続く独立した山であるため、ここに城を築いたと伝えられます。

 そして、元亀3年(1572)尼子の勇者・山中鹿助が入城。その後は垣屋光成(1万石、子の恒総まで20年間)、池田政虎(5千石、15年間)さらに、鵜殿氏(5千石)が幕末まで浦富を領しました。

 この頂上までの散策道は、地権者の方々のご厚意により出来ています。気象条件がよければ、遠く大山や隠岐島が見えます。この素晴らしい眺望と四季折々の動植物を大切にし、ゴミ等は必ず持ち帰ってください。
平成13年3月 建”   
【写真左】荒砂神社
 浦富海岸西部に突き出した岩山に鎮座する神社で、草創は白鳳期(7世紀後半)。
 元亀3年桐山城に入城した山中鹿助は、山名豊国を援護し鳥取城を攻略する際、当社に戦勝祈願したという。


 岩美町誌によれば、「稲場民談記」にこの山城名として、「浦住木井ノ山城」と書かれ、「太閤真顕記」には「磯部の城」とも書かれているという。

 また、さらに古い「岩美郡史」によると、「雲州(出雲)佐々木氏の一族、塩冶判官高貞の築く所なり。(因州の守護・山名豊国の妹婿にして但州美方郡、阿勢井城主たる塩谷肥前守あり、以て塩谷家の因但に縁故あるを察すべし」 と書かれている。
【写真左】浦富海岸
 上記荒砂神社本殿北端部からみる。夏になると多くの海水浴客が訪れる風光明美なところである。


 同誌によると「古い国絵図に塩谷判官高貞の草創とある」ことから、築城者が高貞であっただろうと、断定はしないものの、記している。

 ただ、同誌にもあるように、では築城時期はどうなのか、という課題が出てくる。なお同文に「塩冶」と「塩谷」が混在しているが、原文のままとしている。

 後醍醐天皇が興した建武の新政時は、当然地元の最大の功労者である名和長年が領知している。しかし、それもつかの間で、長年は戦死してしまう。そのあと尊氏が実質上の政権を支配するが、これまで記したように、高貞と尊氏はたもとを分かち、暦応4年(1341)高貞は高師直の讒言によって、山名時氏により追われ自害している。
【写真左】登城口付近
 主な登城ルートは2つあり、この場所はおそらく一番利用されている「奥内登山口」というところである。もうひとつは、西側の「いわし山登山口」という網代地区が近いところである。

 写真後方の山が桐山城。なお、この日、出雲地方はほとんど雪が解けていたことから、こちらに向かったのだが、ごらんのとおり10センチ以上の積雪があり、これまでの山城探訪で初めての雪山登山となった。


 従って、高貞がこの因幡国・桐山城を築城できる時期は、その直前までとなる。さらに絞ると、長年戦死の延元元年(1336)から暦応4年(1341)の間に築城したことになる。この5年間の高貞の動きを知る資料としては、残念ながら因幡・伯耆においては今のところ史料がなく、地元出雲の神社に寄進(延元2年)、鰐淵寺衆徒の恩賞を幕府に申請(延元3年)などといったものしか見えない。

 しかも、状況を考えると、高貞も後醍醐と上洛した後、しばらくは京都にいたものと思われるので、因幡・伯耆に在任している期間はさらに短くなる。このような状況を考えると、高貞自身一時的には因幡国に来ているかもしれないが、実質上の築城者は、高貞の一族がその任を負っていたのではないだろうか。
【写真左】鵜殿家墓地遠望
 江戸期当城・当地を治めていた鵜殿氏の墓地。雪があるため、登城口から写真を撮ったのみとした。


 さて、戦国期である。 山中鹿助が同城に入るきっかけを作ったのは、以前にも紹介した塩冶氏の子孫塩冶周防守と、奈佐日本助の働きがあったからである。

 元亀3年(1572)、鹿助らは日本助らの海賊船数十隻を使って、岩美町岩本の海辺に上陸、さらに桐山城に拠って守護・山名豊国と連携し、豊国の元家臣だった武田高信を討つ。このとき鹿助は、桐山城を離れ、国府町の甑山に城を築いている。その後、豊国は以前紹介した「天神山城」から鳥取城へ移った。

 天正8年(1580)、秀吉の鳥取城攻めの際は、桐山城に垣屋播磨守を入れ、但馬との繋ぎを取らせる。同年、豊国が秀吉に降ったことにより、家中では豊国を追放、毛利方より吉川経家が入城し、のちに悲運の部将として最期を遂げていく。

 なお、垣屋氏の出自は、もともと山名家四天王の一人として、現在の豊岡を治めていたという。ちなみに他の三人は、太田垣(朝来郡竹田)、八木(養父郡八木)、田結庄(豊岡市山本)で、垣屋氏はこれらの筆頭格であった。
【写真左】当城の登城路案内図
 平成13年に当城の整備がされたようで、地権者のご厚意で登れるようになったようだ。
 登城前に、こうした案内図があるとイメージができ、一段と登る楽しみも増える。





【写真左】登城口前半のころ
 写真では分かりにくいが、この山のルートはいきなり急斜面を登る設定になっている。雪が上にいくほど多くなるので、何度も足を滑らす。(普通なら、この段階で断念するのだが、せっかく遠くから来たのだからという理由づけで、連れ合いを説得させながら、進んだ)



【写真左】最初のピーク到達点から下を見る
 登城口からの急斜面をのぼること10数分(雪がなければ、数分で登れるだろう)、やっと尾根始点に着く。雪があるため、遺構の確認は断定できないが、このあたりから小郭が点在しているように見えた。 


【写真左】奥内側からと、いわし山側との合流点
 この地点にいくまでに、すこし小高い尾根があり、そこから少し下がると、写真にある別の尾根との接合部分に差し掛かる。写真左方向が桐山城本丸方面で、右奥方向が、「いわし山」へつながる尾根が続く。
 なお、この合流点は盛り上がった地形になっており、戦略的にも小郭としての役目があったものと思われる。
【写真左】いわし山に向かう尾根
 方向としては西方になるが、この尾根は非常に痩せ尾根になっており、意識的に加工された可能性もある。
【写真左】桐山城方面への尾根ルート
 全体に登城コースに占める尾根の長さが多く、しかも尾根幅が狭いところが多い。右側は直接日本海の風が吹き付けるところで、この日も木立が途切れた場所では、強風と冷風で長居ができない。

【写真左】途中からみた「いわし山」の山容
 写真左下が網代の港。桐山城へ向かうコースよりも長いかもしれない。

【写真左】本丸北端部
 本丸北端部直下は急斜面で、ロープがあるものの、足もとは雪があるため、何度も足をすくわれた。そうやって苦労の末たどり着く。その甲斐があって、眺望は抜群である。写真は北端部から南に向いて伸びる主郭の奥行
【写真左】本丸跡からみた西南方向の網代の港、さらに遠く鳥取港をかすかに見る。
 これでもう少し空が澄んでいると、説明板にもあるように大山も見えるだろう。






【写真左】最初に見た浦富の街と海岸
 この位置からみると、但馬の芦屋城のある浜坂の港が非常に近く感じる。塩冶周防守や奈佐日本助が船で往来していたことが非常にリアリティをもって感じられる。
【写真左】本丸中央部
 積雪のため、遺構の精度が不明だが、この中央部の東側にこんもりとした高まりがある。おそらくこの位置が主郭としての位置づけだっただろう。
 また、南端部には3,4段の尾根幅に沿った郭段がみえた。
 頂上部での高低差はほとんどなく、南北総延長約150m前後はあると思われる。ただ基本的に尾根を余り加工していないようで、幅は最大で20m程度、平均すると5m前後しかない。

【写真左】本丸跡から南東に「道竹城」を見る。
 この山城は、昨年(2009)9月に取り上げた二上城の城主だった三上兵庫頭が、使い勝手が悪いとして同城を離れ、この地に築城したといわれる道竹城である。
 当日、時間があればこの山城も登城しようと思ったが、桐山城で時間とエネルギーを使い果たしたため、断念した。いずれ雪のない時に登城したいと思っている。

2010年1月22日金曜日

加古川城・称名寺(兵庫県加古川市加古川町本町)

加古川城(かこがわじょう)・称名寺(しょうみょうじ)

●所在地 兵庫県加古川市加古川町本町
●探訪日 2009年9月18日
●形式 平城
●築城年 寿永3年(1184)
●築城者 糟谷有数
●遺構 ほとんど消滅

◆解説
 平家追討の功により、糟谷有数が源頼朝よりこの地を与えられ、寿永3年(1184)に築城されたという。その後鎌倉時代まで糟谷氏が播磨守護代として在城した。

 糟谷氏累代の中でも、12代糟谷武頼は戦国期、羽柴秀吉に従い、賤ヶ岳の戦いで軍功があり、いわゆる七本槍の一人に数えられた。そのご一万二千石の大名まで出世するが、関ヶ原の合戦では豊臣方についたため、領地没収され、当城も廃城となった。
【写真左】称名寺入口
 所在地は、姫路方面から向かうと、国道2号線を通って加古川橋を渡り、すぐ右側の脇道のようなところから入っていく。

 当寺の案内板もはっきりしないが、路地のようなところをウロウロ探すと、何とか見つかるという目立たない寺院である。



現在、この加古川城跡は、称名寺という寺院になっている。城跡としての遺構はほとんどなく、山城探訪を目的とする者にとっては、参考になるものはほとんどない。

 実は、この城跡を訪れた目的は、南北朝期、出雲の塩冶高貞が高師直に追われた際、家臣が高貞の身代わりとなって、追手をこの地で阻み、最後は全員が亡くなったということからだった。
【写真左】称名寺境内











 はじめに、当寺境内に設置された「加古川城」に関する説明板によって簡単に概要を示す。

“称名寺の文化財
加古川城址

 城主は、糟谷助右衛門(内膳とも云)で、別所長治の幕下であった。天正5年に羽柴藤吉郎秀吉が当城へきた時、はじめて糟谷の館に入って休息し、当地方の城主のことを詳しく尋ねた。その後、書写山に移ったが、糟谷助右衛門は、それ以来、秀吉につき従って小姓頭となった。
 後年各所に転戦し、賤ヶ岳一番槍に武名を挙げたという。

(播磨鑑)
 加古川城50間(約90m)四方
 雁南庄加古川村
 村より1丁(約110m)西の方とあり、称名寺の附近一帯が加古川城址である。

石幢(せきどう)
 当寺の内庭に六角石幢がある。凝灰岩(竜山石)製で室町時代初期に造られたものと思われる。
 幢身高さ66cm
 径  27×18.5cm
石棺
 出門前の碑の台石に、家型石棺の蓋が使用されている。
 長さ 131cm
 幅  73cm
 厚さ 27cm
 昭和62年3月  加古川市教育委員会”
【写真左】七騎供養塔その1











 境内に建立された宝篋印塔で、その脇に説明板が設置されている。その内容を転載しておく。

“七騎供養塔

 この碑は、撰文も書も頼山陽の筆になるもので、文政3年に建立されたものです。

 七騎とは、南北朝時代、正平5年、塩冶判官高貞が、事実に相違する告げ口によって京都を追われ、本国の出雲へ落ちて行く時、足利尊氏の軍勢に追われ、米田町船頭の附近で追いつかれてしまいました。

 その時、弟の六郎ほか郎党七人が主を討たせまいとして、この場所に踏みとどまり、足利の軍勢と激しく戦いましたが、遂に全員討死してしまいました。

 この七騎の塚が船頭付近にありましたが、洪水等で流されてしまい、今はもう残っていません。この碑は、山田佐右衛門が願主となり、この七騎追弔のため、加古川の小石に法華経を一石に一字づつ書いて埋め、供養塔として建てようとしましたが、それを果たさず亡くなり、寺家町の川西彦九郎、志方町の桜井九郎左衛門が施主となって完成させたものです。

 なお、古賀精里の文、頼山陽の父頼春水の書になる七騎塚の碑が、米田町船頭の大師堂の境内に建てられています。
 昭和59年3月  加古川市文化財保護協会”


上掲説明板の中の、船頭という地区は、当寺の北を流れる加古川橋付近で、400m程度下ったところである。
【写真左】七騎供養塔その2


















塩冶高貞と顔世御前の逃亡

 塩冶高貞については、塩冶氏と館跡・半分城(島根県出雲市)などを取り上げた際、少し紹介しているので、そちらも参照していただきたいが、高貞らが逃亡する際には、高貞を含む家臣グループと、高貞の妻で絶世の美女といわれた「顔世御前」のグループとの二手に分かれていた。


【写真左】境内にある塩冶家の墓











 高貞らは一緒に逃亡すると、目立つことからの策だった。しかし、顔世御前らは子供連れであるため、姫路市蔭山というところで捕まり、自害する。

 この加古川城(称名寺)付近の船頭で戦ったのは、元々高貞のグループだったと思われる。実際に追手としての役を担ったのは、高師直ではなく、山名時氏らである。

 ところで、上掲の説明板に、高貞が逃亡を図った時期を「正平5年」としている。正平5年とは、観応元年(1350)である。上記の事件があったのは、興国2年(暦応4年)(1341)であり、明らかな間違いである。

 正平5年は、足利尊氏が直冬追討のため、高師直を率いて京都を出発したり、足利直義が南朝に降ったりする時期で、塩冶高貞が死亡してから9年も経っている。


【写真左】くしくも、塩冶氏を討った山名氏関係の墓もある。
 なお、写真にはないが、糟谷姓の墓石もあった。



 おそらく、この説明板を書かれた方(加古川市文化財保護協会)は、高貞追討と、直冬追討を混同して書かれたのかもしれない。 



糟谷氏

 なお、冒頭記した加古川城主・糟谷氏だが、説明板によると、寿永3年に当城を築いて、鎌倉期まで播磨守護代を務めたとある。

 そして戦国期に至ると、羽柴秀吉が当地を訪れた際、糟谷助右衛門が館において休息をとらせた、とある。二つの説明板から推測すると、助右衛門と、12代武頼は同一人物のようだ。

 となると、南北朝期の塩冶氏家臣の七騎が討死した際も、糟谷氏は当地・加古川城に拠っていたことになる。しかし、当地の説明板には同氏が関わったことは、一切書かれていない。地元にやってきた両者(高貞側、尊氏派)に対して、糟谷氏がどういう態度をとったのか、記録がないというのも不可解である。

 そこで思い起こされるのは、昨年(2009)1月の投稿で取り上げた鳥取県の糟谷弥二郎元覚:凸岩井垣城である。糟谷弥二郎は、元々北条一門の守護代で、その一族は鎌倉幕府六波羅探題の検断の要職あった。
【写真左】岩井垣城














 元弘3年(1333)船上山に拠った後醍醐天皇は、名和長年に糟谷弥二郎の拠る岩井垣城を攻めさせ、同城は炎上し、同氏は滅亡した、とある。

 加古川城主・糟谷氏が7,8年前に起こった伯耆国の同族の情報を知らないはずはない。元々倒幕の両者であるため、どちらにも与せず、城は傷つけられることを覚悟の上、一旦同城から避難していたのではないだろうか。




鶴林寺

 所在地 兵庫県加古川市加古川町北在家424
 参拝日 2009年9月18日


【写真左】鶴林寺仁王門











 加古川城(称名寺)の近くには古刹・鶴林寺がある。

 創建ははっきりしないが、すくなくとも養老2年(718)、七堂伽藍が建立されている。

 当院には、黒田官兵衛及び父・職隆が鶴林寺に対して差し出した書状などが残る。信長・秀吉らの播磨侵攻の際、周辺の寺社仏閣が戦禍に遭っているが、鶴林寺は寺領などを差出したりしながら、延命を図った。
【写真左】配置図














 国宝2件、重要文化財18件、県指定文化財19件、市指定文化財16件など多くの文化財が残されている。
【写真左】境内












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2010年1月21日木曜日

明石城(兵庫県明石市明石公園1-27)

明石城(あかしじょう)

●所在地 兵庫県明石市明石公園1-27
●探訪日 2009年3月1日
●築城期 元和5年(1619)
●築城者 小笠原忠真
●形式 連郭梯廓混合式平城
●別名 喜春城、錦江城
●指定 国重要文化財(巽櫓・未申櫓等)、国の史跡
【写真左】明石城その1

◆解説(参考「サイト明石公園」など)
 明石城は、このブログでいえば、「山城」ではなく、典型的な近世城郭だが、前稿「三木城」探訪の折、時間があったことから当城にも足を運んだ。

【写真左】城跡も含めた明石公園の案内図

 当城については、これまで多くのサイトや資料で紹介されているので、詳細は省くが、現地に足を踏み入れると、その優美さと市民に親しまれている公園とがうまくマッチして、散策していても気持ちのいい城跡である。

●初代城主小笠原氏から始まり、藤井松平家、そして越前松平家など17代の城主が、めまぐるしく引き継いでいる。
 この内容を見ると、在任期間の長期なものと、極めて短い期間のものとが極端に混在している。
【写真左】明石城その2
 石垣もスケールが大きく、見ごたえがある。
【写真左】石垣
 長期政権の者は、第9代松平直常で43年、逆に短いものは、幕末の松平直致の5カ月は別として、初代小笠原氏の跡には、幕府直轄扱いとなって、本多忠義、同正勝のときはそれぞれ6カ月である。
 当然ながら、両人は結局2代目の記録として残らず、4人目の当主松平康直が2代目となっている。

 当時、特に近世城郭を引き継いだ藩主・当主の2代目から、3、4代目あたりは不安定なところが意外と多い。その結果、初代の禄高10万石も減じられ、6~8万石のままとなった。もっとも幕府の介入が一番厳しい時期であったことも事実だが。  
【写真左】明石城その3
【写真左】明石城その4
 この土塁の厚さは規模が大きい。
【写真左】明石城から明石の町並みを見る
 写真左奥には明石海峡大橋が見える。

2010年1月20日水曜日

三木城(兵庫県三木市上の丸)

三木城(みきじょう)

●所在地 兵庫県三木市上の丸
●登城日 2009年3月1日
●形式 平山城
●別名 金山城、別所城
●築城期 明応元年(1492)前後
●築城者 別所則治

【写真左】北側(切崖)付近より三木城本丸跡付近を見上げる。
 この傾斜法面は、現在崩落を防ぐための土木施工がされており、当時の面影は残していないが、かなりの険峻さがあったものと思われる。




◆解説
 現地には、複数の説明板があるが、その中から最初に当城の略歴について転載する。

“三木城跡について
 三木城は室町時代の後期、東播八郡の守護代となった別所則治によって、明応年間(1492~1501)に築かれました。
 戦国時代末、五代城主長治のとき、天下統一を目指す織田信長の家臣羽柴秀吉に攻められました。秀吉は、三木城を取り囲むように30余りの付城を築き、兵糧攻めにしました。
 この戦いは三木合戦といわれ、天正6年(1578)4月より1年10カ月に及び、籠城の悲惨さから「三木の干殺し」として全国的に有名です。天正8年(1580)1月17日に長治一族の自害によって開城し、籠城した人々の命が助けられました。
 合戦後は、秀吉の家臣が城代として在城し、慶長5年(1600)の関ヶ原合戦後は、池田輝政が姫路城主となり、その支城として存続しました。
 大阪夏の陣の直後、江戸幕府が打ち出した一国一城令によって、元和3年(1617)に廃城となりました。”


【写真左】現在の城跡跡の配置図
 当時の場所には現在、稲荷神社、図書館、美術館、旧校舎、保育所などがあり、三木城の遺構としては、「かんかん井戸」と、忠魂碑(本丸)付近が残っている程度である。










 次に、400年祭記念碑というものには、別所長治にまつわる内容が記載されている。


“四百年祭記念之碑
 村上天皇を祖とし東播八郡を領した三木城主別所長治公が、織田信長の命により中国進攻に当たった羽柴秀吉の大軍を迎えた1年10カ月の長きにわたり三木城に拠り応戦。
 将兵とともに果敢に戦ったが、天正8年1月17日ついに諸人の生命に代わって、一族とともに自刃し三木城を開城、再びこの地に平和をもたらしたのである。時に長治公は若干23歳であった。
 想うに、当時の中央勢力に対し、敢然と戦い播州武士の面目を示した勇武と、これを最後まで支援した一族家臣の忠誠心は、他に類を見ないところである。
 ここに別所長治公四百年祭にあたり、思いも新たにしてその遺徳を顕彰し、併せて三木合戦において散華した彼我物故者諸霊位の御冥福を祈って建碑の辞とする。


  昭和56年5月3日
 別所長治公四百年祭実行委員会
 名誉会長・三木市長 大原義治   会長 鈴木信次”
【写真左】当時の三木城想像図
 本丸は北方の先端部に設け、その真下には、美嚢川が流れている。おそらくこの川は堀としての機能も考えられていたと思われる。


 本丸の西南部には二の丸、その東からは帯郭状の平坦地があり、この上には本丸を補助するような形で「新城」という廓状のものがあり、以下東から南にかけて廓や、櫓段を設け、さらに南東部には「宮の上の要害」という見張り場の役目を持たしたような独立峰が建っている。


◆本願寺光教(証如)と尼子氏

 ところで、当地の他の説明板に少し記されているが、この三木城には出雲の尼子氏も攻め入っている。時期は天文年間である。このころ、経久も晩年ながら元気で、孫の詮久(後の晴久)も亡父・政久に代わって山陰の雄として頭角を現してきた頃である。
【写真左】西側にある稲荷神社鳥居と、階段
 稲荷神社は三木城跡の中央部に建立されている。








 尼子氏が備中・美作国を支配する計画は、当初からあったと思われるが、播磨、それも摂津が近い東播磨まで触手を伸ばしていることは興味深い。そのきっかけを作ったのは、本願寺光教ではなかったかと思われる。
 光教(法名:証如)は、本願寺第10世で、石山本願寺を創建している。

 天文5年(1536)12月17日、彼・光教は尼子詮久に品物を送り、好(よしみ)を通ずる。この後両者の交流が深まり、明くる天文6年7月、光教は経久に太刀と織物を贈る。8月には経久は石見銀山を攻略し、石見武士が次々と尼子方に属していく、まさに絶頂期である。12月8日には、今度は詮久が光教に馬代などを贈っている。

 そして、同月14日にいよいよ詮久軍が播磨国に入ってくる。このとき光教は、当時の播磨国守護赤松政村の安否を問い、併せて詮久の勝利を祝したとある(証如日記)。
【写真左】三木城本丸跡付近
 いろいろな建物があるが、文字通り公園となっている。このあたりは特に広く、平坦地に改変されている。




 尼子詮久が最初に三木城を攻めたのは、この時で、明くる天文7年1月初旬には出雲月山富田城に帰国している。

 そしてその2ヶ月後、祖父・経久が律儀に光教に物を贈っているので、詮久が三木城攻めをした際に、光教が何らかの協力をしたということだろう。

 続いて、同年11月に入り2回目の三木城攻めが始まる。このときは経久自身も播磨に向かった。この段階で、守護赤松政村は淡路島へ逃走する。光教はよほどうれしかったのか、経久にお礼の贈りものを渡している。もっともこの時も、三木城は陥落していない。

 尼子氏が播磨に出かけている間に、天文8(1539)年5月、大内義隆が石見銀山を奪回する。急ぎ経久らは帰国する。そして改めて、同年暮れ(11月末)詮久が、播磨国で赤松晴政(政村)を破っている。
【写真左】三木合戦図
 主だった三木合戦の流れを絵図にしたもので、法界寺において、この絵を使って絵解きが行われているという。





◆竹松丸について

 さて、別所長治については、上掲の説明板の通りだが、鳥取県の「岸本町誌」に興味深い記録が載っている。

 それは、自刃した長治一族の中で、唯一当時乳呑児だった「竹松丸」が、この伯耆国岸本の地で生き伸びていることである。経緯は次のとおりである。

 三木城にて自刃した別所長治一族とは、本人、妻・照子、竹姫(5歳)、虎姫(4歳)、千松丸(3歳)、そして竹松丸(1歳)と、二男二女で、このほか長治の兄弟など約10人前後だったといわれている。妻・照子は長治の胸中を察して、先にわが子と痛ましい最期をとげ、そのあと長治は次の辞世の句を詠み、旅立った。

 辞世の句

  今はただ恨みもあらじ もろ人の
       命にかわる わが身と思えば

【写真左】かんかん井戸
 本丸にある井戸で、口径3.6m、深さ25mという。石をなげると「カンカン」と音がすることから、「かんかん井戸」と呼ばれた。


 この井戸から出土したといわれている城主・別所氏の鐙が運龍寺(城内)に保存されているという。



 ところが、長治の懇願か、妻・照子の遺志かわからないが、末子の乳呑児・竹松丸は、当時別所氏の別当として働いていた野脇新三郎と、その妻(竹松丸の乳母)に抱かれて、密かに三木城を脱出する。


 野脇新三郎は、もともと伯耆国岸本町の出身である。さらに同行者としては、長治の従兄であった別所忠治が長治の念持仏を携えていた。

 彼らが郷里の伯耆岸本に戻り、竹松丸はそこで野脇に育てられ、文禄4年(1595)年、判田別所小太郎と名乗り、尾高城の客分となる。

 その後、別所長兵衛と改名して、元和8年(1622)44歳で没する。その後、同氏の後裔は1947年に絶家となっているが、別所姓が米子市方面に点在していることから、別所氏の庶流が生き延びてきていると思われる。

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【写真左】天守跡
 写真のように少し盛り上がった部分で、築山状態のものだが、当時はもう少し大きかったものと思われる。






【写真左】本町滑原(なめはら)遺跡出土石列遺構の説明板
 この説明板中央の写真は、別所氏時代のものと思われる瓦片が出土しているもので、焼土層は、三木合戦時のものだという。






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2010年1月18日月曜日

感状山城(兵庫県相生市矢野町)

感状山城(かんじょうざんじょう)

●所在地 兵庫県相生市矢野町瓜生
●登城日 2007年7月29日
●標高 301m
●指定 国指定史跡(平成8年)、市指定文化財(昭和60年)
●築城期 鎌倉時代、または建武3年(1336)
●築城者 瓜生左衛門尉、または赤松則祐

◆はじめに
 この山城へ登城したのは、もう3年近く前になる。当時、山城探訪初期のころで、関西方面の山城としては初めてのものだったと思う。
 はっきりとした記憶としては、とにかく暑く、途中で何度も脱水症状のような状況になったことだ。未経験とはおそろしいもので、平地でいると暑いものだから、山に上がれば、きっと涼しいだろう、という全く単純な発想から、この山へ登ったわけである。なぜ、この山城に決めたのか、今では余り覚えていないが、おそらく「国指定」をうけているから、ということだったと思う。

 出雲から車を飛ばして、麓にいくと夏休みだったこともあって、多くの父子連れがキャンプなどをしていた。渓流から涼しい風が吹き、この段階ではいい場所に来たものだと満足していた。そして、ゆっくりと登城をし始めたが、中腹辺りから険しい道となり、おまけに先ほどの涼しい風は全く吹かず、もううだるような暑さである。連れ合いも同じような状況で、とにかく微風を求め、影を求めるだけが目的となっていった。四足のトミー嬢(綽名・チャチャ)も、大きな口を開けたまま、ハーハーと尋常でない。
 そうやって、脱水症状の一歩手前のタイミングで本丸にたどり着いた。反対側から登ってきた御夫婦も、私らと同じ状態だったらしく、「もうー、参った、参った、こんなに風がないとはねー」とへたり込んでしまった。
 そんな体調になってしまったため、まともな写真が少ない。
【写真左】本丸付近その1

◆解説(参考文献「サイト相生市」など)
 築城期や築城者については、二説あり、一つは鎌倉時代に瓜生左衛門尉が、もう一つの説は、建武3年(1336)、赤松円心の三男則祐が築いたという。
 特に後者の関係では、建武年間(1334~36)、足利尊氏を追っていた新田義貞を、赤松則祐がこの山で50日余りにわたって、足止めさせたという。これにより、尊氏から則祐に対して、その功を称え感状を与えられ、この山城を「感状山城」としたとされている。
 この感状山城と関係する山城としては、おなじ播磨にある「白旗城」がある。新田義貞を足止めさせた城としては、どちらかといえばこの城の方の記述が多い。
 赤松氏は義貞に対して表向き降伏したといいながら、実際には降伏はせず、その言で義貞に油断を与えさせ、白旗城や感状山城の防備を固めた。このことを怒った義貞が、必要以上にこの地で赤松討伐のため、長期間在陣することになった。これによって、尊氏は着々と九州において再起の準備をすることができたわけである。

 さて、感状山城の遺構概要だが、石垣による郭形状が、鎌倉南北朝期とは違い、戦国期のものであるという指摘もあり、当城の使用期間も200年以上ではなかったかといわれている。
 主な遺構としては、倉庫跡、井戸、大手門、Ⅰ、Ⅱ、Ⅲ各曲輪群、南曲輪群などがある。
【写真左】その2

【写真左】石垣
【写真左】本丸付近から城下を見る
【写真左】「ど根性大根」のキャラクター
 ちょうど、このころ「ど根性大根」が全国的に有名になり、相生港近くの休憩所で撮ったもの

2010年1月17日日曜日

洲本城(兵庫県洲本市小路谷・三熊山)

洲本城(すもとじょう)

●所在地 兵庫県洲本市小路谷・三熊山
●探訪日 2008年8月22日
●高さ 125m
●築城期 永正年間(1500年代初頭)
●築城者 紀州熊野水軍安宅氏
【写真左】模擬天守付近
 写真中央奥の建物は、模擬天守のもので、展望台となっている。当城の見ものとしては写真にある保存状態がいい石垣群である。




◆解説
 現地の説明板に詳細な記録が記載されているので、下段に示す。

“史跡 洲本城について

 境城  三熊山(高熊山)の山頂付近、北斜面および北部山麓一帯に分布する城郭遺構地域で、広さは278,459.9㎡。
洲本城は、約500年の歴史があり、城に関連した史実を年代順に見ると次のようになる。

  • 永正年間(1500年代初頭   由良、炬口に進出してきた、紀州熊野水軍の安宅一族が、大坂湾制御の要として洲本城を築城し始める。

  • 天文5年(1536)  阿波国守護三好元長の三男冬康、淡路安宅氏の養子となる。三好氏、上京作戦への布石。

  • 天文23年(1554)  三好四兄弟(長慶、義賢、冬康、一存)洲本会談

  • 永禄3年(1560)  三好兄弟、第2回洲本会談、天下制圧の打ち合わせ。

  • 永禄7年(1564)  安宅冬康、河内飯盛城で兄・長慶に暗殺される。安宅信康・清康、洲本由良城を守る。

  • 天正9年(1581)11月  織田信長の命により、羽柴秀吉淡路を征討。安宅清康開城して、信長を安土に訪れ帰国後、病死。 淡路安宅氏滅亡。 安宅氏時代の洲本城は、土塁を空堀により砦を守る中世山城なので、織田軍の鉄砲隊には対抗できなかった。

  • 天正10年(1582)  四国の長宗我部氏畿内進出を計り、淡路土着の水軍の将・菅平右衛門に洲本城を占領させる。  6月、山崎の合戦に向かう秀吉は、部将の仙石権兵衛、石井与次兵衛を洲本に差し向け、洲本城を奪還させる。  8月、仙石権兵衛秀久洲本城主となり、四国攻めの準備で洲本城を修築、水軍を強化し始める。
【写真左】石垣の間から巨木が育っていた












  • 天正13年(1585)  秀吉の四国攻め始まる。弟秀長、養子秀次で戦闘指揮。  6月18日、洲本城より出陣、福良渡海。  仙石秀久は讃岐で奮戦、戦後高松城主となる。  11月、脇坂甚内安治(中務少輔)洲本城主となる。  洲本城の本格的修築始まる。現在の遺構はほとんどが脇坂氏在城中に修築したものである。  その間、安治は水軍の将として、左のとおり従軍している。

  • 天正15年(1587)  九州攻め

  • 天正18年(1590)  小田原攻め
【写真左】模擬天守前


















  • 文禄元年(1592)  朝鮮の役(壬申の倭乱)

  • 慶長5年(1600)  関ヶ原戦では、東軍へ寝返り家康方で参戦。

  • 慶長14年(1609)  伊予大洲五万三千で移封。  仙石、脇坂時代の洲本城は、大阪城を衛り、秀吉が西南方へ進出する拠点の城として、また水軍の戦闘指揮処としての本格的築城整備の行われた時代である。  関ヶ原戦後の家康にとっては、洲本城は不必要な城となった。むしろ廃城にすべき城であった。そこでこの城を永年腹心の藤堂高虎に預け、普請を中断放置せしめた。

  • 慶長16年(1610)  姫路城の池田輝政に淡路を領知せしめ、輝政は三男・忠雄の抨知をした。忠雄は由良成山城を修築し、洲本城を廃城とした。
【写真左】洲本城から洲本の町並みを見る
 前稿「一宮城」でも示したように、天正13年(1585)秀長らが6月16日この港に約3万の軍を集めた。







  • 元和元年(1615)  大阪陣の功により、阿波国主蜂須賀至鎮に淡路一国を加増したが、蜂須賀氏は池田氏の跡を継ぎ、由良成山城を拠点とした。  由良は淡路の東南隅にあり、土地も狭小で城下の経営も出来ないことを理由に、前年幕府に申請して承認され、洲本の地に城地を移転するようになった。移転作業は、寛永12年まで山上の城郭は使用せず、山麓には居館、石垣を設けて、城砦をしたが、「お城」の呼称をせず「お居館」と呼ばせた。城下町は、洲本川・千草川の地形を利用し、本格的に計画都市をして造成されている。  この状態が、明治5年(1872)の廃藩置県まで続いた。  山頂付近、北斜面は公園地として洲本町へ払い下げられ、山麓の城地は裁判所、検察庁、拘置所、淡路文化史料館用地等になっている。
     以上”

 同説明板にある由良成山城というのは、洲本南方にある島に建っていたものだが、現在城跡としての遺構はほとんどなく、明治時代に砲台が築かれた跡が残っているという。
【写真左】本丸跡から紀伊水道、和歌山県方面を見る